野田首相の“安全運転”とは官僚運転の車に乗って行先きまで任せることなのか

2011-10-28 12:03:43 | Weblog

 自民党議員の中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」(2011-10-25 14:02:13)から知り得た情報だが、10月25日朝日新聞朝刊の「政治時評2011」なる記事に菅前政権の片山前総務相が民主党及び野田首相批判を展開していることを知った。 

 記事の全文を知りたいと思ってインターネットで件の記事を探したが、その記事は有料で、貧乏人には手が届かない。あるブログに記事の写真が載っていた。その写真を拡大に拡大を重ねて、やっと読み取り、文字化した。

 菅首相のオハコで、どのような批判も「それぞれ見方がある」として、単なる一つの見方に貶めて批判を葬ってきたように野田首相も同じ手を使うかもしれないが、片山前総務相の野田批判から窺うことのできる首相像はどう贔屓目に見ても、野田首相がモットーとしている“安全運転”が官僚任せ(=官僚主導・官僚依存)とすることによって獲得可能となる安全確保に見えて仕方がない。

 記事は片山前総務相と宇野重規東大教授(政治思想史)の対談形式となっている。

 以下全文参考引用――

 「改革の一丁目一番地」はどうなった?

  野田さんは「分権お休み中」


 宇野「かつて自治官僚だった片山さんは、古巣の総務省(旧自治省)に厳しい指導をされてきました。菅政権で総務相として戻り、変革することができましたか」

 片山前総務相「1年は短かったですが、これだけはやりたいと思っていたことはできたと思います。力を入れたのは総務省の体質改善です。組織として仕事をしようと思えば、トップである大臣と官僚がミッション(使命)を共有しなければいけません。その気になってもらうために、官僚たちと徹底的に議論しました」

 宇野「『官僚組織の腐敗の原因はミッション感覚の喪失である』と指摘してきましたね」

 片山前総務相「その通りです。一義的には官僚に責任はありますが、ミッションを与えなかった政治家にの問題があった。

 政治家のミッションは国民の意識、感覚を官僚組織に注入することにあるのに、それを怠った。その空白に乗じて、官僚たちの間に組織の論理がはびこりました」

 宇野「総務官僚には、自治体の代弁者と自任する反面、自治体を半人前扱いにしている印象があります。総務省のミッション感覚もどこかでおかしくなったのでしょうか」

 片山前総務相「日本を民主的は国にする基盤として地方自治は重要で、中央の権限や裁量を自治体に移し、運営を任せなければいけないという感覚は総務官僚にあります。ところが、その権限を自治体が行使するときに、住民が方向付けすることに本能的に抵抗がある。住民ではなく、総務省を向いてくれないと居場所がなくなるのではという不安があるのです」

 宇野「民主党政権は『地域主権は改革の1丁目1番地』と唱えましたが、大きく前進した印象はありません。補助金の一括交付金化や国の出先機関の自治体への移管はどのくらいすすんだのでしょうか」

 片山前総務相「補助金は各省の縦割りで使途が決められ、年度内に使い切る仕組みです。使い勝手が悪く、無駄も生じる。こうした弊害をなくそうというのが一括交付金化で、まず都道府県のハード事業を対象に行いました。私が就任した時点で決まっていたのは28億円で分でしたが、菅前首相の強い指示、馬淵国土交通相、鹿野農林水産相などの協力を得て、5120億円まで積み上げました。

 国の出先機関には民主主義の不足が顕著です。同じ仕事をする場合、地方議会に監視される自治体がやるのと、国会の監視はあるものの非常に縁遠くなっている出先機関がするのとでは、民主的な統御の面で出先機関は劣ります。九州や関西などブロックの受け皿にごっそり移譲する構想を進めてきましたが各省の抵抗が強まっている。後退しないようにしなければいけない」

