06年10月13日の『朝日』夕刊と14日の『朝日』朝刊が、総務省が拉致問題でNHKに「放送命令」の方針を打ち出したという記事を続けて載せた。国が「放送命令」を出すのは違法ではないが、異例だとすることを次のように伝えている。
「総務相は短波ラジオ国際放送への命令権限を持つが、個別具体的な項目の扱いを求めるのは異例だ。ただ、与野党から慎重論が出ている。
放送法は、NHKの国際放送について、総務相が事項を指定して放送を命じる『命令放送』ができるとしている。現在は経費の一部に国費が投じられている短波ラジオ国際放送が対象だ。NHKに対しては定期的に総務相による命令書が渡されるが、これまでは、NHKの自主性を尊重するために、具体的な放送項目を明示することはなかった」(『拉致問題、NHKに放送命令へ 総務省、明文化の方針』06.10.14.朝刊)
このことに関しての菅総務相と安倍首相の消息を次のように説明している。「菅総務相が13日午前の閣議後の記者会見で『内閣が代わり、拉致問題が国の最重要事項になっている。そういうことを含めて検討したい』と述べた。この発言に関し、安倍首相は同日夜、『北朝鮮で救出を待っている被害者に何ができるか。総務大臣もできる限りのことをしようと考えていると思う』と首相官邸で記者団に語った」――
菅総務相は安倍首相も出席したはずの閣議後に述べているのである。菅総務相が言い出したことであっても、了承を与えた提案であろう。「いいアイディアだと思う。バックアップしたい」とか、「拉致問題解決に向けて有効ではないではないだろうか」と言うなら分かるが、「総務大臣もできる限りのことをしようと考えていると思う」と、総務大臣一人の提案でするかのように説明しているのは、実際は安倍首相の指示による提案ではあるが、〝報道の自由〟に対する国家権力の介入との思惑を与えることを避ける意味から、菅総務相の〝独演〟であるかのように装ったと窺わせないでもない。
事実そうだとしたら、安倍首相自身、自らの国家主義的な側面に気づいているということだろう。あるいは国家主義的な意志が巧まずして前例をつくる方向に向かわせていて、その印象を拭うために自分を関係ないところに置く発言となっているのか。
14日(06年10月)の『朝日』朝刊(『政府、NHKに「拉致」重点放送 「特定報道」異例の命令』)は記事の冒頭から「外交戦略と報道の自由とどちらが優先されるべきか――」と問いかけているが、そのことはさておいて、拉致解決にどれ程役立つのだろうか。
同記事は「海外向け短波放送としては、米国のボイス・オブ・アメリカ(VOA)や英国のBBCが有名。冷戦中、東欧向けに旧西独から放送された米国の自由ヨーロッパ放送などが、妨害電波を潜って受信され、ベルリンの壁の崩壊につながったとも言われた」と短波放送の成功例を伝えている。北朝鮮も同様の手を打っていて、「拉致関連放送としては、拉致問題を調べている『特定失踪(しっそう)者問題調査会』が、北朝鮮向けに短波ラジオ放送『しおかぜ』で、被害者家族のメッセージなどを流しているが、妨害電波とみられる通信に見舞われている」(『拉致問題、NHKに放送命令へ 総務省、明文化の方針』06.10.14.朝刊)ことを伝えているが、NHKが受け持った場合、多くの北朝鮮国民、あるいは拉致被害者に「妨害電波を潜って受信され」る可能性はどれ程あるのだろうか。
例え妨害電波を潜ったとしても、NHK短波ラジオと「米国の自由ヨーロッパ放送」とを効果の点で同等に位置づけるのは早計に過ぎるだろう。なぜなら、「米国の自由ヨーロッパ放送」は基本的には西側同様の自由を渇望している共産主義体制下の不特定の一人に伝わりさえすれば、その情報は仲間から仲間へと口伝えに伝播・共有されていき、自由の希求と機会さえあれば共産主義体制を打倒しようという思いを段階的、あるいは加速度的に強めていったであろうが、北朝鮮の場合、拉致被害者に直接、あるいは間接に伝わって勇気と希望を与えたとしても、
それ以上の救出という状況を期待するには北朝鮮国民の動向にかかってくる。
一般的な北朝鮮国民にとっては、自分たちが飢えを凌ぐことだけの、あるいは食べていくことだけの自分事が精一杯で、食べていくことに関係しないばかりか、国家の悪事を(その最悪なものは国民を飢えさせたり餓死させたりすることだろう)いやというほど思い知らされている比較対照から自国民を対象としたものではない外国人対象の犯罪はそれが拉致であろうとなかろうと相対化の洗礼を受けて、たいした犯罪だと認識させるに至らない恐れさえある。人のことなど構っていられるか、というわけである。北朝鮮国民が動かないとすると、短波放送が拉致被害者に伝わったとしても、日本にいる家族の声・消息を伝えるだけで終わりかねない。
国民が経済的に豊かになると政治意識に目覚めるという社会的傾向の逆説である。経済的にギリギリのところで生かされている人間にとって、革命が起きてキム・ジョンイルが殺されたというなら明日の糧に希望も持てるが、政治に目を向けている余裕もなければ、日本人の拉致も、ああ、そんなことまでやっているのかと頭を掠める程度にしか関心を示さないこともあり得る。
報道の自由の侵害は、それを出発点としてそれぞれの自由であるべき表現及び思想・信教に関わる基本的人権の抑圧・毀損に向かいかねない国民全体の利益を損なっていく重大な問題である。
拉致被害者救済のためという誰もが反対できない名目を人質に国家主義を押し付け、基本的人権の自由を奪いかねない、その恐れのある「放送命令」であろう。初期的には例え純粋に拉致被害者救済に限った例外だとしても、ひとたび前例をつくると、国家権力の都合でなし崩し的に権力意志の強要が開始され、自己の都合の良い放送内容を求めてくる恐れなしである。全体主義や独裁といった〝悪〟は醜い顔をしているからこそ、最初は羊の顔をして現れ、徐々に狼の牙を剥いていき、自由束縛を餌にして離さなくなる。
安倍首相はかつて中川昭一と共にNHKテレビの「従軍慰安婦」番組への政治介入を疑われた身である。この種の出来事は密室で行われるがゆえに真相は藪の中と化し、推定無罪放免とはなったが、戦前の戦争を侵略戦争と把え、強制連行や従軍慰安婦の問題を取り上げる歴史観を自虐史観と批判し、その線での報道を偏った報道とする立場に立っている。疑わても仕方のない体質を保持している。
「外交戦略と報道の自由とどちらが優先されるべきか――」。記事の冒頭の言葉に戻るが、拉致被害者家族にしても、日本国民全体の利益である報道の自由(=表現の自由、思想・言論の自由)を侵す恐れを招いてまでして、日本にいる家族の声・消息を伝えるだけに終わりかねない限定された利益のために拉致被害者家族救出という価値の実現のため「放送命令」を望んでいるのだろうか。「今回の総務省の姿勢に対しては、超党派の『拉致議連』会長の平沼赳夫元経産相(無所属)が『よいことだ。国家的なテロ行為だから、メディアを使ってやるのは悪いことでない』と評する声もある」(『政府、NHKに「拉致」重点放送 「特定報道」異例の命令』)が、家族自身に一度聞いてみるべきである。
もし家族自身が拉致被害者を日本国人の一人であり、その生命を守るのは国家の役目なのだから、例え日本にいる家族の声・消息を伝えるだけで終わることになるとしても、報道の自由侵害の恐れを無視してでも救出を目的に短波放送を望むと言うことなら、「報道の自由」を守る兼ね合いからも、いわば国家権力によって「報道の自由」の侵害、もしくは基本的人権の自由の侵害を招く前例としないためにも、NHKに「放送命令」を出すとしたら、直接的には拉致被害者とその家族に限定した利益のためではなく、北朝鮮のキム・ジョンイル独裁体制を倒し、北朝鮮国民に自由と民主主義を保障するという人類共通の価値観を目的とした「放送」とすべきではないだろうか。
日本国憲法の前文は次のように謳っている。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
憲法の理念にも適う「放送命令」となる。内外に向けた基本的人権の保障目的(=「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」の保障目的)が報道の自由侵害の恐れを打ち消す。
まさか安倍先生はいくら国家主義が過ぎているとしても、外国人がつくったものだからとこの箇所まで削って、自らの国家主義に日本を一歩近づけようとしていると言うわけではあるまい。
以前02年10月2日にアップロードしたが、容量の関係でダウンロードしたままとなっている自作HPに載せた文章をそのままに紹介してみる。
「北朝鮮国民の飢餓・餓死にしても、誰が否定しようとも、紛れもなく金日成・金正日親子二代にわたる、彼ら二人によって引き起こされた政治権力者による国民の生命・財産に対する犯罪に他ならない。いわば飢餓・餓死と拉致は国民の生命という点に関して、相互的に反映しあった対の関係にあるのは言うまでもない。自国民の生命を軽視する者は他国民の生命をも軽視することが真理である所以でもある。
言葉を替えて言うなら、何人も、『自国民の生命』を言うには、『他国民の生命』をも視野に入れることによって、その資格を得るということでなければ、言葉に信用性は生まれないと言うことである。いわば、拉致された日本人の先に飢餓に苦しみ、餓死している北朝鮮国民を両者は密接につながっている現実問題として見なければならない。」――
確かに拉致された者の救出は近親者・家族にとって切実で緊急を要する問題ではあることは間違いないし、理解できるが、北朝鮮に関して言うなら、拉致被害者だけが救出されればいいという問題ではなかろう。その視点がなかったことが、いわば一国主義的に日本人の生命のみを考慮に入れていたことが、国際的になかなか理解が得られなかった理由ではなかっただろうか。
〝疑わしきは罰せず〟。疑わしいというだけで罰していたら、その中に一人でも無実の人間が混じっていた場合、その人間まで罰してしまう重大な過ちを犯すことになる。たった一人であっても、無実の人間を罰してしまう過ちをつくり出さないために、限りなく疑わしくても、証拠がない場合は罰しないという推定無罪の原則を厳しく守られなければならない。
しかし、基本的人権の保障に関しては、国民が国家権力に対してそれを侵害しかねない疑いを少しでも持った場合は、国家権力側から言うなら、国民に侵害しかねない疑いを少しでも持たれた場合は、証拠があるなしにその疑いを以てして〝推定有罪〟とすべきであろう。基本的人権の保障を絶対とするためにである。絶対とするためには、疑いを招きやすい行為は避けるべきである。
戦前の前科もある。国家権力は軍国主義・全体主義で国民の自由・基本的人権を縛り、新聞・ラジオ・雑誌を含めたすべてのマスメディアは軍国主義に同調・従属し、言葉悪く言えば、媚びへつらい、付和雷同して軍国主義を鼓吹・宣伝し、国民を戦争に駆り立て、多くの国民を国家権力共々死なせた前科がある。前科が前科で終わる保証はどこにもない。前科を再犯させないためにも、基本的人権の自由の保障に関して神経質の上にも神経質になるべきであろう。
「『命令放送』の制度は放送法に定められた編集の自由に対する、いわば例外規定だ。現在はNHKの短波ラジオ国際放送に限られる。しかし、来年度予算の概算要求ではNHKのテレビ国際放送にも初めて3億円の国費投入を求めており、計上されれば命令放送ができるようになる」(『政府、NHKに「拉致」重点放送 「特定報道」異例の命令』)
この文章だけからでは「3億円の国費投入」が政府が求めているのか、NHK側が求めているのかはっきりとしないが、どちらであっても、国家権力の介入を招く恐れのある状況は避けるべきで、もし新たな資金が必要と言うことなら、その分組織を縮小させるべきであろう。制作費詐取とか不正経理とかの犯罪を許している分、組織が贅肉化していることの証明で、官公庁を含めた政府機構同様にいくらでもムダを省く余地はあるはずである。
英語必修化問題から見る
前任の小坂文科相大臣は「柔軟な児童が、英語教育に取り組むのは否定すべきことではない」との姿勢を示していたのに対して、第1次安倍内閣の(2次があるのかどうか)伊吹文科相は必修化に否定的姿勢を示している。その理由として、次のようなことを述べている。
「最低限の日本語の能力が身についていない現状がある」
「まず美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメ」
「英語教育よりも最低限の素養や学力を身につけさせることが先決」
「日本人としての最低限の素養である日本語ができないのに外国語を勉強するのはいかがかと思う」
あの細木数子大先生がもうかなり前になるが、テレビで「日本語すらろくにできない大人が増えてるというのに、なぜ英語を小学校からやるのか。日本には日本の言葉があり、文化がある。国際化とは言うけど、自分の国の言葉を疎かにしてまでやることじゃない」と御託宣していた。
二人に共通している認識は、「美しい日本語」は優れた言葉・優れた文化としてあるものだが、言葉としても文化としても十分に発揮し得ていない、発揮できるだけの素養を身につけていない、そのことを放置しておいてまで英語を学ぶことはないということだろう。
