防衛大臣に必要な資質として見た場合の野田首相が言う「政治家としての経験と蓄積、政策能力」とは

2011-12-08 10:58:30 | Weblog

 ―野田首相の沖縄目線からズレた、誠心誠意な党内目線・政局目線一辺倒の一川防衛相擁護なのか―
 
 野党が9日(2011年12月)にも一川防衛相と山岡消費者行政担当相に対する参議院問責決議案提出の構えでいる。対して野田首相は適格・適任として任命したと、大臣としてのその資質を保証・擁護し、保証・擁護することで自身の任命責任を否定している。

 《野田首相:防衛相任命責任「問われぬ」》毎日jp/2011年12月7日 13時49分)

 12月7日午前参院本会議――

 野田首相「政治家としての経験と蓄積、政策能力などを勘案し、適格との判断に基づき任命した。閣僚として職務を着実に遂行しており、任命責任を問われるものではない」

 適材適所の任命であり、立派に働いているじゃないか、私には任命責任はないはずだと言っている。

 既にブログに書いたが、12月2日午前の衆院外務委員会でも同じような趣旨の答弁を行なっている。

 野田首相「政治経験や知見を含め、適材として私が防衛相に選んだ。その気持ちは変わらない。緊張感を持って職務に当たってもらいたい」

 だが、この3日後の12月5日、衆院予算委員会発言は微妙に変えている。《野田首相:防衛相の更迭拒否 本人も辞任否定》毎日jp/2011年12月5日 13時19分)

 野田首相(一川保夫防衛相の進退問題について)「これまで以上に襟をただして職責を果たしてほしい。

 (一川防衛相が1995年の沖縄少女暴行事件を「詳細には知らない」と国会答弁したことに関して)詳細を(公の場で)語ることが適切ではないとの判断があったのでは。

 (任命責任について)ゼネラリストとしての政治家の資質を考えて適材適所で選んだ」

 「ゼネラリスト」とは「様々な分野の知識や能力を持っている人材」を言う。いわば防衛大臣として特段の資質を備えたスペシャリストではないかもしれないが、多方面に亘る知識や能力を持っているから任命したということになる。

 ここには一種の責任回避意識、誤魔化しがある。ゼネラリストとしての資質を備えていたとしても、それが防衛大臣として必要とされる能力発揮に反映され役立ち、その役目を十二分に消化できなければ、ゼネラリストとしての資質は意味を失うはずだが、このことを省いて、ゼネラリストであることを以って防衛大臣として適材適所だとしているからだ。

 要はゼネラリストとしての資質が防衛大臣という初めての役割に対応できる応用能力を持っているかどうかにかかっている。

 果たして応用能力化していると言えるのだろうか。

 12月1日の参院東日本大震災復興特別委員会で佐藤正久自民党議員から「1995年の米兵による少女暴行事件をご存じですか」と質問を受け、一川防衛相は「正確な中身は詳細には知っておりません」と答弁。そう答弁したことを仲井真沖縄県知事との会談の席で、「国会の公式な場で詳細に説明する事案ではないという思いで、ああいう発言になってしまい、おわび申し上げなければならない」と釈明。

 今度はその釈明を言い逃れと解釈され、政治家としての資質になお一層の疑問符を突きつけられることとなった。 

 佐藤正久議員「そんなことで、沖縄の人に寄り添って解決をできる訳がないですよ。大臣の緊張感、ガバナンスが問われている」

 防衛大臣として普天間移設問題で沖縄県民と全面的に関わらなければならない以上、日本政府の決定事項である米軍基地の存在とその決定の歴史(敗戦も米への施政権委譲も日本政府の決定事項に入る)を背景とした沖縄が歴史的に過去と現在をつなげて置かれている状況に対する理解と知識は責任大臣として欠かすことのできない習得の一大要素となっているはずである。

 繰返しになるが、野田首相が言っている「ゼネラリストとしての資質」は沖縄という特定分野の理解と知識の資質へと高めていかなければならないということである。

 このことは防衛大臣就任と同時に取り掛からなけれならなかった務めでもあったはずだが、務めとしていなかったことは12月6日の参院外交防衛委員会で佐藤議員から再度試され、露見することとなった。《防衛相、主要課題で立ち往生 参院外交防衛委、批判拡大も》中国新聞/2011/11/12/6)

