やらせメール事件の九電から甘く見られた政府・枝野経産相の当然の展開

2011-10-24 12:40:56 | Weblog

 教育基本法改正等をテーマに行われた小泉内閣時代の教育改革タウンミーティング。賛成趣旨の発言がヤラセだと露見しないように言葉遣いの注意まで付けたシナリオを前以て与えて、5000円の謝礼付きでサクラを雇い、自分たちに都合のいい結果を出すための世論操作を紛れ込ませていたヤラセでもあったように、九州電力玄海原子力発電所2、3号機の運転再開に向けた経産省主催佐賀県民向け説明会は九電が関係会社社員に運転再開支持のメールを投稿させて世論操作を紛れ込ませていたヤラセを含んでいた。

 この〈佐賀県民向け説明会は原発立地県として運転再開の是非を判断するため古川康知事が国に開催を要請していたもの〉(Wikipedia)だという。

 自ら説明会の開催を国に要請し、その説明会で運転再開支持の大勢意見をニセメールでつくり立て、再開に漕ぎつけようとした。まさしくマッチポンプな世論操作、情報操作と言える。

 ヤラセが露見すると、九州電力取締役会は問題の検証と再発防止策の検討を行う第三者委員会を設置。委員長に名城大学教授、コンプライアンス研究センター長、弁護士の肩書ある郷原信郎を指名。

 9月8日、第三者委員会は〈佐賀県知事古川康が6月21日に九電幹部と会談した際の発言が発端となって、やらせ問題を誘導したことを会談参加者の発言メモなどを元に認定〉した中間報告書を九電に提出。対して〈古川康知事は「真意とは異なる形で発言メモが作られた」「私が責任を取ることにはならない」などと反論〉(Wikipedia

 古川佐賀県知事「九電側の受け止めの問題。私の真意と違う形で受け止めたことで、私自身の責任は発生しない」(MSN産経

 私の発言が発端となったやらせメールではないと否定。 
 
 九電(コメント)「知事発言の真意とは異なる懇談メモが発端となったと認識している」(同MSN産経

 歩調を合わせたのか、知事の発言が発端ではないと否定。

 9月30日、第三者委員会は6月21日の古川佐賀県知事の発言は会談参加者の発言メモ通りの趣旨に相違ないとし、〈「『民意』が賛成に向けられるように九電が動いた」と断定〉する最終報告書を九電に提出。

 九電側は10月14日、〈この問題に関する最終報告書をまとめ、経済産業省資源エネルギー庁に提出。報告書は古川康知事の責任や関与をほとんど記述せず、第三者委員会の認定を事実上否定した。また、同日の臨時取締役会は真部利応社長が松尾新吾会長に提出していた辞表の取り扱いを議論し、全会一致で続投を決めるとともに、関係者の減俸処分を決定したが、更迭や異動はなかった。〉(Wikipedia)――

 いわば第三者委員会報告書に全面的に反旗を翻した。

 九電が自らの責任を否定し、古川知事の責任と関与を無視したのは原発稼動に関して利害を同じくすることから、共犯関係にあったことからの態度ではないかと疑うこともできる。

 九電の反旗に対して、第三者委員会の郷原委員長が九電が報告書を出した同じ日の10月14日に早速批判のコメントを出している。

 郷原委員長「第三者委の指摘に対する認識が示されず、全く内容がない。まやかし。

 形だけ(第三者委の)提言の受け入れを強調して社会的批判をかわそうとするもので、本質に向き合い、透明で公正な事業活動を行う姿勢は見受けられない

 (第三者委が示した2005年の公開討論会での「仕込み質問」への佐賀県側の関与について最終報告書が一切触れなかったことを問題視して)九電が置かれた環境と経営陣の認識のずれがいっそう深刻化している」(MSN産経

 九電としたら古川知事とは原子力発電に関して癒着という名の長年の共犯関係にあったから、古川知事を庇わないわけにいかず、庇うとなると、九電だけ責任を取るのはおかしな形になるため、共々無罪という同じ立場に置いて一件落着としなければならない苦しい事情もあるに違いない。

 以下、所管大臣の枝野詭弁家経産相の反応を見てみる。

 枝野経産相(10月14日、中国の広州で記者団に対して)「続投以前の問題だ。最終報告書には、みずから委託した第三者委員会が先月まとめた調査報告に記載のあった項目が載っていないと聞いている。第三者委員会に検証してもらい、それを踏まえて対応するのが趣旨なのに、報告書のつまみ食いをするようなやり方は公益企業としてありえるのか。深刻な問題で、何を考えているのかと思う」(NHK NEWS WEB

