「助かりたければとどめ刺せ」=小林容疑者、暴行強要-集団リンチ殺害事件・大阪
大阪府東大阪市の東大阪大4年藤本翔士さん(21)ら2人が集団リンチを受け岡山市の山中から遺体で見つかった事件で、主犯格の小林竜司容疑者(21)が、藤本さんの友人でリンチから1人だけ解放された男性会社員(21)に対し、瀕死(ひんし)の藤本さんに石をぶつけさせるなど、リンチへの参加を強要していたことが28日、大阪府警と岡山県警の合同捜査本部の調べで分かった。共犯者に巻き込み、口封じをするのが狙いだったとみられる。(時事通信) - 6月28日14時1分更新
============
以上引用終わり。
*吉本隆明は、およそ『実証主義』なるものは駄目なんだと言っている。w
その場合、彼が屡引き合いに出していたのは若かりし頃の組合闘争の体験談だった。
労使の攻防の中で『配置転換』という資本の側からする『組合潰し』の常套手段があって、これは要するに、組合の有力な活動家を『左遷』というか、地方へ飛ばしてしまい実質的にその人物の活動を不可能にしてしまう手口である。『配転阻止』を掲げて組合は法廷闘争に持ち込んだりするわけだが、これがなかなか勝てない。
つまり、雇用者側にはとっておきの反論(正論?)があって、「いやこれは組合潰しなどとは無縁で、XX君は非常に有能な社員であるから○○支社の業務を補強し立て直すには格好の存在だから、移籍して戴くことはあまりにも順当で妥当な経営判断なのである・・」云々という論理を、元来「理念・建前重視」の法廷の場では容易に打破出来ないということなのであって、これを平たく言えば「裁判所は下衆の勘ぐりはしませんよ♪ぷいぷい」とお高く留まっているのである。
要は『実証的な論証』なるものは、常に表裏二通りの主張が、論理的整合性を損なうことなく円滑に展開され得るというものである。
============
*というわけで、現代の若者気質を論ずる場合頻繁に引き合いに出されるいわゆるゲーム脳だが、これについては賛否両論が出ている。私は大脳生理学等に関する知識は貧困なので「コメントする立場にはない」(←オリックス・宮内を真似ている。w)が、今の段階では「どうとでも言える」ということだろうか。
cf.携帯メールでも脳が壊れる? 拡大する“ゲーム脳”汚染
cf.テレビゲーム.com.
cf.ゲーム脳、言われているのは日本だけ?
*元々はNHK「生活人新書」・医学博士森昭雄著『ゲーム脳の恐怖』が第一次のテキストである。
============
*以前にも書いたが不惑の歳を越えてからファミコンを覚えた私は格闘技や野球のアクション系は苦手で殆ど未経験だが、RPGやシュミレーションゲームなら多少はやり込んでいる。RPGなら『DQ』と『F・F』、シュミレーションなら『信長』と『三国志』である。
*シュミレーションゲームは次々に隣国へ戦争を仕掛けて個別撃破で征服し、最終的には全国制覇を目指すというゲームである。戦争に勝つために国力を高め兵力を増強する。陰謀や策略を用いることもある。
*ロールプレイングゲームの方はどうか。
私にドラクエを教えた青年は、これが出たときには「自分で主人公のキャラクターを育てることが出来るゲームが初めて出来た」と大いに感動したらしい。
「キャラを育てる」と言ってもあくまでプログラムされた範囲内での自由度の問題であって「お釈迦様の掌」の中での話である。ゲームはみんなそうだ。ストーリーも設定も自分で編み出すわけではなく、先験的に与えられてしまう。
*ドラクエもファイナル・ファンタジーも、フィールドに出現する敵を倒さないとストーリーの新たな展開はない。倒せば経験値と貨幣の幾ばくかを得るのでそれがレベル・アップに繋がり、得た金で戦闘に有用な武器等を購入することも出来る。
*攻撃や殺戮を伴わないキリスト教系のRPGもある。それは以前(05.8/11)このblogでも取り上げた。
============