その通りもっともなことである。いや、非常にもっともらしく聞こえる。英語必修化反対論と言うよりも、この上なくもっともらしい日本の言葉・日本の文化絶対論となっている。
英語なる外国言語と比較対照的に「美しい日本語」とか、細木数子大先生の「日本には日本の言葉があり、文化がある」と、殊更〝日本〟を持ち出す意識からは〝日本的なもの〟を優れたものとして上に起きたい日本優越意識しか窺えない。
確かに日本語は語彙が豊富で、表現が豊かであると言われている。そのような日本語が持つ優れた文化性は伊吹大先生や細木大先生が言うように学ぶことによって「素養」として身につけることはできるが、身についた日本語という言語に関わる「素養」がそのまま日本人自らの人間性、あるいは人格を正直に映し出す鏡となるわけではない。
つまり、「日本には日本の言葉があり、文化があ」ったとしても、その「日本語」が美しかろうと美しくなかろうと、また、今の日本人が満足な日本語を話そうが話さなかろうが、あるいは書けようが書けなかろうが、口にする言葉・書く言葉が人間性や人格を必ずしも映す出すわけではないとしたら、「美しい日本語」といくら力んだとしても、「日本には日本の言葉があり、文化がある」といくら胸を張り誇ったとしても、意味を成さない。成さないにも関わらず、日本語が優れていると力み誇るのは考えが浅いために〝人間〟を見ることができないからだろう。
使用している言葉が美しい日本語で、その言葉自体が通じたとしても、誠意と客観性、合理的論理性の裏打ちの一切ない、美しいだけの単なる言葉の羅列なら、意味を持たない言葉と化す。日本人が過剰なまでに丁寧語・敬語を乱用するのは、言葉で飾らなければならない何らかの必要性を抱えているからだろう。言葉を装うことで、自らの人間性・人格をも装おうとする無意識を民族性としていたなら、問題である。
始末の悪いことに、言葉はいくらでも装うことができる。装わせることができる。裏を返すなら、美しい・美しくないは単なる形式に過ぎない。「日本には日本の言葉があり、文化がある」というのも、日本に限った事実であり、形式に過ぎない。言葉に誠実さがあるか、ウソ・偽りがないか、実行性を持たせている言葉か、そのように人間性や人格の裏打ちがあって初めて言葉は形式を越えて実質性を備えるに至る。
誠実であれば、美しくない言葉であってもいいわけである。ウソがあるなら、いくら美しい日本語を長々と喋ったとしても、意味を成さない。
伊丹何某は大臣だろうがなかろうが、自民党総裁選でポスト欲しさから安倍支持に回った、無節操・事勿れを絵に描いたような付和雷同政治家、寄らば大樹政治家である。どのような美しい言葉と美しい言い回しで「英語必修化」に反対しようと、信用はできない。いや、信用しないことにしている。
「日本には日本の言葉があり、文化がある」が日本に限った事実であり、形式に過ぎないとなれば、外国語である英語と比較して、日本語を文化だ何だといっても、空しいだけである。日本が今後国際社会で生きていく上で、単に外国を物理的に訪れるためと言うことだけではなく、世界からの情報を得て世界を知る・世界を学習する上で、国際語である英語が必要かどうか、そのような必要性から「英語必修化」を考えるべきで、「日本人としての最低限の素養である日本語ができ」ていないからとか、「日本には日本の言葉があり、文化がある」とかの理由で反対するの鼻持ちならない優越意識ばかりを感じさせて胡散臭いばかりである。
細木大先生が言っている「日本語すらろくにできない大人が増えてる」状況とは、伊吹大先生が言う「美しい日本語が書けない」状態を小・中・高・大学、さらに卒業して社会人(=「大人」)になっても背負っている状況を言うはずである。「美しい日本語」が「先決」ということで、もしそのような「素養」を「大人」になるまで身につけることができなければ、英語を学ぶ機会は「大人」になってもない、つまり永遠にない、その機会を必要としないということになる。それでもいいのだろうか。
よく日本語が乱れているという話を聞くが、心にもない奇麗事や体裁やその場凌ぎの言葉、終始一貫しない言葉、ウソを言う人間が誰一人いないということなら、口にする言葉は美しい日本語であるに越したことはないが、そうでない以上、例え乱れていても、装った言葉であるかどうかが人間の条件となる。
また乱れている言葉の対象に若者言葉を槍玉に挙げるが、ミュージシャンがミュージシャン世界で彼らにしか理解できない隠語を使ってゲーセンだ何だと会話をするように、若者言葉にしても一種の虚栄心・優越感から若者にだけ通用する言葉を創作・流通させているだけのことで、彼らにしても若者世界から離れて他の社会の人間と話すときにはそれなりのかしこまって日本語を話す。乱れっぱなしと言うわけではない。
言葉の乱れと態度の乱れが相互関連しあっているという主張もあるが、それが事実だとしたら、言葉は立派、言うことも立派だが、陰でこそこそと薄汚い乞食行為をやらかしているゴマンといる日本の政治家・官僚たちのどうしようもない職務態度の乱れは何と説明したら、合理的な返事が得られるだろうか。
言葉で飾りさえしなければ、まだ乞食政治家や官僚よりも正直と言えるのではないか。テストの成績を上げていい学歴を獲得し、いい会社に入っていい生活を手に入れようとしている受験勉強一点張りの生徒が学校教師に気に入られて素行点も上げるようと言葉でも自分を飾っているとしたなら、将来の有望な政治家・官僚候補とはなれるが、正直さという点に於いて、勉強が嫌いで街に出て遊んでばかりいる若者と比べて、人間的に優秀であるとは断言し難くなる。
「美しい日本語」よりも考える習慣をこそ検討すべきだろう。権威主義を行動様式・思考様式としていることから学校教育が暗記教育となっていること、その影響から、教師が教科書をなぞって伝える知識・情報を咀嚼もせずに伝えるままに受け止め暗記するだけの思考プロセスを介在させない知識授受・情報授受の習慣がテレビやラジオ、あるいは雑誌やマンガが伝える言葉・情報にまで思考を預けて自らは考えない、他者の知識・情報に従うだけの、悪く言うと付和雷同するだけの思考習慣を改めて、自分から自分で考える習慣を学校教育に取り入れるべきであろう。自ら考えることが思考能力も含めて自律性(自立性)の獲得に向かう。真に自律的(自立的)であったなら、そこに責任意識が介在してくるから、言葉を装うことはなかなか許されなくなる。
戦後生まれでありながら、戦後の時代精神を自らのものとすることができずに戦前生まれの祖父の知識・情報に自分の思考を預けて、何ら考えもなくそれを自分の知識・情報として、戦前の時代の思想・精神を称揚する。勿論、言うまでもなく安倍ちゃんのことである。これも日本の美しい歴史・伝統・文化となっている権威主義及び暗記教育の成果であろう。
国会議員にも認知症検査を
警察庁が来年の道交法改正に向けて『高齢者運転者に認知検査』(06.10.12.『朝日』夕刊)を義務づける方針だと新聞が伝えている。
「対象は70歳以上」ということだが、記事によると、「認知症は、02年施行の改正道交法で免許の取り消しや停止の行政処分の要件に盛り込まれた。年代別の有病率を基にした同庁の試算では、認知症の疑いがあるドライバーは30万人に上るのに、認知症が理由で免許が取り消されたり停止されたりしたのは、同年以降、今年6月までで計192人にすぎない。
処分のきっかけは、6割は家族からの相談、2割弱は交通事故を起こした際の言動だった。実際には認知機能が低下しているのに本人の自覚がないため、発覚しないケースが多いと見られる」
高齢社会化に連動して高齢運転者の増加、当然高齢運転者の事故増加というふうに漸増曲線を描き、その上昇値だけではなく、事故予備軍の恐れある存在という点でも無視できなくなってきたということなのだろう。「70歳以上の免許保有者は05年末で540万人。10年末には免許保有者の12人に1人に当たる676万人なると推計されている。この年代による死亡事故は増加傾向にあり、1万人当たり1・4件。全免許保有者の平均0・8件の2倍近くに上る」(同記事)としている。
認知症は年齢に関係した病気であるとは限らないし、認知症に関わって問うべき資格は車の運転能力だけとは限らない。国民が最も問題としなければならない認知症は、国民生活に直接関係してくるにも関わらず、日本の政治を扱う国会議員たちの自らの務め・責任を打ち忘れて省みない認知不能症状、つまり政治無能力を措いて他にあるまい。
自分が掲げた公約をすっかり忘れてしまうか、公約とは違うことをする国会議員、与えられた任務を果たすどころか、地位を利用して私利私欲にのみ走る国会議員、大臣になるためにだけ国家議員をしている政治家、単一民族発言や「創氏改名は朝鮮の人たちが『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」(麻生)とか、南京虐殺を否定したり、中国謀略説にすり替えたりする歴史認識に関わって問題発言をしては謝罪を繰返す国会議員等々は重症の認知症患者に当たると言う他ない。その他にも「実際には認知機能が低下しているのに本人の自覚がないため、発覚しないケースが多い」ことだろうから、そういった政治家を国会議員として飼っておくことは税金のムダ遣い、国家の損失以外の何ものでもなく、ムダ遣い・損失を予防するために年齢に関係なく全国会議員を対象に認知症検査を行うべきではないだろうか。
検査によって「本人の自覚がないため、発覚」することがなかった認知症議員を掘り起こし、既に明らかに認知症に罹っていると外見から分かる安倍や麻生、古賀誠といった国会議員等を加えて、その任務に堪え得るだけの知能をまだ残しているかどうかを判定し、残していないほどに認知症が進行しているということなら、国会議員の資格を剥奪できる法律を施行すべきではないだろか。この美しい国・日本の平和のために。
美しい国は美しくない政治家・国会議員の排除によって獲得することができる。
安倍首相が就任前の自民党総裁選時に大学入学を現行の4月から9月に変更し高校卒業後の4月から大学入学の9月までの5ヶ月間を「例えばボランティア活動やってもらうことも考えていい」と自身の教育政策の一つに考えていることを表明した。
「やってもらうことも」としているが、安倍晋三のその国家主義の体質からして、最初は控えめ、「ボランティア」が「奉仕活動」と名前を変え、全国一斉の義務化への衝動を抱えているに違いない。
あるブログ(+++ PPFV BLOG +++)から辿りついた東京新聞の記事(『ボランティア義務か おかしくないか』06.10.5)に「著書『美しい国へ』でも、共生社会創造のためには、最初は強制でも若者に(ボランティアの)機会を与えることに大きな意味があると記している」と書いてある。
売れないお笑いタレントのダジャレを真似したみたいに「共生」と「強制」を引っ掛けたとしたら、これは悪い冗談となるが、本人の頭の中では「共生」と「強制」はこっそりと〝共生〟しあっているのかもしれない。「共生」=「強制」だと。イコールであってこそ、国家主義者足り得る。常々言っている〝愛国心〟も輝きを放ち出す。
「最初は強制でも若者に(ボランティアの)機会を与えることに大きな意味がある」
どう「意味がある」のだろう。ただ直感的な言い回しでは、当方のような頭の悪い人間は理解できず、眠れない夜を過ごさなければならなくなる。
「すべての子供に高い学力と規範意識を身につける機会を保障するため公教育を再生する」ことを政策として掲げているが、「強制」した「ボランティア活動」がどのような学習意欲を刺激して、高校生の規範意識に結びつき、人格形成、もしくは社会意識の涵養につながると考えているのか、直感からではない具体的な説明が欲しい。安倍氏の頭では無理か。
同じ東京新聞に、「東京都が先行している。来年度から、全都立高校で一単位年間35時間の『奉仕』が必修化される
『規範意識を身につけさせる』ことを狙いとし、ボランティアではなく『奉仕』と呼ぶ理由を、都教育委員会は『自発的に行うのではなく、教育課程に組み込み必修とするため』と説明している。活動例では河川の清掃や災害での救護、高齢者介護などを挙げる」とある。
「ボランティア」は「自発的に行う」ものだが、「奉仕」とは「自発的に行う」ものではなく、「必修」という形式の〝強制〟作業だとする解説となっている。「河川の清掃や災害での救護、高齢者介護」等々、様々な活動に振り分ける。あれをしなさい、これをしなさいと。
日本では「規範意識を身につける機会を保障するため」という名のもとに行われる「ボランティア活動」だが、強制性の違いはあるにしても、中国の文化大革命時代、青年及び女子を思想矯正の名のもと指定した農村に移住させるべく強制的に振り分けた〝下放〟と重なる部分があるように思えて仕方がない。あるいはポルポトが都市の知識人住民を農村に強制移住させて、農業に従事させたときの振り分けに重ならないだろうか。
「日本ボランティア学会に属する国学院大学の楠原彰教授(教育社会史)は批判的にみる。
『ボランティアは義務化されるものではない。安倍政権のいうそれは実態としては奉仕のこと。ボランティアは自由な精神が基礎で、奉仕には国家や公に尽くす意味合いが強い』
