5月18日(2011年)、大阪府が府と大阪市の再編を含む都市制度の在り方を検討する「大都市制度室」を設置。橋下府知事が10人の配属職員に次のように訓示した。
橋本府知事「いよいよ本気で大阪から国の形を変える。形あるものをつくり、問題提起してほしい」(MSN産経)
「大阪から国の形を変える」――意気軒昂である。
この意気軒昂の思いが一つの確かな形をとった。
11月27日(2011年)投開票の大阪府知事・市長ダブル選で圧勝した「維新の会」。その代表である新大阪市長となった橋下徹氏は圧倒的勝利の民意をバックに大阪都構想実現に向けた強気の舌戦を開始、政府や国政の与野党に対して実現に向けた協力を求めると同時に協力が得られない場合の国政選挙での維新の会からの独自候補擁立にも言及、アメの誘いとムチのそれとない威しの使い分けで大阪都構想に対する踏み絵を迫った。
その効果あってのことなのか、政府や与野党幹部から擦り寄る動きが早速出てきている。
この擦り寄りはかつてお笑いタレントだった東国原英夫が宮崎県知事に立候補、圧倒的勝利を得て、それ以降も高い支持率を維持、一期で県知事を辞任、国政に転ずる意向を示すや、その高い支持率に脅威を感じて自民・民主共に擦り寄りを見せた動きに重なる。
東国原を獲得した党が選挙で自らの党立候補者の応援演説に東国原を駆り立てた場合、聴衆ばかりか、テレビ報道を経てその人気の高さを見せつけられた有権者が東国原が応援する立候補者だからと投票に動く高い確率の可能性が予想されたからだ。
維新の会が独自候補を立てた場合、その再現が演じられない保証はないことを与野党共に恐れている。特に既成政党に対する政治不信が高まっている現在の状況は維新の会をより新鮮に映し出し、期待の風を吹かす要因となることは容易に予想できる。
議席が約束する政治遂行である以上、大阪都構想の実現を国政の立場から担保することを條件に自らの党の人気アップにつなげようと欲求したとしても不思議はない。
だが、東国原の場合、自民党の総裁の椅子を望み、総選挙に勝利して総理大臣の椅子をと高望みし過ぎたためにその人気に陰りが生じて、反発さえ買うこととなり、ついには萎んで、選挙にすら立候補できなかった。
橋下徹人気がどういう経緯を辿るかは「大阪都構想」の実現とその機能効用性にかかっている。構想自体が実現したとしても、健全な財政を維持する予算運用や住民サービス向上、大阪経済の復活等に機能効用性を見なかった場合、絵に描いた餅となる。
いわば人気は政治手腕に裏打ちされることになる。
大阪都構想とは大阪府、大阪市、堺市を廃止し、新たに大阪都とし、〈現在の大阪市地域の24区を合併し8都区に、堺市は7つの区を3都区に再編。周辺9市も都区とし大阪都20区を新たに設置〉、〈首長には選挙で選ばれる区長を置き、選挙で選ばれる区議会議員による区議会を設置する。〉行政区改変を行い、〈20区内の固定資産税・法人税などの収入を都の財源とし、20区内の水道・消防・公営交通などの大規模な事業は都が行い、住民サービスやその他の事業は20区の独自性に任せる。〉制度だと「Wikipedia」に書いてある。
この解説からすると、都が区に対して財源再配分の支配権を握ることになる。
この構造は国が殆どの財源を握って、地方自治体に再配分する現在の構造と重なる。そのヒナ型ということであろう。
勿論、財源の再配分に限った構造がヒナ型であっても構わない。問題は国と地方が中央集権国家体制のもと、人間関係が支配と従属の権威主義関係にあるということである。
2006年8月4日の当ブログ記事――《日本人性の反映としてある国と地方の関係》に書いたことだが、国と地方が中央集権国家体制のもと、支配と従属の権威主義関係にあることは橋下大阪府知事当時の発言が証明している。
《「国と地方は奴隷関係(奴隷側に)公民権を》(時事ドットコム/2009年7月8日)
橋下大阪府知事「国と地方は奴隷関係。(奴隷側に)公民権を。(地方自治体に)拒否権とか議決権を制度として与えてほしい」
地方自治体首長として実感した「国と地方は奴隷関係」ということだろうが、この言葉は支配と従属の関係と言うよりもきつい表現となっている。
「奴隷関係」とは人間性をも上下の価値観で計る人間関係を言う。中央政治家と中央官僚を優越的上位に置き、地方政治家と地方役人を劣後的下位に置く人間観である。
