本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

自民党は変わったか?完結篇。

2006-07-26 11:10:45 | 政治
*猫の目のようにくるくる変わる政党相関図!?

 小泉長期政権のお陰で我々は忘れかけているが、元々この国政界の多党化は既に引き返せないところまで来ている、などと言ったら既に時代錯誤かな?
 でも「選択肢」の有る無しに関わらず「選択機軸の多様化」は明白だ。
 一年前?の総選挙自民圧勝にしても、あれは公明党の全面的アシスト・バックアップなしでは到底実現不可能だった。ドイツに「キリスト教民主党」があるように、この際我が国でも自公は統合合併して「創価学会自民党」を立ち上げて貰った方が我々にはわかり易くていいのだが、そんなことをしたら票が減るだろう。笑。

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*では河野洋平現衆院議長の話から行こうか。彼は自民党総裁経験者だが、自民党総裁で総理大臣になれなかったのは彼くらいのものである。
 彼はかつて金権腐敗の自民党に叛旗を翻して「新自由クラブ」というミニ政党を立ち上げ、一時は30人程の勢力を誇ったこともあるがこれは持続せず、一人欠き二人欠いて結局裸同然となって古巣に舞い戻ったわけである。
 これをみっともないと言われようが何と言われようが、政党は選挙で勝ってナンボであるから、票の取れない政党は淘汰されるしかない。小沢さんがかつて「自・自・公」を割って出たとき「オラ嫌だ、政権党内に残るんだいっ! 人生全て椅子取りゲームさっ!」とダダを捏ねて保守党を名乗った連中もいた。自・公・保などと、ちゃんちゃらおかしい連中だった。w

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* 6月25日:新自由クラブ結成。
* 8月19日:福田、大平ら自民党6派、三木退陣を要求して挙党協結成。
* 12月:三木政権、総選挙敗北の責任を負って退陣。

改造三木内閣(9月15日~1976年12月24日)
[総理]三木武夫、[法務]稲場修、[外務]小坂善太郎、[大蔵]大平正芳
第34回衆議院議員選挙(12月5日)
戦後初の任期満了による選挙。自民敗北、過半数割れで衆院委員長の独占がくずれた。公明、民社、新自由クラブ躍進。新自由クラブブーム。共産は大敗。<投票率73%>
[自民]249、[社会]123、[公明]55、[民社]23
福田内閣(12月24日~1978年12月7日、1977年に改造)
[総理]福田赳夫、[法務]福田一、[外務]鳩山威一郎、[大蔵]坊秀男

 以上は『ザ・20世紀』1976年政治欄より無断で拝借しましたが、76年と言えばつい30年前のことですな。あっちょんぷりけ。
 所謂『新党ブーム』が来ると共産党が減退する傾向があるのは、彼らが果たしている『ガス抜き安全弁』的役割の価値が薄れるからで、共産党にしてみれば『与党安泰』の方がむしろ好ましい(!)などと言ったら怒るだろうけど、もう言っちゃった。あちゃ~っ。

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*で、今度は『日本新党』である。

 以下「はてなダイアリー」からも引用しておく。

  《日本新党》

 1992年に、当時福岡県知事だった細川護煕が設立した政党。
 所謂「無党派層」の圧倒的支持を受け、新党ブームの火付け役となった。
 また、1993年には宮沢内閣不信任後の総選挙で大勝し、非自民・非共産の八党少数連立連立政権の細川内閣が誕生し、自社二大政党制である「55年体制」が崩壊した。
 細川内閣総辞職後の羽田内閣でも新生党などと連立するが、社会党との軋轢で連立が解消され、羽田内閣は総辞職し、村山内閣が成立した。
 この後に、新進党に合流した。
 日本新党の所属議員は、現在自民党や新進党の後を受けた民主党などに在籍している。
(引用終わり)

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細川護煕さん、陶芸作家である。違う? ぁそ♪
 この人は潔さが過ぎた。もっと頑張らなあきまへん。

 辞めたいなら辞めればいいのだが、同じ辞めるにしても、なんでもっと頑張って後の段取りをしっかりつけてから辞めないのだろうか?

