秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

まだ咲き初めし観梅@観心寺その4 じっと心を観る

2017-02-08 | 古代史のミステリー

山門入って左側の庭で見た白梅

蝋梅もまだまだ

観梅に行かれる方はもう少し暖かくなってからがおすすめです。


門前でおぜんざい食べてもまだ一時間以上あるので、もう一度境内に戻ってじっくり参拝。
境内から出るときに事情話して、もう一回戻ったら拝観無料にしてねと頼んでおいたのだった。



山門入って、階段上が金堂で、左側に霊宝館のたて看板ありますが、右手に手水舎。

先の星塚巡礼では、最後に訶梨帝母天(カリテイモテン)を参拝してして締めくくるとあったが、観心寺の鎮守社がどこにあるかわからなかった。
予習してない他のメンバーはみな金堂で最後の参拝したと言ってました。



おぜんざい食べながらゆっくり境内図を見て探したら、
訶梨帝母天堂は、手水舎の奥、拝殿のまっすぐ後ろにあった。
拝殿から池越しに後ろということは、拝殿で拝む対象がこの訶梨帝母天堂ということ?


観心寺の鎮守社訶梨帝母天堂

創建年代未詳で、興国5年(1344年)に焼失し、後村上天皇の命により楠木正行(くすのきまさつら)が再建した。

鎮守神、訶梨帝母天は鬼子母神。
ここではお姿を見ることはできませんが、
滋賀県大津の三井寺で訶梨帝母天像にお目にかかりました。

2014-11-25 三井寺のべんべんと 訶梨帝母倚像



それにしても、星塚の最後がなぜ、鎮守神の訶梨帝母天を参拝なんでしょうね。
鎮守社ということは、このお寺ができる前からこの地の地元神だったとか?

バス停では観心寺の次が「鳩の原」で、同行の友人は「鳩を献上してたりして」なんて言うてました。
Wikiで見たら、ほんまにそうでした。

このあたりは
旧石器・縄文・弥生時代から人が暮らした形跡が出土していて
3世紀頃 - 大師山遺跡では高地性集落が営まれていた
古墳時代とかも渡来人が多く暮らした地域だったようです。

699年(文武天皇3年) 錦部郡鳩原の犬養広麻呂、白鳩献上。鳩原村の名の由来となる
701年?704年(大宝年間)役小角により雲心寺(のちの観心寺)が創建したとされる。



金堂には今度は靴を脱いで上がらせてもらったので、心行くまでゆったり礼拝することができました。
如意輪観音像のお姿は4/17-18でないとお目にかかれませんので、ネットで画像もらってきました。




張り紙に、撮影は遠慮したので、うろ覚えで
『目先の結果にとらわれてはいけない。仏様は私たちよりも、遥かに遠い先を見通してらっしゃる。仏様を信じて、今をしっかり生きなさい』
みたいなこと書かれてまして、ほんまやなぁ~といったとたん、「コン」と音がした。
あれまぁ、そうやでとお返事しはったみたい。

何のことはない、座るときに背中のリュックを下ろして置いていたのが倒れて賽銭箱にあたった音でした^^


観心寺ですから 「心を観る」

みるという漢字はいっぱいあって、
   見る 診る 看る 視る 観る

金堂の内陣には、曼荼羅が描かれた大きな板が両側にあり、いろいろ哲学的思索にふけりながら拝見しました。

落とした切符を取り戻すのに、そのバスを待つために、たまたま振り降りた時間。
とても有意義な参拝となりました。




駆け足で参拝すると見落としてた建物の一つ一つにもいろいろな歴史が刻まれてました。

境内の右手に→楠木正成公首塚の案内あったので開山堂裏に回ってみると

楠木正成の軍旗「非利法権天」

1336年建武の新政から離反した足利尊氏方と戦った湊川で討死。
勝った足利尊氏は、楠木正成の首級を遺族へ届けたと伝えられており、観心寺に送られ首塚として祀られています。

新政後、三重塔建立を発願するも討死したため完成せず初層のまま、
後代に屋根の小屋組みと茅葺の屋根が架けられ現在に至る建掛塔





観心寺は楠木氏の菩提寺でもあり楠木正成公とゆかりが深いのでした。
8-15歳までこの寺の中院で勉学し、後に建武の新政のおりに後醍醐天皇の命で観心寺金堂の造営工事の監督。
その金堂は大阪府下最古の国宝建築物として残されています。

楠木正成は、空海の四恩の教えを身につけました。

父母の恩「天から降った命でもない、地から湧いた命でもない、親を縁として頂いている」
国王の恩-私たちがこの日本の国に住まわせていただいているのも、日本という国が平和なればこそ
衆生の恩-生きとし生けるものすべてを衆生、これによって自分が今ここに生かされている
三宝の恩-そういう教えを伝えてきた仏法僧に感謝


