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橋下次期大阪市長の独裁意志が具体的に現れた言論封殺

2011-12-11 10:45:20 | Weblog

 2011年11月29日当ブログ記事――《橋下徹の「民意を無視する職員には去ってもらう」の独裁性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、大阪市長選で圧倒的大量票を確保した民意を背景に、「民意を無視する職員には去ってもらう」と自身を絶対と位置づけた橋下氏が持つ独裁性を批判したが、早くも具体的な形で現れたようだ。

 この発言は、例えば国会議員が国歌斉唱を義務づける条例等に時折り「反対する者は日本から出ていって貰えばいい」と口にすることがあるが、これと共通する精神構造だと言える。

 反対意思を許容せず、排除することで全体を賛成意思で統一することを衝動する独裁意志なくしては口にできない言葉である。

 一人の人間の思考に他の殆どの全員が従ったなら、そこに独裁体制が姿を現わすことになる。

 上記ブログでは選挙の民意は多くが期待の意識が占めていて、橋下氏の場合は大阪府知事を経験したとしても大阪市長は初めての経験だから、決して「政治は結果責任」に対する民意ですべて占められているわけではないから、その民意を絶対と価値づけることはできないといった趣旨のことを書いた。

 橋下氏の独裁性がどのような形で具体的に表したのか、次の記事が伝えている。《批判職員突き止め「反省の弁」…橋下氏「一件落着!」》MSN産経/2011.12.10 12:54)

 投開票日翌日の12月11月28日(2011年)、出勤してくる職員にマスコミがインタビューした。橋下圧勝をどう受け止めているのか聞き出そうとしていたのだろう。

 職員「僕の考えている民意とは違う」

 それぞれの考えがあって当然である。だが、橋下次期市長はこの発言を、あるいはこの態度をか、問題視して、〈市総務局に事実確認を指示。当該の市職員を特定し、部局を通じ「反省の弁」を述べさせていた〉という。

 しかも、このことを橋下次市長が自ら明らかにした・・・と記事は書いている。

 この職員は驚いたに違いない。本人にしたら、正直な感想を述べた。それを誰なのか特定させて、橋下次期市長が直接議論対決して自身の主張を理解させるべく努めるのではなく、〈部局を通じ「反省の弁」を述べさせ〉た。

 また、橋下次期市長はこの職員に対してだけではなく、〈別の番組で〉と書いてあるが、別の放送局のインタビューを受けて報道された番組ということなのだろう、〈橋下氏が代表を務める大阪維新の会について「向こうの考えている二重行政は分からない」と発言した職員についても、同様の措置を取ったという。〉と伝えている。

 総務局長(橋下次期市長に報告)「職員は真摯(しんし)に受け止め反省している」

 橋下次期市長(報告に対する感想)「この2人の職員との問題は一件落着した」

 要するに橋下次期市長の「一件落着」とは自身とは異なる主張・自身と異なる言論を民主的ルールに則ってではなく、次期市長という上の立場から下の立場に対して上の立場に従属させる一種の強制によって自身と同じ主張・自身と同じ言論に変えさせたのである。

 少なくとも表向きの反対を禁じる面従を強制した。

 言ってみれば、件の二人の職員は次期市長に睨まれたのである。自身の地位や身分を守ろうとする自己保身意識が働いたに違いない。自己保身の代償として、自身の言論の自由・自己主張の自由をまだ就任したわけではない橋下次期市長に売り渡した。

 これが一種の心理的威嚇による言論封殺でなくて、何と評したらいいだろうか。

 このような仕事とは関係のない個人の思想・信条の領域に関する事柄が上下の力関係を利用して圧力・強制を働かす独裁性が橋下次期市長が就任して仕事上の上下関係が発生後ならまだしも(市長就任は12月19日)、選挙に当選して次期市長就任は確実ではあっても、まだ就任前であるゆえに仕事上の上下関係が実際には発生していないにも関わらず、いわば何らの権限を持つに至っていないにも関わらず、職員に対して発動したのは越権行為に入るはずだ。

 この点に於いてなおさらの独裁意志を窺うことができる。

 職員の側から言うと、職員の側には上の独裁意志に容易に従う素地があることになる。大阪市役所という組織内の上下関係に権威主義の力学が作動しているということである。

 記事は最後に自らが暗々裏に炙り出していた橋下次期市長の独裁性に反する発言も伝えている。

 橋下次期市長「行政上の主張や反対論はしっかり言ってほしい」
 
 テレビ局のインタビューに応えて大阪市民が示した民意と違うと話したことがテレビで報道されて、それを見た橋下次期市長が誰なのか市総務局に命じて探させ、反省させる手間まで費やしたのである。

 そこに「そこまでやるか」といったある種の執念、あるいはしつこさを感じ取って、次期市長と異なることは言うなのサインとしてより強烈に受け止めさせたと考えたとしても、一概に否定はできまい。

 となると、誰が反対論をしっかりと言うだろうか。自分の身可愛さに触らぬ神に祟りなしの言いなりの人間――イエスマンをつくり出すだけに違いない。

 橋下次期市長の二人の職員に対する対応を知った他の職員の多くが二人の態度に右へ倣えをすることは容易に考え得る。問題はそのようなイエスマンが面従腹背的な側面を多分に備えた場合、生産性はなおさらに期待できないことになる。

 要するに橋下次期市長の「行政上の主張や反対論はしっかり言ってほしい」は自らの言論封殺の独裁性にもっともらしい民主主義の体裁を持たせた発言に過ぎないだろう。

 12月5日にごみ収集業務などに当たる技能職員の不祥事が相次いでいることから、全技能職員の採用経緯を調査する方針を明らかにしたと「毎日jp」記事――《大阪市:全技能職員の採用経緯を調査へ 再試験も 橋下氏》毎日jp/2011年12月6日 15時50分)が伝えているが、技能職員に関しては縁故採用の多さが前々から言われていたことである。

 〈技能職員の不祥事は後を絶たず、09年4月以降に逮捕された大阪市職員50人のうち18人が技能職員で、懲戒免職された58人のうち31人を占めた。〉・・・・・

 縁故採用は自ら獲ち取った地位ではないことから緊張感のなさが付き纏ったり、縁故の相手が地位ある人間である場合、その地位を笠に着て、仕事よりも威張ることに熱心であったりして、勤勉さの要素を欠くケースが多い。

 二重行政や縁故採用、仕事のムダ等々の是正に情熱を燃やしていることは歓迎できるが、そこに独裁意志が介在した場合、表に現れなくても、組織の内部深くで人材面に対して様々な障害が生じ易くなる。

 その一つがイエスマンづくりであり、上から指示された仕事を機械的に消化する惰性状況の形成である。


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野田首相2011年12月9日記者会見から問う「安全運転」と「不退転」の二律背反

2011-12-10 11:28:59 | Weblog

 野田首相が同時に二つ掲げている「安全運転」と「不退転」とは二律背反の矛盾した関係、相対立する関係にある。「不退転」は「屈しないこと、固く信じて変えないこと」(『大辞林』三省堂)という意味があるが、固く信じて変えないことによって屈しない「不退転」の姿勢が堅持可能となる。

 野田首相「社会保障と税の改革に不退転の決意で望みます」――

 私などは場末の安キャバレーの古びて輝きを失ったミラーボールのようにめまぐるしくるくる考え・態度を変えて、「我が辞書に信念なる言葉なし、不退転の言葉もなし」の惨状だが、そこはさすが日本の総理大臣になるだけあって、野田首相は堅忍不抜の信念に支えられた不退転の姿勢の持ち主であるらしく、「不退転の決意」誇示のオンパレードを示している。

 直接的に「不退転」という言葉を用いなくても、頻繁に使っている「先送りできない」という言葉は即時の実現に向けた固く信じて屈しない姿勢=不退転の意志を込めて用いているはずである。

 記者会見で用いた「先送り」という言葉を拾ってみた。

 野田首相「復旧・復興のための財源は、次の世代に負担を先送りすることなく、今を生きる世代全体で連帯し、負担を分かち合うことが基本です」(第178回国会野田首相所信表明演説/2011年9月13日)

 野田首相「国民の皆さまにおかれましては、これは、(第3次補正予算財源捻出の)これらの負担を次の世代に先送りをするのではなくて、今を生きる世代全体で連帯して分かち合うことを基本とするという、この私どものまとめた考え方を、是非ともご理解をいただきますようにお願いをしたいというふうに思います。」(野田首相記者会見/2010年9月30日)

 野田首相「グローバル経済の市場の力によって「国家の信用」が厳しく問われる歴史的な事態が進行しています。欧州の危機は広がりを見せており、決して対岸の火事とは言い切れません。今日生まれた子ども一人の背中には、既に700万円を超える借金があります。現役世代がこのまま減り続ければ、一人当たりの負担は増えていくばかりであり、際限のない先送りを続けられる状況にはありません」(第179回国会野田首相所信表明演説/2011年10月28日)

 野田首相「社会保障と税の一体改革、すなわち、社会保障がこれから本当に持続可能なのかどうか、若い世代も不安を持っているわけである。それを支えるための安定した財源を確保していかなければならないということで消費税が位置づけられているが、この問題は、どの内閣でも避けて通ることの出来ない、先送りの出来ない課題である」(野田首相APEC首脳会議内外記者会見/2011年11月13日夕/現地時間)

 そして昨日(2011年12月9日)の臨時国会閉会の記者会見。

 野田首相「これ(消費税増税)は私はどの内閣に於いても、もはや先送りのできない待ったなしの状況だと思っております」(野田首相記者会見/2011年12月9日)

 かくかように各政治課題を「先送りできない」と位置づけて、課題解決に「不退転」の意志を込めてきた。
 
 野田首相は「先送りする」とどうなるかについても発言している・

 野田首相「大震災後も、世界は歩みを止めていません。そして、日本への視線も日に日に厳しく変化しています。日本人の気高い精神を賞賛する声は、この国の「政治」に向けられる厳しい見方にかき消されつつあります。政治が指導力を発揮せず、物事を先送りすることを『日本化する』と表現して、揶揄する海外の論調があります。これまで積み上げてきた『国家の信用』が今、危機に瀕しています」(第178回国会野田首相所信表明演説/2011年9月13日)

 先送りすると国家崩壊を招くばかりか、世界的に「国家の信用」を失うと警鐘を鳴らしている。

 当然、国会答弁でも「先送りできない」を盛んに用いて、自らの不退転意志を機会あるごとに誇示していたはずだ。
 
 菅首相も「先送りは許されない」を盛んに言い募った。野田首相は9月2日(2011年)の就任であったとしても、政権交代等の新規スタートではなく、鳩山元内閣、菅前内閣の政策を引き継いだ政権である。

