2/15衆院予算委山尾志桜里追及の放送法の政治的公平性 判断対象ではなく判断主体を問題とすべきだった

2016-02-18 09:59:05 | 政治

 なぜなら、時の政治権力者の政治姿勢によって政治的公平性の質も中身も、口では決して認めないだろうが、違ってくるし、言論の自由も表現の自由も、口ではみなさんと同じだと言うだろうが、その質も中身も違ってくるからだ。

 国会で再び安倍政権の報道の自由に対する姿勢が追及を受けることになった。

 2001年にNHKの番組に圧力をかけ、その内容を改変させたとする裁判で、「NHK幹部が政治家の意図を忖度した」と2007年1月の高裁判決で指摘を受けた当時内閣官房副長官の安倍晋三と同経済産業相の中川昭一の自由であるべき報道への介入、2014年月総選挙の約1カ月近く前の11月18日TBS「NEWS23」に出演、番組が街角で拾ったアベノミクスの成果を問う声の殆どが否定的だったところから、「街の声ですから、皆さん選んでおられる」と、放送法が規定している政治的公平性に反した情報操作を用いた番組編集だと独断、その2日後の11月20日に「自由民主党 筆頭副幹事長 萩生田光一/報道局長 福井照」の差出し人名で在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛てに番組報道の公平・公正・中立を求める文書を送った報道の自由に対する介入姿勢が国会及びマスコミ報道で問題視された。

 そして今回、総務省の高市早苗が2月9日(2016年)午前の衆院予算委員会で放送事業者が政治的公平性を欠く放送を繰り返し、行政指導でも改善されないと判断した場合は電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性について言及した。

 報道の自由に厳格な安倍晋三とその内閣であるならいざ知らず、自身の主義主張に反する報道・言論に対しては圧力若しくは介入の姿勢を度々見せているし、参院選挙も近づいている。再び安倍晋三の国家主義に反対する選挙報道を牽制する圧力、あるいは介入と見られても仕方がない。

 電波法76条は「総務大臣は、免許人等がこの法律、放送法若しくはこれらの法律に基づく命令又はこれらに基づく処分に違反したときは、3箇月以内の期間を定めて無線局の運用の停止を命じ、又は期間を定めて運用許容時間、周波数若しくは空中線電力を制限することができる。」と規定していて、「放送法」違反を含めた条文となっていて、放送法も第174条で、「総務大臣は、放送事業者(特定地上基幹放送事業者を除く。)がこの法律又はこの法律に基づく命令若しくは処分に違反したときは、3月以内の期間を定めて、放送の業務の停止を命ずることができる。」としている。

 電波法は直接的には政治的公平性を求めていないが、「政治的に公平であること」と規定している放送法第4条2と関連付けられているから、この両法を以って安倍晋三たちは“政治的に公平”の口実のもとにテレビ報道やテレビ番組から反安倍言論の“反”を取り払わせて、それもを以って“公平”とさせようとする衝動を常に抱え、その衝動をときに露わにすることを報道に対する圧力手段の常套手段としている。

 つまり反安倍の論調は許さないという報道介入の姿勢を常に見せている。

 2月15日(2016年)、民主党の威勢のいいオネエサン山尾志桜里が政治的公平性を口実とした高市早苗の電波停止命令の可能性について追及した。

 但し議論の方向が違うように思えた。そのため、埒が明かない質疑となった。

 山尾志桜里「民主党の山尾志桜里です。この予算委員会でテレビ番組の政治的公平性を時の政治的権力が判断できるのか議論になっています。時の政治的権力があるテレビが政治的公平でないと判断した場合は電波停止がなし得る。

 つまりテレビ業を事実上廃業に追い込むことができる。しかも局の番組の全体を見るのではなく、個別の番組でもできる場合があり得る。そういった政府見解が報道を萎縮させ、国民の知る権利を害し、憲法21条に違反しているのではないか。

 こういう深刻な問題が提起されています。今日は高市大臣にお越し頂いております。高市大臣の見解については勿論高市大臣にお聞きしますが、総理の見解については総理にしか答えられませんので、先日この場で安倍政権こそ言論の自由を大切にしていると胸を張ったそうですが、是非質問から逃げずにお答えを頂きたいと思います。