楠木正成の姉の子供が能の観阿弥だそうで、いろいろ日本の歴史も秘密も知ってたんでしょう。


詳しくは、管主さんのお話でご覧ください→こちら


南朝第二代の後村上天皇の行在所ともなっていて、後村上天皇陵も境内にありましたが、雨だったし薄暗くて不気味だったので行きませんでした。



最後に「北斗の塩」という観心寺の清めのお塩を賜る。

観心寺で一つずつ御祈祷したもので神仏用や盛り塩、清めのお塩だけでなく食用としてももちろん使え結構美味しいと書かれてます。


バス停で15:12に来るバスをかなり前から待ちました。


家に戻ってから、拝観のしおりを見て気になったことふたつ。



天邪鬼の土鈴
本物は、霊宝館でみられるようです。
無料の宝物館ですけど重文の仏像様がいっぱいあって見応えあるらしい。



しおりには、高野山真言宗 遺跡本山 観心寺と記されています。
遺跡本山は、ゆいせき本山と読むのですね。

何それ? だったので調べてみました。
お大師さまに特にご縁のあるお寺のことで、日本でわずか2ケ所
神護寺(京都市右京区)、観心寺(大阪府)

ちなみにランク的には
総本山-金剛峯寺(和歌山県高野町)
大本山-寳壽院(和歌山県高野町)
次に、遺跡本山、別格本山、準別格本山と続きます。

すごいお寺だったのでした。
まだまだ全部見切れてませんから、またチャンス作って拝観したいです。




最後に、五木寛之氏の百寺巡礼(第六巻 関西)によれば、

「正面に金堂。その手前には平らな石。これは「礼拝石」と呼ばれているものだ。
空海がこの石のあたりに座って空の北斗七星を礼拝した、と伝えられる聖なる場所である。
そのとき、空海の祈願によって天から七つの星が降ってきたので、空海は それを祀って、中心に本尊の如意輪観音座像を置いた。
これは、密教の図像にある「七星如意輪曼荼羅」を境内に構成したものだという。いわば「星の曼荼羅」である。
  
 この七つの星塚には、それぞれ舌をかみそうな名前がついていた。
貪狼星、巨門星、禄存星、文曲星、廉貞星、武曲星、破軍星。
観心寺にはむかしから、この七つを巡拝して無病息災や厄除けを願う、という風習があったらしい。
「星に願いを」というあたりは、なかなかロマンチックな信仰である。」 

13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (aoi)
2017-02-08 16:57:04
なかなかなお寺さんなんですね。
ブログゆっくり読ませていただきます。
節分に毎年星祭りをお願いしますのが、東京では多分川崎大師一ヶ所です、こちら観心寺が元になっているみたいに感じます。
私、今年は黒星に当っていましたので、2月3日には勿論★供養お願いしまして☆にまつりかえて頂きました^^;

ulalaさんバスの中に落としたのは、神様が犯人ですね(笑)
返信する
鬼子母神いらしゃったんですね (りひと)
2017-02-08 19:02:27
奥が深いですね。
河内長野来て欲しかったんですかね?神様は。
金剛山の記事の後地図を見て楠正成さんの場所とお寺の場所、そして山から西に行くと河内長野にも近そうだなあと思ってましたけど東京以外のお寺はとんでもない大きさだし用事がないと無理ですからと。河内長野っていうのも広いわけですけどお山の上から山なりにまた川や谷なりに同じ空気が流れているはずです。金剛山は頂上でお寺は中腹?そこにうららさまが行ったので土地の神も喜んでいそうですね。2706 お疲れさまでした。
返信する
Unknown (TM)
2017-02-08 21:43:26
星塚巡礼という言葉を初めて知りました。
北斗七星とつながっているなんて、雄大ですね。古代から現代に至るまで、この地に住んだ人々を北斗七星が見守り、そして人々は北斗七星を崇めてきたわけですね。深いです。
それから三井寺の訶梨帝母天像、ゆったりとした雰囲気に癒されます。写真でもこんなに素晴らしいんですから、実物を前にしたら感動するでしょうねぇ。
返信する
aoi さんへ (ulala)
2017-02-09 21:47:33
川﨑たいしで大師の漢字でないのですね。
ダイシだったのか、今日までカワサキタイシと読んでましたわ。
こちらではオダイッサンと親しみこめて呼んでたのに、ウッカリしてました。。
確か関東で初詣参拝客多いとこですね。
やっぱり星祭あるのですか。
空海の密教と星祭も、今回まで全く存じませんでした。