 村山富一元首相(即ち第一代社民党党首である。ということは、最後の社会党党首でもあったわけである)もそうだ。
 「追い詰められると投げ出す」という腕前は細川以上だ。

 だいたいが社会党(当時)のあのざまは何だ?!
 小沢さんに「煮え湯を飲まされる」のは嫌だと言ってあろうことか自民党とひっつき、そこでも橋龍自民党に結局「煮え湯を飲まされ」挙句の果てに「詰め腹を切らされた」わけである。「政権担当能力がない」ことを身を持って示したのだ。
 あれで「左派」だそうである。w
 自民党に「野党としての選挙」をさせてみる絶好のチャンスだったのにこれを反故にした罪は無限大に大きい。

(今ウィキペディアで「村山富一」を読もうと思ったがそれは見つからず、代わりに左右両翼からの膨大な数の「村山批判」に計らずも遭遇してしまった。「阪神大震災」までもが彼のせいにされてしまっていたりする。今「阪神大震災」を検証することはあっても、当時の村山が何をやったかについての議論が煮詰められることはないように思う。)

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*村山社会党を自民党へと追いやった責任は無論小沢さんにもある。勿論「自・社・さ政権」を謳ってその橋渡し役を果たした「新党魁(さきがけ)」の罪も決して軽くはない。
 小沢さんにしてみれば、まさか社会党がそこまでバカだとは思わなかったのだろうが、社会党は「55年体制」への憧憬が断ち切れなかったのか、結果として「熨斗を付けて」自民党に「大政奉還」してしまったわけで、二重にも三重にも「路線選択」の大きな誤ちを犯してしまったのである。
 これは社民にとっては永久に回復不可能な、愚劣ここに極まれりというべき選択だったろう。だいたいが選挙もせず、国民の信託を問うこともなく、勝手に政権政党の組み合わせを変えていいものかどうか、こんなことは民主主義以前の問題だと私は思う。

 いずれにせよ、政局のキャスティングボードを握った政党が無定見だと政治は破局的危機を迎えかねないという、これはいい見本だから、公明党の皆さん、よくよく肝に銘じて下さいよ。w

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*次にウィキペディア日本共産党へ行ってみた。懐かしい(?)興味深い記述があって、なかなか読み応えがあった。
 ところで高野孟さんて共産党出身だったの?(私は彼は早稲田の全共闘あたりかなと、何の根拠もなく推測していたのだけれど。w)

 この党は平和革命だから議会主義。↓
 それには議席第一の議席主義。↓
 でも国政に限れば議席は伸びない。(←地方議員の数は政党としては日本一だそうです! 自民党が無所属を名乗っている場合が多いからです。)↓
 それでどこへでも候補を立てる獲得票数第一主義。↓
 これも供託金は取られるわ、何も実効性がないわで止める方向。
 日刊新聞「赤旗」の発行部数も全盛期の半分だとかで、悩みは尽きないようです。

 私もよくよく考えてみると、私は今支持政党はないし、今後も持つつもりはないのだけれど、でも一番主義主張が近いというか、部分的にニアミスを犯しているのは実は共産党なのかも知れない。笑。
 でも社民党と共産党は一番嫌いだ。w

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*論証は省くが「政治の死滅」を視野に入れていない政党を私が支持することはない。吉本も言うように政治家などはご町内の「掃除当番」「ゴミ当番」であればいいのであって、「裁判員制度」ではないが、重要ではあっても誰もが出来る「政治員制度」で充分というのが本来の「(パリ)コンミューン・イズム」=コンミューン主義=共産主義だ。それが私の理解である。
 「マツリゴト」を崇め奉って頭上に翳し、それを司る政治家・諸センセイ方を崇拝してみてもいいことは一つもない。政治だろうが何だろうが、普通の人が普通の感覚で出来ない職業は極力排斥乃至は改めるべきであって、何も北の将軍様のように「世襲制」でやらなければならない必然などは皆無な筈である。

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 どうも自民党のことを書こうとすると、以前もそうだったけれど、話は他の党へと逸れて行ってしまう。
 自民党というと、「後援会」組織を使って「新宿コマ」や「歌舞伎座」へツアーを組んでみたかと思えば、全国津々浦々の町内会の寄合から冠婚葬祭全てに亘る有形無形の関与を年がら年中して来たるべき「選挙」に日々備えるといった、「これぞ地域密着型」でなおかつ「日常活動の権化」のような政党だ(!)というイメージが私にはある。
 「ムラ社会」の崩壊がこの自民党の基盤を掘り崩してしまったのだが・・。

 この従来型「自民必勝パターン」を証拠もなく「買収と供応の政治」と決め付けるのは容易いが、そんなことを言ったら、ダムを作る、橋を架ける、道をつける、駅を作る、箱物を造る・・といった所謂「利益誘導型のセンキョ」全てが「買収と供応」に該当するのではないかという感じもして来る。新しい自民党はそんなことはしないそうだが(?)少なくとも滋賀県の栗東方面ではまだやっているよな。笑。

 ともかく、いい悪いは別にして、地区住民に対して一番面倒見がいいのは自民党で二番目は共産党だ。民主党の議員先生方も、アホなこと言ってふんぞり返っている暇があったらもっと歩け! 今年もあと5ヶ月ちょっとしかないぞ!



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