菅義偉の出産を“国家への貢献”とする発言は夫婦のセックス自体も“国家への貢献”視していることになる

2015-10-01 09:51:24 | 政治


 官房長官の菅義偉が9月29日午後にフジテレビの番組に出演して、歌手で俳優の福山雅治さんと俳優の吹石一恵さんの結婚に関し、「この結婚を機にママさんたちが『一緒に子どもを産みたい』という形で国家に貢献してくれればいいなと思う。たくさん産んでください」と発言したことを各マスコミが取り上げ、このことを受けてのことなのだろう、ネット上でも話題となっている。

 この後の官房長官の記者会見で、「女性は子どもを産むのが前提、または子どもを産むことが国家に貢献することと取られかねない」という質問があったのに対して、「全くそういう趣旨ではありません。結婚や出産が個人の自由であることは当然のことであります。大変人気が高いビッグカップルでありますので、世の中が明るくなって、まさに皆さんが幸せな気分になってくれればいいなというふうに思っている中の、そういう趣旨の発言だったということで理解をいただければと思います」と釈明。

 「『産めよ増やせよ』との政策を連想する人もいる」との質問に対しては、「全く当たらない。安倍晋三首相も、不妊治療を受ける方を応援する趣旨の発言をされている。子どもを産みやすく育てやすい社会をつくるのが政府の役割で、女性の輝く社会を実現するために努力していく」と答えたという。

 各マスコミの遣り取りを纏めるとこのようになるようだが、少し順序が違うかもしれない。遣り取りの趣旨は通ると思う。

 菅義偉が記者会見でどう弁明しようが、どう言い繕おうが、問題は子どもを設けることを“国家への貢献”と見做していたことにあるはずだ。

 その問題は単に菅義偉という個人がそのように見做していたということで終わらない。菅義偉は国家権力の側に位置する人間である。一旦口にしている以上、子どもを設けることを“国家への貢献”であることを一般的な風潮としたい強い欲求を持たないわけではないはずだ。

 そのような欲求がサラサラなければ、言葉の形を取ることは決してない。

 実際に一般的な風潮にならなくても、菅義偉が言っていることは出産を目的とした夫婦のセックス自体も、“国家への貢献”のためのセックスと言っていることになる。

 一般的に子どもを設けるには夫婦のセックスを前提としなければならないからで、断るまでもないことであろう。

 要するに子どもを設けることが“国家への貢献”であるなら、夫婦のセックス自体も“国家への貢献”としなければならない。

 夫婦が子供の数を1人とか2人とか決めていて、その数を達したあとの、いわばもう子どもは設けないつもりのセックスからは“国家への貢献”であることを免れた自由な、二人だけの愉しみのセックスにすることができることになる。

 但し2、3年は夫婦二人だけの生活を満喫したい、子どもを産んでその世話に時間を取られたり、二人だけの時間を煩わされるのは厭だからと出産を目的としない、快楽の追及のみに豪華一点集中させた性生活は“国家への貢献”に反する不届きなセックスということになりかねない。

 一旦“国家への貢献”とした場合、行くゆくは夫婦の営みは“国家への貢献”を目的せよの号令一下へと進まない保証はない。

 我々日本人が歴史上見てきた戦前の産軍併せて戦争遂行の人材とすることを目的とした「産めや増やせ」は“国家への貢献”を号令一下としたものであり、このことが日本の社会に一般的な風潮となって支配していた。

 子どもを設けて“国家への貢献”を果たすためにそのことを頭に置いていざ事を始める。

 単に自分たちの人生を成り立たせるために欠かすことのできない極々プライベートな、だが、生きものとしての本質的で剥き出しな人間営為を“国家への貢献”とするということは、こういうことなのである。

 いわば出産を目的とした場合の夫婦のセックスから生きものとしての本質的で剥き出しな人間的営為を奪って、奪わずとも、損なわせて、そこに国家への義務を潜り込ませることに他ならない。

 いや、出産を目的としない場合であっても、目的としないこと自体に後ろめたさ・罪悪感を感じてしまう夫婦が現れたなら、目的とした場合の夫婦のセックスと同様に肉体的であると同時に極く精神的なありのままの人間性の表現であることを殺(そ)いで、国家への義務を持たせない保証はない。

 子どもを設けることを“国家への貢献”とするということは性に関わる人間性が極めて個人的であることに反するがゆえに滑稽であると同時に非常に恐ろしいことであって、その危険性に気をつけなければならない。

 最悪、出産を目的としない夫婦のセックスは“国家への貢献”に外れるとして反国家的の対象とされる恐れも出てくる。

 安倍晋三は9月2日の自民党総裁再任後の記者会見で次のように発言している。

 安倍晋三「少子高齢化に歯止めをかけ、50年後も、人口1億人を維持する。その国家としての意志を明確にしたいと思います」――

 そして「1.4程度に落ち込んでいる(合計特殊)出生率の1.8までの回復」を掲げた。

 但し政府目標の「50年後総人口1億人」には1人の女性が生涯に産む子供の平均的な人数を示す「合計特殊出生率」は推計値として2040年に2.07が必要だという。

 2.07はあくまで平均だから、人口維持が切羽詰まった危機的状況に追い込まれたなら、元々安倍晋三とその閣僚の多くは国家主義者だから、個人的事情は排除して余裕を持たせるために結婚女性1人につき3人の子どもを望む国家権力の側からの有形無形の要請が、焦りがと言っていいのかもしれないが、出産は3人であることを国民の“国家への貢献”思想としたい意向を様々な機会を把えて示さないとも限らない。

 そして子ども3人を暗黙の社会的な合意へと持っていくことができたとき、戦前の「産めや増やせ」と同様に“国家への貢献”思想は国民への刷り込みを成功させることになる。

 但し3人が暗黙の社会的な合意となったとき、戦前、お国のために自身の身体を役立てることのできない身体障害者や病身の国民は自分から非国民視する精神的状況に追い込んだように不妊女性をお国に役立たない国民として自らを追い込むことになるかもしれない。

 菅義偉自体が子どもを設けることを“国家への貢献”と見做している以上、国家を優先させる国家主義者そのものであり、発言はその思想そのものの表れであって、以上書いてきたような経緯を取らないといは絶対に言い切れない。

 改めて言うが、安倍晋三とその閣僚の多くは国家主義者であり、国家主義思想と“国家への貢献”思想は一体を成していることを忘れてはならない。

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