 先ず政府統一見解についてお尋ねします。(左掲のパネルを出す)この政府統一見解を我々が求めたのは、この一つの番組でも判断し得るのか否か。高市大臣は一つの番組でも判断し得る場合がある、こういう見解を繰返し述べております。

 総理はあくまでこの場では一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する。こう述べるにとどまっていました。そこでこの内閣不一致をどちらに揃えるのか。これがこの統一見解の肝でありました。

 総理の見解が問われたわけですが、あろうことか、高市大臣の見解に揃えてこられました。一つの番組での例えば①や②、こういった極端な場合に於いては一般論として、『政治的に公平性を確保しているとは認められない』

 第1次安倍内政権を含めてそれまでどの政権に於いても、一つの番組でも判断し得るという強権的な判断を示した政権はありません。総理、なぜ解釈を変えたのですか」

 安倍晋三「放送番組はですね、放送事業者が自らの責任に於いて編集するものである。放送事業者は自主的に且つ自立的に放送法を順守して頂くものと理解をしております。

 放送法第4条の『政治的に公平であること』については従来から番組全体を見て判断するとしてきたものであり、これについては何も変更はありません。総務大臣の見解は番組見全体を見て判断するというこれまでの解釈を補充的に説明し、より明確にしたものであります。

 これは政府統一見解で説明したとおりであります。言論の自由を始め、表現の自由は日本国憲法に保証された基本的人権の一つであるとともに民主主義を担保するものであり、それを重視すべきものであることは言うまでもありません」

 山尾志桜里「総理、変わったものを変わっていないと言いくるめてはいけないと思いますよ。ここにあるように一つの番組でも判断し得ると、これが統一見解で示されたわけです。

 これ最初のキッカケは参議院の委員会で自民党議員の質問に答えて高市大臣がこの①、②の名で、こういう場合には一つの番組でも判断し得ると初めて言われた。

 そして去年の秋、市民団体の質問書に答える形でそれが高市ペーパーとして回答された。そして今回、この予算委員会で政府統一見解としてこの高市ペーパーは安倍内閣ペーパーになったわけです。変わっているじゃないですか。

 番組全体を見て判断することと、一つの番組でも判断し得るということ、変わっているじゃじゃないですか。無理を通せば道理が引っ込むでは私はいけないと思います。なぜ変わったのか、総理お答えください」 

 委員長が高市を指名、山尾が「総理、総理」と騒ぐが、高市が答弁に立つ。

 高市早苗「統一見解を出させて頂きましたが、放送法の第4条で『政治的に公平であること』ということにつきましては従来から番組全体で判断するとしてきたことで、従来からの解釈については何ら変更はございません。

 番組の全体を見て判断するとしましても、やはり番組全体は一つ一つの番組の集合体でございますので、一つ一つの番組を見なければ全体の判断もできません。

 その上で個別具体的な事案に於いてでではですね、必要に応じて放送事業者から事実根拠を含めた放送法を踏まえ、放送法を所管する立場から番組全体を見て必要な対応をすると、これは当然なことであります。

 これまでですね、本当に業者に対して放送法第4条の政治的公平に違反したことを以て行政指導を行われた事案ないです。

 一方で第4条との規定の関係に於いて放送番組編集上の重大な過失があったことについて一つの番組に対しても行政(指導)が行われたことはございます。これはどういった場合かと言うと、放送番組が特定の党だけの広報として受け入れられる可能性が高く、政治的公平であることとの関係に於いて放送事業者自身が放送番組の適正な編集を図る上で配慮に欠けていたと認め、その旨の報告が総務省にあり、過失に遺漏があったと認められた場合でございます。

 選挙投票日までに特集番組が組まれ、そして投票日にまでですね、別の見解を示す特集番組などの企画がないなど、そういった極端なケースでございます。そのようにお答え申し上げます」

 安倍晋三「ただ今高市大臣が答弁したとおりでございます。繰返しになりますが、政府統一見解で示した通り総務大臣の見解はですね、番組全体を見て判断するというこれまでの解釈を補充的に説明したわけでございまして、より明確にしたものであるとこのように思います。