 いわば前任者の「先送りは許されない」を引き継いだ野田首相の「先送りは許されない」であって、その言葉の実行性に於いて野田首相の任期以上に加速されていなければならない。

 だが、これまでの政治的経過を見れば分かることだが、それを纏めて述べた昨日の《記者会見》からも、先送りできないとする「不退転」が成果を上げているようには見えないばかりか、成果という結果に向けた認識を欠いているとしか見えない。

 成果という結果に向けた認識の欠如は冒頭発言の開口一番、次のように発言しているところに象徴的に表れている。

 野田首相「本日をもって10月20日以来、会期51日間にわたりました臨時国会が閉会をいたしました。今次国会の最大の成果は、東日本大震災からの復興、日本経済の立て直しという、この内閣が必ずやり遂げなければならない課題に大きな一歩を踏み出せたことであります。

 具体的には、既に先日1日の記者会見でご報告をさせていただいたとおり、12兆円を超える規模の第3次補正予算と、その裏付けとなる復興財源確保法が成立をいたしました。その後、会期末までに、法人税を5年間無税とするなど、規制、税制の特例を措置する復興特区法、省庁の縦割りを排してワンストップで対応する復興庁設置法についても、与野党が実務者レベルで建設的な議論を積み上げ、最終的な成案を得ることができました。

 これらにより、被災地の復興を進めていく仕組みがきちんと揃うことができました。力強い復興の実現をスピードアップさせていきたいと考えております。また、大幅に拡充した立地補助金など、3次補正予算に盛り込んだ施策を着実に実行し、円高、空洞化対策を加速をさせていきたいと考えております。本会議や予算委員会を始め、幅広く質疑に対応いたしました」・・・・

 「東日本大震災からの復興、日本経済の立て直しという、この内閣が必ずやり遂げなければならない課題に大きな一歩を踏み出せたこと」が 「今次国会の最大の成果」だと誇っているが、その成果たるや現時点ではあくまでも「課題に大きな一歩を踏み出せた」だけのことであって、「力強い復興の実現をスピードアップさせていきたい」、「3次補正予算に盛り込んだ施策を着実に実行し、円高、空洞化対策を加速をさせていきたい」とは言っているが、これらは現時点ではその実現が未知数の今後の実行課題であって、最終成果にまでは至っていない。

 いわば「今次国会の最大の成果」とすることにさして意味はないばかりか、成果とする対象を間違えているということである。

 国会で成立させた法律のすべてが「最大の成果」であるなら、日本の経済沈下も日本という国の世界に於ける地位の低下も生じることはなかったはずだ。様々に法律を制定し、様々に制度を変えてきたが、「最大の成果」となり得なかったからこそ、矛盾や格差が噴出して、現況に至っている。

 当然、法律や制度を実効ある形で社会に生かす今後の政治作業にこそ、改めて「先送りできない」「不退転」のエネルギーを注ぐ姿勢を見せるべきだが、対象を間違えて「今次国会の最大の成果」だと誇示している時点で既に「政治は結果責任」意識を欠いている証明としかならず、最大限のエネルギーの注入が期待できないとなれば、今後の政治作業の成果までさして期待できないことになる。

 このことは「今次国会の最大の成果」だと言いながら、このことに反して成果とすることができなかった課題が存在し、「最大の成果」を打ち消す形となっているところに表れている。

 勿論、野田首相破綻に列挙しているだけで、生家の打ち消しだとは強く認識していないようだ。

 「国会議員の定数削減を含む選挙制度改革」、「復興財源を捻出する上で重要となる公務員給与削減法案と郵政改革法案」、「非正規雇用の適正化を図る労働者派遣法改正案」等を成果とならなかった例として挙げている。

 「国会議員の定数削減を含む選挙制度改革」と「復興財源を捻出する上で重要となる公務員給与削減法案と郵政改革法案」は復興財源捻出のみを目的としていたわけではなく、消費税増税が国民にのみ負担を強いるのではなく、政治の側にも負担を求めて自ら身を削り、国民から納得を得るための、いわば交換条件と位置づけていたはずで、何よりも「先送りできない」、「不退転の決意」で実現を図らなければならなかった課題であったはずである。

 記者会見で次のように発言している。

 野田首相「(社会保障と税一体改革は)なぜ今なのかを改めて説明をしたいと思います。世界最速の超高齢化社会は、実はこれからが本番であります。団塊の世代の方々が次々と65歳以上となり、制度を支える側から支えられる側になります。かつて、多くが1人の高齢者を支える胴上げだった人口構成は、今や3人で1人を支える騎馬戦型となり、いずれ1人が1人を支える肩車型へと変わってまいります。社会保障のための財政支出は、今のままでも毎年1兆円規模で自然に拡大をしてまいります。同時に、支える側である子育て世代や、若者を支援する、全世代型の社会保障の構築も切実な課題であります。加えて先ほど申し上げた欧州債務危機は、対岸の火事ではありません。日本は財政規律を守る国か、世界と市場が見ています。将来につけを回すばかりでは、国家の信用は守れません。

 こうした状況に対処していくため、何よりも政府の無駄遣いの徹底的な削減と税外収入の確保に懸命に取り組む決意であります。だからこそ、公務員給与削減法案と郵政改革法案を何としても早期に成立をさせたいと考えております。また、公務員宿舎の25%削減を断行するとともに、行政刷新会議の提言型政策仕分けをしっかりと受けとめ、そもそも論に立ち返って行政の効率化を進めていきたいと考えております。さらに、国の特別会計の見直しや、出先機関の原則廃止についても、来年の通常国会での法案提出を目指し、検討を加速をしていくつもりでございます」・・・・・

 まさに先送りできない、不退転の決意を文脈に露わに滲ませた発言となっている。

 だが、先送りを許した。不退転の決意は虚構に過ぎなかった。

 消費税増税問題にしても、私自身は条件付き賛成で、のちの機会にブログ記事にするつもりだが、財政再建は待ったなし、先送りできないとしていながら、党内の反対派を自らのリーダーシップ(=指導力)で纏めることができないでいるばかりか、賛成派と反対派が党内対立を展開している様相すら呈している。 

 今回、一川防衛相と山岡消費者担当相の参院問責決議が可決されたが、適格性に疑問符がつく人物を大臣に任命したのは自らの人事ではなく、党内融和を優先させた、自らの手から離れた人事だったことも原因の一つとなっているはずである。

 閣僚人事は野田首相が自らの政治姿勢だとした「安全運転」の成果でもあった。

 安全運転は自己保身意識に重きを置く姿勢である。自己保身にウエイトを置いた政治家は国民という他者を相手に冒険はできまい。自己保身は他者保身と相対立するからである。

 自己保身者の他者保身は自己保身と利害が一致する他者保身のみを自己保身を目的として図ることになる。

 冒険の不可能性は「不退転」を拒絶する。「先送りできない」を言葉だけのものとする。

 「安全運転」と「不退転」が二律背反することの理由がここにある。 

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中国の民主党政権の足許を見た脱北者問題“柳腰外交”

2011-12-09 11:36:50 | Weblog

 最初に伝えたのは「読売新聞」なのだろうか、複数の日本政府関係者の話として12月7日に判明、日本政府が中国政府の求めに応じて中国内の北朝鮮からの脱北者を日本の公館外から公館内に連れ込まないとする誓約文書を提出していたと報じている。

 誓約文書提出の経緯を記事から拾ってみる。

 中国遼寧省瀋陽の日本総領事館が脱北者5人を2008~09年にかけて保護。日本移送を巡って、脱北者を「不法な越境者」とする中国側が出国を認めず、足止めが約2年~2年8か月と長期化。

 日本側は事態打開のため昨年(2010年)末、「脱北者を保護すべきでない」とする中国側の主張に「留意する」と口頭で伝えた。

 中国外務省は軟化したものの、公安当局が難色を示し、「これまでに脱北者が日本に渡ることを認めた中国側の対応を評価する。今後は公館外からは連れ込まない」との趣旨を文書化するよう要求、要求に応じて提出後、保護されていた5人は5月までに日本への出国が認められた。

 要するに日本の大使館、領事館の類が保護した脱北者が日本に渡ることを認めるのはこれが最後だとの通告である。この通告は日本側が誓約書を提出した時点で成立した。

 そもそもからして、「脱北者を保護すべきでない」とする中国側の主張に「留意する」と口頭で伝える妥協を示した時点で既に外交的に負けていた。

 どのような要求に対しても、あるいは「今後は公館外からは連れ込まない」と求められたとしても、なぜ人道上の見地からそれはできないと毅然とした態度で撥ねつけることができなかったのだろうか。

 人権と民主義の観点から明らかに正義に反している相手の要求に一旦屈すると、正義に反したことが公になることの恐れが弱みとなって、それを隠すために相手の理不尽な要求に次々と屈することになる。

 尖閣諸島沖中国漁船衝突事件での中国人船長逮捕と処分保留のままの釈放に於いても中国の圧力に屈して似たようの経緯を取ったのではなかったろうか。

 日本瀋陽総領事館に脱北者が10年20年留め置かれようと、そうなることも覚悟して、人道上、そのような要求は飲むことはできないと毅然とした態度をなぜ取れなかったのだろうか。人道上からも人権の点からも、あなた方は間違っているとなぜ言えなかったのだろうか。

 「MSN産経」――《中国への「弱腰」またひとつ 政府、中国に誓約「脱北者を公館に連れ込まず」》(2011.12.9 00:13)が、中国側が5人の出国を認めず、最長で約2年8カ月、外出禁止の領事館敷地内足止めとなったために体調を崩す者も出たと書いているが、こうなる以前の問題として、政治は一度でも表に出たのだろうか。

 外務大臣が駐日中国大使を外務省に呼んで、人道上の観点から早期の出国を求めるといったことをしたのだろうか。あるいは駐中国日本大使館を通じて中国政府に対して早期の出国許可を出すよう求めるといったことをしたのだろうか。

 鳩山元首相や菅前首相が中国首脳と会談した際に日本のトップが中国のトップに直接求めるといった形式で一度でも早期出国の許可を求めたりしたのだろうか。

 もしそういったことをして、マスメディアを通じてこういう要求をしたと公表していたなら、マスメディアからの報道によって、中国がしている非人道的措置、あるいは中国政府の非人道性・権性が世界中に知れて、中国にとって都合が悪いことになり、早期出国許可の圧力となったはずだ。

 だが、逆の方向を選択した。

 但し野田政府は誓約書提出を否定している。Web記事で昨日(2011年12月8日)昼の参院外交防衛委員会で山本一太自民党議員が取り上げ、玄葉外相を追及したと書いてあったので、参議院動画を見てみた。