そのうえで、楠原氏は『ボランティアの基本には公共性や福祉の意味を考える作業があるが、奉仕は国家に思考を預けてしまうことで、若者の自由な批判精神を奪いかねない』と話す」(同東京新聞)
このオッサン、バカなことを言うなあと思った。元々日本人は権威主義を行動様式としているのだから、「自由な批判精神」など満足に機能させているわけがなく、国家だけではなく、自己以外の他者(マスメディアの情報等や上司と言った上位者)に専ら「思考を預け」た自律性・主体性なき国民なのである。
だからこそ安倍晋三の支持率は高いものとなっている。
また安倍晋三は国家主義者なのである。伊達に国家主義者をしているわけではない。特に若者を対象に「自由な批判精神」を持たない日本人の思考を優先的に国家「預け」させ、国家に従属させる。元々それが狙いなのである。
安倍一派の言う〝愛国心〟の具体像は国民の国家への従属の姿なのである。奉仕活動の強制性を利用して元々満足に機能していない「自由な批判精神」を完全機能停止状態に仕向けて完璧なまでに従属精神を植えつける。最後の段階として、その従属性を国家を発揮対象とさせる。そのような国家への従属が〝愛国心〟の完成形となる。国家主義の完成でもある。安倍晋三の勝利の瞬間ともなる。安倍晋三が望む「(国を)命を投げうってでも守ろうとする」とは、国民が命を捧げてまで実践して欲しいとする国家への従属への期待を示す言葉であろう。
このことに対抗する国民の側の有効な方法は、奉仕活動を越えなければならないハードル、あるいはその時期さえ我慢すれば逃れることのできるノルマとすることだろう。権威主義の行動様式に呪縛されて元々自律性・主体性なき国民・民族である。ハードルにするにしても、ノルマと見立てるにしても、いとも簡単にできるはずである。
舌足らずではあるが、国民に公約した
「消費税を言うことが正直なことなのか。消費税から逃げるつもりはありません。しかし消費税に逃げ込むつもりもありません。ムダ遣いを削減する方が先ではないか」
安部センセイ、威勢がよいまでに歯切れよくキッパリと言ってのけた。常に断固とした姿勢を見せること。それが有能な政治家をイメージさせると信じているような歯切れのよさである。それとも器質的なものか、舌が引っかかるときがあるようだから、引っかからないよう、そこに神経を集中して歯切れよくいこうと口に力を入れるあまり、ついつい歯切れのよさが制御不能の状態に陥ってしまって、考えてもいない言葉まで飛び出してしまうのか、論理的合理性といったことにまで考えがまわらないようだ。
「消費税を言うことが正直なことなのか」という言葉は「言うことが」必ずしも〝正直なことではない〟という意味を持たせたものだから、自分が〝言わない〟ことがどう〝正直なことなのか〟を説明しなければ、総理大臣としての説明責任を果たさないばかりか、言葉の点に限っても、舌足らずそのものとなる。
ところがその説明はなく、説明を省く舌足らずを見せたまま、「消費税から逃げるつもりはありません。しかし消費税に逃げ込むつもりもありません」と一気に突っ走る。
ここでも〝消費税から逃げているわけではない〟ことと、消費税を上げることがどうして「消費税に逃げ込む」ことになるのかの説明がない。説明がないから、言葉の威勢が威勢だけの印象を与えるだけとなる。
安部センセイはいわば消費税増税は財政再建策としては〝安易な方法〟だと言っているのだろう。消費税増税といった〝安易な方法〟を取らず、〝ムダ遣い削減〟という、いわば〝安易な方法〟ではない政策を取ると宣言したのである。具体的に言うなら、〝ムダ遣い削減〟を果してから、不足分は消費税増税で賄う財政再建策を取ると公約したのである。そうでなければ、言っていることの整合性が取れない。
ではなぜ竹下内閣は消費税導入といった〝安易な方法〟を政策として選択したのだろうか。政治家・官僚の「ムダ遣い」は今に始まったことではなく、自民党政権下で延々と続けられ、積み重ねられてきたことなのである。〝ムダ遣い削減〟は難しいから、「消費税に逃げ込」んだと言うことになる。
また橋本内閣にしても〝ムダ遣い削減〟政策は取らずに消費税を3%から5%に増税するといった〝安易な方法〟を選択した。だから自民党政治と官公庁のムダ遣いは歴史となり伝統となり文化となって、継続されることとなった。
その尻拭いを安倍内閣で行う。〝安易〟さを捨て、より困難な政策を取る正常な政治の姿に戻すということなのだろう。何と立派な公約だろうか。国民思いの公約である。
但し、〝ムダ遣い削減〟と言っても、各省庁の随意契約といった天下り官僚の私腹を肥やすだけのムダ遣いにしても(公正取引委員会という不正な取引を監視し取締まる役所でさえ随意契約が行われていた)、問題が起きてから、随意契約を少なくし、複数入札制に変えると言い出したことだし、社保庁の自分たちや天下った元官僚を含めた縁故者が甘い汁を吸うだけの不正な金銭操作にしても、防衛施設庁の談合にしても、その他各省庁の裏ガネ問題にしても、発覚してから対策を取り出したことで、政府や官公庁自らが、どのような不正・ムダ遣いがあるかをそれぞれに洗い出して、是正に動いたわけではない。一般常識を超える高額高級施設・低家賃の国家公務員宿舎対策にしても、同じ轍を踏むものである。
言ってみれば、自らが洗い出さないことによって、発覚するまで不正・ムダ遣いを温存し、増長させてきたのである。そういった体質を抱える自民党政府・官庁が自らが洗い出して是正に動く、これまで期待できなかった不正の排除・ムダ遣い削減が今後期待できる方向に転換できるのだろか、その効果の程ははなはだ疑問である。また公務員自体の非能率・怠慢・怠惰がつくり出すムダ遣いの問題も解決しなければならない重要事項であろう。
「消費税を言うことが正直なことなのか」云々が来年夏の参院選までの賞味期限付きの宣言でないことを願う。〝ムダ遣い削減〟優先を公約したのと同じなのである。安倍内閣が存続する限り、消費税増税は〝ムダ遣い削減〟を果してからということにしてもらわなければ、公約違反である。
例え賞味期限付きであったとしても、来年の参院選までの既に1年を切った間に徹底した〝ムダ遣い削減〟を成功させて、効率・公正な政府機構・官庁機構とすることができたなら、公約は果たしたことになる。但し、戦後自民党政治の60年余をかけて積み重ね、垢を洗い落とさないまま汚れるに任せてきた政治家・官僚の不正・ムダ遣いである。1年そこそこでどのような荒療治・大手術でムダ遣い削減の膿が摘出できるか、安倍劇場は見所満載、眼が離せないものとなる。
安倍内閣が消費税増税を言い出したとき、どれ程のムダ遣い削減を行い得たか、検証されなければならない。ムダ遣い削減が不徹底なまま、消費税増税を言い出したなら、安部センセイは自らの宣言を裏切るウソつきと化す。消費税逃げ込み内閣と名づけなければならなくなる。
尤も、「あのときと状況が変わった」とか、「政治は生きものだから」とか言い逃れするだろうことはこれまでのゴマンとある政治家の逃げ口上の前例からして分かりきっていることだが。
安倍晋三はゴマカシの名人
政治家は本来的にレトリック名人(=ゴマカシの名人)に生まれついているようだが、安倍新首相ほどのレトッリク名人は珍しいのではないだろうか。ゴマカシだけで持っているようなところがある。
尤も政治家本人が無能・無政策であって、ボロをさらけ出すしか能がなくても、野球などのような個人個人の成績が明確に出るスポーツと違って、チームを組んでいる優秀なブレーンがボロを補ってそれなりの成果を上げてくれる場合、本人の成果として歴史に残る。逆説的に言えば、無能・無政策の政治家が成果を残す唯一の方法はハッタリや人気を利用してリーダーになることだということになる。
新しく首相の座に就き、野党が待ってましたとばかりに問題となっている歴史認識に関して衆議院の代表質問で躍起となって追求しても、これまで通りの巧妙なレトリックのゴマカシで言い逃れている。
ではと、このブログで、当方の言い放しになるのは重々承知の上で、安部レトリックと対決しようと思う。
その一、A級戦犯に関して、「日本の国内法で裁かれていないのだから、犯罪人だとか犯罪人でないだとか言うのは適当ではない」と従来どおりのレトリックの繰返しで追求逃れるを成功させている。
もし日本人がアメリカで殺人を犯し、アメリカの法律で有罪の判決を受けたとしても、「日本の国内法で裁かれていないのだから、彼のことを犯罪者だとか犯罪者でないとか言うのは適当ではない」と言えるだろうか。安倍首相には言えるようである。
A級戦犯が日本国内で犯罪を犯し、時効まで逮捕されなかったというのではない。中国で領土目的の戦争を起こし、太平洋でアメリカと戦った戦争を計画し、遂行した国家指導者の位置にいた人間たちの戦争行為に対して、戦争に関わった国々が裁いた裁判である。それが例え事後法で裁いた裁判であったとしても、「日本国内」という領域を超えた戦争と戦争犯罪を「国内法で裁かれていないから」と広域性を矮小化して一国主義に持ち込むゴマカシを働いている。
勝者が敗者を一方的に裁いた裁判だとの主張で東京裁判を否定する者がいるが、だったら、なぜ負けるような戦争を起こしたのかという問題が残る。兵士民間人合わせて300万人以上の死者を出し、原子爆弾を2発も喰らい、占領までされた無残な敗戦だった。
その二、「侵略であったかどうか、学問的に確定したわけではない。政府が裁判官になって、白黒をつけることはできない」――
そう発言していること自体が既に安倍晋三なる人間の侵略の有無に関わる〝歴史認識〟上の判断を表すものであろう。但し、侵略かどうかは学問的に永遠に確定しない問題である。つまり、安倍晋三はゴマカシを働いているに過ぎない。
確定できるとしたら、国家権力しかないだろう。全体主義国家が成立し、思想・言論の自由等の基本的人権を法律で禁止して、少しでも違反した者を逮捕、裁判を経ずに収容所にぶち込み、かつての日本の戦争は侵略戦争ではなく、正義の戦争であったと強権的に宣言したなら、国民は右へ倣えして、その宣言に従い、かくして侵略戦争でなかったと確定する。
万世一系の天皇制に価値を置き、置くがゆえに戦前の日本を肯定したい日本人は歴史家を含めて、侵略と認めないだろうし、天皇制に価値を見い出せず、軍国主義が引き起こした戦争だとする日本人は歴史家も含めて、侵略だとするだろうからである。いわばそれぞれの主義主張・立場の違いが対応的に解釈の違いを生じせしめているのだから、「学問的に確定」云々の問題では なく、どちらの主義主張・立場に立つか、どちらの解釈を取るかの問題であろう。
いわば「学問」が決める問題ではなく、主義主張・立場が決める問題である。それを誤魔化して、「学問的に確定したわけでない」とする。しかも自分自身の歴史認識を「政府」の判断事項であるかのように美しいゴマカシまで働いている。
次は青木理氏のHP,ONLY NEWS 「【総裁選】「語録」から見る安倍新総裁 靖国、歴史、改憲、核」から〝安部語録〟を引用してのレトッリク否定。
その三、「日本国民は、天皇とともに歴史と自然を紡いできたんです」(『安倍晋三対論集』)――
この言葉自体も安倍晋三の歴史認識となっている。合理的論理性を欠くものの、熱烈な天皇主義者の正体を露に示している。いや合理的論理性を欠くからこそ、天皇主義者となれるのだろう。天皇と天皇の時代に絶対的価値を置いていなければ、矛盾をきたす言葉となる。
合理的論理性を重視する立場からしたら、天皇は歴史的に名目的な絶対的支配者であり(物部、蘇我、藤原といった豪族、足利、織田、豊臣、徳川といった武家、明治になって薩長勢力、そして軍部が天皇を頭に頂きつつ実権を握っていた)、特に明治以降、「日本国民」は名目的支配者だとは気づかずに崇拝の対象とするよう国家権力に感化されて崇拝するに至り、天皇の名の元に支配される下の位置にいたとするのを歴史の事実とするだろう。いわば各時代の実質的権力者が天皇を絶対者と位置づけることによって国民支配の装置としてきたのであり、そのような絶対的上下関係から言えば(このことを最も具体的に証明する歴史的事実が戦前の不敬罪であろう)、確かに「天皇とともに」あったが、平等な関係という意味では、「天皇とともに」は安倍晋三特有の美しいウソ・美しいゴマカシに過ぎない。被支配者の立場にいたから、支配者である政治権力側の利益に添う扱いを運命づけられていた。当然歴史は天皇とともに国民が「紡」いできたのではなく、支配者が「紡」ぎ、それに従わされたきたに過ぎない。
また「自然」は人間が「紡」ぐものではなく、与えられるもでのある。その自然を鑑賞するのは人間営為の一つであるが、一般的には鑑賞行為と利害行為は関連し合わず、優れた鑑賞行為を見せたからといって、その人間の利害行為が美しかったり、社会のルールに則っているとは限らない。
安倍晋三は日本の歴史と自然の中に自らが絶対とする天皇を置くことで、日本の歴史と自然を含めた全体の底上げを図り、それを以て日本民族を優越せる民族だとする自民族優越意識を滲ませている。こういったことも、合理的論理性を欠くからこそ、別の言い方をすると単細胞だからこそ可能とすることができる民族意識なのだろう。