 宇野「20日に野田首相が『もっと進めろ』と指示しましたが、地方分権については、鳩山、菅政権より腰が入っていないように思えます」

 片山前総務相「山登りに喩えれば、今は3合目あたりか、先に進むか、一旦休むか、引き返してしまうのか。そういう段階です。状況証拠からすると、野田内閣は『分権お休みシフト』で、あまり熱心ではない。官僚組織の要である事務の内閣官房副長官に国交省の現役次官を起用しました。国交省は、馬淵大臣が一括交付金化や出先機関の移管を進めようと指導力を発揮してきましたが、基本的には抵抗の立場です。その頭目を起用するというのは、いずれも進める気がないとうことでしょうね」

 宇野「民主党らしさとは何かと考えると、ひとつは鳩山さんがこだわった『新しい公共』だと思うのです。更に地方分権も民主党の本質的な部分だと見ていたのですが、違うでしょうか」

 復興=増税 財務省言いなり

 片山前総務相「役所や官僚を介さずに社会が必要とする公共空間を形成する。それが民主党らしさだと思います。地域主権改革とは国が物事を決めて、自治体に押しつけるベクトルを断つことだし、『新しい公共』における寄付優遇税制は、官僚が税金を使って提供してきた公共サービスを、個々人が価値を認める民間団体にお金を出して進めるという発想に立ちます。農家の戸別所得補償も子ども手当も、官僚の裁量や恣意を排する政策です。こうした改革や政策を官僚は本能的に嫌います。

 殆どが官僚が書いたとされる野田首相の所信表明演説で『新しい公共』への言及がなく、地方分権もおざなりな点に、官僚の本音がにおいます。

 宇野「野田政権は官僚に全面的に屈し、これまで取り組んできた民主党らしさが大幅に後退した、という評価になるんでしょうか」

 片山前総務相「野党時代の民主党がマニフェストに掲げた政策には、官僚と一体化した自民党政権との対抗軸として官僚組織を介さない仕組みを拡大する意味合いがあった。これが『新しい公共』であり、地方分権改革でした。本当にそういう社会を目指そうという人もいるが、政権を取れたのでもう必要はない、官僚と仲良くやるほうが安全でいいという人もいる。野田さんは後者の典型でしょう」

 宇野「官僚と手を組んで政治をしてきた自民党にすれば、野田政権が官僚と一体化すると、存在意義が脅かされることになりますね」

 片山前総務相「自民党は野田政権にお株を奪われました。古女房のように思っていた官僚たちがある日、突然離れていった。人情の薄さを痛切に思っているでしょう。でも、政と官の間には適切な間合いがあるべきです。不実をなじるより、官僚とはそんなもの、冷たく薄情なものだと客観視していくほうがいいと思います」

 宇野ところで、東日本大震災をきっかけに、地方分権の有り様が変わることはないでしょうか」

 片山前総務相「被災した自治体の多くが住民と意思疎通を図って復興計画をつくろうとしているのはいいことです。阪神大震災で神戸市が住民の意見を聞かずに復興計画をつくり、結果として住民の孤独死を招くなどしたことへの反省があります。財政支援の仕組みは国が決め、自治体が主体的に計画を決めるという道筋です。が、肝心の国の対応が鈍い。

 この国会の争点である第3次補正予算案なんて4月にでもつくるべきだったのです。早く決めましょうと私は言い続けましたが、財務省が震災を機に増税することにこだわり、進みませんでした。

 復興事業はお金のあるなしで左右される代物ではない。国債を使って1日も早く補正予算を組まないといけないのに、復興のためなら国民も増税に応じるはずと、復興を人質にしたのです。

 宇野「民主党内には地方分権こそが大事という考えと、増税なくして復興なしという財務省的な考えが緊張関係にあった。野田政権では財務省側にシフトしたのでしょうか」

 片山前総務相多くの与党議員が財務省にマインドコントロールされているとしか思えなかった。メディアも同じです。救急病院に重篤な患者を運び込まれているのに、治療費の返済計画を家族が提出するまで待たせておくよなもので、異様です。世の中がそれを異様だと言わないところがまた、異様だと思います」