 明治政府が琉球王国を併合し、沖縄県を設置した琉球処分に関する質問である。記事は、〈沖縄県民の政府不信の底流ともなっているとされる。〉と解説している。

 佐藤議員「琉球処分についてはどんな見解を持つか」

 一川防衛相「事前に通告がない」

 質問通告がなかったからと、答弁を避けた。

 質問通告がなかったとしても、知識としていたなら、答弁したはずだ。沖縄理解のモノサシとなるからだ。

 記事は書いている。

 〈このほか、自民党の宇都隆史氏が航空自衛隊の次期主力戦闘機(FX)選定に絡み、老朽化が進むF4戦闘機から機種更新を終える時期を質問した際も一川氏は答弁に立てず。福山哲郎委員長が「政務三役の誰でもいいから」と促したが、結局誰も答弁しなかった。

 政府が陸上自衛隊を派遣する南スーダンでの国連平和維持活動(PKO)についても、一川氏はPKO参加5原則に規定された「紛争当事者」が誰かを問われ「聞いていない」と答弁。藤村修官房長官が「今回、紛争当事者はいない」とフォローしたが、続いて質問に立った公明党の山本香苗氏は「防衛相の答弁は聞くに堪えない」と指摘した。〉・・・・・

 そして12月7日の参院決算委員会。前原政調会長が一川防衛相のことを「勉強不足が過ぎる」と批判したことについて加藤修一公明党議員が、問い質す。《一川防衛相:「すべて勉強するのは不可能」 参院決算委》毎日jp/2011年12月7日 21時17分)

 一川防衛相「確かに私自身もいろんなことをすべて勉強することは不可能だ」

 防衛大臣を拝命した以上、沖縄及び米軍基地問題のスペシャリストにならなければならないはずだが、ゼネラリストを脱してスペシャリストになろうとする努力さえ放棄した。

 野田首相の12月7日午前の参院本会議での発言に戻って、その妥当性・正当性を考えてみる。

 野田首相「政治家としての経験と蓄積、政策能力などを勘案し、適格との判断に基づき任命した。閣僚として職務を着実に遂行しており、任命責任を問われるものではない」・・・・・

 「政治家としての経験と蓄積、政策能力」は政治的創造性のみならず、豊かな人間性を得て初めて体得し得る。

 政治家に人間性を求めるのはない物ねだりだと言うなら、少なくとも豊かな人間味を求めなければならない。

 豊かな人間味を欠いた政治家は二律背反そのものである。なぜなら、「国民のみな様のため」という言葉を使わない政治家は存在しないだろうから、「国民のみな様のため」という言葉を使う政治家が人間味を欠いていたなら、二律背反どころか、滑稽な倒錯そのものである。

 「国民のみな様のため」と言いながら、自身の利益のために動く政治家こそが人間味を欠く資格を有する。

 豊かな政治的創造性と豊かな人間性、あるいは豊かな人間味を裏打ちとした「政治家としての経験と蓄積、政策能力」の保持を前提として、では、特に防衛大臣として必要な政治的資質とは何を言うのだろうか。

 安全保障に関する知識、軍事に対する知識、特に普天間問題を抱えるゆえに沖縄に関する深い歴史認識、基地問題に関わる沖縄県民の認識に関する理解と知識等々であろう。

 この理解と知識に関しては既に次のように書いた。「日本政府の決定事項である米軍基地の存在とその決定の歴史(敗戦も米への施政権委譲も日本政府の決定に入る)を背景とした沖縄が歴史的に過去と現在をつなげて置かれている状況に対する理解と知識」だと。

 野田首相が「政治家としての経験と蓄積、政策能力などを勘案し、適格との判断に基づき任命した」と断言できるのは、一川防衛相が上記要素をすべてクリアしていると看做していた場合である。

 安全保障知識、軍事知識、沖縄歴史認識、沖縄感情理解に卓越し、なおかつ豊かな政治的創造性と豊かな人間味に恵まれた政治家だと。

 だが、国会答弁や記者会見で露わにした一川防衛相の存在性からは逆の姿しか見えてこない。

 にも関わらず、野田首相はブレも揺るぎもなく一川擁護に動き、自身の任命責任無しとしている。

 このことはマスメディアの間で盛んに言われている、一川氏が小沢氏に近い輿石幹事長の推薦で防衛大臣となったこと、更迭した場合、輿石幹事長の名誉を傷つけ、求心力を失わせかねないこと、一川氏が小沢グループに属していて、容易には退任に追い込むことができないこと、そういった党内力学と一人の閣僚辞任がドミノ式に連鎖する危険性が生じかねない政局力学を抱えていることからの擁護だと。

 このことが事実だとしたら、本人は否定するだろうが、野田首相は閣僚任命責任者として任命した閣僚の適任性を常時監視する責任と自身の任命判断の的確性を問い続ける責任を有しながら、それらの責任を放棄、沖縄目線に立つのではなく、党内目線・政局目線に立った自己保身優先の閣僚擁護ということになる。

 これも野田首相が言う「誠心誠意」のなせる技なのだろうか。

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