 玄葉大臣の答弁から状況証拠にしかならないが、誓約書の存在否定に正当性を与え得るかどうかを判断してみる。

 山本一太議員「玄葉大臣、一つだけちょっと今日、気になったことがあったのでお聞きしたいんですがね。

 今日のですね、読売新聞の一面にですね、えー、政府が脱北者を保護しないということを中国に誓約したと。えー、中国の国内法を重んじて、脱北者を公館外から公館内に連れ込むことはしないと。

 この誓約するという文書を提出していたという報道がありますが、外務大臣、これ事実でしょうか」
  
 玄葉外相「あの、脱北者につきましては、あー、まあ、ご存知のようにもう既に100名を超える脱北者を、日本、自身、受け入れをしていると言うか、入国しているわけであります。

 今のお尋ねは、じゃあ、中国でどうなんだと、こういうお話でありますけれども、おー、中国には最も多くの脱北者がいるものと、いうふうに考えて、えー、おりまして、まあ、色んな中国との遣り取りはございます。

 ただ、これだけははっきり申し上げておきますけども、我が国として中国からの脱北者を、おー、受け入れを今後行わないと、いうことでは、全くありません」

 第一番に「はっきりと申し上げ」るべきは誓約書を提出したかどうか、否定するのか肯定するのかいずれかであって、そうなっていないところが既に誓約書の提出を肯定していることになる。

 また、「我が国として中国からの脱北者を、おー、受け入れを今後行わないと、いうことでは、全くありません」と力強く断言しているが、脱北者が中国当局の警戒体制の関係からアメリカやドイツ、あるいはフランスといった大使館、領事館の類に逃げ込んで、北朝鮮帰還事業で日本から北朝鮮に渡ったかつての在日である等の事情で日本への出国意思を示した場合、その出国意思は外国政府の介在を経た日本政府への通告という形式を取るゆえに、例え「今後は公館外からは連れ込まない」とする誓約書を提出していたとしても、決して受け入れ拒否はできないだろうから、「我が国として中国からの脱北者を」云々の論理は成り立つ。

 だが、「今後は公館外からは連れ込まない」とする誓約書を提出していたなら、日本の大使館(警戒が厳しく難しいだろうが)、領事館の類に逃げ込んだ場合、日本政府は脱北者を中国政府に引き渡すことになって、「我が国として中国からの脱北者を」云々の論理は成り立たないことになる。

 問題はあくまでも日本の大使館、領事館の類に逃げ込んだ脱北者を中国政府に引き渡さずに今後共日本が受け入れるのかどうかの答弁、確約にあったはずだが、そのような答弁、確約を行わずに、それ以外の例として可能とする場合の受け入れに言及したに過ぎない。

 勿論、そこまで考えていたかどうかは分からないし、単に言い逃れのために「受け入れます」と言っただけのことかもしれない。

 山本一太議員「それではこの読売新聞の一面にはですね、えー、誓約書を日本政府が提出したというのは、これは大臣、事実ではないって言うことですね」
  
 玄葉外相「あのですね、あのー、ま、新聞報道、私も今、手許にございます。ございますけれども、率直に言って、ま、色んな遣り取り、イー…、につきましてですね、やっぱり、ま、安全とか、プライバシーとか色々ありますので、率直に言って、こういった具体的な事案についての、ま、様々な遣り取り、について、えー、今、こういう場合でですね、申し上げると、こういうのはやはり差し控えなければならないだろうと。

 ただ、先程申し上げましたように、じゃあ、中国からですね、脱北者を日本が受け入れないのかと言ったら、絶対にそういったことはございません」

 肯定も否定もできずに申し上げることは差し控えなければならないと言っているのだから、答弁自体の怪しげ言葉遣いと共に事実か否かを証明して余りある。

 日本の大使館、領事館の類に逃げ込んだ場合の脱北者を中国政府に秘密裏に引き渡していたなら、逃げ込んだ脱北者は一人として存在しないという事実がデッチ上げ可能となって、受け入れる・受け入れない以前の問題で収束することとなり、玄葉外相の受け入れないということは絶対にないとする断言は後になって露見することはあっても、当座は巧妙に隠蔽することができる。あるいは永遠に事実を闇に葬ることも可能となる。

 山本一太議員「あのですね、この記事について、日本側が中国に脱北者を保護しない、まあ、とにかく外から連れ、あのー、オー、あのー、引っ張り込んだりしないという誓約書を出したかどうかっていうことをお聞きしてるんです。

 大臣ね、これは、あらゆる常任委員会の中で最も大事な外交防衛委員会ですから、私、いつもそう思って出席していますから。

 この政府の対応について、ここでこれからするべきものではないって、どういうことなんですか。誓約書を出したのか、出さなかったのかっていうのは、これは日本の対中外交の対、にとって、大事なことですよ。

 答えてください、明確に」
  
 玄葉外相「やはりここはですね、いや、ここはやはり、関係国との、おー…、やはり、まさに相手国との関係がありますから、やはり、そういった遣り取り、イー…、全体をですね、えー、こういった場で申し上げると、いうわけにはいきません」

 中国側が要求する脱北者取締まりを受け入れ、脱北者の人権を売り渡して日本のどのようなメリットがあるかというと、日本の立場を良くしたということぐらいではないのか。断った場合に発生可能となる中国人船長逮捕時のような中国側の対日経済圧力を避けるというメリットを考えていたのだろうか。

 山本一太議員「あのね、誓約書を提出したかどうか言えないっていうのは誓約書ね。まるで大臣、こういう場所で色々あるから言えないっていうのは、それは、これは事実だって言っているみたいに聞こえますよ、ね。

 脱北者保護をやらないっていうのは、日本政府としてやらないって言ったんだから。それでこれについて言えないって言ったら、では、事実でなければ事実でないって言えばいいでしょう。

 これはもし事実だとしたら、今大臣のおっしゃった、脱北者を保護しないって言うことは、日本政府としてやらないっていうことに矛盾しますが、どうでしょうか」
  
 玄葉外相「ですから、当然中国政府との関係って、やはり、中国に於ける脱北者との関係では大事なので、色々遣り取りもありますよ。

 だけど、冒頭私が断言申し上げたように、中国からの脱北者の受け入れを日本が行わないなんていうことは絶対にございません。そのことだけは、もう、断言を申し上げます」

 いくら断言を申し上げられても、日本の大使館、領事館の類に脱北者が保護を求めてきたなら公館内に保護して、脱北者が意思する国への出国に努める、それが日本であった場合は日本に今後共受け入れると断言申し上げていないのだから、断言自体が信用できないものとなっている。

 大体が語るに落ちる形で誓約書の提出を自ら認めている。「当然中国政府との関係って、やはり、中国に於ける脱北者との関係では大事なので」と、「中国に於ける脱北者との関係」よりも「中国政府との関係」を「大事」だと上に置いている。

 脱北者の人権よりも中国政府との関係を優先させたということであろう。何という弱腰な人権意識だ。

 山本一太議員「もう一回聞きます。じゃあ、この誓約書、を提出したかどうかってことについては、外務大臣、この外交防衛委員会では答えられないっていうことですね」

 玄葉外相「あの、いずれにしても、言えることは、脱北者の受け入れを、中国からですね、日本が行わないなどというような誓約書を出したなんていうことは絶対にあり得ません」

 山本一太議員「分かりました。そういう誓約書はないというふうに答弁されたので、きちっと議事録に残ると思います」

 野田訪中延期の追及に移る。

 玄葉外相は「誓約書を出したなんていうことは絶対にあり得ません」と言っているが、脱北者の中国から日本への入国は既に触れたように日本の大使館や領事館、あるいは日本政府主催で何か催事を行なっていた場合の日本政府関係の施設に保護を求めた脱北者に限られるわけではないのだから、日本政府関係の施設に保護を求めてきた脱北者であっても中国政府に引き渡さずに、あるいは施設の扉を閉ざして締め出すといったことをせずに中に入れて保護し、望む国への出国に努力すると言明して初めて誓約相提出否定の証明となる。

 そのような証明となる言明がない以上、最初からの答弁の経緯から見た、「絶対」を「絶対」と受け止めるわけにはいかない状況証拠、これらの傍証として、「中国に於ける脱北者との関係」よりも「中国政府との関係」を「大事」だと上に置いた発言を考えると、玄葉外相のみならず、藤村官房長官や当時外相だった前原政調会長がどう否定しようと、誓約書の存在を事実と見ないわけにはいかないはずだ。

 尖閣諸島領有権問題と中国人船長逮捕事件で菅政権は中国に対して毅然とした態度を示すことができず、中国の圧力に屈した。そのツケが中国をして日本に対して足許を見させ、以上のような人権問題を否定する不合理な行動の受容となって現れたに違いない。

 人権問題にしても、どのような外交問題であっても、常々毅然とした態度で対処していたなら、中国の恣意的な指図を受けることはなかったはずだ。

 これが民主党が言う“柳腰外交”というわけなのだろう。

 外交的に裏で屈していて、野田首相は「対中戦略的互恵関係の進化」だと言う。

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防衛大臣に必要な資質として見た場合の野田首相が言う「政治家としての経験と蓄積、政策能力」とは

2011-12-08 10:58:30 | Weblog

 ―野田首相の沖縄目線からズレた、誠心誠意な党内目線・政局目線一辺倒の一川防衛相擁護なのか―
 
 野党が9日(2011年12月)にも一川防衛相と山岡消費者行政担当相に対する参議院問責決議案提出の構えでいる。対して野田首相は適格・適任として任命したと、大臣としてのその資質を保証・擁護し、保証・擁護することで自身の任命責任を否定している。

 《野田首相:防衛相任命責任「問われぬ」》毎日jp/2011年12月7日 13時49分)

 12月7日午前参院本会議――

 野田首相「政治家としての経験と蓄積、政策能力などを勘案し、適格との判断に基づき任命した。閣僚として職務を着実に遂行しており、任命責任を問われるものではない」

 適材適所の任命であり、立派に働いているじゃないか、私には任命責任はないはずだと言っている。

 既にブログに書いたが、12月2日午前の衆院外務委員会でも同じような趣旨の答弁を行なっている。

 野田首相「政治経験や知見を含め、適材として私が防衛相に選んだ。その気持ちは変わらない。緊張感を持って職務に当たってもらいたい」

 だが、この3日後の12月5日、衆院予算委員会発言は微妙に変えている。《野田首相:防衛相の更迭拒否 本人も辞任否定》毎日jp/2011年12月5日 13時19分)

 野田首相(一川保夫防衛相の進退問題について)「これまで以上に襟をただして職責を果たしてほしい。

 (一川防衛相が1995年の沖縄少女暴行事件を「詳細には知らない」と国会答弁したことに関して)詳細を(公の場で)語ることが適切ではないとの判断があったのでは。

 (任命責任について)ゼネラリストとしての政治家の資質を考えて適材適所で選んだ」

 「ゼネラリスト」とは「様々な分野の知識や能力を持っている人材」を言う。いわば防衛大臣として特段の資質を備えたスペシャリストではないかもしれないが、多方面に亘る知識や能力を持っているから任命したということになる。