 この中身につきましては、番組全体は一つ一つの番組の集合体であり、番組全体を見て判断する際に一つ一つの番組を見て全体を判断することは当然のことであり、ただ今この中に於きまして今までの例としてしてですね、分かりやすく総務大臣から説明があったんじゃないかとこのように思います」
 
 山尾志桜里「番組全体を見るときに一つ一つ番組を見るということと一つの番組でも判断すると言うことは全く別のことであります。一切説明になっていない答弁を二人の大臣が持間を浪費するために使うのはやめて頂きたいと思います。

 どう考えても全体を見るということと、一つの番組で判断するということは違うんです。補充(説明)ではなくて、大幅な拡大解釈で、これは憲法の21条、表現の自由との抵触を更に強める、大幅な憲法解釈だから尋ねております。

 でも今、総理おっしゃいました。今高市大臣がおっしゃったことはそのとおりだと。つまり安倍総理も一つの番組だけでも政治的公平性が判断される場合があると、今お認めになった。

 ついに安倍政権も大幅な拡大解釈に踏み込んだ。私は大変なことだと思います。

 次に総理にお尋ねします。高市大臣はこの前回で玉木議員との遣り取りで憲法9条改正に反対する政治的見解を支持する内容を相当の期間に亘り繰返した内容を放送した場合にも極めて限定的な状況のみという留保をつけながら、電波停止の可能性を否定しませんでした。

 高市大臣の見解は分かりました。総理も同じ見解ですか。総理の認識を求めます」

 安倍晋三「高市大臣は放送法に則ってという状況にあればこの放送法が保証されるというこういう一般論的な話をされたんだろうと思うわけであります。当然、条文にあるわけですから、条文に適合される事態が起こればですね、そういう状況になると、そういう解釈をされたわけでありまして、そういう条文があるということについてですね、これは大切であろうと、このように思います」

 以下延々と続くが、同じことの平行線を辿るのみだから、この辺で切り上げることにする。

 三者の質疑を要約してみる。

 山尾志桜里は冒頭、「テレビ番組の政治的公平性を時の政治的権力が判断できるのか」を問題にした。そしてテレビ番組の政治的公平性を判断する場合、従来はテレビ局の番組全体を見て判断してきたものを一つの番組でも判断することも有り得るに変わってきた。これは国民の知る権利を害し、憲法21条に違反しているのではないかと問い質した。

 因みに憲法21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定している。

 高市早苗の答弁は番組全体で判断するとしてきた従来からの解釈に何ら変更はない、「番組の全体を見て判断するとしても、番組全体は一つ一つの番組の集合体だから、一つ一つの番組を見なければ全体の判断はできないため、一つ一つの番組を見た上で番組全体で判断する従来性を請け合った。

 しかし一方で、選挙投票日までに組まれた特集番組が政治的に一方的な見解を紹介し、別の見解を示す特集番組の企画がないといった極端なケースの場合は一つの番組で政治的公平性を判断することもあり得るとして、そのようなケースで行政指導した例を挙げた。

 安倍晋三は自身の見解は高市早苗が答弁したとおりだと追随した。

 山尾志桜里は安倍晋三と高市早苗の答弁に納得せず、「番組全体を見るときに一つ一つ番組を見ることと一つの番組で判断することは全く別のことで、憲法の21条、表現の自由との抵触を一層強めることになる放送法の拡大解釈だ、一切説明になっていない答弁を二人の大臣が持間を浪費するために使うのはやめて頂きたい」といった趣旨の反論をしている。

 どうも不毛な議論に見えて仕方がない。極端な例を上げて申し訳ないが、政治性を一切排したエロ・グロ・ナンセンスの報道を目指しているテレビ局があるとする。そのような番組を朝から夜遅くまで流しているが、ただ一点例外は毎日曜日のゴールデンタイム7時から9時までの2時間だけ、政治的に一方的な主張のみを繰り広げる番組を制作している。

