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新たな年を迎える大晦日のブログ記事にしてはふさわしくない内容かもしれないが、国立科学博物館(科博)が東京都内の開発で掘り出された人骨をざっと1万人分も保管していることを伝えている、10日以上も前の記事がある。《江戸を語る人骨1万体 小柄な体・栄養失調・伝染病》(asahi.com/2011年12月17日23時5分)
江戸時代の骨が殆どで、刀傷が残る骨もあるそうだが、〈今よりも小柄で栄養状態も悪かった。時代劇のイメージとは違う江戸の人々の厳しい暮らしぶりが、浮かび上がってくる。 〉と骨から窺うことのできる江戸時代の生活を伝えている。
篠田謙一人類史研究グループ長「この頭の骨は左の側面に鋭い刃物の傷が2本。日本刀で斬り殺されたのでしょうね。青黒いシミがついたこちらの骨は、梅毒の痕跡ですよ」
国立科学博物館が研究用に20年程前から開発業者などが持ち込む江戸時代の人骨を受け入れてきたのだそうだ。
特に鉄分が不足していて、総体的に栄養状態が悪い。現代なら死亡率の低い若い世代の骨が多い、つまり若死にが多かった。
《図録▽平均寿命の歴史的推移(日本と主要国)》によると、1776年(安永5)~1875年(明治8)の平均寿命は32歳となっている。
確かテレビなどで江戸時代の話をするとき、平均寿命は55歳だとか言っていたはずである。
もし55歳が武士の平均寿命だとすると、被支配者との間に、若い母親が幼い子供に満足に食事を与えないで痩せ細らせてしまう虐待に通じる搾取の構造を見なければならない。
原因は、〈伝染病がたびたび流行し、人が簡単に死んだ〉からであり、そのことを物語っているという。
但し伝染病が死を簡単にもたらしたことの裏を返すと、医学の未発達もあるだろうが、基本的には簡単に伝染病に罹って弱ってしまう栄養体質であることの証明ともなる。
記事もこのことを書いている。
江戸時代の成人の平均身長は男性が150センチ台半ば。女性の平均身長は140センチ台半ば。栄養状態が悪い上に狭い長屋などに密集して生活したストレスの影響と考えられる身長だと書いている。
注目しなければならないことは、〈日本のすべての時代の中で最も小柄だった。〉と伝えていることである。
篠田謙一人類史研究グループ長「生活は厳しかった。スラムといった方がいい江戸の影の部分が骨には記録されています」
江戸人が「日本のすべての時代の中で最も小柄だった」ということはすべての時代の中で物質的にも精神的にも最も抑圧された時代であったことの証明以外の何ものでもあるまい。
いわば統治の質が江戸時代の国民の生活、人生に反映した結果としての栄養状態であり、平均寿命であろう。
アメリカの最初に統計に現れている1820年の平均寿命は39歳であるが、対して日本の1820年(文政3)平均寿命は、1751年~1868年の平均寿命37歳から減って34歳で5歳も低い。
現在の北朝鮮で多くの国民が飢餓・餓死に苦しめられている国情にしても統治の質が反映した生活実態であろう。最近のテレビで見たのだが、ガリガリに痩せた身寄りのない10歳前後の女の子がゴミを漁っていた。
貧しい国民の満足にありつけない食糧がキム一族とそれ以下の支配層の権力と満ち足りた食生活を支えている。
その頭目の金正日がくたばったとき、日本の藤村官房長官はその死を悼んで、哀悼の意を表明した。
江戸時代、日本人口のたかだか1割の武士が8割の農民その他を支配する特権階級に所属していた。扶持だけでは食えずに、内職を強いられる貧しい武士も存在したが、それでも彼らは支配層に属していた。
武士は8割の農民から何ら代償を支払わないゆえに搾取となる、主として米を収穫の半分前後も年貢として取り立て、それを金子(きんす)に変えて生計を立てていた。農民の中でも田畑の土地を持たない百姓は土地持ちの地主となる百姓から田畑を借り、作物を小作していたが、「走り百姓」とか「走り者」という言葉が残されているように作物を作っても満足に食えない高い小作料を課す搾取が災いして、耕作地を捨てて江戸や大阪といった都市に逃げて浮浪人化する百姓が跡を絶たず、幕府や藩はそれを元の土地に帰す人返しの法を以って対策としたが、幕府や藩自らが搾取の構造を統治手段・支配手段としていて、それを受け継いだ地主、土地持ち富農の小作人に対する搾取の構造なのだから、いくら禁止令を出したり人返しの法で対抗しても効果はなく、「走り百姓」とか「走り者」といった逃げ百姓はなくならなかったという。