 ここには一種の責任回避意識、誤魔化しがある。ゼネラリストとしての資質を備えていたとしても、それが防衛大臣として必要とされる能力発揮に反映され役立ち、その役目を十二分に消化できなければ、ゼネラリストとしての資質は意味を失うはずだが、このことを省いて、ゼネラリストであることを以って防衛大臣として適材適所だとしているからだ。

 要はゼネラリストとしての資質が防衛大臣という初めての役割に対応できる応用能力を持っているかどうかにかかっている。

 果たして応用能力化していると言えるのだろうか。

 12月1日の参院東日本大震災復興特別委員会で佐藤正久自民党議員から「1995年の米兵による少女暴行事件をご存じですか」と質問を受け、一川防衛相は「正確な中身は詳細には知っておりません」と答弁。そう答弁したことを仲井真沖縄県知事との会談の席で、「国会の公式な場で詳細に説明する事案ではないという思いで、ああいう発言になってしまい、おわび申し上げなければならない」と釈明。

 今度はその釈明を言い逃れと解釈され、政治家としての資質になお一層の疑問符を突きつけられることとなった。 

 佐藤正久議員「そんなことで、沖縄の人に寄り添って解決をできる訳がないですよ。大臣の緊張感、ガバナンスが問われている」

 防衛大臣として普天間移設問題で沖縄県民と全面的に関わらなければならない以上、日本政府の決定事項である米軍基地の存在とその決定の歴史(敗戦も米への施政権委譲も日本政府の決定事項に入る)を背景とした沖縄が歴史的に過去と現在をつなげて置かれている状況に対する理解と知識は責任大臣として欠かすことのできない習得の一大要素となっているはずである。

 繰返しになるが、野田首相が言っている「ゼネラリストとしての資質」は沖縄という特定分野の理解と知識の資質へと高めていかなければならないということである。

 このことは防衛大臣就任と同時に取り掛からなけれならなかった務めでもあったはずだが、務めとしていなかったことは12月6日の参院外交防衛委員会で佐藤議員から再度試され、露見することとなった。《防衛相、主要課題で立ち往生 参院外交防衛委、批判拡大も》中国新聞/2011/11/12/6)

 明治政府が琉球王国を併合し、沖縄県を設置した琉球処分に関する質問である。記事は、〈沖縄県民の政府不信の底流ともなっているとされる。〉と解説している。

 佐藤議員「琉球処分についてはどんな見解を持つか」

 一川防衛相「事前に通告がない」

 質問通告がなかったからと、答弁を避けた。

 質問通告がなかったとしても、知識としていたなら、答弁したはずだ。沖縄理解のモノサシとなるからだ。

 記事は書いている。

 〈このほか、自民党の宇都隆史氏が航空自衛隊の次期主力戦闘機(FX)選定に絡み、老朽化が進むF4戦闘機から機種更新を終える時期を質問した際も一川氏は答弁に立てず。福山哲郎委員長が「政務三役の誰でもいいから」と促したが、結局誰も答弁しなかった。

 政府が陸上自衛隊を派遣する南スーダンでの国連平和維持活動(PKO)についても、一川氏はPKO参加5原則に規定された「紛争当事者」が誰かを問われ「聞いていない」と答弁。藤村修官房長官が「今回、紛争当事者はいない」とフォローしたが、続いて質問に立った公明党の山本香苗氏は「防衛相の答弁は聞くに堪えない」と指摘した。〉・・・・・

 そして12月7日の参院決算委員会。前原政調会長が一川防衛相のことを「勉強不足が過ぎる」と批判したことについて加藤修一公明党議員が、問い質す。《一川防衛相:「すべて勉強するのは不可能」 参院決算委》毎日jp/2011年12月7日 21時17分)

 一川防衛相「確かに私自身もいろんなことをすべて勉強することは不可能だ」

 防衛大臣を拝命した以上、沖縄及び米軍基地問題のスペシャリストにならなければならないはずだが、ゼネラリストを脱してスペシャリストになろうとする努力さえ放棄した。

 野田首相の12月7日午前の参院本会議での発言に戻って、その妥当性・正当性を考えてみる。

 野田首相「政治家としての経験と蓄積、政策能力などを勘案し、適格との判断に基づき任命した。閣僚として職務を着実に遂行しており、任命責任を問われるものではない」・・・・・

 「政治家としての経験と蓄積、政策能力」は政治的創造性のみならず、豊かな人間性を得て初めて体得し得る。

 政治家に人間性を求めるのはない物ねだりだと言うなら、少なくとも豊かな人間味を求めなければならない。

 豊かな人間味を欠いた政治家は二律背反そのものである。なぜなら、「国民のみな様のため」という言葉を使わない政治家は存在しないだろうから、「国民のみな様のため」という言葉を使う政治家が人間味を欠いていたなら、二律背反どころか、滑稽な倒錯そのものである。

 「国民のみな様のため」と言いながら、自身の利益のために動く政治家こそが人間味を欠く資格を有する。

 豊かな政治的創造性と豊かな人間性、あるいは豊かな人間味を裏打ちとした「政治家としての経験と蓄積、政策能力」の保持を前提として、では、特に防衛大臣として必要な政治的資質とは何を言うのだろうか。

 安全保障に関する知識、軍事に対する知識、特に普天間問題を抱えるゆえに沖縄に関する深い歴史認識、基地問題に関わる沖縄県民の認識に関する理解と知識等々であろう。

 この理解と知識に関しては既に次のように書いた。「日本政府の決定事項である米軍基地の存在とその決定の歴史(敗戦も米への施政権委譲も日本政府の決定に入る)を背景とした沖縄が歴史的に過去と現在をつなげて置かれている状況に対する理解と知識」だと。

 野田首相が「政治家としての経験と蓄積、政策能力などを勘案し、適格との判断に基づき任命した」と断言できるのは、一川防衛相が上記要素をすべてクリアしていると看做していた場合である。

 安全保障知識、軍事知識、沖縄歴史認識、沖縄感情理解に卓越し、なおかつ豊かな政治的創造性と豊かな人間味に恵まれた政治家だと。

 だが、国会答弁や記者会見で露わにした一川防衛相の存在性からは逆の姿しか見えてこない。

 にも関わらず、野田首相はブレも揺るぎもなく一川擁護に動き、自身の任命責任無しとしている。

 このことはマスメディアの間で盛んに言われている、一川氏が小沢氏に近い輿石幹事長の推薦で防衛大臣となったこと、更迭した場合、輿石幹事長の名誉を傷つけ、求心力を失わせかねないこと、一川氏が小沢グループに属していて、容易には退任に追い込むことができないこと、そういった党内力学と一人の閣僚辞任がドミノ式に連鎖する危険性が生じかねない政局力学を抱えていることからの擁護だと。

 このことが事実だとしたら、本人は否定するだろうが、野田首相は閣僚任命責任者として任命した閣僚の適任性を常時監視する責任と自身の任命判断の的確性を問い続ける責任を有しながら、それらの責任を放棄、沖縄目線に立つのではなく、党内目線・政局目線に立った自己保身優先の閣僚擁護ということになる。

 これも野田首相が言う「誠心誠意」のなせる技なのだろうか。

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野田首相の政治の「最大の拘束力は国民のみなさんが見ているということ」の発言に見る有言不実行性

2011-12-07 10:08:52 | Weblog

 9時に寝て、朝2時か3時に起床する都合から、夜9時以降の見たいテレビ番組は大体は録画して、後日見ることにしている。洋画やバラエティ番組のファンでもあるから、録り溜めが重なって、後日が1週間後となる場合もある。

 2、3日に前に11月28日(2011年)朝日テレビ放送「ビートたけしのTVタックル」の録画を見ていたら、11月20日~23日開催の政策提言型事業仕分けに法的拘束力がない点についての野田首相の発言を伝えていた。

 野田首相「最大の拘束力は国民のみなさんが見ているということ。これが最大の拘束力ではないでしょうか」

 この発言に奇異な感じを受けた。野田首相は、他の首相もそうだが、国民の監視を政治拘束力としていないからだ。特に事業仕分けで国民監視のもと一旦は建設凍結と決めた朝霞公務員宿舎建設再開決定は、国民監視の政治拘束力無効を証明して余りある。

 そのいけ図々しい忘却に、よく言うよ、と思った。

 パソコンに保存してあるWeb記事を検索してみたが、見当たらなかったから、このような発言を伝えた記事そのものに気づかなかったらしい。

 事業仕分けに限らない、政治一般に解釈を敷衍すると、野田首相は政治は国民の監視を拘束力として動くと言った。

 政治に対する国民の監視は世論調査の数値に反映され、目に見える具体的な数値の形を取る。

 世論調査以外には各選挙で票の形を取って反映される。

 だがである。世論調査に於ける内閣支持率が低く、首相の指導力や政策実行能力に評価を与えない場合、国民の監視は政治に対してさしたる拘束力を有していないことの証明としかならない。

 この国民監視の政治に対する非有効性は野田首相の上記言葉の信憑性を真っ向から否定する。

 「最大の拘束力は国民のみなさんが見ているということ。これが最大の拘束力ではないでしょうか」が実体持つ言葉であるなら、既成政党不信・政治不信はこの世に存在しない状況となる。

 いわば野田首相は政治の実情に反することを言った。いや、このように言えるのは合理的は認識能力を欠くからだろう。

 改めてインターネット上から、このことを伝えている記事を検索してみた。《首相、仕分け議論を視察 提言の実現に意欲》日テレNEWS24/2011年11月22日 18:45)

 政策提言型事業仕分け3日目の11月22日午後、野田首相が仕分けの会場を視察。視察終了後、記者団に〈提言の実現に意欲を示した〉と記事は書いている。

 野田首相「外部の目、公開性、そういう中で議論するということは大事だということをあらためて実感しました」

 記者「仕分けには法的拘束力がないが?」

 野田首相「最大の拘束力は国民の皆さまが見ていること。最大の拘束力ではないでしょうか。国民の皆さんの前で議論したこと、出てきた方向性は、政府がしっかり受けとめて、特に予算編成に反映していくことは、あらためて私は各閣僚には指示したい」

 「国民の皆さんの前で議論」は何も事業仕分けだけではない。NHKテレビが国会中継で国会議員と首相及びそれ以下の閣僚との議論を国民の前で展開するし、衆議院、参議院とも国会中継の動画を配信している。