 その内容たるや、例えば安倍晋三好みの天皇主義や日本民族優越主義に覆われていたとする。番組開始早々「天皇陛下バンザイ」を唱え、番組終了の際も「天皇陛下バンザイ」を唱える。戦前の日本の戦争を侵略戦争ではなく、アジア解放の聖戦だったとし、従軍慰安婦は性奴隷ではなく、生活が困難な時代に若い女性に働く場と食の機会を提供した日本軍の善意から出た制度であり、日本民族の優越性を誇る余り、中国人や韓国・朝鮮人はバカばっかだ、劣る人種だと差別発言や蔑視発言を平気で言い放ち、日本に住む朝鮮人や中国人は自分の国へ帰れ、その他のヘイトスピーチを垂れ流す。

 このような場合の政治的公平性の判断はどこに置くのだろうか。

 たった2時間の政治的に一方的な主張を他の百時間以上もある政治性を一切排したエロ・グロ・ナンセンスの報道との兼ね合いで全体の政治的公平性を判断するというのだろうか。いや、判断できるのだろうか。

 政治的公平性を一つの番組で判断しようが全体で判断しようが、番組内で発言した個人の政治信条で判断しようが、判断対象は問題ではないはずだ。

 山尾志桜里は質問の冒頭、「テレビ番組の政治的公平性を時の政治的権力が判断できるのか議論になっています」と発言した。いわば時の政治的権力の政治性に報道が、あるいは報道の自由が左右されることへの危惧であったはずだ。

 この発言の時点では判断の主体を問題にしていたのであって、判断対象を問題としていたわけではない。

 ところ何を血迷っていたのか、直ぐに政治的公平性は一つの番組で判断するのか、番組全体を見て判断するのかと、議論の方向を変えてしまい、その結果、埒の明かない不毛な質疑へと自分から持ち込んでしまった。

 高市早苗はは後の答弁で2010年11月に菅内閣の当時平岡秀夫総務副大臣が「放送事業者が番組準則に違反した場合には、総務相は業務停止命令、運用停止命令を行うことができる」と答弁したことを取り挙げ、安倍晋三も同じことを言って、「民主党政権で同じ答弁をしている。同じ答弁なのに、総務大臣が答弁したからといって、おかしいというのは間違っている」と反論しているが、あくまでも問題とすべきは判断主体であって、判断対象ではない。

 憲法の立憲主義に厳格なリベラルな政治権力者が政治的公平性を判断するのと安倍晋三のような右翼の国家主義者が政治的公平性を判断するのとでは、基本的人権を危うくする危険性はどちらに軍配を上げなければならないだろうか。

 前者はあくまでも立憲主義に即した政治的公平性を求めるだろうが、後者は右翼国家主義に不都合ではない政治的公平性を求めることになることはこれまでの例から明らかだからだ。

 であるなら、放送法が第1条2で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること」と規定することで日本国憲法の言論等の表現の自由を保障した21条と関連付けられていて、このことは電波法にも関連付けられることで、安倍晋三にしてもそのことを認めていて、その上安倍晋三もその他閣僚も、合憲か違憲かの最終判断、憲法の番人は最高裁だとしている以上、総務大臣の電波法停止命令は、あるいは放送法の政治的中立性に違反したの理由付けによる放送業務の停止命令は最終的には最高裁判所が決めることだと言質を取ることに主眼を置くべきではなかっただろうか。

 勿論、政治的公平性を侵したとの口実のもと、電波停止や業務停止を受けた放送局はその判断の正否を言論等の表現の自由を保障した憲法21条との関係で裁判で争うことになるだろうが、総務大臣が番組の政治的公平性を判断して電波停止命令も放送業務の停止命令も可能だと政治的公平性の判断主体を時の権力者に置くことを不文律(文章の形を取っていない決まり)とさせる印象操作よりも、報道に於ける政治的公平性の最終判断は最高裁判所であることを不文律とさせる印象操作の方が、判断主体にワンクッション置くことができ、報道事業者が時の政治権力者の政治姿勢に抱く恐れや懸念はある程度薄めることができ、当然、権力者の意向を忖度するということも少なくなるはずだ。

 繰返すが、時の政治権力者の政治姿勢によって政治的公平性の質も中身も、口では決して認めないだろうが、違ってくるし、言論の自由も表現の自由も、口ではみなさんと同じだと言うだろうが、その質も中身も違ってくる。

 このことをこそ問題としなければならない。何しろ安倍晋三は右翼国家主義者である。その思想の手前、基本的人権を可能な限り制限したい内心の騒動を抱えている。

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