「生活の党と山本太郎となかまたち」
《『今だから小沢一郎と政治の話をしよう』(堀茂樹/著)発刊のお知らせ》
2013年から2015年にかけて数回にわたって公開・非公開で行われた小沢一郎代表と堀茂樹慶
應義塾大学教授との対談が本になりました。本書は「政治とは何か」からはじまり「国造りの構想
」まで全5章で構成され、これを一読していただくことで、小沢一郎代表の政治理念を小沢代表の
生の言葉を通して知っていただくことができます。
●本文構成
第1章:政治とは何か
第2章:憲法の話をしよう
第3章:なぜ議会制民主主義か
第4章:世界の中の日本を考える
第5章:国造りの構想
● 出版社:祥伝社
● 体 裁:四六判ハードカバー 本文288ページ
● 定 価:1,836円(本体1,700円)
● 発売日:9月21日(月・祝)
《9月16日 強行採決なら安保法案の成立阻止で一致、野党6党・会派党首会談》
生活、民主、維新、共産、社民、参院無所属クラブは9月16日、党首会談を開き、採決前提の締め
くくり総括質疑を認めないこと、委員会で採決強行なら問責決議案、内閣不信任案の提出を含めて
あらゆる手段で安保法案の成立を阻止する方針で一致しました。
安倍晋三の9月14日の参院「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」での発言。
山口公明党代表「(参院送付から)60日で参議院として結論を出せず、今日に至ったのは極めて残念だ。衆議院が、参議院が法案を否決したものと見なして再議決する『60日ルール』を適用しないようにお願いする立場になったが、参議院で議論し結論を出すべきだ」
安倍晋三「審議の進め方については、良識の府である参議院のご判断に従うべきものと考えている。政府としては、引き続き分かりやすく、丁寧な説明に努めていきたい。そのうえで、熟議ののちに『決めるべきときは決めなければならない』というのが民主主義のルールだ」(NHK NEWS WEB)
安倍晋三は「熟議ののちに『決めるべきときは決めなければならない』というのが民主主義のルールだ」と偉そうに断言しているが、民主主義のルールに則った選挙で獲得した議席を力とした国会の多数決のみが民主主義のルールではない。
選挙のときは明確な形で表に出なかった、あるいは勝利優先の権謀術数から意図的に明確な形で表に出さなかった政策が表に明確な形で現れたときのその政策に対する国民の賛否(=民意)を選挙で獲得した、国民の側から言うと、選挙で与えた議席が正確に代弁していると言うことはできない。
対して、その政策が具体的に表に現れたときの世論調査に於ける国民の賛否はより民意を代弁していると言うことができ、当然、民主主義のルールを言うなら、世論調査に現れている民意を無視できないはずだが、少なくとも安保関連法案に関しては民意を正確に代弁しているわけではない議席のみを力に「決めるべきときは決めなければならない」と採決に走るのは民主主義のルールに則しているとは決して言えない。
にも関わらず、安倍晋三は議席にすべての政策の最終決定権を与えて、それを以て民主主義のルールだとしている。
議席を獲得すれば、民意が反対する政策であっても最終的には実現できるとする考え方を民主主義のルールとして掲げる政治性は民意無視という点で、厳密には民主主義のルールでも何でもなく、そこに自ずと独裁性を背中合わせとしていることになる。
安倍晋三という政治家に独裁性が否定できない理由がここにある。
同じく9月14日の参院特別委員会で次のようにも発言している。
安倍晋三「残念ながら、まだ支持が広がっていないのは事実だ。国民の命、平和な暮らしを守るために必要不可欠な法案だ。一日も早く成立させたい。
支持が広がっていないのは事実。法案が成立し、時が経ていく中で間違いなく理解は広がっていく」(TOKYO Web)
民意を無視しながら、「国民の命、平和な暮らしを守るために必要不可欠な法案だ」と言う。と言うことは、民意は「国民の命、平和な暮らしを守るために必要不可欠な法案だ」とは見ていないということになる。
安倍晋三は「法案が成立し、時が経ていく中で間違いなく理解は広がっていく」と自信を見せているが、珍しくものの見事に合理的な判断に基づいた発言を見せている。
法案が成立して法律として既成事実化してしまうと、国民それぞれの日常生活に直接的・具体的に何らかの弊害や不便を与える法律ではないから、審議していた当座は平和への危機として日常生活の一部となっていたとしても、日常生活の一部であることから遠のいて、危機意識、あるいは問題意識が沈静化していき、一見、法律に対する反対意志が消滅したように見える。
だが、それは決して「理解」という段階への到達ではない。単なる沈静化であって、忘れられていた自然災害の猛威が再びキバを剥くことによってその猛威を思い出させるように沈静化していた平和への危機意識は自衛隊の海外活動によって万が一にでも目覚めさせられた途端に再び日常生活の一部を占めることになって、反対意志は蘇らない保証はない。
その蘇りが社会的に大きな力を持たなかったとしても、やはりそれは理解からではなく、既成事実化が招くことになっている慣れや諦めからの意思表示が単に優っていたという事実の現れに過ぎないはずだ。
もしそのような状況が社会の大勢となったとき、安倍晋三は法律成立という既成事実化への慣れや諦めへの期待を込めたに過ぎなかったにも関わらず、得々として「理解は広がった」と誇ることになるに違いない。
安倍晋三と内閣、与党は1959年の最高裁砂川事件判決を法案の合憲性の根拠としている。であるなら、何度かブログに書いてきたが、同じ最高裁砂川事件判決は、日本国憲法9条2項が、〈その保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである〉と米軍の日本駐留に対してその戦力は9条2項の「戦力」に当たらないからと合憲判断を示すと同時に、9条2項規定の保持禁止戦力とは「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいう」と、自衛隊の戦力そのものを指している以上、最高裁砂川事件判決に従って自衛隊を廃止しなければ、整合性が取れないご都合主義ということになる。
自衛隊を廃止すれば、個別的自衛権行使も集団的自衛権行使もクソもなくなる。
安倍晋三の頭は「理解は広がっていく」と言うことができる合理的判断能力ゼロででき上がっていることと言い、合憲性判断のご都合主義と言い、そういった要素で成り立たせている、「国民の命、平和な暮らしを守るために必要不可欠な法案」であることを国民は肝に銘じなければならない。