 また新聞、テレビが日々の政治活動を伝えている。様々なメディアを通して国民は政治を監視しているが、政治を律する拘束力足り得てはいない。

 国民監視の政治拘束力に反して政治は反乱しているかに見える。

 記事は結びで、〈仕分けの結果を自らのリーダーシップで形にしていけるか、野田首相の覚悟と実行力が問われることになる。〉と書いているが、政治が国民の監視を政治拘束力としていない以上、期待できない「野田首相の覚悟と実行力」ということになる。

 このブログ記事冒頭で、〈特に事業仕分けで国民監視のもと一旦は建設凍結と決めた朝霞公務員宿舎建設再開決定は、国民監視の政治拘束力無効を証明して余りある。〉と書いたが、建設再開の判を押したのは当時の野田財務相自身なのだから、自分から国民監視の政治拘束力を無効にしたのである。

 自分で朝霞公務員宿舎建設再開の判を押していながら、「最大の拘束力は国民の皆さまが見ていること。最大の拘束力ではないでしょうか」と言える無神経・無感覚、あるいは無認識は、いつも浮かべているあの穏やかな笑顔からは想像できない図々しさがある。

 9月26日(2011年)の衆院予算委員会――

 《朝霞公務員宿舎 平成23年9月26日 衆議院予算委員会 塩崎恭久氏》国会速報さんの「国会審議速報」:イザ!/2011/09/28 19:54 )
  
 塩崎恭久自民党議員「総理、9月1日に、財務大臣最後の日ですよね、一度凍結された、仕分けで凍結された朝霞宿舎の建設にゴーサインを出した。これはあなただということでよろしいですね。総理、総理に、総理がゴーサインを出したということでよろしいですねと聞いているんです」

 野田首相「朝霞の公務員宿舎の件でございますけれども、えー、これはですね――」

 塩崎恭久議員(椅子に座ったまま)「イエスかノーかで結構ですから」

 野田首相「ちょっと待ってください、ちょっと待ってください」

 塩崎恭久議員(椅子に座ったまま)「ゴーサイン出したのあなたですね、という質問ですから」

 野田首相「私を含めて政務三役で決定をさせていただいたのは事実でございます」

 この政務三役決定は2009年11月の第一回事業仕分けで公務員宿舎建設に関して示した結論に従った決定である。《行政刷新会議「事業仕分け」》

 (公務員宿舎建設に関しては)〈ほぼ全員一致して、継続案件で止められるもの、少なくとも土台程度しか出来ていない朝霞等のものも含めて凍結し、政務三役の全体的な議論を待つとの意見となった。その中においては、本当に宿舎の必要な方の数はどうなのかをしっかりと踏まえたうえで、結論を出して頂きたいと考えている。

 よって、当ワーキンググループの結論としては、全体的な議論が行なわれるまでの間、未だ大きく進んでいない継続案件を含めて、凍結とする。〉・・・・・

 要するに建設凍結は「全体的な議論が行なわれるまでの間」であって、建設是非の決定は、「政務三役の全体的な議論を待つ」という解釈となる。

 いわば建設再開か建設中止かの最終決定は政務三役の議論次第だということになる。

 この結論を踏まえた野田首相の「私を含めて政務三役で決定をさせていただいた」ということだから、約束違いとは言えない。

 但し、建設凍結は事業仕分けと大々的に銘打って国民監視のもと行われた。当然、建設再開か建設中止かの最終決定にしても、野田首相が政治拘束力を持つと言っている国民監視のもと、行われて然るべきだが、政務三役のみで行った。主役が政務三役ではなく、財務省なのは誰の目にも明らかだが。

 だとしても、野田首相は国民監視が政治拘束力を約束すると言いながら、その国民監視を無視したばかりか、無視することによって政治拘束力を無効とした。

 この点に約束違反がある。言っていることとやることの違い――有言不実行は目に余るものがある。

 あるいは有言不実行を隠して、実際の姿勢とは異なる立派なことを口にする。

 このような姿勢を以って、「誠心誠意」をモットーとしている。

 自身が判を押した朝霞公務員宿舎凍結解除・建設再開は世論の批判に負けて再度建設凍結となった。中止の見込みだという。

 だが、こういった経緯があったことは野田首相の発言のいい加減さと共に記憶しておくべだろう。

 多くの政治家が政治家の言葉は重いと言う。誰の言葉が重いか、軽いか見極めなければならない。見極めて言葉の軽い政治家を順次排除していかなければ、いつまで経っても政治不信の病根を断つことはできまい。

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野田首相就任3ヶ月目にして早くも飛び出した首相擁護の前原“コロコロ交代忌避発言”

2011-12-06 10:35:14 | Weblog

 民主党の前原誠司政調会長が12月4日(2011年)、大津市で講演、次のように発言したという。《首相交代は国益損ねる=民主・前原氏》時事ドットコム/(2011/12/04-17:16)

 記事は、〈自民、公明両党が野田政権への対決姿勢を強めていることを念頭に政権維持の必要性を強調〉した発言だとしている。

 前原政調会長「(首相が)ころころ代わるのは、どの政権でも海外では腰を据えて話をできない国と思われ、国益を損なうことになる。

 野田佳彦首相をしっかり支え、厳しい意見も頂きながら、日本の政治を前に進めるため努力する」

 民主党に政権交代してから、果たして「日本の政治」が前に進んでいるのだろうか。

 野田首相就任は2011年9月2日。3ヶ月目にして早くも“コロコロ交代忌避発言”が飛び出した。

 前原政調会長の“コロコロ交代忌避発言”は今回が初めてではない。鳩山元首相辞任時も飛び出しているし、特に菅前首相に対して退陣論が噴き出した昨年の民主党代表選前に閣僚、その他が盛んに“コロコロ交代忌避発言”を用いて菅擁護を熱心に唱えた。

 鳩山元首相の場合は普天間の迷走と母親からの多額の資金提供問題、政策秘書による個人献金虚偽記載問題で支持率を下げ、鳩山首相では参院選が戦うことができないと悲観論が飛び出していた頃である。当時前原氏は国交相であった。

 前原国交相「日本のトップがころころと変わるべきではないと思っているし、今の状況は鳩山総理大臣1人の責任ではまったくなく、われわれが共同責任をとるべき問題と考えている」(NHK NEWS WEB
 
 「われわれが共同責任をとるべき問題と考えている」と言いながら、鳩山内閣を受け継いで菅内閣が成立すると、共同責任を取らないままに国交相及び沖縄及び北方対策担当相を留任している。

 そして次の“コロコロ交代忌避発言”は菅首相が2010年7月11日の参院選で民主党が大敗してから、民主党代表を再度問う、小沢氏が対立候補となった代表選の2010年9月14日の間に参院選敗北の責任論とその他発言のブレや実行力・指導力等の資質を問う菅退陣要求論に抗して噴出することとなった。
 
 2010年7月30日国交相記者会見。9月の民主党代表選で管支持を打ち出したことを記者から問われて。

 前原国交相「参議院選挙があって、確かに消費税の発言等もあって敗れはいたしましたけれども、私が民主党の風土を変えていかなければいけないと言うのは、短兵急に結論を求めてお互いの足を引っ張り合っているというそのカルチャーを早く脱しないと、仮に菅さんが辞めても、また何かの問題があったら足の引っ張り合いで、そして結果的にはコップの中で権力闘争をやっているということになって、日本の国を変えるという大きな絵姿を描ける政党に脱皮できないと思いますよ」

 直接的な言葉で「ころころ代わる」ことへの忌避を示してはいないが、「短兵急に結論を求め」ることへの警告はイコール「ころころ代わる」ことへの忌避の提示であろう。

 その他の“コロコロ交代忌避発言”――

 7月29日午前、TBSの番組収録。

 岡田外相「(首相が短期間で代われば)日本の存在感が小さくなりかねない。長い間やってもらいたいと国民も感じている。(菅政権が)スタートしたばかりなのにまた代えるといえば、自民党と一緒だ」

 菅首相が就任したのは2010年6月8日。2010年7月11日の参院選敗北が野田首相の3ヶ月の記録を破るたったの1カ月余で“コロコロ交代忌避発言”を飛び出させるに至ったことになる。

 ということは、記録的には野田首相の3ヶ月は菅首相の1ヶ月余よりもずっとましということになる。

 2010年7月30日――

 北澤防衛相「わが国の政治のためにも、ひと月やふた月で総理大臣が辞めるというようなことはあってはならない」

 野田財務相「トップがころころ変わるのは不安定につながるので、しっかり菅さんを支えたい」(以上NHK NEWS WEB

 野田氏自身が“コロコロ交代忌避発言”を口にしているが、回りまわって今度は自身が前原政調会長によって“コロコロ交代忌避”の対象とされるに至っている。

 2010年8月26日記者会見――
 
 蓮舫行政刷新担当相「菅内閣の一員として、当然菅総理とこの国を支え、この国をつくり、政権交代をした結果というのをしっかりと国民の皆様にお示しをしようと思っております。その意味では、菅さんを支持し続ける、この思いに変わりはありません」

 みん気づいていないと思うが、前任者がコロコロと代わったからこそ、首相になれたというアイロニーを踏んだ登場だということである。菅前首相もそうだし、野田現首相もそうだし、鳩山首相すら、自民党の安倍・福田・麻生がコロコロ代わっていったからこそ可能となったアイロニー的登場だと言える。

 いわば全員が“コロコロ交代”の恩恵を受けている。

 “コロコロ交代”の恩恵を受けている以上、自分だけが長期政権に与(あずか)ろうなんていうのは欲張りに過ぎる。次に対しても “コロコロ交代”の恩恵を与えて、初めてバランスが取れる。

 確かに岡田外相が言っているように短期間の頻繁な首相交代は「日本の存在感が小さくなりかねない」ことになる。

 グレグソン米国防総省東アジア担当次官補の発言がそのことに言及している。2010年7月27日、下院軍事委員会開催日本の安全保障に関する公聴会。

 質問議員「日本で短期間に次々と総理大臣が代わったが、影響はあるか」

 グレグソン次官補「総理大臣や大臣がたびたび交代するので人間関係を築くのがとてもたいへんだ。政府といっても大事なのは個人なので、大臣になった人の仕事の進め方を理解できるようになるまで苦労している」