その四、「国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦にむかって何を思い、なんといって、散っていったのだろうか。(略)死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである」(『美しい国へ』)――
「特攻隊の若者たちは」「国のために死ぬことを宿命づけられた」のではなく「国」が「国のために死ぬことを宿命づけ」たと言うのが正確な言い方だろう。
安倍晋三がここで言う「日本という国」は当然、「特攻隊の若者たち」が生きた戦前の軍国主義、天皇の国を言う。「特攻隊の若者たち」にしたら自分たちが生きた時代の日本という「国の悠久の歴史が続くことを願った」だろうとしても不思議はない。戦後の自由と民主主義、人権の時代を知らず、軍国主義、天皇の国に生き、育ち、それをすべてとしていたのだから。
しかし安倍自身は戦後の自由と民主主義、人権の時代に生きながら、「日本という国の悠久の歴史が続くことを願った」「特攻隊の若者たち」の思いを肯定・賛美することを通して、自らも戦前の軍国主義、天皇の国を肯定・賛美し、その永続性を願っている。
安倍晋三という人間の中に自由と民主主義、人権という価値観と戦前の軍国主義・天皇という絶対主義的価値観とが相争うことなく仲良く寄り添っているようだが、日本人の手による憲法改正と教育基本法改正への意志をみると、戦前への拘りの方が勝っているようである。
その五、「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」(『この国を守る決意』)――
戦争は国家経営の一つの手段である。主たる手段ではない。特に現在の自由と民主主義、人権の時代、戦争は国家経営の一つの手段である役目から、自由と民主主義、人権という価値観を守る手段へと移行しつつある。国家権力は先ずは戦争以外の手段で国家を成り立たせる方策を講じ、国民福祉を確立すべきで、それを「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません」と「命を投げうってでも守ろうとする人」間の存在を先に持ってきて〝国家成立〟の重要条件としている。戦前を戦後に引きずった主張ではなかったなら、こういったことは言えないだろう。
また例え戦争を行うことになったとしても、兵士は死を覚悟して戦争しなければならないだろうが、戦前は例えそうであっても、現在では「命」は「投げう」つものではなく、そのことを目的としてはならないはずである。「命」を最後の最後まで生かす戦術と戦略を国家権力を始めとして指揮官も兵士も創造し、実行しなければならない時代になっているはずである。
「命を投げ打ってでも」という言葉自体が既に戦前の思想となっている。「投げうつ」という言葉の意味を調べてみると、「①投げ捨てる。②惜しげもなく差し出す。放棄してかえりみない」(『大辞林』三省堂)となっている。まさしく「特攻隊の若者たちは」「命」を〝惜しげもなく差し出す〟(=投げうつ)戦争を戦わされたのであり、「命」を〝放棄してかえりみない〟(=投げうつ)戦死を名誉の戦死と褒め称えられ、その報奨に靖国神社に英霊として祀られる栄誉を受けたのである。
「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」――まさしく安倍晋三は戦前の思想をそっくりそのままに受け継いでいる。まるで戦前の国家主義者・天皇主義者の血をそっくりそのまま受け継いで、戦後の世界に亡霊の如くに現れ出たかのようである。
その六、「占領時代の残滓を払拭することが必要です。占領時代につくられた教育基本法、憲法をつくり変えていくこと、それは精神的にも占領を終わらせることになる」(『自由新報』)――
どこにどう「占領時代の残滓」が残っていると言うのだろう。もし「残滓」が残っているとしたら、それは日本人自身の精神の問題であろう。占領終了と同時に誰に命令・指示を受けるわけではなく、日本人が自ら立って時代を歩んできたはずである。「教育基本法、憲法」が例え「占領時代につくられた」ものであっても、日本人自身が自由と民主主義、人権の各精神を体現していたなら、あるいは体現するだけの能力を保持していたなら、「占領時代」を精神的にも心理的にも超え、「占領を終わらせ」ていただろう。
安倍晋三の言っていることを裏返すと、日本人は自由と民主主義、人権の各精神を体現するだけの能力を保持していなかったということになる。もしそうだとしたら、その代表者は安倍晋三自身だろう。何分にも戦前の時代・思想を引きずっているのだから。
要するに戦前の時代・思想を引きずっている精神性が、引きずっているゆえに戦後の自由と民主主義、人権の思想・価値観が認め難いということなのだろう。戦後の自由と民主主義、人権の思想・価値観に戦前の思想・価値観を少しでも注入したい衝動が憲法改正意志・教育基本法改正意志に向かわせているということなのだろう。
その七、「現憲法の前文は何回読んでも、敗戦国としての連合国に対する詫び証文でしかない」(『安倍晋三対論集』)――憲法前文が「
要するに安倍晋三には「敗戦国としての連合国に対する詫び証文」にしか見えない、そうとしか解釈できないということなのだ。
因みに日本国憲法の「前文」を引用してみると、
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
安倍晋三が天皇主義者であることと考え併せて日本国憲法の前文から「連合国に対する詫び証文」と受け取っている可能性のある個所を拾うとすると、天皇ではなく、「主権が国民に存すること」、日本国憲法の「原理に」「反する一切の」「詔勅を排除する」こと。この2点ではないだろうか。安倍晋三は天皇主義者として天皇を国民の上に置き、天皇の公式文書である「詔勅を排除する」との文言が、さも「詔勅」悪者説に読み取れて、「詫び証文」にしか見えない。しかし戦後の自由と民主主義、人権の時代に憲法の上に天皇の「詔勅」を置くわけに行かず、せめて「詔勅を排除する」とする文言を削除して、悪者説から解放しようということなのだろう。
『日本史広辞典』(山川出版社)の【詔書】(詔勅のこと)の説明書きの最後に「天皇の意志が詔書のかたちで施行されるには多くの国家機関が介在した」とある。このことは天皇が名目的絶対支配者であることを証明する説明であろう。
その八、「現在の教育は仕組みと中身双方に問題を抱えています。中身でいえば、まず自虐史観に侵された偏向した歴史教育、教科書の問題があります」(『サッチャー改革に学ぶ教育正常化への道』)――
安倍晋三とその一派の言う「自虐史観」とは日本の戦争を侵略戦争とする歴史観を言い、そのことが認め難く、「侵略であったかどうか、学問的に確定したわけではない。政府が裁判官になって、白黒をつけることはできない」とする侵略未確定説(本音は否定説)となって現れている。これは天皇主義者の立場としては当然の態度であろう。立場上、戦前の日本及び天皇を否定するどのような歴史観も認めるわけにはいかないだろうから。
その九、「日本は、60年にわたって自由と民主主義と基本的人権、そして法律の支配の下で、謙虚に国づくりと国際貢献に励んできた。その間、好戦的な姿勢など一度たりとも示したことはない」(『美しい国へ』)
さすがレトリック名人の安倍晋三である、美しいことを言う。しかし「60年にわたって自由と民主主義と基本的人権、そして法律の支配の下で、謙虚に国づくりと国際貢献に励んできた」戦後の時代は、まさしく憲法の前文に合致する国家運営であるにも関わらず、その前文を「何回読んでも、敗戦国としての連合国に対する詫び証文でしかない」とすることの矛盾、さらに「謙虚に国づくりと国際貢献に励んできた」と誇る戦後60年の肯定と「占領時代の残滓」を引きずっているとする戦後日本がどう重なるのか、決着をつけないまま両論を併記できる矛盾した神経は安倍晋三ならではの神経なのだろうか。
戦後日本は侵略戦争とその敗戦、「占領時代」を踏まえて、それらを教訓として成り立ってきた。「現憲法」の精神を踏まえて戦後日本はあった。それらを踏まえた「60年にわたって自由と民主主義と基本的人権、そして法律の支配の下で、謙虚に国づくりと国際貢献に励んできた」のであって、「残滓」を引継いだとすると矛盾が生じる。憲法前文を「詫び証文」だとすると、戦後日本の発展との整合性はどうともつけようがなくなるのではないか。
その十、「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」(衆院特別委で)――
「教育基本法、憲法」を「占領時代につくられた」ものだ、「つくり変えていくこと」が「精神的にも占領を終わらせることになる」としながら、そのような憲法に「核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」と利用価値を持たせる矛盾がここにはある。「核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有すること」を禁止しない新しい憲法の制定に取り組みますと国民に宣言し、国民の支持を受けてそのように憲法を改正してから、「核兵器であると通常兵器であるとを問わず」「保有」すべきであり、そうすることによって、「占領時代につくられた」ものだ、「つくり変えていくこと」が「精神的にも占領を終わらせることになる」とする主張との整合性が初めて生じるはずである。レトリックの名人と言うよりも矛盾づくりの名人でもあるようである。
その十一、「犯罪者やテロリストにたいして、『日本人に手をかけると日本国家が黙っていない』という姿勢を国家が見せることが、海外における日本人の経済活動を守る」(『美しい国へ』)――
言葉だけは勇ましい限りだが、日本人がイラクでテロリストに拉致されただけで右往左往し、「『日本人に手をかけると日本国家が黙っていない』という姿勢を国家が見せる」どころか、カネで何でも解決する日本人性をモロに発揮して、身代金で解決を図ろうとする。
アメリカはテロリストとは取引しない姿勢を原則とし、その姿勢を厳しく守って、拉致されたアメリカ人が殺害される場面を生じさせてもいる。そういう姿勢を実際に見せてから言うべき言葉であって、実際の姿と異なることを平気で言う。レトリックという問題を超えて、日本という国の姿を客観的に顧みることができない合理的論理性を欠いた破廉恥なゴマカシ以外の何ものでもない。
安部語録に見るレトリックがゴマカシ一辺倒なのはそのためだろう。このようなゴマカシから考えると、北朝鮮の拉致問題に見せている強硬姿勢も口先だけの威勢に過ぎないとしか受け止めようがなくなる。
安倍新内閣で今回教育再生担当首相補佐官に就任した参議院議員の山谷えり子女史が自ら開いているHPに自身の目指す教育政策を「国を愛し、日本人が大切にしてきた品位、節度、調和、正直、親切、勤勉を重んじる精神が含まれるよう、教育基本法を改正します」と紹介している。
山谷えり子女史の主張はかつては「大切にしてきた」が、現在は「大切にして」いなという文脈でそれを「重んじる精神」の回復を訴える内容となっているが、現在の「大切にして」いない状況だけは、山谷えり子女史自身が所属する自民党議員の生態を見ただけで十分に理解できる。自民党総裁選(06年9月)でのポスト欲しさ、あるいは陽の当たる場所欲求から寄らば大樹の優位に立つ安倍支持に向けた雪崩現象の「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」に反する無節操な付和雷同・事勿れ主義を展開することとなった、会社ぐるみという言葉があるが、党ぐるみで演じた狂騒状態がいやでも「大切にして」いないどころか、クスリにもしていないことをご親切丁寧に教えてくれる。
では、以前の政治家は「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった徳目を「大切にしてきた」のだろうか。
いや、政治家といった人種を超えて、「日本人」全体として「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」を「大切にしてきた」のだろうか。「大切にしてきた」とは、「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった徳目を常に自分のものとして発揮してきたことを意味する。常に常に心がけよき国民であった、〝恍惚の人〟ならぬ、美徳の国民、美徳の民族であった。だから日本人は他の民族に優越する優秀な民族なのだということなのだろうか。
もし日本人が「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」を第一と重んじ、忠実にこれらの徳目のすべてを「大切に」演じてきたとするなら、築いてきた社会は平和であった上、争い一つない矛盾のない世界で、それを美しい日本の歴史としてきたということになる。だからこそ、日本の歴史・伝統・文化を美しいと、優れていると誇ることができる。
日本人に限らず、人間は「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった徳目(=人格に於ける肯定面)を常に保持し得るのだろうか。欧米人の人間性悪説に対して日本人の人間性善説からすると、他の人種、民族はいざ知らず、日本人だけは保持してきたということなのだろうか。