ええ年してこれぐらい知っときや、とお呼びになられたのかな。
返信する
りひとさんへ (ulala)
2017-02-09 21:55:21
金剛山の山頂に葛木神社と役行者の輪宝転寺があります。
大阪側の山麓にこの観心寺があり、奈良側に去年暮れの冬至のお祭に参拝した葛城一言主神社があり、山上の奥宮に対し里宮になるそうです。
役行者も葛城側の生まれで、吉野の金峯山寺とかもゆかりです。
古代は今の私たちが思う以上に聖地だったんだろうち思います。
山頂の葛木神社は奈良県の住所になるので、奈良側の高天彦神社から郵便道があり配達夫が登ってたそうです。
いつかはその道で登山したいと思っています。
返信する
TMさんへ (ulala)
2017-02-09 22:04:14
河内長野は父方の出身地で、今でも本家あります。
にもかかわらず、、観心寺は名前と場所だけ、その存在だけを知ってただけでした。
やっとご縁ができて呼んでくださって、しっかり観て行きなさいと促されたのでしょう。

三井寺のカリテイモテン像、ほんま素晴らしかったです。
こちら観心寺のも御姿拝ませていただきたいものです。

近くの鳩の原には鳩原神社があったけど、今は川上神社と名前変えてるようです。
川上はカハラ、川のほとりという意味らしいです。
返信する
だいぶ繋がってきました。 (りひと)
2017-02-10 09:10:30
おかげさまで父と祖母の関係がかなり見えてきましたよ。うららさまに関する所では融通念仏宗のお寺がある事がヒントになりました。平野との接点も間違いないですね。当時お水がいっぱいあった時代で考えれば大阪側の方が開けた地で見晴らしも良いはずでいろんな所に行けたはずです。
また奈良側は勢力序列がしっかりしてから奈良盆地のお水がなくなってきてからの安全な発展があったでしょうね。問題はどちらも一言主神ですね。私の中では悪い事は悪いと一言で言える神で秩序を作る神だったと思っています。もっと注目され、さらに尊敬されるべきなのでしょうね。昔から日本っなんでナアナアなんだろう?って思っていましたけど現在更にですよね、悪い人はこうすれば大丈夫って知ってますから。いじめと犯罪、万引きと窃盗って違いはどうなの?警察も動けないなら民間でやる?っていうか悪い人は調子に乗れる国になっています。団結するか悪いことは悪いって言えてなおかつ神輿にかつげるようなリーダーが欲しい所。一言主神さんには期待しています。日本人ならばこの人ならいう人を見つけたらお金じゃあ動かない特徴もありますから一言主が出てきたら一気に進みそう。地元の方、縁のある方々の全国での活躍が楽しみです。

醍醐寺と融通念仏と楠氏と役行者と弘法さんと田村麻呂系、そこから岡山や伊豆と河内源氏と後醍醐の時代にキーワードが入り組んでいます。石清水と石上にも繋がりそうです。

金剛山のあの山脈沿いは相当大事ですし、今後も日本への貢献をしてくれそうですね。4453
お疲れ様でした。
返信する
Unknown (aoi)
2017-02-11 11:25:38
空海の密教にご縁はあれど、体験はされていなかったのですね、意外です。
空海は術を使うとかで下に見る人もいます。仏教だけかと思ったら、お護摩焚きは山蔭神道もやってます、節分祭は特に大きいお祭りのようです。
外で柴燈護摩もして終わると海で禊、伊勢神宮から春日大社にお参りに行ってましたよ。
人の悩み煩いを火で焼いてしまう、水で浄化する、神仏は救いの方法を提示していただけてるんですね。
同じなんですね。
返信する
りひとさんへ (ulala)
2017-02-11 11:56:10
融通念仏宗の開祖は良忍上人で、念仏を唱える浄土宗の法然上人より60年も前です。
http://www.dainenbutsuji.com/guide/guide05.html

以前からちゃんと読み込んでないので再確認すると、1072年尾州知多郡富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生。・・・
母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女。

私は愛知県にゆかりなく土地勘もありませんし、熱田神宮一度だけ参拝しただけ。
で、その熱田神宮の謎を解くというブログがありますのでご紹介しておきます。りひとさんのアンテナがビビッと反応するでしょうか。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-date-20121021.html
返信する
aoiさんへ (ulala)
2017-02-11 12:04:43
以前どこかで書いたと思いますが、四国お遍路は2003-4年に2年間かけて88箇所まわりました。
でも当時はブログ始めてないから復習することもなくただ行ったというだけ。
最後に高野山にお礼参りまで行ってますが、悲しいかなオリエンテーリングみたいなものでお寺の名前する覚えてないのです。

今は西国33箇所まわってて残すはあと5か寺。
廻った寺は真言宗も天台宗もありますが、感性にしっくり来るのは天台宗が覆い。
おだいっさん身近に育ってて、こんなんいうのもなんですけど。
ひょっとして母方の父が、戦争末期の堺空襲で焼け落ちた旧市街で再興させたかった寺は天台宗だったのではないかと思ったりします。
返信する

コメントを投稿