秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

番匠堂の南無阿弥陀の幟

2017-11-13 | おでかけ・近畿


四天王寺の西の鳥居入って中央伽藍を撮影。
わかりにくいかもしれませんが、五重塔側に白い幟が見えます。

なんて書いてるのかな〜



東側に回ると、番匠堂がありました。




南無阿弥陀佛の幟は番匠器あれこれだった。

番匠とは、大工さんのことで、聖徳太子が大工の始祖として祀られています。
毎年11月22日午前10時より「番匠堂曲尺太子 奉賛法要」が厳修されます。





西暦578年、聖徳太子の命を受けて3人の工匠が百済より招かれ、日本最初の官寺となる四天王寺の建立を命じられた。
3名のうちのひとりが世界最古の会社・金剛組創業者である金剛重光。
四天王寺完成後、他の2名が大和と山城にそれぞれ配置されたのに対し、金剛重光は「これからも四天王寺をお守りせよ」と命じられそのまま四天王寺に残り、以降、金剛家の当主は代々、四天王寺を護る大工の称号「正大工職」という役目を与えられている。

こうして、大工・建築技術の向上、工事の無事安全を願う建築に携わる人たちの間で聖徳太子がお祀りされるようになりました。


1436年続いた秘訣は“多神教”と“普遍性”

金剛組取締役社長 刀根健一氏によれば
「国内で1000年以上続く長寿企業の共通点は大きく2つあるという。

ひとつは、神社や寺の奉納に携わる仕事であること。
聖徳太子が沐浴されていたと言い伝えられている六角堂北面の池に花を供えていたことが始まりの池坊華道会、
京佛具の本流を受け継いで千年余りの年月を刻む田中伊雅佛具店、
今宮神社脇の休み処である一文字和助など、
「神仏に仕える」という精神が先にあるため、「儲けすぎない」「手を抜かない」という心構えが根強く残っている。
また、日本は多神教国であったため、共存共栄により信仰心が高まり、穏やかな国民性・民度の高さにつながったという。

もうひとつは、昔から変わらないことを、ずっとやり続ける普遍性だ。

1000年企業の稼業である、華道、仏壇、和菓子、温泉などは、時が経ても変わらない、昔ながらの手法を守り続けている。
金剛組が行う社寺建築の様式も、和洋・大仏様・禅宗様・折衷様の4パターンで、その時々の時代背景により変化してきているが、軒の反りや曲線、彫刻などの伝統美は変わっていない。
「イノベーションを行わないことには、企業は生き残れない」とさかんに言われる一方で、世界でも類を見ない1000年企業の多くが、確かな手法を伝統的に守り続けていることを思うと、なんとも感慨深いものだ。」



★11/14追記
この番匠器で書かれた文字を見たときにすぐに思いだしました。


なぜか気になる紋様 蘇利古

2016-09-25 に以下のように記しました。

四天王寺の蘇利古(そりこ)は、聖徳太子の命日(旧暦2月22日)に合わせて行われる聖霊会の舞楽法要において、最初に行われる舞楽。

「垂仁天皇のときに百済からの帰化人で須々許理(すすこり)という人が、この舞を伝えたという。

右方平舞(へいぶ)装束の諸肩袒(もろかたぬぎ)の姿で、長方形の布に人面の抽象図をかいたといわれる「雑面」(ぞうめん)を顔につけているのが特徴。
手に持っている棒を「白楚」(ずばえ・ずわい)という。
この舞が五人で舞われるのは四天王寺独特のもの。

4月22日(※旧暦2月22日の聖徳太子の命日)四天王寺で行われる「聖霊会」雅楽法要でこの「蘇利古」が舞われる。

蘇利古は四天王寺の聖霊会舞楽法要の最初の舞楽として欠くことができない。
この舞が舞台で舞われている間に、堂内では宮殿(くうでん)に安置されている聖徳太子の御影の帳(とばり)を上げる「御上帳」(みじょうちょう)の儀式と御水を捧げる「御上水」(みちょうず)の秘儀が行われる。

一説には太子のお目覚めを慰めるための供養舞であるとも伝える。
聖霊会の儀式進行上、省くことのできない、天王寺独特の舞楽の一つである。」

なんでこの紋様が、唐突に昨夜私にもたらされたんだろう。
何のメッセージなのか見当もつかないけど、どなたかわかる方おられるかもと、早々に記録残します。


何か関係あるのかもしれない。

その後さらに検索を重ねたら、
須々許理は、垂仁天皇のときに百済からの帰化人ではなくて、応神天皇の時代の話でした。

和邇吉師は文首(フミノオビト)等の祖。
また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖、漢直(アヤノアタヒ)の祖、
また酒を醸むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦の名は須須許理(ススコリ)等参渡り来つ。