もしも事実に反することであったなら、「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」を「大切にしてきた」は、日本人を買いかぶり、過大評価していることになる。日本人自身が日本人自身を買いかぶり、過大評価するということは、個人で言えば自惚れ、民族全体を対象とした評価だとすると、根拠もなしに自民族を優越的位置に置こうとする独善的な自民族優越意識の発露に他ならなくなる。
山谷えり子は事実を言っているのだろうか。ニセモノ人間程、自己の家柄や地位を誇ったり、自民族の優越性を言い立てて、自分自身をそれらに紛れ込ませて自己のニセモノ性を隠そうとする。カラッポ人間が有名人や著名人の中に混じって、彼らの栄光を借用して自己のカラッポをカモフラージュするようにである。
いわば根拠もない自民族優越論で日本人を持ち上げて、自身をもその中に紛れ込ませ自らのニセモノを隠すトリックを行っているのだろうか。
「大切にしてきた」を事実としよう。但し、「大切にしてきた」のは戦後のことではなく、戦前の時代であるはずである。山谷えり子女史は熱烈な安倍支持派で、新首相となった当の安倍氏から教育再生担当首相補佐官という仰々しい名前の職に任命されたのである。教育観ば常に独立した思想ではなく、政治思想と相互に深く関わる。政治思想に於いても安倍氏に通じるものがあることを任命理由としているはずである。
さらに安倍氏は「戦後レジーム(戦後体制)からの脱却」を掲げ、戦後に制定された現日本国憲法を日本人自身がつくったものではないから、日本人自身の手でつくるべきだと改憲を主張している戦後否定に立つ政治思想の持ち主である。その同調者である山谷えり子女史が戦後も「大切にしてきた」とすると、安倍氏と思想・立場を異にすることなり、熱烈支持との整合性を失う。ポスト欲しさ・陽の当たる場所欲求からの支持だとすると、整合性を獲得し得るが、今度は「品位、節度、調和、正直」を「大切にして」いない人間ということになり、そんな人間が「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉を重んじる精神が含まれるよう、教育基本法を改正します」などと言う資格はないという新たな美しい矛盾を生じせしめることになる。
また、戦後とすると、戦後のどこの時点で「大切にし」なくなったのか、その原因は何かを明らかにしなければならない。敗戦と敗戦を受けた外国の占領を転換点として日本人の精神が変質したとするのが尤も分かりやすい説明であろう。だからこそ安倍晋三は戦後外国人の手でつくられた日本国憲法と教育基本法を変えたい衝動を隠さない。
日本に於ける戦前という時代、日本人は「国を愛し」、「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった精神、徳目を「大切にしてきた」。
と言うことは、戦前の日本は「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」を「大切に」する人格者で溢れ返っていたことになる。日本の戦前の天皇の時代は矛盾のない社会だった。その時代は明治・大正も含めなければならない。同じく天皇の時代だったからだ。
戦前「国を愛し」たのは事実だろう。但し、客観的認識能力も合理的論理性も欠如させた、単に安っぽい感情に流された付和雷同の愛国心でしかなかった。国のプロパガンダに考えもなく無批判に同調した中身のない愛国心だった。国家権力は国民の命を粗末に扱い、国民は国家権力のために自らの命を粗末に扱った生命軽視の愛国心だった。そのことは戦争遂行の体力を完全に失いながら、国民の今後を考えることよりも天皇制の国体護持にのみ拘ってポツダム宣言の受諾を無視し、2発もの原爆投下を誘発して国民の生命をムダに犠牲にした美しい事実・美しい歴史がものの見事に証明している。
自民党の単細胞な保守系政治家は単細胞なるがゆえに「愛国心」なるものをすべて善の価値観で把えて疑わないが、「愛国心」にも善と悪がある。〝善〟だけだとすると、北朝鮮国民のキム・ジョンイル崇拝は善と価値付けなければならない。戦前の「国のために戦った」、「国に殉じた」の「国のために」、「国に」の愛国心を善と把えているからこそ、靖国神社に堂々と参拝できる。兵士の愛国心を善とするには、それを発揮した時代・局面をも善と見なさなければ、整合性を失う。即ち日本の戦前と戦前の戦争を善とする価値づけが必要となる。善と価値づけているから、「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」などと言えるのだろう。
「俘虜たちは彼らの現地指揮官、とくに部下の兵士たちと危険と苦難とをともにしなかった連中を口をきわめて罵った。彼らは特に、最後まで戦っている令下部隊を置去りにして、飛行機で引きあげていった指揮官たちを非難した」(『菊と刀』R・ベネディクト著)といった「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」に美しくも反する裏切り行為は天皇の兵隊・大日本帝国軍隊の上官が演じた醜態ではなく、どこか別の国の軍隊の物語であろう。「国を愛し」、「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉を重んじる精神」、それらを「大切にしてきた」日本の軍隊にはあり得ない反調和的行為である。特に「現地司令官」ともなれば、常に愛国心を言い立て、愛国心の発露を部下の兵士に求めてきた立場の人間であろう。それを自ら部下を裏切り、愛国心を裏切ったなどと、ありようのない事実としなければ、山谷えり子女史の主張は整合性を失う。ニセモノ人間のニセモノの主張と評判を落とし、ニセモノ尽くしの烙印を押されることになる。
それとも部下を置き去りにして自分だけ逃げることが愛国心だと言うことなのだろうか。単なる兵隊でしかない部下の命はどうなってもいい、自分の才能は今後国家に役立つかもしれない重要な人材だから、生きながらえることが国家の利益に適う、それが愛国心と言うものだと真っ先に逃げ帰ったと言うわけなのだろうか。
また戦争中の日本兵士たちの残虐行為は、命令した上官の意識も含めて、「国を愛し」、「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった日本人が常に担い「大切にしていた」道徳性が可能とした残虐行為だったということだろうか。
戦前の日本の小学校の殆どの校庭に二宮金次郎の銅像が建っていたという。前屈みになった背中に薪を背負って運んでいる最中でも本を開いて勉強に励む姿の銅像で、それは労働と勉学に「勤勉」である姿を象徴している。但し山谷えり子女子の言う「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」はそれぞれが単独で成り立つ徳目ではなく、相互関連し合い、それぞれが重複し合う徳目のはずである。いわば「勤勉」は他の「品位、節度、調和、正直、親切」にも波及する徳目であって、「勤勉」は他の徳目をすべて含んでいると言える。二宮金次郎は労働と勉学に「勤勉」であることによって、「品位、節度、調和、正直、親切」をも獲得していたはずである。
そのように「勤勉」さを通してすべての徳目を担っていることを示す銅像を小学校に配置する目的は、小学生に二宮金次郎を理想像とする道徳的人間を求めていたからに他ならないだろう。銅像だけで足りなくて、国定教科書にも二宮金次郎の「勤勉」物語を書き入れ、唱歌にも謳った。
そうまでしなければならなかったことの裏を返すなら、当たり前のことだが、そうまでする必要があったからだろう。これでもかこれでもかと「勤勉」の見本を示して、見本どおりの人間に改造しようとした。そのことの裏をさらに返すなら、改造するためには銅像から物語り、唱歌までの教材を必要とする程に入学してくる生徒が上の人間が望む「勤勉」さ、あるいは道徳性を身につけていなかったからだろう。
もし親が「勤勉」という徳目を「大切にしてい」て、その他の関連し合う「品位、節度、調和、正直、親切」を身につけていたなら、いわば美徳としていたなら、子供は親の「勤勉」を通して「勤勉」さと共に「品位、節度、調和、正直、親切」といった徳目まで自然と刷り込まれて受け継ぎ、学校が銅像から教科書の物語、唱歌まで用意しなくても、「勤勉」さだけではなく、「品位、節度、調和、正直、親切」をも発揮し、「大切にし」ただろう。そうではなかったから、二宮金次郎の「勤勉」さと、それが代表する「品位、節度、調和、正直、親切」を借りて、涵養に努めなければならなかった。
戦後の小学校の校庭に二宮金次郎像が残っていたと言うことは、「勤勉」に代表させた徳目・道徳性の植え付けが学校教育に於ける永遠の課題だったことを示している。つまり、権力が望むどおりの徳目・道徳性を獲得させるには常に尻を叩いていなければならなかった。銅像から教科書の物語、唱歌まで用意した命令と強制に依存した植え付けだった。そこまでしなければならなかった「勤勉」を通した徳目教育・道徳教育だった。
この種の命令と強制性は戦前の日本が天皇のいわゆる御真影でそうさせたように、北朝鮮がありとあらゆる職場、学校、家庭にキム・イルソンとキム・ジョンイルの肖像写真を飾らせ、二人への崇拝を強制させていることと同質の小学校版ではなかっただろうか。違いは命令と強制性の強弱の違いだけだろう。
〝崇拝〟とは信仰の対象とすることである。個々の人間がそれぞれ独自に信仰の対象を求めるのではなく、上の立場にある人間・組織が信仰の対象を用意した場合、そこに命令意志、もしくは強制性が入る。日本全国殆どの小学校に二宮金次郎の銅像を建て、教科書に書き、唱歌にも謳う、その一律性自体が既に命令意志と強制性の介在を証拠立てている。
上の者の直接的な命令意志と強制性を写真や銅像、歌などといった他の素材に代行させて間接的な命令と強制に変える。そういえば北朝鮮ではキム・ジョンイルを讃える歌と踊りを幼稚園児から小学校生徒にまで歌わせている。二宮金次郎の国定教科書に書き入れた物語にしても唱歌にしても、一種の讃えであろう。
要するに、戦前の日本の「国を愛し、日本人が大切にしてきた品位、節度、調和、正直、親切、勤勉を重んじる精神」は国家権力の強制が少なくとも関わっていた。教科書が〝国定〟であること自体、既に命令と強制の要素を含んでいる。自律的に育み、自律的に獲得した徳目・道徳性ではなかった。例え「勤勉」さを発揮する人間となったとしても、強制に添い、強制を満たす従属からの見せかけの「勤勉」であったから、その子どもが親になっても次の子供に受け継がれることもなく、学校は二宮金次郎を使った「勤勉」教育を延々と再生産しなければならなかった。だから敗戦と同時に雲散霧消の運命に出会った。占領とかアメリカナイズとは無関係であろう。
一方の山谷えり子女史は教育基本法に〝国を愛する心〟や「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」の文言を入れて、生徒にそれらの徳目・道徳性を身につけることを求め、そういった「精神」を備えた人間をこれからの日本人の理想像と見なして、生徒の目指すべき人間の目標としている。
言ってみれば、戦前の小学校が二宮金次郎像を置くことで生徒に「勤勉」を求めたことと、戦後の山谷えり子女史が〝愛国心〟とか「品位、節度、調和、正直、親切、勤勉」といった文言を入れた「教育基本法」で、それらの徳目を学校生徒に求めようとしていることと対応しあっている。
他者に対する要求行動には、相手が持っているものを要求する場合と、相手が持っていないものを持たせようと要求する場合がある。二宮金次郎像も山谷女史の徳目も、相手が持っていないから、持たせようとする要求を動機としているはずである。既に持っている徳目・道徳性なら、要求する必要は生じないからだ。
とすると、「大切にしてきた」時代が戦前あったとしたとしても、戦後の一部だとしたとしても、どちらであっても、「大切にしてきた」という事実自体が存在しなかったウソということになる。簡単に言うなら、山谷えり子女史は自分の言っていることがウソだと気づかずにウソとなる事実を言っていることになる。
戦前の国家が小学生に対して二宮金次郎の銅像や国定教科書の二宮金次郎物語、あるいは唱歌の中の二宮金次郎像を媒介としたのに対して、現在の国家は改正教育基本法や改正憲法を媒介としてさまざまな徳目要求を果たそうとしている。対象は小学生だけではなく、中学生や高校生にまで広げるものだろう。
このことは戦前の徳目要求が、掲げた徳目を人格化し得ないままに推移し、現在に至っていることをも示している。だからその途中過程で、「部下の兵士たちと危険と苦難とをともにしなかった」「現地指揮官」や「最後まで戦っている令下部隊を置去りにして、飛行機で引きあげていった指揮官たち」といった人間の出現・美しいばかりの酷薄な利己主義を可能としたのだろう。
