菅は周辺から戦前天皇に擬(なぞら)えられていた、その絶対者としての姿

2011-12-28 10:49:48 | Weblog

 12月25日(2011年)日曜日TBSテレビ放送、東大日本大震災と福島原発事故を扱った『「報道の日2011」記憶と記録そして願い』(第三部)で解説が次のように話していた。

 解説「福島原発事故発生から5日目の3月15日午前3時、参加者たちが当時御前会議と呼んだ、菅の判断を仰ぐための会議を開かれた

 出席者は当時福島原発事故に当たっていた関係閣僚や関係官僚、原子力安全委員会委員等だったと解説している。議題は東電から全面撤退の申し出があったことについてであった。

 「御前会議」「菅の判断を仰ぐ」――

 この言葉が意味するものは何なのだろうか。

 「御前会議」とは、「戦前の日本で国家の緊急時に天皇の出席のもとに元老や主要閣僚等によって開かれていた最高会議」(『大辞林』三省堂)を言う。

 とうことは、周囲は菅を戦前の天皇に擬していたことになる。いわば、戦前の天皇に見立てていた。

 擬し、見立てられるについては菅にはそういった資質を担っていたからだろう。菅自身が戦前天皇の姿を取っていたということである。

 戦前の天皇は絶対者に位置づけられていた。最悪なことは周囲の軍部等が天皇の名のもと、天皇の絶対性の衣を自らに着せて、絶対者の如くに思い上がった振舞いに及んだことであろう。

 そのことが一般国民や下級兵士の悲劇を生んだ。

 下級兵士に対しては戦後靖国神社に祀り、英霊だと持ち上げることでその悲劇を帳消しにしようとしている。

 いずれにしても菅内閣関係者は菅を戦前の天皇に見立てて絶対者に位置づけ、自分たちを絶対者に支配された下位者と看做す権威主義的関係性の意識に少なくとも囚われていた。

 このことは「菅の判断を仰ぐ」という両者の関係性にも現れている。

 最終的には「判断を仰ぐ」という場面が生じることはあるにしても、最初から「判断を仰ぐための会議」と位置づけることはそこに判断の上下関係を置いているからであって上の者の判断を絶対として下の者の判断とするということであろう。

 お互いに忌憚なく意見を言い合い、最良の意見に纏めて最終判断とすることを首相の役目とする対等関係の意見集約を「判断を仰ぐ」とは決して言わない。

 俳優を使った「御前会議」開始の再現シーンにしても、こういった権威主義的な上下関係がそこに働いていることとして見なければならない。

 出席者全員が直立不動に近い形で席から立ち上がっている。そこへ菅が入室してきて着席すると、全員が頭を下げながら着席する。

 そこには単なる慣習以上の上下関係が支配しているはずだ。支配していなければ、「御前会議」などと呼び習わしたりはしない。

 要するに菅は自らを何様とする振舞いを当たり前としていた。

 このことは「御前会議」の再現シーンで菅が発言したときの語調にも現れている。

 菅は長テーブルの両側に座った出席者に対してテーブルの正面に座り、両側の席の菅に最も近い席に座っている班目原子力安全委員会委員長を腕を持ち上げて指さして問いかけるが、同じテーブルに着席した者をさも問い詰めるかのように腕ごと持ち上げて相手の顔に突きつけるように指さすといったことは余程の権力を許されている者でなければ滅多にしないことである。

 「撤退の話が出ているんだが、どう思うんだ」

 班目委員長にも話を聞いた上での再現シーンだろうから、事実と異なる乱暴な言葉遣いを用いるわけはないだろうし、用いたりしたら名誉毀損となる。

 班目委員長(インタビュー証言)「それに対してですね、それはあり得ないと。そんなことをしたら、もっと大変なことになりますと、いうふうに申し上げて、かなり、その、えー、緊迫した雰囲気だったことは確かです」

 番組はこれだけの発言しか伝えていないが、班目は原子力の専門家である、菅は班目にどういったプロセスを踏んで「もっと大変なことになる」か尋ねただろうし、班目も全面撤退した場合の考え得る事態の段階的な進展を例に挙げて「もっと大変なことになる」かを説明したはずだ。