*ドラクエ初期の「あなたは死にました」然り、北斗の拳の「お前はもう死んでいる」然り、ゲームの中で我が青少年の皆様方は日常的に殺人や暴力行為に馴染んでいるし、実際に殺戮を繰り返している。戦闘に失敗すれば即RESETもする。ゲームだから自分に不満な結末を受け入れてまで不愉快な気分に浸る義務はない。
キレル前にリセット。
キレかかったらリセット。
キレタら勿論リセット。
ゲームに浸る日々はそういう日常である。
人生はリセット出来ない。
やり直しのきかないこともたくさんある。
自分が殺した人間はもう二度とこの世には生き返って来ない。
・・こんなことは今更私などが言うまでもないことだが、事件を起こし警察に逮捕され留置場に缶詰にされてからでないと彼らは自覚しないのだ。捕まった後で、取調べの警察官らに諭されるのか「とんでもないことをしてしまった」と彼らは今更のように慙愧の涙を流すのである。
「人生はゲーム」であるかも知れないが既にプログラムされたTVゲームとは違うだろう。少なくとも人生の根幹は殺人や略奪にあるのではないと私は信じる。
「人類が最初に手にした道具は武器である。それは獲物を撲殺するためというよりは隣人を殴りつけるためのものであった」という仮説を私は信じてもいいが、それには「そういう人間同士の野蛮な関係を払拭するためにこそ人類の歴史も存在するのである」という留保をつけたいと思う。
そこで、ゲームだが、α波がどうのβ波がどうのという以前にゲームデザイナーたちの発想の基本があまりにも貧困であると私は思う。
いやしかし、打ち倒すべき《敵》の存在を前提としないことには我々の脳は活性化しないものなのだろうか。周辺に《敵》が見当たらなければ無理にでも《敵》を作り上げるということを有史以来の我々はずっと繰り返しているような気がするのだが・・。
大阪府東大阪市の東大阪大4年藤本翔士さん(21)ら2人が集団リンチを受け岡山市の山中から遺体で見つかった事件で、主犯格の小林竜司容疑者(21)が、藤本さんの友人でリンチから1人だけ解放された男性会社員(21)に対し、瀕死(ひんし)の藤本さんに石をぶつけさせるなど、リンチへの参加を強要していたことが28日、大阪府警と岡山県警の合同捜査本部の調べで分かった。共犯者に巻き込み、口封じをするのが狙いだったとみられる。(時事通信) - 6月28日14時1分更新
============
以上引用終わり。
*吉本隆明は、およそ『実証主義』なるものは駄目なんだと言っている。w
その場合、彼が屡引き合いに出していたのは若かりし頃の組合闘争の体験談だった。
労使の攻防の中で『配置転換』という資本の側からする『組合潰し』の常套手段があって、これは要するに、組合の有力な活動家を『左遷』というか、地方へ飛ばしてしまい実質的にその人物の活動を不可能にしてしまう手口である。『配転阻止』を掲げて組合は法廷闘争に持ち込んだりするわけだが、これがなかなか勝てない。
つまり、雇用者側にはとっておきの反論(正論?)があって、「いやこれは組合潰しなどとは無縁で、XX君は非常に有能な社員であるから○○支社の業務を補強し立て直すには格好の存在だから、移籍して戴くことはあまりにも順当で妥当な経営判断なのである・・」云々という論理を、元来「理念・建前重視」の法廷の場では容易に打破出来ないということなのであって、これを平たく言えば「裁判所は下衆の勘ぐりはしませんよ♪ぷいぷい」とお高く留まっているのである。
要は『実証的な論証』なるものは、常に表裏二通りの主張が、論理的整合性を損なうことなく円滑に展開され得るというものである。
============
*というわけで、現代の若者気質を論ずる場合頻繁に引き合いに出されるいわゆるゲーム脳だが、これについては賛否両論が出ている。私は大脳生理学等に関する知識は貧困なので「コメントする立場にはない」(←オリックス・宮内を真似ている。w)が、今の段階では「どうとでも言える」ということだろうか。
cf.携帯メールでも脳が壊れる? 拡大する“ゲーム脳”汚染
cf.テレビゲーム.com.
cf.ゲーム脳、言われているのは日本だけ?