 呆れ果てて、うんざりすることも度々あるに違いない。結果、前原政調会長が言うように「国益を損なうことになる」

 だとしても、グレグソン次官補が「大事なのは個人」と言っていることは中身を問わない個人を対象にしているわけではなく、有能性を備えた個人を対象にしているはずだ。

 無能性を備えた個人を対象としていたなら、国益はますます失われることになる。

 2010年9月7日付のアメリカのニューヨーク・タイムズ社説。「日本の首相は回転ドアのようにころころ変わる」

 だが、首相の自身の手による内閣運営にしても幹事長や政調会長、その他の党役員を通した与党運営にしても、首相自身の指導性と創造的発想力にかかっている。

 そのことの成果が“コロコロ交代”なのか、長期なのかの結果として現れることになる。

 いわば首相自身の結果責任として自らが招いた“コロコロ交代”だということである。

 前原政調会長にしても、前任者が“コロコロ交代”することによって、自らにも次のチャンスの目が出てくる。

 尤も前原首相ということになったら、最も短い“コロコロ交代”首相になって欲しい一人になるに違いない。

 “コロコロ交代”が日本の国益を損なっていたとしたら、やはり各首相自らが招いた国益の損失であろう。

 “コロコロ交代忌避発言”で首相を擁護するのではなく、首相自身の指導性と創造的発想力を以てして、自らを擁護すべきである。大体が首相擁護の手段がコロコロ交代忌避”のみというのも情けない話ではないか。

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橋下徹「国の形を変える」の可能性の阻害要件は簡単には変わらない日本人の権威主義性

2011-12-05 11:57:22 | Weblog

 5月18日(2011年)、大阪府が府と大阪市の再編を含む都市制度の在り方を検討する「大都市制度室」を設置。橋下府知事が10人の配属職員に次のように訓示した。

 橋本府知事「いよいよ本気で大阪から国の形を変える。形あるものをつくり、問題提起してほしい」(MSN産経

 「大阪から国の形を変える」――意気軒昂である。

 この意気軒昂の思いが一つの確かな形をとった。

 11月27日(2011年)投開票の大阪府知事・市長ダブル選で圧勝した「維新の会」。その代表である新大阪市長となった橋下徹氏は圧倒的勝利の民意をバックに大阪都構想実現に向けた強気の舌戦を開始、政府や国政の与野党に対して実現に向けた協力を求めると同時に協力が得られない場合の国政選挙での維新の会からの独自候補擁立にも言及、アメの誘いとムチのそれとない威しの使い分けで大阪都構想に対する踏み絵を迫った。

 その効果あってのことなのか、政府や与野党幹部から擦り寄る動きが早速出てきている。

 この擦り寄りはかつてお笑いタレントだった東国原英夫が宮崎県知事に立候補、圧倒的勝利を得て、それ以降も高い支持率を維持、一期で県知事を辞任、国政に転ずる意向を示すや、その高い支持率に脅威を感じて自民・民主共に擦り寄りを見せた動きに重なる。

 東国原を獲得した党が選挙で自らの党立候補者の応援演説に東国原を駆り立てた場合、聴衆ばかりか、テレビ報道を経てその人気の高さを見せつけられた有権者が東国原が応援する立候補者だからと投票に動く高い確率の可能性が予想されたからだ。

 維新の会が独自候補を立てた場合、その再現が演じられない保証はないことを与野党共に恐れている。特に既成政党に対する政治不信が高まっている現在の状況は維新の会をより新鮮に映し出し、期待の風を吹かす要因となることは容易に予想できる。

 議席が約束する政治遂行である以上、大阪都構想の実現を国政の立場から担保することを條件に自らの党の人気アップにつなげようと欲求したとしても不思議はない。

 だが、東国原の場合、自民党の総裁の椅子を望み、総選挙に勝利して総理大臣の椅子をと高望みし過ぎたためにその人気に陰りが生じて、反発さえ買うこととなり、ついには萎んで、選挙にすら立候補できなかった。

 橋下徹人気がどういう経緯を辿るかは「大阪都構想」の実現とその機能効用性にかかっている。構想自体が実現したとしても、健全な財政を維持する予算運用や住民サービス向上、大阪経済の復活等に機能効用性を見なかった場合、絵に描いた餅となる。

 いわば人気は政治手腕に裏打ちされることになる。

 大阪都構想とは大阪府、大阪市、堺市を廃止し、新たに大阪都とし、〈現在の大阪市地域の24区を合併し8都区に、堺市は7つの区を3都区に再編。周辺9市も都区とし大阪都20区を新たに設置〉、〈首長には選挙で選ばれる区長を置き、選挙で選ばれる区議会議員による区議会を設置する。〉行政区改変を行い、〈20区内の固定資産税・法人税などの収入を都の財源とし、20区内の水道・消防・公営交通などの大規模な事業は都が行い、住民サービスやその他の事業は20区の独自性に任せる。〉制度だと「Wikipedia」に書いてある。

 この解説からすると、都が区に対して財源再配分の支配権を握ることになる。

 この構造は国が殆どの財源を握って、地方自治体に再配分する現在の構造と重なる。そのヒナ型ということであろう。

 勿論、財源の再配分に限った構造がヒナ型であっても構わない。問題は国と地方が中央集権国家体制のもと、人間関係が支配と従属の権威主義関係にあるということである。

 2006年8月4日の当ブログ記事――《日本人性の反映としてある国と地方の関係》に書いたことだが、国と地方が中央集権国家体制のもと、支配と従属の権威主義関係にあることは橋下大阪府知事当時の発言が証明している。

 《「国と地方は奴隷関係(奴隷側に)公民権を》時事ドットコム/2009年7月8日)

 橋下大阪府知事「国と地方は奴隷関係。(奴隷側に)公民権を。(地方自治体に)拒否権とか議決権を制度として与えてほしい」

 地方自治体首長として実感した「国と地方は奴隷関係」ということだろうが、この言葉は支配と従属の関係と言うよりもきつい表現となっている。

 「奴隷関係」とは人間性をも上下の価値観で計る人間関係を言う。中央政治家と中央官僚を優越的上位に置き、地方政治家と地方役人を劣後的下位に置く人間観である。

 では、なぜ国と地方の間にこういった「奴隷関係」、あるいは支配と従属の関係が生じるかというと、何度もブログに書いてきたことだが、日本人がすべてに於いて、人間までも上下の価値で権威づけて、上が下を従わせ、下が上に従う権威主義性を行動様式・思考様式としているからに他ならない。

 この権威主義的行動様式・思考様式の発動を受けて、国は地方の上に位置しているという思いからだろう、地方支配の意識が働き、結果として「奴隷関係」、あるいは支配と従属の関係が国と地方の人間間に色濃い如実な反映を受けることとなっている。
 
 大阪都が区よりも上の優越的位置に立っているという歪んだ権威づけから、こういった上下・主従関係が大阪都と都下の20区の関係に置き換えられて、そのヒナ型でもあった場合、当然支配下にある区は有形無形の形で大阪都の役人の支配を受けることとなって、財源的にも職務上もその支配の範囲内での活動を余儀なくされて、区の効率性は失われることになる。

 このことは決して根拠のない杞憂だと片付けることはできない。

 橋本新大阪市長はかねがね、「二重行政の解消」を主張している。二重行政の解消は可能だろう。大阪都構想と同様にハコモノづくりに所属する作業だからだ。

 縄張り争いさえなければ、ここは二重行政だから、大阪都に一本化するか、区の専門所管とするか、機械的に整理統合すれば片付く問題である。

 だが、そもそもからして二重行政が生じる原因はその行政に対する権威づけの欲求が存在するからにほかならない。国も地方も職務にまで上下の価値をつけて、価値あるとした職務を自己の権威づけに利用するために手放したくない衝動が生じることになる。

 それが部署部署に於いてもそれぞれに権威づけるから、手放したくない抵抗欲求が殆どの行政に対して、二重行政という形を取ることになる。

 行政改革で総論賛成、各論反対が各省庁で発生するのも同じ構造からであるはずである。効率性よりも一旦権威づけた職務を自己権威の証明として手放したくない欲求が生じる。

 どこでも手放したくない動きが出てくるから、結果として縄張り争いが現れることになる。

 上記当ブログ冒頭に次のように書いた。

 〈日本人がつくる人間関係に関わる体系すべては日本人性に影響を受ける。日本人性から出た制度、組織、慣習を形作る。何事も日本人性の反映を受けて成立・維持していくのだから、それはごく当然な因果性であろう。国と地方の関係に於いても、日本人性がつくり出した力学下にある。〉――

 これは日本人が行動様式・思考様式としている権威主義性を念頭に置いた描写である。

 そして小泉政権が進めていた三位一体改革を『朝日』朝刊が取り上げた06年7月21日の《地方分権 描けぬ道筋》の記事の中で触れている、「現在の分権一括法は、国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え、機関委任事務を廃止した。ただ、地方全体の仕事の7割に相当する部分で国の関与が残り、役割見直しは不十分とされてきた」と解説しているが、分権一括法が目的とした国と地方の関係の「上下・主従」から「対等・協力」への変更は今日に至るまで日本の政治は実現する力を持たなかった。

 橋本徹氏が大阪府知事時代に「国と地方は奴隷関係」と言っていることが何よりの証明であろう。

 この「奴隷関係」から脱するために地方は「地方分権」を今以て叫ばなければならない。

 いわば、日本人が行動様式・思考様式としている、すべてに於いて、人間までも上下の価値で権威づけて、上が下を従わせ、下が上に従う権威主義性を改めることができず、現在も引きずっているということの証明ともなっている「地方分権」の叫びである。

 様々な法律の改定を待たなければならないとしても、支持率や政局への影響度、各政党の維新の会への擦り寄りが起これば、大阪府議会や大阪市議会の勢力図にも影響を与え、大阪都構想は実現に向かうに違いない。

 だが、上下の行政府に於ける権威主義的な支配と従属の関係、上下関係を払拭し、真に民主的で対等な人間関係を築くことができなければ、縄張り争いからの二重行政、行政組織の非効率性、ムダ遣いの要素を残すことになり、真の行政改革、機能効用性をもたせた真の大阪都構想は竜頭蛇尾を宿命づけられることになりかねない。

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物は考えようで、野田首相の一川防衛相任命・玄葉外相任命は最良の適材人事

2011-12-04 08:38:33 | Weblog

 昨日の当ブログ記事――《一川防衛省の沖縄認識と野田首相の対一川人事認識 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、野田首相が「政治経験や知見を含め、適材として私が防衛相に選んだ」とした一川防衛相人事を批判した。

 だが、その批判の舌の根も乾かないうちに防衛相に一川氏を宛てがったのは最良の人事に思えてきた。

 尤も野田首相が最良の人事を行ったという意味ではない。今頃最悪の非適材人事ではなかったかと、後悔と疑心暗鬼に苛まれているかもしれない。

 確かに、「安全保障に関しては素人だが、これが本当のシビリアンコントロールだ」とした就任後の発言といい、沖縄少女暴行事件について「詳細に知らない」と認識不足をさらけ出し、その認識不足を正当化するために「国会の公式な場で詳細に説明する事案ではないという思いで、ああいう発言になってしまった」と弁解したことといい、政治家としての矜持どこにありの疑念を抱かせる。

