菅前首相が12月7日にTBSテレビ番組に出演して、再度東電の原発事故発生時の撤退問題を証言していることを「時事ドットコム」記事が伝えている。《東電撤退「伝達あった」=原発事故で菅前首相》(2011/12/07-11:00)
東電側が撤退の意思を伝えたことを否定していることに対する再度の否定である。
最初の否定については、2011年9月15日当ブログ記事――《菅直人はその原発事故初期対応から見て、実際に一国のリーダーだったのだろうか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之
》と、2011年9月20日当ブログ記事――《菅仮免のウソを言い、誤魔化しているとしか思えない時事通信インタビューのベント遅れと避難指示の妥当性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。
上記「時事ドットコム」記事は菅前首相の証言を次のように伝えている。
菅前首相「直接の話は清水正孝社長から海江田万里経済産業相、枝野幸男官房長官(いずれも当時)にあった」
「直接の話は」は菅首相にはなかったとしている。
12月2日纏めの東電社内調査委員会中間報告で撤退伝達を否定していることについて――
菅前首相「東電はその後、全面撤退ではなく一時避難だと言っているが、受け止めた2人(海江田、枝野両氏)は『撤退したいという話で重大な問題だから』と私に話があった」
二人から「私に話があった」のであって、清水東電社長から「私に話があった」のではないという意味の発言であり、前の発言の 「直接の話は」自身になかったとしていることと符合する。
いわば清水東電社長の撤退意思は社長本人からではなく、海江田、枝野の両氏から伝えられたことになる。
ということは、清水社長は撤退意志を江田、枝野の両氏に伝えたのみで、その時菅首相には会っていなかったことになる。
菅前首相は2011年9月2日に野田首相と交代している。その後、各マスコミのインタビューを受けた。その一つで、記事発信の9月17日にインタビューを受けたのだと思うが、上記当ブログ記事で用いた《菅前首相インタビュー要旨》(時事ドットコム/2011/09/17-19:58)では会ったことになっている。
撤退に関する箇所のみ再度引用する。
記者「東電は『撤退したい』と言ってきたのか」
菅前首相「経産相のところに清水正孝社長(当時)が言ってきたと聞いている。経産相が3月15日の午前3時ごろに「東電が現場から撤退したいという話があります』と伝えに来たので、『とんでもない話だ』と思ったから社長を官邸に呼んで、直接聞いた。
社長は否定も肯定もしなかった。これでは心配だと思って、政府と東電の統合対策本部をつくり、情報が最も集中し、生の状況が最も早く分かる東電本店に(本部を)置き、経産相、細野豪志首相補佐官(当時)に常駐してもらうことにした。それ以降は情報が非常にスムーズに流れるようになったと思う」
他の記事も参考にして、当時の官邸と東電の動きを時系列で書き留めてみる。
2011年
3月15日午前3時頃 ――菅、海江田経産相から、東電が撤退の意向を示していることを伝えられる。
3月15日午前4時過ぎ ――菅、清水東電社長を官邸に呼ぶ。
3月15日午前5時半過ぎ――東京・内幸町の東電本店に乗り込み、「撤退なんてあり得ない!」と怒鳴った
とされる。
菅前首相は9月17日の時点では清水東電社長に会ったと言っているのだから、その事実にウソはないはずだ。ウソだったとしたら、奇妙なことになる。
「『とんでもない話だ』と思った」以上、海江田経産相(当時)から報告があってから、早急に清水社長を官邸に呼びつけたはずだ。それが海江田経産相から報告があった3月15日午前3時頃から約1時間後の4時過ぎというのは、次の菅首相の東電が撤退した場合に予想される切迫状況からしたら、遅すぎる約1時間後に見えないことはない。
菅前首相「(東電が)撤退して六つの原子炉と七つの核燃料プールがそのまま放置されたら、放射能が放出され、200キロも300キロも広がる。いろいろなことをいろいろな人に調べさせた。全て十分だったとは思わない。正解もない。初めから避難区域を500キロにすれば、5000万人くらいが逃げなければならない。高齢者の施設、病院もあり、それも含めて考えれば、(避難区域を半径3キロ、10キロ、20キロと拡大させた対応は)当時の判断として適切だと思う」――
東電の撤退を阻止したから、当初の避難対応の判断は適切だと言っているが、3月11日21時23分の第1回目の第1原発3キロ圏内避難指示と3~5キロ圏内屋内退避指示、そして3月12日5時44分第2回目の第1原発半径10キロ圏内避難指示は海江田経産相を通して東電清水社長から撤退を伝えられた3月15日午前3時頃以前のことで、撤退は想定していなかった時点の避難指示である。時間のズレ・状況のズレを無視して、当初の避難対応を正当化する強引さを無視している。
