小沢氏証人喚問問題、司法判断は国会判断に優る

2011-10-07 10:35:34 | Weblog

 勿論、司法判断が絶対だとは言えない。このことは冤罪の存在が何よりも証明している。

 最近では女児殺害の足利事件を冤罪の象徴的な例として誰もが挙げるに違いない。1990年5月12日、栃木県足利市のパチンコ店駐車場から4歳の女児が行方不明になり、翌朝、近くの河川敷で遺体となって発見された。

 翌年の12月に足利市内に住む菅谷利和氏が殺人容疑で逮捕される。自白は強要、DNA鑑定は確率の低い初期型の鑑定方法で、結果として血液型の一致のみを以って逮捕、起訴に持ち込み、1審、無期懲役の判決。2審、控訴棄却、最高裁が「DNA型鑑定の証拠能力を認める」と初判断し、2000年7月、第一審の無期懲役判決が確定。

 菅谷氏は再審を請求するが、地裁は請求棄却。東京高裁に即時抗告。東京高裁は2008年12月にDNA型の再鑑定実施を決定。再鑑定の結果、女児下着付着の体液とDNA型不一致の判定。

 2009年6月再審開始を決定。2010年3月、宇都宮地裁が無罪判決。

 警察が言う直感が実際は科学的な根拠のない、犯人に違いないという印象でしかなかったにも関わらず、それを思い込みにまで高めてすべてに優先させ、自分たちの頭の中に前以て描いたシナリオどおりの犯人としての自白を強要することになり、シナリオどおりの虚偽の自白を菅谷氏に誘導させることになった。

 このような犯人に違いないという思い込み・固定観念化が当時としては精度が低いDNA型鑑定であったことに留意しなければならない低確率性の科学的根拠を無視させるに至った。

 2009年に自称障害者団体「凛の会」に偽の障害者団体証明書を発行し、不正に郵便料金を安くダイレクトメールを発送させたとして逮捕され、裁判を受けた厚労省職員村木厚子氏のケースは裁判で無罪になったからよかったものの、起訴されたのは検察が犯人にデッチ上げるために証拠を改竄したからだった。

 以上のことは司法も絶対ではない、検察捜査も絶対ではないことを物語っている。

 だとしても、司法の判断は国会の判断よりも優先されるべきであろう。

 なぜなら、国会は自ら調べ上げた具体的な証拠も具体的な事実も何ら持たず、殆んどを新聞報道に頼っている。にも関わらず、不正の存在を前以て決めてかかった単なる印象と思い込みに基づいて追及する。証人が追及事実を否定したとしても、証拠を論拠とせず、不正の存在を固定観念とした印象と思い込みのみを論拠としているため、ウソをついている、事実を話していないと感情的、あるいは情緒的判断に流される。

 司法の判断を国会の判断よりも優先させる理由がもう一つある。

 2010年2月、検察は小沢氏の資金管理団体政治資金規正法違反事件で小沢氏自身を取調べ、不起訴決定をしている。

 だが、不起訴不当とする申し立てが東京第5検察察審査会に対して行われ、検察審査会は審査員11人の全会一致で「起訴相当」を議決。検察は再度小沢氏を取り調べ、再度不起訴処分とした。

 このニ度の不起訴処分は小沢氏の国会で説明する責任を免除したはずだ。

 しかし不起訴処分不当とする申し立てが再度行われ、2010年10月、検察審査会も再度起訴相当と議決。2011年1月に小沢氏は強制起訴されることになった。

 この時点で小沢氏は国会の判断よりも優先されるべき司法の判断に委ねられることになった。司法が国会と同様に印象と思い込みで不正の存在を前提に足利事件で演じたと同様の根拠のない判断を下したのでは困るが、何よりも先ずは小沢氏の証言(=説明)を交えた検察や弁護側の証言に立った司法の判断を待つべきだろう。

 小沢氏は初公判後の午後5時半からの国会内の記者会見で次のように発言している。

 小沢氏「裁判所は最終の法と証拠に基づいて判断するところだ。いろいろな力や干渉によって結果が左右されてはいけない。司法は独立している」(NHK NEWS WEB

 「裁判所は最終の法と証拠に基づいて判断するところだ」――

 いわば憲法62条の「議院の国政調査権」とこの規定を受けて具体化法として制定された「議院証言法」を以てしても、国会は「最終の法と証拠に基づいて判断するところ」ではないと談じている。

 小沢氏が優先されるべき司法の判断を待つ身でないなら、国会が「最終の法と証拠に基づいて判断する」場ではないばかりか、自らが調べ上げた具体的な証拠も具体的な事実も持たなかったとしても、不正の存在を前提とした印象と思い込みで所属政党を追いつめることを目的として追及するのも一つの手だが、小沢氏は既に優先されるべき司法の判断に委ねる身となっている。
 
 この理を無視するのは小沢氏自身を追い詰めるというよりも民主党を追いつめ、失点、ダメージを与えて、その失点、ダメージを与えることを以って自らの得点とすることが真の目的となっているからだろう。

コメント
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