本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

今日も将棋ネタで柳の下の泥鰌を狙う?

2006-04-20 16:45:14 | 囲碁・将棋
*(写真:)桜の通り抜けの際の街頭パフォーマンスを見て以来最近はまっているのが、
SOL DE LOS ANDES(『アンデスの太陽』)というフォークロアのグループです。→http://www17.ocn.ne.jp/~sol-ande/link.htm
 CDを2枚買いました。w

*ところで昨日4/19(水)はこのblogは更新しなかったのですが、閲覧数=295 pv;ip数=194 ipと、私としては驚異的な数字が出ました。もうちょっとで1000位以内にランクイン出来たのに、惜しかった。笑
 「将棋ネタは受けるのかなあ?・・」ということで、最近ネタ切れに苦しんでいるから(?)今日も囲碁・将棋ネタで行きます。w

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*今調べたら、私はこれまでこのblogで、主なもので過去七回は将棋と囲碁の記事を書いている。
 以下はその主だった記事ですが、右欄『このblogで検索』に『将棋』と入れると他にもいろいろ出て来るのでお時間のある方は是非どうぞ。w 

05/05/25: 『セ・パ』ではパが、『囲碁・将棋』では将棋が怒るという話。
05/05/27: 瀬川問題と奨励会。
05/06/15: 囲碁小話。
05/06/16: アンバランスの将棋ゲームの話。
05/06/17: 加藤九段の銀河戦『待った!』事件。
05/10/15: プロも勝てない(?)将棋ソフト。
05/11/07: 瀬川さんのプロ入り。

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*職場で昼休みにやるには囲碁では時間が足りないことが多い。
 昼休みが1時間の職場でも、食堂との往復に要する時間等を加味したら、正味30分程しかない。それでも好敵手がいる人はその時間で3番も4番も指す。野次馬も平気で口出ししたりする、条件反射(?)でやっているだけの滅茶苦茶な将棋だが、それはそれで面白い。

*私の育った田舎町には囲碁や将棋の道場はなかった。囲碁の集まりは知らなかったが、将棋の同好会のようなものなら通ったことがある。公民館の一室を借りて不定期的に将棋会が開かれていた。最初行ったのは小学生の頃だったろうか、アマ初段クラスと思われる床屋の親父が相手をしてくれて、失礼にも(!)最初から飛車角を落として対戦し、見事負かされて、泣きはしなかったが大変な屈辱を味わった。

 そのとき「君は六級だ」と言われた。生まれて初めて、大の大人たちに混じって将棋でランク付けされたわけで、なんだか照れくさかった。
 ランキングはしかしいい加減なもので、中学~高校へ進むうちに2級~1級~初段へと自動的に(?)昇りつめて行って、一時期は自称二段(勿論アマ)だったこともあるが、大阪では強い人も弱い人もみんな初段を名乗っている(?)ようなので私も今は初段ということにしている。

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*高校時代、幸運にもプロ棋士お二人にそれぞれ1番ずつ、しかも無料で(!)教わったことがある。何面指しとかではなくて、1対1で1局ずつですよ♪
 あとにも先にも、プロと指したのはこのときだけです。w
 これもやはり『2枚落ち』(←ハンデとして上手が飛車と角行を抜くこと)の手合いで2番ともきれいに負かされたけど。
 当時のレベルとしては『プロ相手に2枚落ちで勝てばアマ初段』と言われていたが、これはあくまで表向きな水準で、アマ最高峰でも『1枚』(←飛車または角のどちらかをハンデとして引くこと)では到底勝てなかったのだから『プロ相手に2枚落ちで勝てるアマ初段』など実在しなかったと私は思う。

 ちなみに教わったのは米長七段(当時。現将棋連盟会長!)と西村五段(当時)のお二人で、西村さんには「実戦の経験が少ないようですね」(←私が待ち切れずに駒箱を開けてしまったからかな? これは教わる側がしてはいけないことです! 尤も駒落ちの将棋なんて殆ど指さなかったから『経験不足』はその通り)と言われ、米長さんには「あ、頓死しちゃった!」(←自玉の即詰みを見落として他の手を指し、本来正確に応じていれば詰まなかった王様が詰んでしまうことを『頓死』と言う)と一言感想があった。

 米長さんと西村さんは同門の兄弟弟子で、西村現九段の方が年長だが彼はアマ強豪からの転進で入門が遅れたから、米長さんの方が兄弟子という関係である。

 今思い出すのは西村さんの対振り飛車戦法に関する持論で、彼はその場の雑談の中で、当時流行していた『玉頭位取り』戦法を熱心に推奨されていた(←私にではなく、もっと強い人に。私は横で聞いていただけだが)。
 この戦法に批判的な人は「本来攻撃に参加するべき右桂が使えない」などと言っていたものだが、西村さんは「あちらもこちらもと、そんな贅沢なことを言ってはいけない。将棋は自分の言い分だけを通すことはまず不可能だ」と熱く語っていた。この辺は「棋は対話なり」であって囲碁も将棋も変わらないのだと思う。

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*時代は当時より20年近く下がる。
 私は東京に出ていて、将棋はと言うと、たまに(数ヶ月に1度くらい?)新宿の『二上道場』とか大久保の『大内道場』とかに通っていた。

『二上道場』は今でもそうだろうがいつ行っても超満員で、しかもこちらが「帰る」と言わない限りは次から次へと自分とほぼ同レベルの相手と当てられてしまう。勝てば勝ったで「お強いですね・・では今度はもっと強い人を」などとおだてられ、負ければ負けたで「もっとしっかり指して下さい」と叱られる。

『大内道場』はもっと狭いところだった。大内九段の内弟子の塚田泰明九段は当時まだ高校生だったが、夕方になると道場に顔を出すや速攻で常連さんたちと将棋を始めていた。私は常連ではなかったから指して貰ったことはないが、プロの指し手が見られるばかりか、その日その日のホットな棋界情報も聞けるとあって、彼の周りには観戦する人だかりが出来ていた。
 
 そんな折、職場に将棋を新たに始めた友人がいて彼が通う『高柳道場』(だったと思う)に故大山康晴名人が指導に来ると大騒ぎしていたのである。
 別にプロ棋士の『指導将棋』自体は珍しいことではないが、升田幸三九段(実力制第四代名人)も亡くなられたばかりのことでもあり、「大山名人と直に対局出来る」(!)というのは私にも大きな魅力だった。

 指導料は1万円。手合いは自由だが勿論1対1の対局ではない。何面指しになるか、とにかく一遍に大勢をまとめて指導するのである。それも勝負の決着がつくまで指してくれるわけではない。頃合を見て名人が「はい、これまでですね」と言ったところでおしまい。指し手に関して一言だけ感想があるということだった。

 でも私はその指導対局にはとても乗り気になってそのための準備もしたが、あいにくその当日に都合がつかなくなって、結局行けなかった。

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