上記2つの当ブログの内、最初のブログに取り上げたインタビューでの菅首相の証言は次のようになっている。
《菅前首相 原発事故を語る》(NHK NEWS WEB/2011年9月12日 5時24分)
菅仮免(清水東電社長を官邸に呼び出して)「『撤退したいのか』と聞くと、清水社長は、ことばを濁して、はっきりしたことは言わなかった。撤退したいという言い方もしないし、撤退しないで頑張るんだとも言わなかった。私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」
やはりこのインタビューでも清水東電社長と会ったことになっている。
以上会ったとする証言とTBS番組の証言は食い違いを見せている。証言の後退と見ることもできる。
この食い違い、後退は何を意味するのだろうか。首相退陣当時の証言をウソとすることになる。
このことの無責任も然ることながら、何よりも問題としなければならないことはNHKインタビューのこの発言から窺うことができる一国の首相としての、また原子力災害対策本部長としてのリーダーシップ(=指導力)、責任意識に関わる認識を、清水東電社長と首相官邸で会った3月15日からTBS番に出演した12月7日の今日に至るまで欠いたまであるということである
東電が撤退した場合、「六つの原子炉と七つの核燃料プールがそのまま放置されたら、放射能が放出され、200キロも300キロも広がる。いろいろなことをいろいろな人に調べさせた。全て十分だったとは思わない。正解もない。初めから避難区域を500キロにすれば、5000万人くらいが逃げなければならない」と、撤退という選択肢は絶対的にあり得ない緊急事態にあったと言っているのである。
この認識をいつ把握したのか、後付け臭くていかがわしい限りだが、少なくともNHKやその他のマスコミからインタビューを続けて受けた当時には把握していた認識である。
例え後付けであっても、TBS番組に出演した12月7日から遡ると、3ヶ月前以前には菅前首相が認識していた、東電撤退の場合の想定可能な緊急事態であった。
当然、撤退という選択肢は絶対的にあり得ない緊急事態にあったと認識した時点で、それが東電社長と実際に面会したあとであったとしても、一国の首相として、また原子力災害対策本部長として清水東電社長と面会したとき必要とした責任は何であったか、後からでも即座に気づかなければならなかったはずだ。
撤退という選択肢は絶対的にあり得ない緊急事態にあった以上、一国の首相として、また原子力災害対策本部長として撤退という選択肢は絶対的にあり得ない緊急事態だということをその場で説得し、納得させる指導力を発揮しなければならなかったろうということであり、そうすることが一国の首相に、または原子力災害対策本部長に課せられた責任としなければならなかったろうということである。
海江田経産相からなのか、枝野官房長官も加えてのことなのか、彼、もしくは二人から東電撤退を伝えられた時点で撤退という選択肢は絶対的にあり得ない緊急事態だということを認識したとしたなら、なおさらに説得するだけの指導力を発揮する責任を有していなければならなかった。
それを説得に向けて何ら指導力も発揮せず、自身に課せられた責任が何であるかも認識せずに、「『撤退したいのか』と聞くと、清水社長は、ことばを濁して、はっきりしたことは言わなかった。撤退したいという言い方もしないし、撤退しないで頑張るんだとも言わなかった。私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」と指導力も責任も発揮しなままに済ませている。
東電本社にわざわざ乗り込まずに、その場で説得する指導力を発揮する責任を負っていたはずであるし、その責任を示さなければならなかったはずだ。
そして3ヶ月経ってTBS番組に出演して、以前証言していた清水東電社長との面会は消去して、相変わらず清水社長から撤退の話があったなかったと、その点にのみ堂々巡りしている。
いわば撤退話があった、なかったよりも、あった場合に撤退を即座に思いとどまらせる自身の指導力が問題であり、その責任を負っていたことに今以て気づいていない。
最初から最後まで、一国の首相としての、あるいは原子力災害対策本部長としての責任意識と指導力を欠いていたからこそ、「『撤退したいのか』と聞くと、清水社長は、ことばを濁して、はっきりしたことは言わなかった。撤退したいという言い方もしないし、撤退しないで頑張るんだとも言わなかった。私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」といった、説得し納得させる指導力を発揮できない自らの無能をさらけ出す発言を可能としたのであり、時事ドットコムのインタビューで、「社長は否定も肯定もしなかった」と言っているように社長をしてそのような態度を取らせるに至ったのだろう。
このように指導力も責任意識も欠いていたことを自ら気づかない政治家が気づかないままに1年3ヶ月あまりとは言え、首相を務めていた。 |