1月27日(2016年)未明、東京大田区のマンションで3歳の男の子が心肺停止の状態で見つかり病院に運ばれたが、まもなく死亡した。病院の医師が「子どもの体中にあざがあり、虐待の疑いがある」と警察に通報、警視庁が調べたところ、22歳の母親と同居中の20歳の男が暴力を振るって死に追いやったことが判明、男は逮捕された。
各マスコミ記事から、暴力を振るうに至った経緯を見てみる。
男は暴力団員で1月8日頃から女性の部屋で同居を開始。身長195センチ・体重は120キロの体格だというから、その体格だけで相手を威圧させるに十分過ぎる程の風格に恵まれていたことになり、暴力団員としての将来性は不足のないものであったに違いない。
男は1月18日頃から「しつけ」と称して平手打ちをするようになったと言う。
要するに新しい父親、あるいは新しく現れた大人の男に幼い3歳の男の子が慣れ親しむ態度を取らなかったから、自分自身に慣れ親しむ態度を取らせるしつけのために、言葉を替えて言うと、自分の言うこと聞かすしつけのために平手打ちをするようになったということなのだろう。
子どもの身長は98センチだという。ネットで調べると、身長98センチに対する体重は15キロ前後が一般的であるらしい。
1月8日から女と同居し、その10日後の1月18日には身体的強制力で身長98センチの子どもを言いなりにしたい衝動を抑えることができずに身長195センチ・体重120キロの体格の男が性急にも平手打ちという形に出た。
この衝動は性急であるだけに子どもの人格を尊重して、少なくとも子どもの気持や思いを汲んで穏便な大人と子どもの関係を築こうとする思いとは正反対の、自分の思い通りの子どもにしたい支配欲求が強く働いていたことになる。
見知らぬ大人の平手打ちは子どもにとっては謂れのない暴力であって、子どもの反発を買うのは当然であるが、その反発が子どもに対して支配欲求を持った大人の反発をなおさらに誘い、なおさらの反発が支配欲求を更に強めることになって、それが更に強度の身体的強制力となって噴出するという経緯を取ったのだろう。
1月18日から1週間後の1月25日夜、20歳の男は、警察の調べによると、身長195センチ・体重120キロの身体で踵を振り下ろすようにして男の子の頭を蹴ったり、ガラスケースに向かって投げつけたりして1時間以上暴行を続け、子どもがぐったりしてからようやく終わったという。
暴行の理由を「睨みつけてきたので頭にきた」と供述したという。
それで普段以上に血がのぼって、カッとなり、平手打ち程度で自分の言いなりにしようとした支配衝動では済まなくなった。
身長195センチ・体重120キロの身体の大きい若い男が相手が身長は半分の98センチ、特に体重が約8分の1の15キロ前後の身体なら、赤子の手をひねるに似たたやすさで投げつけたり、振り回すのはそれ程難しくはなかったはずだ。
それを1時間以上も続けた。身体の大きいその男にとって身体の小さな子ども相手では1時間以上続けることもできたろう。子どもがぐったりしなければ、更に続けたに違いない。
そのときの暴力は反撃できる力を相手が持っていないことを前提とした安心感に支えられて自由無碍(何ら妨げるものがなく、自由自在であること)の万能さを感じさせたに違いない。暴力の万能感を通して3歳の男の子を完璧に自分の自由にすることのできる支配欲求を満たしていた。
実際に自由自在に扱った。スーパーマンもどきの万能感を味わっていたとしても不思議はない。スーパーマンのようなヒーローに変身して、これでもか、これでもかと力が湧き上がるのを感じていたのかもしれない。
万能感を持たせた支配欲求を満足させていたことは逮捕後の供述、「やることはやった。悔いはない」の言葉に如実に現れている。
子どもを自分の遣り方で完璧に支配した。いわば自己実現を果たした。
ここで言う自己実現とは「可能性としてある望ましい自己の在り様の実現を目指すこと」を言う。
例えば男の子が将来野球選手になりたいと思って野球少年の生活を送っている場合、野球選手としての可能性の実現を追い求めることを指す。
暴力を振るったその1時間が、その男が暴力団員としてスーパーマンもどきのヒーローに変身して人生最大の自己実現を果たした瞬間だったのである。
暴力団員にとっての暴力発揮は最大の活躍であり、自己実現の方法でもある。
このことの全てが「やることはやった。悔いはない」の言葉に凝縮されている。
この暴力はまた、イジメと同じ心理構造を持っていて、陰湿なイジメが止めどなくエスカレートしていく構造をも備えている。
20歳の大の男の3歳の幼い男の子に対するイジメでなくて何であろう。
イジメは何らかの威嚇を利用して相手を恐怖させ、その恐怖を以って相手の人格や行動、感情を支配する権力行為であって、それが学校生活の中で自身にとっての活躍の機会ともなっているゆえにイジメを通して自己実現を果たしていると言うことができる。
当然、学校はイジメの防止のためには「自己実現」という言葉を使って、その言葉が難しい年齢の子どもに対しても、何回も使うことで自然に覚えていく慣習の力を借りて、「将来どのような職業に就きたいのか」と将来の自己実現を問うだけではなく、学校生活でのその時々の自己実現――テストの成績を少し上げたいとか、今度は県の少年野球大会に進みたいとかの自己実現を常日頃から問い、確かめる教育を通して、イジメや万引きといった活躍を通した歪んだ自己実現に走らないよう心掛けなければならないことになる。