「生活の党と山本太郎となかまたち」
《9月1日「生活」機関紙第27号(電子版)発行のご案内》
こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
【今号の主な内容】
◆8.30国会10万人集会で小沢一郎代表がスピーチ
安保法案を阻止し、安倍内閣を退陣に追い込もう!
◆山本太郎代表 国会スペシャルレポート
◆第189回国会活動報告
◆玉城デニー幹事長 沖縄レポート
◆小沢一郎代表談話が英文オンライン誌「ザ・ディプロマット」に掲載される
◆談話:川内原発1号機再稼働を受けて
《9月1日小沢代表記者会見動画党HP掲載ご案内》
小沢一郎代表は9月1日、国会内で記者会見を行い、8・30国会10万人集会、日中・日韓関係
、維新の党、野党再編、五輪エンブレム中止などに関する質問に答えました。記者会見動画を
ホームページに掲載しました。ぜひご覧ください。
昨日、9月1日午後、到頭佐野研二郎氏デザインの東京五輪エンブレムの使用中止が決まり、新しくデザインを募集することになった。
佐野研二郎氏の五輪エンブレムを含めて他のデザインの幾つかがこうまでも他者のデザインに似ていると指摘され、それらのデザインがインターネット上に出回って模倣疑惑・盗用疑惑が持ち上がるようでは、いくら本人が五輪エンブレムの模倣を否定しても、少なくとも灰色の膜で覆われることから免れることはできまい。
組織委も他の五輪関係者も、模倣疑惑・盗用疑惑が渦巻く中、このデザインでいくと言っていたにも関わらず、急転直下の白紙撤回へと至ったのは、原案が他の商標登録されたデザインと似ていたことから、似ていることが偶然なのか、模倣なのか検証が必要だったと思うのだが、修正して完成した作品の使用例の羽田空港ロビーと渋谷駅前スクランブル交差点から振り返った周辺のビルの壁にエンブレムを飾った写真を8月28日の佐野デザインはオリジナルだと証明するための記者会見を開いたときに公表、その二つの写真ともインターネットに公表してあった他者写真をそのまま使用していることがネット上で元となる写真付きで指摘されて、佐野氏本人も無断使用であることを認め、そのことがどうも致命的になったようだ。
使用例の写真提示は、「このように使用すれば、生えますよ」と自身のデザインをアピールする道具立てであるはずだが、その道具立てに他者写真を無断使用する。ちょっと悪質な気がする。
新国立競技場建設で迷走し、今度は五輪エンブレムで迷走することになった。どうもケチがついているようだ。新国立競技場の整備計画見直しに至る経緯検証の文部科学省第三者委員会が現在開かれているが、五輪エンブレムでもその責任を問う第三者委員会を設置すべきだろう。
ケチがついているせいか、その続きであるかのように安倍内閣閣僚からオリンピックを貶めるような発言が飛び出した。
五輪担当相の遠藤利明が山形市の自民党山形県連会合で講演でもしたのか、「金30個取れなければクビになる人が出る」と発言したと、8月30日付の「asahi.com」記事が伝えていた。
遠藤利明「新国立競技場は、積み上げていって1640億円まできた。前日に総理の所に行って『1640億円、どうでしょうか』、(首相が)『もう一声ないか』。バナナのたたき売りじゃないが、1500億円台だと、何とか皆さんに納得して頂けそうだと。
私は(金メダルを)30個取れと厳命している。取れなかったらクビになる人が出ると思っているが、そのくらいの気持がないと。どこかの政党じゃないが『2番でいい』なんて言っていたらダメだ。10月にはスポーツ庁もできる。長官(人事)の話は大体頭にあるが、言うと書かれるので今日は黙っているが、大体この人がいいな、と今思っている」――
安倍晋三が「もう一声ないか」と1640億円よりも少ない見積り予算を要求した理由・根拠は一体どういったものなのだろうか。まるでカネ(=予算)が先にありきで、施設の使い勝手や見映え(全体の景色)が後回しになっている。
新国立競技場を使うことになる関係各団体から必要最小限の要望を聞いて検討、必要限度ぎりぎりの使い勝手を持たせた施設を先ずおおまかにデッサンして関係各団体に示して了承を得てから、そのデッサンに基づいて全景を含めたデザインを募集、そのデザインで建設費がいくらかと計算するのが手順だと思うのだが、それが逆になっているし、予算額の理由・根拠の説明もなく、金額のみを国民が納得する基準としている。
しかも予算を削っていくことをバナナの叩き売りでもあるが如くに譬える。いやしくもオリンピックの舞台となる競技場建設である。アスリートたちが長い持間の積み重ねと苦しい練習の積み重ねを経て世界を相手に勝負に挑む神聖な広野である。
そのような場の建設に関わっているという意識が遠藤利明にはあるのだろうか。
そういった意識がサラサラないことは次の発言が証明することになる。
「私は(金メダルを)30個取れと厳命している。取れなかったらクビになる人が出ると思っているが、そのくらいの気持がないと」と言っている。
「そのくらいの気持がないと」という言い方で「気持」の向けどころとした対象は金メダルを「30個」取るということではなく、「クビになる人が出る」ということであろう。
なぜなら、金メダルは「30個取れと厳命して」、既に目標とさせているのだから、「それくらいの気持」としていることとは明らかに異なる。
オリムピックは金メダルを獲るために存在するのではなく、個々のアスリートが金メダルを目指すために存在するはずである。獲ると目指すのでは似て非なるものである。個々の選手が金メダルを目指すためにオリンピックは存在するから、目指す一つ一つの過程がより重要となる。
もしオリンピックを金メダルを獲ることを動機づけとして存在させていたなら、そこに到達することにより重点を置くことになって、目指す一つ一つの過程を疎かにすることになるだろう。
金メダルを獲ることに逸ると、往々にして目指す過程を疎かにして、手っ取り早くドーピングを使用したりすることになる。
オリンピックを金メダルを目指すために存在させ、そのことを動機づけとしていたなら、個数は結果に過ぎない。最初から個数を幾つと決めると、ときにはそれが至上命令と化して選手にプレッシャーを与えることになり、プレッシャーに支配された選手活動ということになって、その活動のみならず、スポーツそのものを卑しくすることになる。
遠藤利明は五輪担当相として東京オリンピック開催に関わっていながら、オリンピックを卑しめる発言を行った。
また、「取れなかったらクビになる人が出ると思っている」と言っている「クビになる人」とは安倍晋三でもなく、その他の誰でもなく、自身のことであろう。なぜなら金メダルを「30個取れと厳命」したのは遠藤利明自身だからである。
金メダルの個数と五輪担当相という自身の地位を結びつけている。つまり金メダルの個数を自身の地位上の成果にしようとしている。
「取れなかったらクビになる人が出る」が、獲れたら、クビになる人は出ないということである。
ここに保身的発想はないだろうか。金メダルを「30個取れと厳命」し、「取れなかったらクビになる人が出る」と自身の成果の守りにすると同時にその成果を自身の地位上の守りにしようとしている。
だが、自分のことだけを考えたその保身が同時にアスリートたちへのプレッシャーとなる可能性について気づいていない。
余りにも卑しく、小役人的で、保身的であり過ぎる。
安倍晋三はこのような小者を大事な五輪担当相に任命した。人物を見る目があったからなのだろう。
新国立競技場建設の見直しと言い、五輪エンブレムの見直しと言い、以上の遠藤利明の卑しい小役人的な保身的発想と言い、どこかが狂っているとしか見えない。