橋下徹 ツイッター投稿の視野狭窄・不見識・無思慮なデモ論

2015-09-01 10:29:09 | 政治


 橋下徹が自身のツイッターに8月30日日曜日夜8時半からの安倍晋三の安全保障関連法案反対国会前デモを「ほぼ数字にならない」と投稿していると伝えている9月1日付「asahi.com」記事を読んで、橋下徹のツイッターにアクセスしてみた。 

 投稿は8月31日午後2時辺りのようで、投稿順に並べてみる。

 〈デモは否定しない。国民の政治活動として尊重されるのは当然。政治家も国民の政治的意思として十分耳を傾けなければならない。ただしデモで国家の意思が決定されるのは絶対にダメだ。しかも今回の国会前の安保反対のデモ。たったあれだけの人数で国家の意思が決まるなんて民主主義の否定だ。〉

 〈日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ?ほぼ数字にならないくらいだろう。こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ。〉

 「デモ・デモンストレーション」とは集団的示威行為、あるいは集団的示威行動を意味するが、同時に集団的な意思表示(自分の意思を相手に示すこと)をも意味する。

 デモに於ける意思表示には、断るまでもなく、反対の意思表示だけではなく、賛成・支持の意思表示も存在する。

 8月30日の国会前デモの場合は安倍政権を相手とした安保関連法案反対の意思表示であると同時に自分たち以外の国民を相手にした「私達は安倍内閣の安保関連法案に反対しています」という意思表示でもあるはずだ。

 当然、その「反対しています」という意思表示はデモを通してデモに参加していないが、賛成か反対か態度を決めかねているその他大勢の国民に反対への賛同を求めたり、あるいはデモに参加しなくても、既に反対の意思を持っているその他大勢の国民にその意思をより強固にすることを求める意思表示をも自ずと表現していることになる。

 参加者の人数だけで評価することはできないということになる。

 と言うことなら、国会前デモ参加者の人数だけを見て、「たったあれだけの人数」だとか、「日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ?ほぼ数字にならないくらいだろう」と、その価値を認めない低い評価を下すことは余りにも視野狭窄であり、不見識であり、無思慮だと言うしかない。

 どれを取っても政治家に不必要な資質でありながら、不必要な資質を抱えながら国政政党の代表を務めたり、大阪府知事を務めたり、現在大阪市長を務めていられる政治家の条件はどう説明したらいいのだろうか。

 今回の安保関連法案反対のデモに限って言うと、その参加者の人数のみで反対の政治意思を量ることができないのは各マスコミの世論調査を根拠とすることができる。

 8月7日から8月9日(2015年)の3日間行ったNHKの世論調査によると、〈集団的自衛権の行使容認を含む安全保障法制の整備を進めていることを、評価するかどうか聞いたところ、「大いに評価する」が7%、「ある程度評価する」が23%、「あまり評価しない」が32%、「まったく評価しない」が32%〉と、評価30%に対して評価しないは64%となっている。

 このNHKの世論調査で見せている安保法制の整備に対する、あるいは安保関連法案に対する国民の反対の意思表示の傾向と安倍内閣に対する支持率低下の傾向はNHKの世論調査だけではなく、他のマスコミのよう論調査でも同じ傾向が現れている。

 そうである以上、橋下徹はNHK世論調査の65%を、あるいは少なく見積もって半数以上の50%にプラスした確率を、当然、評価30%の確率も下げなければならないが、「日本の有権者数は1億人」に掛けて、それぞれの人数を計算すべきだろう。

 安倍晋三は安保法制整備を強引に進むに連動して内閣支持率を下げてきている。この内閣支持率低下も国民の安保関連法案反対の政治意志=意思表示が強く影響している一つの現れであるはずだが、視野狭窄の病に冒されているから、デモの人数のみにしか目が向かない。

 改めて言うが、国会前デモは安保関連法案に反対の強い政治意思を持たせた集団的示威行動であり、集団的な意思表示である。主流の国民の声となって現れている世論調査を味方にして、自らの政治意思に強い自信を持たせて反対デモに参加しているはずだ。

 もし世論調査で国民の大多数が安保法案に賛成していたなら、なかなか反対デモなどできないし、反対デモをしたとしても、国会前デモのように大規模化などできないだろう。殆の国民が賛成していることになるのだから、国民の声に乖離したデモだと批判されかねない。

 橋下徹は「こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」と言っているが、サザン公演の観客・ファンが観客席で表現しようとしている、あるいは表現する意思表示と国会前デモの参加者が表現しようとしている意思表示が安倍内閣反対・安保関連政策反対の政治意志の点で非常に似通っているとしたら、後者の人数で国家意思の決定が許されるなら、前者の人数での決定も許されなければ、公平な民主主義とは言えなくなって、矛盾が生じる。

 もしその政治性が異質で、サザン観客・ファンの政治意志が明確な内閣反対・安保関連政策反対の意思表示にまで達していないものであるとしたら、そのような政治性を持たない人数で国家の意思決定を承諾していることになって、そこに別の矛盾が生じることになる。

 要するに正当性もない不見識・無思慮な情報をタレ流しているに過ぎない、その程度の政治家でしかない、あるいはその程度の頭しかないということである。

 橋下徹はまた、「デモは否定しない。国民の政治活動として尊重されるのは当然。政治家も国民の政治的意思として十分耳を傾けなければならない」と民主的行動を理解していることを見せてはいるが、「ただしデモで国家の意思が決定されるのは絶対にダメだ」と、逆に民主的行動を否定している。

 確かに国民の政治意志を示す選挙制度が民主国家には存在する。だが、国民の多くが反対する法律が成立してしまったなら、次の選挙でその内閣に対する反対の意思表示を示すには遅過ぎるという場合、特に現在のように次の総選挙を議席減少を回避するために4年の任期を全うするだろうことを考慮すると、2018年12月を予定しなければならなくなって、国民が頼ることができる反対の政治意思の表現は世論調査かデモに限定されることになる。

 もし世論調査で内閣とその内閣の政策に反対する確率が70%、80%にも達して、その世論の反対を受けて国会の周囲を内閣反対・政策反対のデモが20万人、30万人と取り囲み、そのために国会議員が国会に出席することもできなくなり、国会審議が完全にストップして、それがどれ程に長期化するか分からない状況に至ったなら、内閣はそれでも自らの保身を図るだろうか。

 それが暴力に走らない民主的なデモである限り、世論調査に現れている国民の政治意思を根拠にデモの力を以ってして国家の意思を決定することを意志し、それが成功した場合、決して民主主義には反しないはずで、「デモで国家の意思が決定されるのは絶対にダメだ」とは一概に言えないことになる。

 だが、「絶対にダメだ」と杓子定規に判断していいる。

 このような視野狭窄にして不見識な、あるいは無思慮な杓子定規な主張は自分の言っていることは常に正しい、あるいは自分の言っていることは正義だと思い込んでいることから起きる。

 正しい、正義だと頭から思い込んでいることによって、逆に自分の主張を疑って考えることを排除することになる。

 多分、自分は常に正しい、自分は正義だとする思い込みをベースにした達者な言葉の使い方、その早口に誤魔化されて、実際にも優れた政治家に見えて、多くの人気を得ることになっているのかもしれない。

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