江戸時代の「走り百姓」、「走り者」は北朝鮮で言いえば、さしずめ脱北者に当たるに違いない。
と言うことは、北朝鮮は江戸時代よりも200年は遅れていることになる。
武士階級が如何に搾取者の位置に立っていたかを証明する一文がある。
「江戸時代においてはわが国民の8割以上が農民であった」彼らの「生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の1割ぐらいに相当する人々(武士)を支えるために営まれていた。飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出したときでさえも、武士には餓死する者がなかったという」(『近世農民生活史』児玉幸多著・吉川弘文館)
1割の武士が8割の農民を搾取し、搾取される側の農民にしても、土地持ちの豊かな農民が土地を持たない小作人、水呑み百姓を搾取していた。
では、全国民の8割の農民の内、小作人、水呑はどのくらい存在していたのだろうか。
『日本の農地改革』(大和田啓気(けいき)著・日本経済新聞社)に次のような記述がある。
明治初年の「およそ国民の8割は農業に従事」と(P15)書いてある。これは江戸時代の農民の割合と同じで、農民に限って人口構成は変わっていないことを示している。
『日本史広辞典』(山川出版社)によると、1872年(明治5)の戸籍に基づく人口は3481万人だというから、その8割が農民だとすると、約2784万人が農民だったことになる。
前記『日本の農地改革』に、明治9年の田畑・宅地に対する地租改正によると、「田畑・宅地の所有者604万人」だと書いてるから、農民約2784万人-604万人=2180万人が土地を持たない小作農、いわば水呑百姓で、農民全体に占める割合は78%に当たる。
人口の8割が農民なのは明治大と江戸時代と同じとして、これを1721年(享保6)の宗門人別帳に基づいた日本初の人口調査2607万人に当てはめてみると、2607万人の8割の2085万人が農民で、2085万人の約78%、1627万人が田畑・宅地を持たない農民――小作人、あるいは水呑だったことになる。
要約してみる。
1721年(享保6)の人口――2607万人
農民――2085万人
土地持ち農民―― 458万人
土地なし小作人、水呑――1627万人
1872年(明治5)の人口―― 3481万人
農民――約2784万人
土地持ち農民―― 604万人
土地なし小作人、水呑―― 2180万人
人口増加率
3481万人-2607万人=874万人
874万人÷2607万人=33.5%の増加率。
(享保6)の土地持ち農民458万人×33.5%の増加率=611万人
この611万人は『日本の農地改革』に記述してある「田畑・宅地の所有者604万人」にほぼ相当している。
(享保6)の土地なし小作人、水呑1627万人×33.5%の増加率=2172万人。
この人数も1872年(明治5)の土地なし小作人、水呑2180万人に近い数字となっている。
間違っていない導き方だと思うが、人口は増加したまま、搾取の構造は変化がないことを示しているのではないだろうか。
江戸時代も明治時代も、食えない貧しい農民は、当時は避妊技術が発達していなかったために妊娠しても、生まれると食い扶持が増えるために間引きと称して、堕胎する習慣があった。堕胎薬を飲んだり、冷たい水に腰まで浸かり身体を冷やしたり、腹に圧迫を加えたりして死産を導いたという。
あるいは娘を女郎に身売りする習慣があり、それは戦後の時代も東北や北陸の寒村に引き継がれていた。
その中でも江戸時代は搾取の反映として「日本のすべての時代の中で最も小柄だった」という貧しい、劣る栄養・貧しい、劣る生活を強いられた。
江戸時代の武士をサムライだ、武士道の体現者だと持ち上げる向きがあり、何らかの分野で活躍人間を「サムライ」と呼び、活躍する集団を「サムライ集団」と呼ぶ習慣があるが、現実のサムライは北朝鮮のキム一族とそれを取り巻く権力層と変わらぬ特権階級に位置し、支配者として君臨して搾取を専らとしていたのである。
「武士道」とは自らの支配と搾取を正当化するために権力者である武士を立派な存在と美化した造り物の倫理観に過ぎない。
一つのWEB記事から北朝鮮の統治体制の質との共通性を見て、今年最後のブログ記事としてみた。 |