 「公益企業としてありえるのか」――公益企業の資格はないと厳しく批判している。だが、この男は九電側の反旗がどのような理由からであっても、その反旗への視点は持ち得ても、第三者委員会の報告書が受けた無視に向ける視点は持ち得ていない。

 なぜ無視したのかの理由を明らかにすることも大事だが、なぜ無視されたのかの理由も明らかにしなければ、検証・報告内容の妥当性の責任は無視されることになる。

 枝野経産相(10月16日のNHK「日曜討論」で)「みずからの検証が信用されないので、調査をお願いした第三者委員会の報告を前提とするのが普通で、理解不能だ。

 こうした会長、社長の行動に、住民の理解は得られない。今の状況では、原発の安全性について何を言っても信用されるとは思えない」(NHK NEWS WEB

 この枝野発言に対して古川佐賀県知事が反論している。

 記者「経産相の発言をどう受け止めたか」

 古川知事「(経産相は)なぜ『自分の理解』と言わないで、『地元の理解』と言うのか、理解できない」

 要するに勝手に住民をダシに使って、「住民の理解は得られない」などと決めつけないでくれとイチャモンをつけた。自身の「理解」を言うべきだと。

 地元は原発補助金や雇用の関係で原発稼動と利害を同じくしているとの自信が言わせたのか、なかなかの強気の発言となっている。

 中央が地方を支配する中央集権国家日本では考えられない強気のイチャモンと言わざるを得ない。中央に位置する枝野経産相は水戸のご老公とまではいかなくても、それに準ずる地位にいる。片や古川知事は地方の一大名に過ぎない。時代劇だったなら、何を言われても、「ハ、ハ、ハアー」と畳に額を擦りつけんばかりに平身低頭しなければならない上下関係に支配されていて、それが現代日本にもかなりの色彩で影を落としている。

 当然、平身低頭までいかなくても、恐縮してもいい立場にあるはずだが、恐縮どころか、今に残る上下関係の地位を無視されて、対等以上の対抗心を見せつけた。

 相互の地位が規定していた場合の対人関係に於ける相手に対する敬意は地位を取り払った場合、地位に替わってその存在性の軽重が規定することになる。

 だが、枝野経産相は地位を無視され、存在自体も軽く見られた。古川知事は「理解できない」と枝野経産相の発言を跳ねつけるについては、内心、「何言ってやがんだ」という思いがあったからこそできたに違いない。

 九電会長も古川知事同様に無視の態度に出た。第三者委員会の最終報告書に対しても批判を繰返す枝野経産相に対しても軽んじる気持があるからこその無視であろう。

 10月22日夜、九州電力の会長が社長の続投に含みを持たせる発言をしたという。

 松尾新吾九州電力会長「今、最適な社長は眞部だ」

 責任を取る必要はないとの宣告であり、自発的辞任の責任を取らせたい政府に対する反旗でもあろう。

 対して枝野経産相。10月23日の記者会見。

 枝野経産相「いろいろな報道は拝見しているが、まさかそのとおりではないだろうなと思っている。

 私には九州電力の人事権はないし、人事に介入するつもりはない。しかし、例えば原発が再稼動という話になるとしても安全性のチェックだけではなく、住民に安心してもらえるような企業体かどうかもかなり重要度の高い要素として判断したい」(NHK NEWS WEB

 これは間接的な威嚇である。「人事権はないし、人事に介入するつもりはない」なら、また、「住民に安心してもらえるような企業体かどうか」の企業信頼性に対する地元の判断を再稼働の条件とするなら、原発自体の安全性のチェックと地元の判断を基準として粛々と厳格に裁定を下せば済むことだが、「人事権はないし、人事に介入するつもりはない」と言いながら、間接的な威嚇まで用いて、社長は責任を取って辞めろと人事に介入している。

 もし菅前内閣が福島原発事故対応に於いても、被災地に対する復旧・復興対応に於いても、さらには被災住民に対する生活支援対応に於いても、その他諸々の政治行動に於いて厳格にきっちりと責任を果たしていたなら、枝野経産相の批判を待つことなく、第三者委員会の報告書はそれなりの厳粛さを持って受け入れられたはずである。

 責任を果たすということはいい加減な対応で済まさないということであり、そのような姿勢は当然、周囲に対してもいい加減な対応は許されないと学習させることになる。

 厳格な責任遂行こそが指導力の生みの親であり、逆は指導力欠如を生むということであろう。

 内閣としての責任遂行に厳格さを欠いた姿勢に対応させた軽んじる気持、あるいは甘く見る気持が仕向けた報告書や枝野批判に対する、当然の展開としてある無視、あるいは軽視と見るべきであり、イコールとしてある指導力が行き届かない状況ということではないだろうか。

 「自分たちがやるべきことをやらないで、人のことをとやかく言うな」というわけである。

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