人間は自己利害の生きものであり、自身の置かれた状況・環境に対応して自己利害に即した行動を取る。そうすることが自己を肯定することであり、それに反することは自己を否定する行為となる。勿論、人によって肯定・否定の基準は異なる。
「令下部隊を置去りにして、飛行機で引きあげていった指揮官たち」はその場にとどまれば生きて不慮の辱めを受けることになる、いや最悪自分たちの命さえ失うかもしれない、そういった戦闘状況にあると判断して、それを回避するためには部下を置き去りにしてでも「飛行機で引きあげて」いくのが得策とした美しいばかりの自己利害最優先の行為だったのだろう。
人間の事実でない姿・ウソの現実の上に何らかの理想を築こうとしても、ウソの姿と理想の姿とはつながりようがないのだから、それをつなげようとしたら、無理が生じるだけである。二宮金次郎は人間の一般性を超えた稀有な存在だったのだろう。
ウソを隠して過去の日本人を美しく装わせ、その姿の学びを強制したとしても、戦前も含めた以前と違って、今日の情報社会の過剰なまでの情報が簡単にウソを暴露して、反撥か、反撥を抑えならなければならない状況下にある場合は形式的な従属を収穫とするだけだろう。
敗戦から戦後時代に至る一時期まで子供にとって教師・親も含めた大人は権威主義の力がまだその力を維持していて、恐い存在だった。子供という年齢が大人たちの実際の姿――大人の現実の姿を見抜く能力を身につけさせるまでに至っていないことも幸いして、その無知が恐い存在であることを許してもいた。しかし今や小学生の子供にまで、社会の過剰なまでの情報が大人がどういう生きものなのか暴露してしまい、大人なるもの、教師なるものがどんな存在か、そのメッキを剥がしてしまっている。特に学校社会で日常的に接することになる教師が教え子の女子を誰もいない教室に呼び出して身体に触ったり、出会い系サイトで知り合った女子中学生や女子高生をホテルに連れ込んで2万円とか3万円とかのカネを渡してエッチな行為に及ぶことをいやでも情報で教えられてしまい、そのような教師に「勤勉」だ、「品位」だ、「節度」だと教えられても、誰が信用するだろうか。
例えそんなことをしない教師であっても、小学生の教師が5,6年生の身体の大きな女子の発育のいいバスとに、あるいは中学校の教師がついバストの大きな女子生徒の胸に視線がいってしまう。それは自然な行為でもあるのだが、見られた生徒は情報社会の情報の影響を受けて教師の生きもの性を教えられていることと世間の情報と同じように自分自身を話題にして情報の一つとしたい情報欲求から、たまたま一度視線を向けただけだとしても、小学生なら、「いやらしい目で私を見た」、中学生なら、何度もジロジロ見るようなことを言い、「奥さんがいるのにいやらしいエッチ男。陰で何をしているか分かりゃしない」と誰彼なしに言い触らす主演を演じて、その結果より多くの教師がエッチ教師という美しい名誉ある無実の称号を賜りかねない時代でもある。
早実のハンカチ王子の試合に若い女性からオバサンまで大挙して殺到するのは情報社会ならではの現象だろう。自分自身もその場に加わることによって、情報が与えてくれて、自分たちの手によってもつくり上げた輝かしい世界に輝かしくして浸り、一大満足した後日常生活に戻ってから、家族や友達といった身のまわりの人間に単なる話題でしかないことを自身の一大情報として、情報を発する喜びを得る。
信用されない存在と化している教師が徳目教育を行う。小学校高学年か中学生以上になると、「偉そうな口を聞きゃがって、そんな資格がるのか」と反撥して、私語を囁いたり、席立ちしたりの反抗的態度に出る。あるいは「利いたふうな口聞くな」と直接暴力を振るって思い知らせる。
しかし怖い存在である教師の場合は、その教師が目の届く範囲では、内心の反撥を隠して形式的に教えに従属する態度を示すだろう。
教師とは、コンピュータ技術を学んでコンピューター技師という職業に就くのと同じように、教える技術を身につけて教師を職業として選択しただけの人間に過ぎない。教師と生徒との関係は他の社会の人間関係が必要とするのと同じ節度を必要とするだけで、特別な節度が必要というわけではない。当然その節度を守らなければならないが、教師が男である場合は、つい胸に視線がいってしまう場合もあるし、ミニスカートから覗いた太腿を見てしまうこともある。それ以上の欲望を抑えるのが必要とされる節度であって、それが守れない教師もいる。人間は元々俗っぽく出来上がっている。品位なんか獲得できる人間はそうはいないだろう。
品位はとても獲得できないから除外するとしても、節度や勤勉、正直が必要なのは、そういった徳目を守って懸命に生きている人間がバカを見たり損をしないためだ。不正直に狡いことをやってカネ儲けしたり、財産を築いたりしたのでは正直に生きている人間に不公平を与えることになる。社会の公平を保つために、みんなが同じように節度や勤勉、正直である必要がある。しかし世の中を見ると、政治家・官僚を筆頭に、教師も結構仲間入りしているが、悪いことをする人間ばかりで、実現は非常に難しい。なかなか人間は利害の生きものであることから抜け出れないだろうから。
例え教師が信用されていない存在だとしても、人間の現実の姿を正直に言う教えの方がより説得力を持つだろう。ウソではないことが情報によって暴露されない強みを備えているからだ。
このことは政治家にも同じことが言えるはずである。歴史認識を表面的に変えて外交の修復に努めたとしても、信頼できる関係にまで至らないだろう。
人間の事実でない姿・ウソの現実からの出発は元々奇麗事でしかないウソの上に見せかけのウソを塗り固める作業でしかない
山谷えり子参議院議員及び教育再生担当首相補佐官の教育基本法に反映された場合のウソが教育の場でどこまで通用するか見ものである。
戦前の二宮金次郎像ほどの効果もないだろう。情報社会の情報がウソを教えてしまうだろうから。
晋三は〝心臓〟に通じる
10月6日(06年)の朝日社説が『安倍首相へ 歴史を語ることの意味』と題して、安倍首相の歴史解釈態度を批判している。
概略を引用すると、大部分だが、「首相は保守とは何かと聞かれて、こう答えた。
『歴史を、その時代に生きた人々の視点で見つめなおそうという姿勢だ』。言いたいことは、侵略や植民地支配について、今の基準で批判するのではなく、当時の目線で見よということなのだろう。
この考えは、歴史について半分しか語っていない。過去の文書を読み、歴史上の人物の行動を理解するとき、時代の文脈を踏まえることは言うまでもない。だが、それは出発点に過ぎない。
さらに一歩進んで、歴史を評価するとき、その時代の視線を尺度にしたらどうなるだろうか。歴史には様々な暗黒面がある。人間が人間を動物のように扱う奴隷制や人種差別、ホロコーストなどの大量虐殺。それぞれはその体制下では問題にされなかった。
私たちは時代の制約からはなれて、民主主義や人権という今の価値を踏まえるからこそ、歴史上の恐怖や抑圧の悲劇から教訓を学べるのである。ナチズムやスターリニズムの非人間性を語るのと同じ視線で、日本の植民地支配や侵略のおぞましい側面を見つめることができるのだ。
安倍氏の言う歴史観は、歴史の持つ大切な後半部分が欠けている。」――
さらに「肝心なことになると、歴史家の評価にゆだねてしまう」逃げの姿勢を批判している。
「ゆだね」なければ自分に都合が悪いからで、都合がいいことなら、必要ないことまで滔々と喋り立てるに違いない。このような姿勢を以て、美しいばかりのご都合主義と名づけなければならないのは言うまでもないことだろう。
社説は最後にこう述べている。「5日の衆院予算委員会では、村山談話など個人として受け入れる考えを示し、従来の姿勢を改めつつあるものの、民主党の菅代表代行に満州事変の評価を問われると、『政治家は謙虚であるのが当然であろう』と答を避けた。
安倍氏は民主主義や平和を重んじてきた戦後日本の歩みは誇るべきだと語っている。ならばその対比としての戦前にきちんと向き合ってこそ説得力を持つ。
政治家が歴史の前に謙虚であるべきなのは、チャーチルに見られるように、現代の行動の評価を後世がするという緊張感からなのだ。単に歴史を語らないのは、謙虚ではなく、政治家として無責任、あるいは怠慢と言うしかない。」――
「歴史家の評価にゆだね」るの「歴史家」とは安倍氏もときに応じてその言葉を付け加えているように〝後世〟の歴史家を指さなければならない。現在の「歴史家の評価」は既に出ているからである。その「評価」にどう対応するか、自らの態度を明らかにしなければならない。明らかにしないで済ますには、あくまでも〝後世〟に先送りしなければならない。
また「ゆだね」るが後世の「歴史家の評価にゆだね」た解釈に自己の考えを単に従属させて自己の歴史解釈とする「ゆだね」るなら、歴史に対する冒瀆を為す無責任な態度であるばかりか、一国の総理大臣でありながら、歴史に対して自分の考え・解釈を持たないことを意味する。
相手が歴史家であろうと誰であろうと、それらの歴史解釈を自分がどう解釈するか、その是非を問うには、自分なりに歴史を解き明かした考え・解釈を持っていることを前提とし、比較対照の過程を経なければならない。そのような前提と過程を踏むに至る自分なりの考え・解釈も持っていない人間に、後世の「歴史家の評価にゆだね」る資格はない。
さらに言えば、すべての歴史家の「評価」が常に一致するとは限らないという考えは安倍晋三の念頭にはないようである。これはご都合主義からではなく、単細胞だからできる判断排除であろう。但し、歴史家が「評価」を示したとしても、自分の主義主張に都合の悪い「評価」は自己利害から排除するに違いない。これは安倍氏が既に行っていることで、まったくもってご都合主義が為さしめる取捨選択であろう。
現在に於いても東京裁判を肯定する歴史解釈と否定する歴史解釈が併存するが、安倍氏は否定する歴史解釈に立っている。そのことの是非は別として、自分なりの歴史解釈を持っていいることを示す。それを「後世の――」というのは、都合の悪いことを韜晦しようとする美しくとも薄汚い欺瞞行為に他ならない。
社説には触れていないが、「歴史を、その時代に生きた人々の視点で見つめなおそうという姿勢」と「(後世の)歴史家の評価に委ねる」姿勢は正反対の相異なる認識作用を成すもので、安倍〝心臓〝という人間の中で実際には相互矛盾を成す価値判断が混乱も仲違いも起こさずに仲良く共同生活を営んでいるようである。これもご都合主義者だからできることなのだろう。
時代時代の「視点」とは価値観と同義語を為す言葉であろう。一般的には時代の価値観の影響を受けた〝視線〟を持つ。後世の歴史家の「視点」(=価値観)は、後世に行くほど「その時代に生きた人々の視点」(価値観)から遠ざかることになる。「歴史を、その時代に生きた人々の視点で見つめなお」す(=その時代に生きた人々の価値観で見直す)歴史に関わる安倍氏の言う評価方法が正当性を持つとすると、後世の歴史家の歴史評価は、当然視点(=価値観)を違えているのだから、不可能の宣告を受けなければならなくなる。
例え「その時代」の「視点」(=価値観)を書物やその他の情報から知り得たとしても、あくまでも刻々と移り行く現時点にある時代の「視点」(=価値観)を通した「その時代」の「視点」(=価値観)解釈であって、解釈者の時代の「視点」(=価値観)の影響を受けた解釈となる。
例えば現在の時代の民主主義や人権の価値観を知らない者が戦前の日本の歴史を解釈したとしたら、どうなるだろうか。戦前を肯定する人間が、例え口で民主主義、人権をどう言い立てようとも、口で言うだけのものでしかなく、実際には民主主義や人権の価値観を知らない者であろう。知らないからこそ、戦前回帰の衝動を持つ。
戦前の歴史肯定に〝時代性〟を持ち出すが、民主主義や人権の価値観を知らないからこそできる、自らの歴史評価を戦前の時代の価値観に委ねる認識作用・価値判断以外の何ものでもない。
戦前と同じ時代(軍国主義の時代)が到来したら、二つの時代はほぼ視点(価値観)を同じくすることとなって、その時代の後世の歴史家は戦前の日本を肯定的に判断する可能性は生ずる。安倍氏はそのような時代を待っているのだろうか。だとしたら、安倍首相の政治はそのような時代を意志した政治となる。少なくとも意識の中ではそのような時代を望むことになるだろう。既に憲法改正意志及び教育基本法改正意志の中にその兆候は現れてはいる。
社説は安倍首相が「村山談話など個人として受け入れる考えを示し、従来の姿勢を改めつつある」としている。同じ日付けの別記事でも「安倍首相は5日の衆院予算委員会で、アジア諸国への『植民地支配と侵略』を認め、謝罪した村山首相談話について『国として示した通りであると、私は考えている』と述べた。従軍慰安婦問題で軍当局の関与と「強制性」を認めた河野官房長官談話に関しても「私を含め政府として受け継いでいる」と答弁。首相はこれまで両談話について『政府の立場』を説明してきただけだったが、個人としても受け入れる考えを初めて示した」(『村山・河野談話、個人としても受け入れ 安倍首相答弁』06.10.6.『朝日』朝刊)と見方を同じくしている。
だが、「村山首相談話について『国として示した通りであると、私は考えている』」、「河野官房長官談話に関しても『私を含め政府として受け継いでいる』」と報道している言い回しを仔細に眺めてみると、「国」及び「政府」を主体的位置に置き、あくまでも「私」を従に置いた文脈となっている。