 政治家としての矜持、大臣としての矜持は、野田首相の「政治経験や知見を含め、適材として私が防衛相に選んだ」という言葉を借りて説明すると、確かな「政治経験や知見」によって担保される。

 底の浅い「政治経験や知見」によってではなく、あくまでも確かな「政治経験や知見」でなければならない。

 もし一川防衛相が確かな「政治経験や知見」を備え、誠実さと沖縄に対する深い理解も兼ね備えた政治家であったなら、頭を下げて普天間の辺野古移設を沖縄県民にお願いに来た場合、その人柄、誠実さに免じて許してしまいそうになる、ときには許さないのは悪いような罪悪感に襲われる気持の揺れに見舞われかねない。

 だが、沖縄に無理解で、ただ単に役目として基地移設に関わっている、発言も態度も不適切な底の浅い「政治経験や知見」の政治家が相手であるなら、反対の気持が揺れることもなく、徹頭徹尾激しい怒りも持ってその政治家と対峙できることになる。

 いわば沖縄及び沖縄県民にとって野田首相の一川防衛相人事は最良の適材人事だということである。

 当然、例え問責決議案が可決されても、辞任せずに生き延びた方が沖縄にとって徹底的に戦いやすい相手となるし、こんな政治家が関わっているということで、普天間の辺野古移設の価値を下げることもできる。

 もう一人、沖縄基地問題で野田首相の最良の適材人事だと評価できる者がいる。玄葉外相である。

 2011年10月27日当ブログ記事――《玄葉外相の、普天間移設「国外、最低でも県外」の鳩山発言は「誤りだった」とする狡猾な責任回避 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で取り上げたが、玄葉外相は10月26日(2011年)の国会答弁で鳩山元首相が2009年衆院選挙中から政権交代後も展開した、普天間の「国外、最低でも県外」の訴えを誤りだとし、本人も誤りだと認めたから、辞任し、責任を取ったと、「国外、最低でも県外」の主張を鳩山元首相一人の責任とした。 

 だが、この責任転嫁論は2008年策定の《民主党・沖縄ビジョン2008》に掲げた、〈日米の役割分担の見地から米軍再編の中で在沖海兵隊基地の県外への機能分散をまず模索し、戦略環境の変化を踏まえて、国外への移転を目指す。〉とした主張と矛盾し、ブログ記事では次のように結論付けた。

 〈安全保障は軍事力だけに負うものではなく、経済力や政治力(=外交能力)によっても左右される総合力として構築しなければならない政策であるゆえに軍事力のみから見た「中国脅威論」には私自身は与しないが、中国の海洋進出が例え新たに現れた最近の安全保障環境の変化であり、危険な徴候であったとしても、以前から経済政策や外交問題と共に長期的展望に立って備えていなければならなかった安全保障政策であり、在沖海兵隊基地の県外・国外移転の《民主党・沖縄ビジョン2008》でなければならなかった。

 だが、玄葉外相は民主党全体の問題であるにも関わらず、普天間基地移設先の「国外、最低でも県外」の鳩山発言を「誤りだった」と鳩山元首相のみの責任に帰している。

 あまりにも狡猾に過ぎる責任回避ではないだろうか。〉・・・・・

 玄葉外相は質問者から矛盾を突かれて、「ちょっと2008年の話(「民主党・沖縄ビジョン2008」)をですね、出来れば、改めて文書をチェックさせていただいて、お答えさせていただければというふうに思っております」と追及を逃れているが、民主党の沖縄政策を盛り込んだ、当然長期的展望に立っているはずの「文書をチェック」しなければ満足な答弁ができないということ自体が一川防衛相同様の不勉強の証明であって、野田首相の最良の適材人事の一つに加えることができる。

 この結末を「MSN産経」記事――《【名言か迷言か】玄葉外相の苦しい弁明 沖縄ビジョンとマニフェストの関係って?》(2011.12.3 18:00)が伝えている。 
  
 12月2日(2011年)の衆院外務委員会。質問者は10月26日と同じ河井克行自民党衆院議員。

 河井自民党議員「沖縄ビジョンが問題で、これで鳩山政権が終わると思ったのか。それなら(10月26日の答弁と)話が違う」

 玄葉外相「沖縄ビジョンでそういう(県外の)方向が出されていたのは承知している。一方であのときのマニフェスト(政権公約)には県外と書いていなかった」

 記事の解説。〈しかし、この釈明には無理がある。それでは民主党にとって沖縄ビジョンとは何だったのか。〉

 玄葉外相は2009年策定の衆院マニフェストに「県外と書いてなかった」からとすることで、党を挙げて策定したはずの「民主党・沖縄ビジョン2008」に掲げた「県外・国外移転」を否定したのである。矛盾を通り越して、詭弁そのものの言い抜けであろう。

 記事はさらに次のことも書いている。12月2日の外務委員会。

 野田首相「マニフェストには(県外と)書いていない。選挙直前に党代表(鳩山氏)が発言したわけだからそれは極めて重い」

 記事はこの発言を、〈玄葉氏を擁護した〉ものとしているが、答弁の前半は確かに玄葉擁護だが、後半は党代表の発言だから、党の政策であるという意味であって、マニフェストには書いてないにも関わらず、党代表が発言したことで党の政策となったということは、野田首相も玄葉外相と同様に鳩山元首相一人に責任を転嫁する詭弁そのものであろう。

 また野田首相も「マニフェストには(県外と)書いていない」とすることで「2009年民主党マニフェスト」の1年前に策定した「民主党・沖縄ビジョン2008」に掲げた「県外・国外移転」を否定する自らの矛盾に気づいていない。

 この野田首相あっての一川防衛相最良適材人事であり、玄葉外相最良適材人事ということなのだろう。

 沖縄にとっては軽蔑に値する、闘い甲斐のある面々であり、適材人事ではないか。

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一川防衛相の沖縄認識と野田首相の対一川人事認識

2011-12-03 08:51:54 | Weblog

 11月28日(2011年)――那覇市、田中防衛省沖縄防衛局長と本土・沖縄の報道陣との夜の非公式の懇談会。

 記者「米軍普天間飛行場代替施設建設の環境影響評価(アセスメント)評価書年内提出問題で一川保夫防衛相が『年内に提出できる準備をしている』と言っているのみで、年内提出実施の明言を避けていることはなぜか」(といった言葉遣いをしたのだろうと想像)

 田中防衛局長「犯す前にこれから犯すとは言わない」

 「犯す」とは米軍辺野古基地建設を日本政府による沖縄に対する暴力的侵害・蹂躙だと象徴的に把えた表現ではあるまい。そこまでの意図も認識もなかったろうが、沖縄側からしたら、実態的な象徴に相当すると言えないことはない。

 12月1日(2011年)――参院東日本大震災復興特別委員会。 

 佐藤正久議員「1995年の米兵による少女暴行事件をご存じですか」

 一川防衛相「正確な中身は詳細には知っておりません」

 佐藤正久議員「そんなことで、沖縄の人に寄り添って解決をできる訳がないですよ。大臣の緊張感、ガバナンスが問われている。

 普天間移転が来年の夏までに決まらなかったら固定化すると、審議官級で決まっているとの話まであるが、政治主導はどうなっているのか。

 一川防衛相「決めていないし、承知していない」

 (佐藤正久オフィシャルページ「自衛隊の除染活動の非代替性とは」から。)

 「沖縄タイムズ」の記事では、佐藤議員の「そんなことで、沖縄の人に寄り添って」云々の発言の前に田中防衛局長の不適切発言で、「沖縄の人は皆、暴行事件を思い起こした」の言葉が付け加えられている。

 沖縄の長年に亘る米軍基地過重負担は沖縄に対する暴力的侵害・蹂躙でもあり、その暴力性が凝縮且つ露骨な形で個人に振り向けられた象徴的出来事として少女暴行事件があった。

 一川防衛相は沖縄の米軍基地問題・安全保障問題に関わっている以上、沖縄の戦争と基地負担の歴史を詳細に認識しているべきだった。

 認識していて、初めて沖縄問題に関わる資格を得ることができたはずだ。

 12月2日午前(2011年)――衆院外務委員会。野田首相の一川保夫防衛相に対する監督責任ついて。

 野田首相「政治経験や知見を含め、適材として私が防衛相に選んだ。その気持ちは変わらない。緊張感を持って職務に当たってもらいたい」MSN産経

 野田首相自らが一川防衛相の政治経験と知見に太鼓判を押して防衛大臣としての適材性を保証、自らの人事能力の正当性を、相当に自信があったからなのだろう、安全運転を心がけている割にはその姿勢に反して正面きって主張した。

 12月2日夜(2011年)――田中防衛局長の不適切な発言を謝罪するために沖縄を訪れた一川防衛省が仲井真沖縄県知事と会談。

 《一川防衛相 沖縄県知事に謝罪》NHK NEWS WEB/2011年12月2日 19時31分)

 一川防衛相「心からおわび申し上げたい。私自身、大変なショックを受けたし、県民の心を傷つけた、ゆゆしき出来事であり、まったく不適切で許し難い発言だ。これまで積み上げてきた沖縄との信頼関係を損なう内容をはらんでおり、信頼を回復するのは並大抵のことではないが、県民におわび申し上げながら、引き続き自衛隊・防衛省の任務に理解を頂きたい」

 12月1日の参院東日本大震災復興特別委員会で少女暴行事件について「正確な中身は詳細には知っておりません」と答弁したことについて。

 一川防衛相国会の公式な場で詳細に説明する事案ではないという思いで、ああいう発言になってしまい、おわび申し上げなければならない。

 ただ、アメリカ軍の整理・縮小につながった痛ましい事件だということは十分承知している。私自身、負担軽減を着実に実行できるよう全力投球していきたい」

 仲井真県知事「前局長の発言は県民の尊厳・気持ちを深く傷つけるもので、怒りを覚えるような内容だ。極めて、極めて、遺憾だとしか申し上げようがない。信頼回復に全力を挙げてもらいたいが、かなり厳しいものがある。こういう雰囲気を、ぜひ野田総理大臣にも伝えてもらいたい」

 仲井真知事は余程不快感に襲われていたのだろう、「きょうのところは、これだけにしておきましょう」と言って、8分余りで会談を切り上げたという。

 仲井真県知事(会談後の記者会見)「県民に強い衝撃を与えた大きな事件だったので、そういうものへの認識はきちんと持って頂きたいとしか申し上げようがない。そうした認識を持っているかどうかはご自身の問題だ」・・・・・

 「ご自身の問題だ」とは本人の政治的資質や政治的人格の問題だという意味であろう。

 一川防衛相は田中防衛局長の発言に「私自身、大変なショックを受けた」と言っているが、沖縄が一川防衛相の発言に「大変なショック」を受けていることにまで目を向けることができないでいる。