 東電申し出の全面撤退を議論した「御前会議」は3月15日午前3時開始。菅が清水東電社長を官邸に呼んだのは3月15日午前4時過ぎ。約1時間後である。

 「時事通信」の9月17日(2011年)の菅に対するインタビューは次のような遣り取りとなっている。
 
 記者「東電は「撤退したい」と言ってきたのか」

 菅前首相「経産相のところに清水正孝社長(当時)が言ってきたと聞いている。経産相が3月15日の午前3時ごろに「東電が現場から撤退したいという話があります』と伝えに来たので、『とんでもない話だ』と思ったから社長を官邸に呼んで、直接聞いた。

 社長は否定も肯定もしなかった。これでは心配だと思って、政府と東電の統合対策本部をつくり、情報が最も集中し、生の状況が最も早く分かる東電本店に(本部を)置き、経産相、細野豪志首相補佐官(当時)に常駐してもらうことにした。それ以降は情報が非常にスムーズに流れるようになったと思う」――

 「『とんでもない話だ』と思ったから」と、撤退不許可は自身の判断であるかのような発言を行なっている。

 班目から聞いたであろう、全面撤退した場合の危険性を原子力安全委員会班目委員長の判断だとして理路整然と順序立って話し、全面撤退の撤回をなぜ説得しなかったのだろうか。

 だが、「社長は否定も肯定もしなかった」曖昧な態度を取らせただけだった。閣僚や官僚に見せる何様の傲慢な権威主義的態度はここでは通用させることはできなかったらしい。

 番組は東電申し出の全面撤退問題で「御前会議」を開くことになったについて、その前段として次のようなエピソードを伝えている。

 3月14日深夜、東電清水社長から海江田、枝野、細野に相次いで全面撤退要請の電話が入った。

 海江田(インタビュー証言)「深夜の電話でしたけれども、非常に、やっぱり、緊張――をしてまして、イー…、まあ、退避――したいと思うと、いうことで、えー…、電話がありました。これはやっぱり撤退をしないと、それこそ作業員の方たちの、おー、大量被曝ということも、十分、考えられますので」

 解説「電話を受けた誰もが菅に伝えるのをためらった。総理周辺の人物は即座に報告が上がらなかった理由をこう説明した」

 総理周辺の人物(声優の声のみ)「最高指揮官としては、もう少し冷静でいて欲しかった」

 以上の経緯からは菅を恐れていた様子しか浮かんでこない。このエピソードからも閣僚や官僚たちの間に菅を絶対者とする権威主義関係を成り立たせていたことを窺うことができる。だから、「御前会議」と位置づけられ、「判断を仰ぐ」という情報確立の権威主義的手段が取られることとなった。

 だからこそ、14日深夜に東電社長から電話を受けておきながら、「御前会議」が3時間は過ぎている翌15日の午前3時となった。
 
 菅は部下をそれぞれが自律(自立)した存在として率いる統率者ではなかった。恐怖を手段として従える絶対者として君臨していた。

 当然、真の意味での自由な情報共有・自由な伝情報達・自由な情報発信は両者間に期待できなかった。

 このことも影響した震災対応・原発事故対応の不手際・停滞であろう。

 次の発言もこのことを証明している。
 
 菅首相「首相官邸は情報過疎地帯だ。役所で取りまとめたものしか上がってこない。とにかく、皆さんの情報や意見を遠慮なく私のところに寄せてほしい」(YOMIURI ONLINE/2010年11月2日 21:16))

 政府関係者「菅首相に事前の説明をしていると、何度も怒鳴られる。官僚は怒鳴り散らされるから、だんだん寄りつかなくなる」(毎日jp/2010年12月31日 10時34分)

 菅は首相になると、盛んに自分は政治家二世、三世の息子ではなく、サラリーマンの息子だと、サラリーマンの息子でありながら総理大臣に登りつめたことを誇った。そして元市民派であったことを勲章とした。

 このことは他者との人間関係を権威主義的上下関係の力学で縛らないことの宣言ともなっていたはずだ。

 だが、サラリーマンの息子、元市民派が首相となり、自身を何様の権威主義的な絶対者と位置づけ、他者との人間関係を自身を何様の上に置いた上下で律することとなった。

 サラリーマンの息子、元市民派にしては見事な逆説、あるいは裏切りを演じたことになる。

 いや、首相になる前は本性を隠していただけのことかもしれない。

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