村山談話に対しては「国として示した通りであると、私は考えている」となっているが、「私」自身が自らの歴史認識に従って「示した」主体的意志からのものとはなっていないし、特に河野官房長官談話に関しては、「私を含めて」いるものの、「政府として受け継いでいる」と「政府」を主体的行為者としていて、当然政府を離れた場合の「私」は踏襲に無関係とすることができる。
「私」自身が歴史認識を同じくして「受け継いでいる」としていたなら、「政府として受け継いでいる」といった言葉は出てこないだろうし、またその歴史認識は「私」自身に所属する認識であって、政府に所属しているしていないに関係ないものとなる。
このように歴史認識に関わる持ってまわった曖昧な言い回し、自己を従の位置に置こうとする発言は中国・韓国との関係修復に障害となる歴史認識の違いを表面的に正し、相手を納得させるためだけのご都合主義が否応もなしに仕向けてしまったものだろう。
中曽根元首相は在任当時〝風見鶏〟と評されたが、安倍新首相は中曽根元首相を上回る〝風見鶏〟であり、その美しいばかりのご都合主義は学校教育でも学ばせるべく、改正すべく目論んでいる教育基本法に自分を次世代の日本人の理想像と位置づけて、人間は〝風見鶏〟であるべしの文言を入れるべきではないだろうか。日本の首相にこのようなご都合主義者を抱えて、国民は幸せとすべきである。
安倍首相が首相就任後初の外国訪問として8、9日(06年10月)の日程で中国・韓国を訪問し、両首脳との会談を行うという。記者団に対して「日本はアジアの一国であり、アジア外交を重視すると(自民党)総裁選でも申し上げた。しっかりと政権のスタートにあたり実行していきたい」(『首脳会談 8日中国9日韓国』06.10.3.『朝日』朝刊)と語っている。
例え「申し上げた」としても、これまでの安倍氏の態度を裏切る美しいばかりの「アジア外交を重視」である。安倍氏はこれまで散々「アジア外交」を軽視してきた。何を以て安倍氏をして「アジア外交を重視」の姿勢に転換させたのか。
中国・韓国は両国の靖国神社参拝中止要求を撥ね退けて毎年参拝を強行する小泉首相に対して首脳会談を拒否してきた。いわば中国・韓国が首脳会談開催に関して靖国参拝の中止を条件化したのに対して、小泉首相は「中国や韓国が参拝を理由に首脳会談を行わないのは理解できない。そんな国は中国や韓国だけだ」と、そのような条件化に反撥を隠さず、退任前には公約であった8月15日参拝を強行して、中国・韓国側の条件化を一方的と拒否し、両国の神経を逆撫でしている。
安倍首相にしても官房長官時代の今年の6月に、「いかにも居丈高な外交だ。問題を解決しなければ会わないという外交を許せば、別の問題でも『やりませんよ』ということになる」と厳しく中国を批判している。このことは前々から言っていた、「靖国参拝問題で一度譲歩したら、次々と問題を持ち出して、そのたびに譲歩を求めるようになる」とする主張を性懲りもなく繰返したものだろう。
こうも言い替えている。「中国は共産党一党独裁で、国民の自由もない。国民の不満を抑えるために、日本軍を破り、中国を解放したのは中国共産党だと、一党独裁の正統性を訴えるためにも、愛国教育を利用している。首相の靖国神社参拝に反対するのも、中国国民に日本を悪だと説明している手前からで、中国の言うことを聞いて、参拝をやめたとしても、それだけで終わらない」
ミソクソにけなしている。中国アレルギーと言ってもいいくらいに中国を毛嫌いしている。かくこのように一貫して中国に対して強硬姿勢の持ち主であった。「会わないという外交を許」さない姿勢を撤回して、自分の方から「会」に行くというのである。これを美しき豹変と言わずに、何を豹変と言っていいか分からなくなる。
小泉前首相の靖国参拝は国内問題であり、「心の問題」とする姿勢に同調して、安倍新首相も小泉内閣の幹事長代理時代に、「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」と日本の首相は靖国参拝を「責務」とすべしの態度を示している。これは安倍氏の首相就任によって、公約と化す。
と同時に、この〝公約〟は中国・韓国の外交姿勢を「許」さないという強硬姿勢に符合させた、中国・韓国の反対を問題とするな・問題にしないとする「アジア外交を重視」に冷たく距離を置くシグナルとなる態度表明であろう。
そのような反「アジア外交を重視」を埋め合わせる自己正当化の整合策が「政経分離」政策であろう。小泉前首相の靖国神社参拝続行姿勢と中国側の首脳会談拒否との間で選択を迫られた止むを得ない政策に見えるが、強硬姿勢一辺倒が日本の外交を袋小路に追い込んだ果ての手にするしかない政策であったはずである。自然な関係ではないからだ。
中国との政治関係の冷却によって日中の経済関係も冷却して日本の経済が停滞するのは困るが、日本の経済の停滞は中国の経済にも悪影響を及ぼす運命共同体にあるわけで、停滞しない以上、政治関係が冷却してたままでもいいという「政経分離」が自然な関係とは言えまい。
もし中国との首脳会談のないことが日本の経済に悪影響を及ぼすとなれば、背に腹は替えられないとばかりに参拝を自粛し、頭を下げて首脳会談の開催を申し込むに違いない。主体性なき国民だからである。国内問題ではあるが、自民党は政権維持が困難になったとき、散々批判していた小沢一郎自由党、さらに公明党に頭を下げることまでして連立を申し出て、安定政権を確保した主体性なき前科・歴史を抱えている。除名した郵政反対派議員の復党の考慮も主体性の欠如が発想を可能とする問題であろう。
麻生外務大臣が自民党総裁選でニュアンスを同じくして、「首脳だけ会わずに、経済も他のすべてもうまくいっている状況と、首脳だけ会って、他はみなうまくいっていない状況と、どちらがいいかと言えば、それははっきりしているじゃないですか」と得意げに発言していたが、どちらの関係もそれでよしと片付けるわけにはいかない、いわば改善に向けていかなければならない状況にある関係であるはずが、「どちらがいいか」の選択の問題にすり替え、それで終わらせているのは自分たちが関係改善に向けた打開策を持ち得ない無策の正当化に過ぎないのと同じ線上にある安倍氏の「政経分離」であろう。
安倍氏が取った打開策と言える政策は、「自由、民主主義、基本的人権」の価値観の共有を条件に日米豪インドの4カ国が密接に関係を結び、「この価値観をアジアに広げていく話し合いの場を設ける」とする、「アジア」が対象とは見せかけの美しい偽装で、中国に「広げ」て、「自由、民主主義、基本的人権」のタネを撒き、向こうからテーブルに就かせることを企んだ、相手に警戒心と頑なな態度を誘発するだけの「戦略対話」の提唱であろう。大体がミャンマーの軍事独裁政権には「自由、民主主義、基本的人権」に関わる要求は一切物申さず、最大の経済援助国となっているのだから、「自由、民主主義、基本的人権」にしても単なるご都合主義からの付け焼き刃に過ぎない。
国旗や国歌、愛国心教育、あるいは奉仕活動等の政治権力による義務づけで国民の権利に制限を加えようとする衝動を隠さない国家主義者が「自由、民主主義、基本的人権」の価値観を持ち出すとは、その資格がないだけではなく、美しくとも滑稽な矛盾以外の何ものでもない。
中国・韓国にしても日本との首脳会談を日本の首相の参拝の有無を条件化した以上、首脳会談に応じるためには参拝中止を引き出さなければならない。中国側が要望している「(靖国参拝という)障害を取り除く約束をすることが必要だ」とする姿勢はその代表例であろう。
日本側は否定しているが、中国の在日大使が「自民党外交調査会の講演で、靖国神社参拝に関する『紳士協定』が日中両政府間」に存在し、それは「首相、外相、官房長官の3人は参拝しないとの内容で、口頭で約束された」(05.4.28.『朝日』夕刊)ものだと話している。
「紳士協定」なるものが事実存在しなかったとしても、他の閣僚、ヒラ議員は許せても、「首相、外相、官房長官の3人」の参拝は許容し難いというメッセージとはなり得ていいる。
逆に安倍新総理は中韓との首脳会談に漕ぎつけるためにはそれをどうクリアするにかかっている。NHKのニュースで、「首脳会談の再開にあたって中国側が安倍首相が靖国神社に参拝しないことを明らかにするよう求めたのに対し、安倍首相は靖国神社に参拝するかしないかを明らかにしない立場を崩さなかったために調整がついていなかった」が、8日の訪中が決まったということはそこに何らかの調整・妥協があったからだろう。
また靖国神社参拝中止は首脳会談開催の重要な条件ではあるが、歴史認識の問題もクリアしなければならない課題であろう。
歴史認識は日本の安保理理事国入りとも深く関わっている。昨年日本が理事国入りを目指して理事国拡大案の提出に動いたとき、韓国の金三勲国連大使は「歴史も反省しない国が、国際社会の指導的な役割を果たすのは限界がある」と不支持の姿勢を示し、中国政府は「責任ある大国の役割を果たす国は自国の歴史問題についてはっきり認識すべきだ」として反対の姿勢を示したばかりか、アジアやアフリカの多くの国に影響力を及ぼして不支持姿勢を獲得、日本は拡大案を提出して否決という事実が記録されることを嫌ったのだろう、提出そのものを断念する無念を味わっている。
安倍新首相は対中強硬姿勢の豹変だけではなく、歴史認識でも見事な豹変を見せている。
但し、政府の認識と安倍氏個人の認識を使い分けた巧妙にして狡猾な〝豹変〟となっている。10月2日(06年)の衆院の代表質問で民主党の鳩山由紀夫幹事長の質問に答えて、「95年8月の村山談話や05年8月の戦後60年の小泉首相談話を取り上げ、政府としての認識は『談話などで示されている通り、かつて植民地支配と侵略によって、とりわけアジアの人々に多大の損害と苦痛を与えたというものだ』と語った」(06,10.3.『朝日』朝刊)と村山談話を「政府として」踏襲する考えを示したが、夕方の記者会見では、「特別私の考えを変えたというわけではない」(同記事)と、個人としての踏襲でないことを明らかにしている。
安倍氏は首相就任前の9月にまだ官房長官の肩書きではあったが、次期首相と目された立場で「朝日新聞などのインタビューに応じ、『植民地支配と侵略』を反省し、謝罪した95年の村山首相談話について『歴史的な談話だ』としつつ、自らの政権で『村山談話』を踏襲するかどうかについては、『次の内閣では、その内閣において過去の戦争についての認識を示すべきではないかと思う』」(2006年9月7日『朝日』朝刊・『村山談話踏襲、明言せず 安倍氏、大戦評価「歴史家に」』)と述べて、それぞれに内閣独自の『認識』を示すべきだとして、『村山談話』と一線を画す姿勢を明らかにしている。
それがここに来て、「特別私の考えを変えたというわけではない」、それは個人的な歴史認識は如何ともし難く、簡単に変えるわけにはいかないからで、その代わりいくらでも自由自在となる「政府としての認識」は「村山談話」の踏襲でいきます、「かつて植民地支配と侵略によって、とりわけアジアの人々に多大の損害と苦痛を与え」とする姿勢を内外に示します。それを妥協点に中国・韓国側に納得してもらうということなのだろう。
いかにも便宜的、形式的ではあるが、表面的な整合性を与えることで、その整合性が中国側・韓国側の現在の対日関係はやはり正常ではない、関係改善に向けたいとする意向に正当化の口実を引き出すシグナルとなることは確かであり、そのような相手の姿勢に便乗した巧妙な妥協点の提示とも言える。
いずれにしても、安部個人の歴史認識は変わらないというわけである。当然靖国神社参拝姿勢を変わらないまま維持しているはずである。最近示すようになった「靖国に行くかいかないか明らかにしない」という姿勢にしても、中国・韓国に日本との首脳会談開催の整合性を与える目的の便宜的・形式的態度と見るべきだろう。
中国・韓国にしても、「村山談話」が例え形式的・便宜的踏襲であっても、日本政府の先の大戦に対する反省を表面的には整える体裁を成すように、安倍氏が首相在任中靖国神社参拝を自粛し、後に続く日本の首相が自粛を踏襲するなら、それが例え本人の実際の歴史認識に反する形式的・便宜的踏襲であっても、首相・外務大臣・官房長官の靖国参拝は認められないとする中国・韓国の要求に表面的には一応の体裁を与えるものだから、関係改善に向けてこの際目をつぶりましょうというわけなのだろう。
但し例え関係改善が進もうと、歴史認識の表面的な体裁に対応する表面的な信頼関係しか打ち立てることができず、相互に相手に対する猜疑心を持ち続けることになるだろう。中国は他の国々との外交で日本排除に動き、日本も中国排除で応じる対抗を展開することになるに違いない。
多分こういったメッセージを発したのではないだろうか。「靖国神社を参拝することで中国国民を反日デモに駆り立てて、中国政府を困らせるようなしません」。勿論韓国政府に対しても。