 「県民の心を傷つけた、ゆゆしき出来事であり、まったく不適切で許し難い発言」だとは一川防衛相の少女暴行事件に関しての「正確な中身は詳細には知っておりません」の発言にそっくりお返しできる批判・憤りとなることに鈍感にも気づいていない。

 問題発言はこのことだけで終わらない。

 国会で少女暴行事件を「正確な中身は詳細には知っておりません」と答弁したことについての釈明として、「国会の公式な場で詳細に説明する事案ではないという思いで、ああいう発言になってしまい、おわび申し上げなければならない」と言っている。

 いわば少女暴行事件について「詳細」に知っていたことになる。「詳細」に知っていたが、「国会の公式な場で詳細に説明する事案ではない」ために、「正確な中身は詳細には知っておりません」という答弁になったと。

 矛盾そのものの論理としか言えない。

 事実、「国会の公式な場で詳細に説明する事案ではない」なら、佐藤議員から質問を受けた国会の場で指摘すべき「国会の公式な場で詳細に説明する事案ではない」であるはずである。

 一川防衛相が仲井真知事との会談で正直に自身の無知を告白し、謝罪していたなら、まだ救われたのではないだろうか。

 また、少女暴行事件が「アメリカ軍の整理・縮小につながった痛ましい事件だということは十分承知している」と発言している。

 確かに那覇市議会が被害者らへの謝罪と基地縮小、日米地位協定の抜本的見直しを求める抗議決議を行ってはいるが、「痛ましい事件」「アメリカ軍の整理・縮小につながった」と政府及び米軍の利害の点からのみ評価している。

 沖縄の基地負担で受けている苦痛・苛立ち・疑問に対する視点がどこにも見当たらない。 
 
 一つ一つの記憶は薄れても精神の底に沈んで溜まった澱(おり)となって残っていて、その総量は私自身も含めた本土の人間の想像を遥かに超える大量のマグマに達しているはずで、不適切な発言一つで、その澱が掻き乱され、記憶を刺激して、激しい怒りや苛立ち、疑問を覚醒させる経緯を取らせた防衛局長の発言や防衛相の態度であったはずだが、一川防衛相からは人間心理への理解を欠いている姿しか浮かんでこない。

 これが野田首相が太鼓判を押した一川防衛相の“政治経験と知見”であり、防衛大臣に任命した野田首相自身の、自ら正当性を主張した人事認識というわけである。

 野党が参院で一川防衛相に対して問責決議案を提出し、それが可決された場合、当然野田首相の任命責任は問われることになる。

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野田首相の記者会見発言、「日中がまさに戦略的互恵関係である」に見る安全保障上の矛盾

2011-12-02 08:35:18 | Weblog

 昨日(2011年12月1日)の首相官邸での首相記者会見で中国との戦略的互恵関係について記者との間に質疑応答があった。

 《野田首相記者会見》

 李ビョウ「香港フェニックステレビの李ビョウといいます。日中関係についてお伺いしたいんですが、総理はかねてから日中関係を形だけではなく、率直に話し合うべき、の関係にしなければならないとおっしゃっていました。率直にお伺いしますが、安倍政権の時から戦略的互恵関係が構築されて以来、近年、日中間の首脳同士で、あくまで戦略的互恵関係の確認をしているだけに見受けられます。

 総理の訪中は、今回どのようなことを中国に提案していきたいとお考えなのか、それから東シナ海の共同開発など、南シナ海の海上安全保障の利益なども含めて、お考えをお伺いしたいんですが」

 野田首相「戦略的互恵関係を確認しているだけだというお話がございました。私は、日中がまさに戦略的互恵関係である。これはだから、もっと平たい言葉で言うと、共存共栄の関係であると、ウィン・ウィンの関係であるという、この大原則、大局観に立って確認し合うことは大事じゃないでしょうか。

 時折困難な問題が起こりますけれども、そういう問題を乗り越えていくためにも、大局的には戦略的互恵関係が必要であるということを首脳間で確認し合うということは、私はとても大事な作業だと思っております。それを踏まえて、ホノルルでは胡錦濤主席と、バリでは温家宝首相とお会いしたときにも、この議論はさせていただきました。

 私にとっては中国の発展、私というか日本にとってですね、中国の発展はチャンスであると。そして戦略的互恵関係を深化させていくということは、日中間のこの2国間の関係だけではなくて、地域やあるいは世界の平和、安定、繁栄に大きく貢献するんだと。その認識をお互いに共有をするということはとても大事だと思います。その上で、今月にも訪中する予定とさせていただいておりますが、その戦略的互恵関係を深化させるための具体的な議論をしていきたいと思います」・・・・・

 香港フェニックステレビの女性記者は「近年、日中間の首脳同士で、あくまで戦略的互恵関係の確認をしているだけに見受けられます」とその形式的関係を言い、野田首相はこのことを否定し、「日中がまさに戦略的互恵関係である」と実質的にこの関係を築いていると断言している。

 「共存共栄の関係」にあり、「ウィン・ウィンの関係」にあると。

 いわば共に成り立ち、共に利益を分かち合う緊密な関係にあると。

 「日中がまさに戦略的互恵関係である」と主体を「が」で表現し、「日中はまさに戦略的互恵関係である」と言わなかったのは、日中が「戦略的互恵関係」の見本であるという意味を込めたからだろう。日中=戦略的互恵関係そのものであるとした。

 この日中の戦略的互恵関係を以てして「地域やあるいは世界の平和、安定、繁栄に大きく貢献」していくとした。

 だが、ここにウソがある。

 日中が戦略的互恵関係にあるのは、あるいは共存共栄の関係、ウィン・ウィンの関係にあるのは両国の経済の点のみのことであって、政治・外交・軍事の面では決して戦略的互恵関係にもないし、共存共栄の関係にもないし、ウィン・ウィンの関係にあるわけでもない。

 中国は政治・外交・軍事の面で日本のアジアでの主導権を許すまいとしている。勿論、国際政治の舞台での中国を上回る主導権を獲得させまいとしている。

 だから、日本の国連常任理事入りをあの手この手を使って妨害した。日本が常任理事入りを果たして世界に向かって政治的な影響力を増大させることを忌避している。

 日本に残されている選択肢は経済的な活路のみである。

 中国は政治・外交・軍事の面で独り立ちしているが、日本はそのいずれの面でもアメリカのバックアップなしには独り立ちできないでいる。

 少なくとも現時点に於いては政治・外交・軍事の面では日本は米国と共に中国との戦略的互恵関係によってではなく、軍事的な対中国封じ込めによって「地域やあるいは世界の平和、安定、繁栄に大きく貢献」すべく策している。

 普天間基地の沖縄県内移設はそのための一環であろう。

 日本政府が沖縄の意思に反して日米合意に基づいて普天間基地の辺野古移設を目指しているのは主として対中軍事的戦略上の必要性からなのは言を俟たない。

 もし日本が中国との間に経済のみではなく、政治・外交・軍事の面でも戦略的互恵関係を結んでいたなら、アメリカは新たにオーストラリアに軍事基地を設ける計画を立てずに済んだだろうし、野田首相もそのことに対して、「米国がアジア太平洋地域で存在感を高めるのは歓迎する」と発言する必要も生じなかったはずだ。
 
 また10月30日(2011年)に英フィナンシャルタイムズのインタビューに応じて、「残念ながら中国が不透明な形で国防費を増やし続けている。日本周辺の安全保障環境に不確実性が生じている」(中央日報)と発言する必要も生じなかったに違いない。

 この発言自体が政治・外交・軍事の面では中国との間に戦略的互恵関係を築いていないことの証明となっている。

 上記「中央日報」が記事の中でも伝えているが、野田首相が10月16日(2011年)の航空観閲式に臨んで、次のように中国に関して言及していることも政治・外交・軍事の面での中国との戦略的互恵関係が真正な形を整えていないことの証明となる。

 野田首相「挑発的な行動を繰り返す北朝鮮の動き、軍事力を増強し続け周辺海域において活発な活動を繰り返す中国の動き、我が国を取り巻く安全保障環境は不透明さを増しております。

 こういう時こそ、昨年の12月に閣議決定した新しい『防衛計画の大綱』に則り、迅速且つ機動力を重視した動的防衛力の整備が喫緊の課題であります。そのためにも、より一層の諸君の精励をお願いいたします」

 対北・対中対象の限られた装備での機動性・臨機応変性の向上を唱えている。この発言からは戦略的互恵関係など影も形も感じさせない。
 
 政治・外交・軍事の面でも日中が真に戦略的互恵関係を築いていたなら、尖閣諸島近海での中国艦船による挑発行為は起きはしない。

 要するに野田首相だけではなく、日本は「戦略的互恵関係」という言葉に経済面だけではなく、政治・外交・軍事の面まで含めてそういった関係にあるかのように誤魔化しているに過ぎない。結果として「戦略的互恵関係」という言葉と中国に対して軍事的に警戒心を示す言葉を状況に応じて使い分けることとなっている。

 この見方からすると、香港フェニックステレビの女性記者が言った「近年、日中間の首脳同士で、あくまで戦略的互恵関係の確認をしているだけに見受けられます」の指摘は正しく、野田首相の発言はマヤカシに過ぎないということになる。

 もし野田首相自身が言っている「日中がまさに戦略的互恵関係である」がウソ偽りのない正真正銘の実質性に基づいた発言だとするなら、少なくとも対中国に関しては普天間基地の県内辺野古移設を必要としない安全保障環境となっていなければならない。

 中国との戦略的互恵関係は国益維持の方便に過ぎない、今後の構築が課題だとするなら、自らの政治能力をフルに発揮して、沖縄に米軍基地を必要としない対中戦略的互恵関係の実現に向けて努力すべきだろう。

 だが、一方で中国との戦略的互恵関係を言いながら、一方で安全保障上の地理的優位性を唱えて沖縄での米軍事力のプレゼンスの必要性を前面に押し出した対中軍事的牽制に血眼になっている。

 この矛盾を解かない限り沖縄の基地負担軽減はあり得ないはずだ。

 中国に対して政治・外交・軍事の面でも戦略的互恵関係を構築できなければ、沖縄の基地負担は継続するばかりか、最悪、逆に増加する危険性を抱えることになる。

 野田首相は中国とは戦略的互恵関係にあるとすることの矛盾、あるとしながら、沖縄に対中牽制の米軍事力のプレゼンスの必要性を唱えることの矛盾に気づいていて、日本の安全保障政策に取り組んでいるのだろうか。

 あくまでも矛盾を解くことが求められるはずだ。

 この矛盾に気づいていないままであったなら、例え訪中して中国の国防費の透明性を求めたとしても、さして意味はなさないに違いない。

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