新国立競技場建設白紙撤回、安倍晋三の下村博文に対する最終的な責任の取らせ方・下村博文の最終的な取り方

2015-10-11 09:50:33 | Weblog

 
 文科相の下村博文は新国立競技場建設白紙撤回問題で責任を取って辞意を表明、9月24日(2015年)夜、安倍晋三に辞任の意向を伝えたが、安倍晋三は近く行う内閣改造までの留任を指示、下村博文はその指示に従って辞任を撤回した。

 安倍晋三は10月7日(2015年)、内閣を改造、第3次安倍改造内閣を発足させた。そして下村博文に指示した通りに文科相を下村博文から元プロレスラーの馳浩に交代させた。

 新国立競技場整備計画白紙撤回の経緯を検証した文部科学省の第三者委員会はその「報告書」で責任の所在について次のように述べている。

 〈責任の所在について

 まず、本検証の結果判明したこととして本委員会として強調しておかなければならないことは、JSCの担当者をはじめ、本プロジェクトに関わった多くの関係者がそれぞれの立場において真摯にその仕事に取り組んできたということである。確かに本プロジェクトの推進過程は、必ずしもスムーズではなく、多くの問題があったことは否定できず、多くの国民がそれに疑念の目を向けたとしても致し方ない状況にあったといえる。

 しかし、我が国最大規模のスタジアムを、独創的なザハ・ハディド氏のデザインで、都心の狭い敷地に、2019 年ラグビーワールドカップに間に合うように建設することができたかという点のみを捉えると、2015 年7月の時点で、コストは当初の想定よりも大きくなっていたが、関係者の努力によって実現の目途が見えてきた状況であったということができる。そのような状況で本プロジェクトが白紙撤回された。本委員会としては、それら関係者の真摯な努力にもかかわらず、個別の関係者に責任を求めることは適切ではないと考える。

 他方で、本プロジェクトが紆余曲折し、コストが当初の想定よりも大きくなったことにより、国民の支持を得られなくなり、白紙撤回の決定をされるに到った問題の原因は、上記のように大変な難工事に対して、それに対応できる適切な体制を作らずに従来からの集団意思決定システムを維持し、この難工事を従来の組織の拡大だけで対応しようとし、さらに、十分な情報発信の体制を構築しなかったことにより国民への説明を十分に果たさなかったことにある。

 このような中で、敢えて責任の所在を求めるとすると、その責任の一面は、結果として、本プロジェクトの難度に求められる適切な組織体制を整備することができなかったJSC、ひいてはその組織の長たる理事長にあると言わざるを得ない。

 また、このような責任の所在は、本プロジェクトに関して、オリンピック・パラリンピック競技大会に関することを所掌し、JSCの主務官庁でもあり、かつ、本プロジェクトについては、随時JSCから報告・相談を受け、指示・支援・関係官庁等との調整を行っていた文部科学省についても同様に解するべきであろう。

 即ち、その組織の長たる文部科学大臣及び事務方の最上位たる事務次官は、上記のような問題が生じないように、関係部局の責任を明確にし、本プロジェクトに対応することができる組織体制を整備すべきであった。〉・・・・・・・

 JSC及び文科省、そしてそれぞれの組織のトップは新国立競技場整備計画に対応可能な組織体制を整備する能力を欠いていた。下村博文に関して言うと、自身が新国立競技場整備計画でなすべき務めとして負っていた組織管理・運営の責任を欠いていた。その結果の整備計画の迷走であり、白紙撤回を招いた。

 と言うことは、安倍晋三からしたら、下村博文から馳浩への交代は下村博文の責任を文科相交代という形で示したということになるが、下村博文からしたら、新国立競技場建設白紙撤回問題で責任を負う形の人事異動ということになる。

 但し文科相の役目から離れたからと言って、責任がなくなるわけではない。文科相としての新国立競技場建設に関わる責任不履行は白紙撤回を受けた計画の仕切り直しに持間や手間、そしてカネ(=経費)を新たに必要とするだけではなく、責任不履行の事実は事実として残さなければ、一つの組織の管理・運営に関わるトップの責任の教訓とすることもできなくなる。

 では、いつまで責任を引き受けなければならないのだろうか。

 例え完成したとしても、計画見直しによって建設された新国立競技場という歴史を後々まで負わなければならなくなるが、いつまでもと言うわけにはいかない。少なくとも見直した整備計画による新国立競技場完成までは下村博文もJSCの河野一郎理事長も自らの責任を噛みしめなけけばならないはずだ。

 完成によって責任に一区切りをつけることができる。

 逆説するなら、それだけ責任は重かったはずだ。政府が白紙撤回した当初計画でデザインや設計等で結んだ契約が約59億円にも上り、ほぼ支払い済みで白紙撤回により大部分が無駄な支出となる見通しだということだし、白紙撤回で新たに必要とするカネ(=経費)は約100億円相当に上ると伝えているマスコミもある。

 これらのカネは国民の税金か、宝くじ等国営賭博からの出費で、やはり元手は国民のカネである。ムダに遣っていい理由はどこにもない。

 下村博文は6カ月分の給与と賞与の自主返納を責任履行の一つとしていたが、そんなことでは追いつかない59億円+100億円であるはずだ。新国立競技場建設の迷走で見せた日本を代表する省である文科省の組織管理・運営の未熟さは日本人の能力という問題で把えられて世界に知らしめたマイナス面もあったことも考慮しなければならない。

 いわば日本の評判を貶めた責任も罪に加えなければならない。

 これらの責任を総合すると、少なくとも新国立競技場が完成するまでは自身の責任を噛みしめなければならない立場にあり、完成まで謹慎の意味で無役に徹するだけの責任意識を見せるべきだが、自民党は10月10日、総裁特別補佐と特命担当の副幹事長に充てる方針を固めた。

 自民党総裁は安倍晋三であり、最終的人事決定権は安倍晋三にある。

 当然、この自民党の総裁特別補佐と特命担当副幹事長の役目は文科相交代を埋め合わせる人事と見なければならない。

 これでは安倍晋三が下村博文に責任を取らせたと言うことができるのだろうか。下村博文は責任を取ったと言うことができるのだろうか。

 もしこれが安倍晋三の下村博文に対する最終的な責任の取らせ方であり、下村博文の最終的な責任の取り方だとしたら、両人共に責任の重大さを何ら自覚していない、逆にそれぞれの責任を、安倍晋三は任命責任を、下村博文は文科省トップとしての役目不履行の責任をゼロにする責任放棄に向かうことになる。

 これ程国民をバカにした責任体制はないはずだ。

 但し安倍晋三にしても下村博文にしても、新国立競技場完成まで無役でいなければならない程の責任はないと考えているなら、それぞれが負うべき責任に対して自身を律する意志が強固か、強固ではないかの責任感の問題となって、後者ということなら、首相である前に、あるいは大臣である前に議員となる資格さえもないと見る国民も存在するはずである。

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