では、なぜ国と地方の間にこういった「奴隷関係」、あるいは支配と従属の関係が生じるかというと、何度もブログに書いてきたことだが、日本人がすべてに於いて、人間までも上下の価値で権威づけて、上が下を従わせ、下が上に従う権威主義性を行動様式・思考様式としているからに他ならない。
この権威主義的行動様式・思考様式の発動を受けて、国は地方の上に位置しているという思いからだろう、地方支配の意識が働き、結果として「奴隷関係」、あるいは支配と従属の関係が国と地方の人間間に色濃い如実な反映を受けることとなっている。
大阪都が区よりも上の優越的位置に立っているという歪んだ権威づけから、こういった上下・主従関係が大阪都と都下の20区の関係に置き換えられて、そのヒナ型でもあった場合、当然支配下にある区は有形無形の形で大阪都の役人の支配を受けることとなって、財源的にも職務上もその支配の範囲内での活動を余儀なくされて、区の効率性は失われることになる。
このことは決して根拠のない杞憂だと片付けることはできない。
橋本新大阪市長はかねがね、「二重行政の解消」を主張している。二重行政の解消は可能だろう。大阪都構想と同様にハコモノづくりに所属する作業だからだ。
縄張り争いさえなければ、ここは二重行政だから、大阪都に一本化するか、区の専門所管とするか、機械的に整理統合すれば片付く問題である。
だが、そもそもからして二重行政が生じる原因はその行政に対する権威づけの欲求が存在するからにほかならない。国も地方も職務にまで上下の価値をつけて、価値あるとした職務を自己の権威づけに利用するために手放したくない衝動が生じることになる。
それが部署部署に於いてもそれぞれに権威づけるから、手放したくない抵抗欲求が殆どの行政に対して、二重行政という形を取ることになる。
行政改革で総論賛成、各論反対が各省庁で発生するのも同じ構造からであるはずである。効率性よりも一旦権威づけた職務を自己権威の証明として手放したくない欲求が生じる。
どこでも手放したくない動きが出てくるから、結果として縄張り争いが現れることになる。
上記当ブログ冒頭に次のように書いた。
〈日本人がつくる人間関係に関わる体系すべては日本人性に影響を受ける。日本人性から出た制度、組織、慣習を形作る。何事も日本人性の反映を受けて成立・維持していくのだから、それはごく当然な因果性であろう。国と地方の関係に於いても、日本人性がつくり出した力学下にある。〉――
これは日本人が行動様式・思考様式としている権威主義性を念頭に置いた描写である。
そして小泉政権が進めていた三位一体改革を『朝日』朝刊が取り上げた06年7月21日の《地方分権 描けぬ道筋》の記事の中で触れている、「現在の分権一括法は、国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え、機関委任事務を廃止した。ただ、地方全体の仕事の7割に相当する部分で国の関与が残り、役割見直しは不十分とされてきた」と解説しているが、分権一括法が目的とした国と地方の関係の「上下・主従」から「対等・協力」への変更は今日に至るまで日本の政治は実現する力を持たなかった。
橋本徹氏が大阪府知事時代に「国と地方は奴隷関係」と言っていることが何よりの証明であろう。
この「奴隷関係」から脱するために地方は「地方分権」を今以て叫ばなければならない。
いわば、日本人が行動様式・思考様式としている、すべてに於いて、人間までも上下の価値で権威づけて、上が下を従わせ、下が上に従う権威主義性を改めることができず、現在も引きずっているということの証明ともなっている「地方分権」の叫びである。
様々な法律の改定を待たなければならないとしても、支持率や政局への影響度、各政党の維新の会への擦り寄りが起これば、大阪府議会や大阪市議会の勢力図にも影響を与え、大阪都構想は実現に向かうに違いない。
だが、上下の行政府に於ける権威主義的な支配と従属の関係、上下関係を払拭し、真に民主的で対等な人間関係を築くことができなければ、縄張り争いからの二重行政、行政組織の非効率性、ムダ遣いの要素を残すことになり、真の行政改革、機能効用性をもたせた真の大阪都構想は竜頭蛇尾を宿命づけられることになりかねない。 |