この種のメッセージであることによって、「行くかいかないか明らかにしない」という姿勢が有効性を持ってくる。「行かない」と宣言する形であったなら、本人の歴史認識に関わってくる。「行くかいかないか明らかにしない」ことによって、本人の歴史認識を無傷の状態に置いておくことができる。参拝自粛が中国・韓国との関係改善のカードを目的とした止むを得ない便宜的・形式的な自粛だと、安倍支持者や同類の国家主義者たちに知らしめることもできる。
但し問題が一つ残る。安倍晋三の国家主義的性格から考えると、日本国総理大臣安倍晋三の肩書で記帳する機会を一度も実現させないまま首相の座を離れることができるかという問題である。安倍首相には「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ」と、いわば一種の公約宣言をしている手前もある。その公約も果たさないことになる。小泉首相は8月15日参拝の公約を最後の最後になってやっと果たすことができた。
安倍氏にしても手はないことはない。
中国・韓国の支持をどうにか取り付けて一旦安保理理事国入りを果たしてしまえば、国際社会に向けたそれなりの発言資格(発言力を持つ・持たないは別問題である)を獲得できるし、国連が存続する限り余程のことがない限り失うことのないメンバー資格だから、再び中国との関係が経済さえうまくいく政冷経熱の関係に戻っても、日本は何ら困ることはない。アメリカの後ろ盾もあるとして、中国・韓国との関係が悪化することを無視して参拝強行する。
あるいは次の総理が悪化を修復するといった連係プレーでその場ゴマカシで凌いでいく。歴史認識で問題となる発言を行っては、その場しのぎの謝罪や真意が伝わっていないといったゴマカシで凌いできたように。
首相になる前の4月に参拝を済ませたことと併せて、「行くかいかないか明らかにしない」はそういった事態に向けた布石の意味をも持たせていたのかもしれない。当たり前のことだが、布石は目的とした事態に至ったとき、生きてくる。「行かない」とは言ってないのだからと、開き直ることができる。かくして「小泉首相の次の首相も」の公約にしても果たすことができるし、日本国総理大臣安倍晋三の署名を靖国神社に記録として残すこともでき、その記録は靖国の歴史となって、時代を超えて受け継がれていく。
日本国総理大臣安倍晋三の肩書きで靖国神社を参拝することが、国家主義者でもある政治家安倍晋三の長年の夢ということもあり得る。
その夢を果たすことによって、安倍晋三は安倍晋三であり続けることができる。自らの歴史認識を裏切ることもなく、国家主義者安倍晋三としてのアイデンティティーを美しいばかりの永遠の生命とすることもできる。
朝日新聞に『分裂にっぽん3 揺らぐ「約束」』と題する記事(06.9.17.朝刊)がある。副題どおりの『公教育「底上げ」思想薄れた』とする内容である。
「(06年)4月19日経済財政諮問会議で、小泉首相が身を乗り出した。『それで具体的にどう変わる』
民間議員の牛尾治朗ウシオ電機会長や規制改革・民間解放推進会議議長の宮内義彦オリックス会長が、人気の高い小・中学校に資金がより多く集まるよう促す『教育バウチャー(利用券)制度』の導入を訴えたときだ。議論は急に盛り上がった。
安倍長官『人気のない小学校、中学校は生徒が集まりにくくなる』
二階経済産業相『廃校になってしまう』
小泉首相『それで反対があるわけか』
牛尾氏『競争になって困るところは反対、歓迎のところは賛成する』
学校・教員数に応じた現行の予算配分を、学校の選択制のもとで児童・生徒数が増えた学校には多く、減った学校には少なく割り当てるように変えるものだ。児童・生徒を増やそうと学校が競い合えば『教育の質』も上がるという理屈だ。
小泉政権の5年余りで、教育政策にも『競争原理で解決を』との発想が一気に強まった。流れを作ったのは経済界だ」――
「競争原理」がすべてを解決すると思い込んでいる。単細胞でなければ、できない思い込みだろう。小泉センセイ、すっかり「競争原理」に取り憑かれてしまったようで、一種の〝競争原理病〟と言ってもいいくらいだ。それも重症の。退任を機に、ホテル住まいよりも入院暮らしの方がいいのではないのか。
『朝日』の別の記事(『文科省検討の教育バウチャー・効果未知数、評価は?』06.9.13.朝刊)は、「教育バウチャー」は各国で試行しているが、すべてが成功しているわけではないと「効果未知数」であることを解説しているが、日本が目指す「教育バウチャー」自体のタテマエを次のように説明している。
「教育バウチャーは一般的に、①子どものいる家庭が行政からバウチャーと呼ばれる利用券を受け取る。②公立、私立を問わず、子どもが通いたいと思う学校に利用券を提出する。③利用券の枚数に応じて、学校側が運営資金を得る――という仕組みとされる。
より多くの子どもを集めた学校ほど資金が潤沢になるため、学校選択性と組み合わせることで学校間に競争原理が働き、教育の質の向上が期待できると考えられている」――
教育バウチャー制度が実施されたら、学校に課せられる第一番の仕事は生徒をたくさん集めることである。集めなければ、教師の給料も払えなくなる。払えなくなれば優秀な教師は去り、クズばかり居座ることになる。日本の政界・官界みたいに居座るしかないクズばかりだったら、逃げられることもないが、学校はそうはいかない。
なりふり構ってはいられない、少しぐらいデキが悪かろうと悪くなかろうと、熊手で落ち葉を掻き集めるように生徒を掻き集めなければならない。そのためにはあそこはいい学校だ、優秀な学校だと思わせる世間の評判・親の評判を獲ち取らなければ、掻き集めたくても、掻き集まってくれない。評判を獲ち取る手っ取り早くて、目に見えるエサといったら、生徒のテストの成績を上げるのが第一番だ。二番なんてない。
かくして従来以上にテストの成績を上げるだけの教育が展開される。テストの成績さえ上げれば、「児童・生徒を増やそうと学校が競い合えば『教育の質』も上がるという理屈」の正しさを証明することができる。小泉首相の、今や〝前首相〟か、〝競争原理がすべて〟を裏切らないで済むわけである。俺の成果だと喜ぶだろう。
テスト教育の背後に追いやられてはいたものの、それでも学校である以上なくすわけにはいかなった時間をかけて創造力をつけよう、感受性を養おうなんていうすぐには形に現れない、現れなければ親の目にも世間の目にも見えない・伝わらない教育なんか、もはやここに至ってはやってられるかってんだ。自民党議員がポスト欲しさから安倍支持に雪崩を打ったように、学校だって生徒欲しさから、それが唯一生き残るための手段だから背に腹は替えられない。音楽・図工・体育の授業は完全廃止だ。学校の完全民営化ならぬ完全な〝塾化〟である
デキの悪い生徒のテストの点数は手抜き工事ならぬ手抜き採点でチョコチョコット細工して見栄えのいい仕上がりにする。鉄筋の本数が少しぐらい足りなくても表面からは見えやしない。見栄えがすべてだ。それでも不足分はデキのいい生徒の尻を叩きに叩いて点数を稼いでもらって平均値を上げる。学校教師はこれからそういったテクニックも必要となる。
それでもいい結果が出なければ、テストに出す問題をある程度前以て教えることもしなければならない。尤も自分たちで問題をつくる学校のテストはそれで解決するが、高校入試や全国一斉学力テストといった自分たちでつくるわけではないテストの問題を前以て教えることは神の身でなければ不可能だ。いくらテレビに出て活躍している有名マジシャンでも、透視はできまい。
最後の詰めでテストの好成績が偽装も偽装、底上げ成績だと露見したのではヒューザーの小嶋社長みたいに泣きっ面にハチとなりかねない。その高いハードルをクリアするためにはどんなテスト問題が出るか、予測するしかない。教育バウチャー利用券で掻き集めた資金を利用して「傾向と対策」のための調査研究チームを発足させ、出題問題を的中させるしかない。必要なら、「傾向と対策」に長けた塾の名物教師とか外部からも人材を集めて、一人ぐらい占い師も加えた方がいいかもしれない、ありとあらゆるテスト問題を蒐集して出題傾向の統計を取り、次回テストはどのような出題が予想されるか万全の対策を立てる。日本の地震学者が今以て成し得ていない地震予知にも優る出題予知を完成させる。震度7級の問題が出ようが、震度8級が来ようが、びくともしないだけの出題と答を前以て用意する。
最初に挙げた『朝日』記事の最後の部分は次のようになっている。
「日本経団連が04年から3年続けた教育提言は『平均的に質の高い人材を社会に送り出した戦後教育では、創造的な製品・サービスが求められる21世紀に対応できない』と従来の『底上げ方式』を否定。草刈隆郎副会長(日本郵船会長)は『グローバル競争時代に「良質の金太郎飴」ばかりを育てていては、日本はダメになる』と話す。
元文部科学省幹部はこの流れを『経済界の関心はどうしてもエリート養成に集まる。小泉政権ではそれが『官邸の意向』としておりてきた。競争は大切だが、義務教育で競争に偏りすぎると非常に危険』と受け止める」――
経済界が言っていることの裏を返すと、日本の「戦後教育」はドングリの背比べ、似たり寄ったり、横並びの「良質の金太郎飴」をつくり出すには役立ったが、「創造的な製品・サービス」をつくり出す創造性は期待できない教育だったということになる。
となれば、「戦後教育」自体を「創造的な製品・サービス」向きの教育に転換しなければならないはずである。転換せずに、競争原理だけを取り入れて「戦後教育」の尻を叩く。「良質の金太郎飴」どころか、〝最高品質の金太郎飴〟づくりに向かうだけのことで、「創造的な製品・サービス」が創出可能の創造性教育からはますます遠ざかる理とならないだろうか。
「戦後教育」が本質的には暗記教育であって、暗記学力をつけることには役立つが、創造性の育みを排除する構造となっていることからの「金太郎飴」であり、「創造的」成分の欠如なのだとする視点を持ち得ていない。
但し、暗記教育は戦後から始まったものではない。江戸時代の寺小屋教育自体がガチガチの暗記教育で、暗記教育は日本の美しい優れた、世界に誇っていい歴史・伝統・文化としてある教育である。寺小屋教育はさまざまな往来物(書簡文の模範文例集)を書き写させて、文章の書き方を習わせると同時にそこに書いてある地名や産物を覚えさせるなぞり・モノマネ教育に過ぎなかった。自由・人権が認められていなかった封建社会である、人前で批判の文脈で意見を言ったり、闘わせたりする習慣自体が存在しなかった。政治に対する批判だけではなく、寺小屋の師匠や親といった目上の人間に対する批判も、陰ではできても、面と向かっては下は上に従う権威主義の力学に縛られてできもしなかったろう。
それは武士に於いても同じであろう。表向きでは上に従う自分の置かれた身分(=下の身分)を弁えた範囲内の意見しか言えなかったろう。
知識の授受に関してなぞり、マネする形式で下が上に従うだけの暗記教育は権威主義性によって成り立ち、維持されている。そこへ持ってきて「バウチャー教育」なる上からの鉄槌で権威主義的な力を加えて下に位置する学校の尻を叩く。学校は外からの新たな権威主義の強制によって、自らの権威主義性を強めることとなり、当然暗記教育の強化に向かう。暗記教育の都合がいいところは他のどのような教育よりもテストの成績に反映させやすく、目に見える形にすることができることである。それは教師の能力をも目に見える形にすることだから、教師にしても自己の評価を上げるためにテストの点数を上げる教育に走りがちとなる。
結局のところ、「バウチャー教育」という名の競争原理の導入で、その〝競争〟がテストの点数獲得競争に偏ることとなり、暗記教育の絶対化を図るだけのことになるだろう。そもそもからして創造性とか感受性の育みといった、目に見える形となって現れるのは何年先かも分からない教育は競争には馴染まない。
「人気のない小学校、中学校は生徒が集まりにくくなる」(安倍)なら、そうなった学校や生徒はどう対処したらいいのか、「廃校になってしまう」(二階経済産業相)ことになったとしても、何ら不都合は生じないのかといったマイナス面が生じた場合の議論がない。「競争になって困るところは反対、歓迎のところは賛成する」といった学校経営のみに向けたプラス・マイナス思想しか働かせることができない単細胞である。「創造的な製品・サービスが求められる21世紀に対応でき」る教育の質を求めるなら、競争原理がそのような「教育の質」の獲得にどういうふうに役立っていくのかといった見取り図を描き、そのような見取り図に従った教育を求めるなら理解もできるが、プラス・マイナス思考を働かせもせず、競争はプラスだとのみ把える片手落ちを犯してカエルの面にショウベンの鈍感さである。
疑うこと(=疑問)を基本とする批判・議論の存在しない場所に創造的な思考の獲得も発展も期待できない。当然暗記教育からは期待できない。優れた研究を成した日本人は暗記教育に馴染めず、暗記教育から外れていた人間であろう。知識に従うだけの暗記教育からはどのような想像性(創造性)も生まれないはずだからである。
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では、日本の「戦後教育」はどう転換させるべきか――、私なりに考え、HPに掲載することとした。興味のある方はアクセスしてみてください。たいした内容ではないかもしれません。
「市民ひとりひとり」第128弾「中学校構造改革(提案)」