*元々はNHK「生活人新書」・医学博士森昭雄著『ゲーム脳の恐怖』が第一次のテキストである。
============
*以前にも書いたが不惑の歳を越えてからファミコンを覚えた私は格闘技や野球のアクション系は苦手で殆ど未経験だが、RPGやシュミレーションゲームなら多少はやり込んでいる。RPGなら『DQ』と『F・F』、シュミレーションなら『信長』と『三国志』である。
*シュミレーションゲームは次々に隣国へ戦争を仕掛けて個別撃破で征服し、最終的には全国制覇を目指すというゲームである。戦争に勝つために国力を高め兵力を増強する。陰謀や策略を用いることもある。
*ロールプレイングゲームの方はどうか。
私にドラクエを教えた青年は、これが出たときには「自分で主人公のキャラクターを育てることが出来るゲームが初めて出来た」と大いに感動したらしい。
「キャラを育てる」と言ってもあくまでプログラムされた範囲内での自由度の問題であって「お釈迦様の掌」の中での話である。ゲームはみんなそうだ。ストーリーも設定も自分で編み出すわけではなく、先験的に与えられてしまう。
*ドラクエもファイナル・ファンタジーも、フィールドに出現する敵を倒さないとストーリーの新たな展開はない。倒せば経験値と貨幣の幾ばくかを得るのでそれがレベル・アップに繋がり、得た金で戦闘に有用な武器等を購入することも出来る。
*攻撃や殺戮を伴わないキリスト教系のRPGもある。それは以前(05.8/11)このblogでも取り上げた。
============
*ドラクエ初期の「あなたは死にました」然り、北斗の拳の「お前はもう死んでいる」然り、ゲームの中で我が青少年の皆様方は日常的に殺人や暴力行為に馴染んでいるし、実際に殺戮を繰り返している。戦闘に失敗すれば即RESETもする。ゲームだから自分に不満な結末を受け入れてまで不愉快な気分に浸る義務はない。
キレル前にリセット。
キレかかったらリセット。
キレタら勿論リセット。
ゲームに浸る日々はそういう日常である。
人生はリセット出来ない。
やり直しのきかないこともたくさんある。
自分が殺した人間はもう二度とこの世には生き返って来ない。
・・こんなことは今更私などが言うまでもないことだが、事件を起こし警察に逮捕され留置場に缶詰にされてからでないと彼らは自覚しないのだ。捕まった後で、取調べの警察官らに諭されるのか「とんでもないことをしてしまった」と彼らは今更のように慙愧の涙を流すのである。
「人生はゲーム」であるかも知れないが既にプログラムされたTVゲームとは違うだろう。少なくとも人生の根幹は殺人や略奪にあるのではないと私は信じる。
「人類が最初に手にした道具は武器である。それは獲物を撲殺するためというよりは隣人を殴りつけるためのものであった」という仮説を私は信じてもいいが、それには「そういう人間同士の野蛮な関係を払拭するためにこそ人類の歴史も存在するのである」という留保をつけたいと思う。
そこで、ゲームだが、α波がどうのβ波がどうのという以前にゲームデザイナーたちの発想の基本があまりにも貧困であると私は思う。
いやしかし、打ち倒すべき《敵》の存在を前提としないことには我々の脳は活性化しないものなのだろうか。周辺に《敵》が見当たらなければ無理にでも《敵》を作り上げるということを有史以来の我々はずっと繰り返しているような気がするのだが・・。