 宇野「復興のための増税のはずなのに増税自体が自己目的化しているわけですね」

 片山前総務相「赤字国債を年40数兆円出しているのに、財務省はその返済財源について口にしない。ところが、復興予算とB型肝炎の関連予算には執拗に財源を求める。異様です。閣議などで私がそう指摘すると、『財源なしに予算を組むのは無責任だ』と主張したのが、当時の野田財務相と与謝野経済財政相でした。財務官僚の論理を野田さんが代弁し、与謝野さんが補強し、菅首相までもがのんでしまった。

 復興の遅れを、菅さんの6月2日の辞意表明のせいにする人がいますが、それは的外れです。真の原因は、財務省のヘンテコな論理を菅さんがとがめなかったところにある。その意味では、菅首相は判断を誤ったと言えるでしょう」

 宇野「政権交代から鳩山、菅政権を経て野田政権に至って民主党らしさが曖昧になり、政権交代そのものへの失望感が広がっています」

 片山前総務相「野田政権になって、ほとんど自民党時代に戻ってしまいました。野田さんとは菅内閣で1年間付き合いましたが、財務官僚が設定した枠を超えられませんでした

 宇野「政権が変わっても中身が同じというなら、政権交代の意義はなくなりはしませんか」

 片山前総務相「鳩山、菅両政権の激しさに辟易(へきえき)してか、バック・トゥー・ノーマルシー、いわば平常への復帰を望む空気が、官僚、民主党だけではなく、国民の間にもある。いまは波乱万丈の後の癒しの時代で、安全運転がいいという雰囲気が漂います。そういう時代ではダメだということで、政権交代があったはずですが」

 宇野「社会の現状を打破するために政権交代をテコに使うとか、本来の趣旨に戻らないといけません」

 片山前総務相「事業仕分けで凍結されたのに、野田財務相が着工を容認した埼玉県朝霞市の国家公務員住宅が現状を象徴しています。世論の反発を受け、財務省の検討会で中止も含めて判断することになったが、最終的にどうなるか。目を離したら元の木阿弥になる可能性が相当ある。マスコミが野田さんに『王様は裸だ』と言えるかどうか、『ドジョウ』で騙されてはいけません
 少なくとも片山前総務相は野田首相の政治姿勢を、事故を恐れて自分から運転するのではなく、官僚が運転する車に乗って、行先きまで任せる“安全運転”志向に徹した官僚主導・官僚依存に陥っていると、そういった“見方”をしている。

 だが、1年間、近くにいて観察していたのである。単なる“見方”で終わらせることはできないように思える。

 その象徴的な指摘の一つが、野田首相は演説が得意が一般的な評価となっているが、その得意を押し殺して所信表明演説を官僚の作文で済ませたと言っているところに現れている。

 片山前総務相は地方分権について、「日本を民主的は国にする基盤として地方自治は重要で、中央の権限や裁量を自治体に移し、運営を任せなければいけないという感覚は総務官僚にあります。ところが、その権限を自治体が行使するときに、住民が方向付けすることに本能的に抵抗がある。住民ではなく、総務省を向いてくれないと居場所がなくなるのではという不安があるのです」と言っている。

 いわば権限や裁量を国から地方に移してもいい。だが、住民がその行使を方向づけるのは反対だ、あくまでも総務相に顔を向けながら、いわば総務省の顔を窺いながらということなのだろう、行使して貰わないと自分たちの存在意義を失いかねないからと、そこに制限を設ける意志を働かせているという趣旨に違いない。

 ここから見えてくる答は国は地方分権だと言いながら、あるいは国から地方への権限委譲だと言いながら、中央が地方を支配する中央集権意識から完全には脱却することができない姿である。

 このことを別の言い方をすると、いつまでも子どもを自身の管理下に置こうとして子離れできない親が子どもに対して自律(自立)できない姿を実体としているように地方自身がこれまでと違って自律(自立)しようと働きかけているのに反して、国がいつまでも地方離れが決断できない自律(自立)不可の姿を実体としていると言える。

 このミスマッチが地方分権や一括交付金化がすんなりと進まない無視できない原因の一つとなっているということではないだろうか。

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