2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(5)

2010-09-28 03:45:41 | Weblog

 《2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(4)》の続き

 清家教授の多様性と個性は基礎学力の上にこそ築くことができ、その両者のバランスが必要だとする主張を取り上げてのことではないが、番組の議論の記載に入る前の冒頭箇所で、誰もが基礎学力の必要性を訴えている現状に関して、身についた基礎学力が暗記教育に則った基礎学力の授受であるなら、教師が伝える基礎学力を単になぞって暗記する形式を踏んだ基礎学力に過ぎないことになり、考える力への発展に役立つとは思えないと指摘した。

 暗記知識でしかない基礎学力なら、「レベルを平均的に底上げする」ことで暗記量を多くすることに越したことはないにしても、みな同じ基礎知識を持つことになって、逆に多様性や個性を排除する力となって働くことになる。同じ基礎知識を基に同じ発想をし、同じ発想に基づいて同じ行動を取るようになるからだ。

 良く遊ぶ子を例に多様性、個性を見ると書いたが、多様性、個性の獲得には“考える”という知的作用を欠かすことのできない要素と見なければならない。いわば考えない基礎学力であるなら、いくら積み重ねたとしても、多様性、個性は生れないことになる。

 権威主義教育・暗記教育から脱しない限り、基礎学力の上に築く多様性、個性のバランスは決して生じないと言わざるを得ない。たまたま個人性に恵まれて暗記教育に距離を置いた者だけがバランスを手に入れることができるということではないだろうか。

 清家は大学教授らしく尤もらしく教育論を展開するが、他人の教育論を権威主義教育・暗記教育の構造に則って学んで、それをちょっと色をつけて披露しているだけのように見える。 
 
 さらに清家は、「高校とか大学のレベルでは、もっともっと多様性とか、個性が出てくるような――」と言って、そのような教育の必要性を主張しているが、必要とするこの現状を裏返すと、高校とか大学のレベルでも「もっともっと多様性とか、個性が出てくるような」教育ができていないということの指摘となる。この必要性は幼稚園・保育園に始まって小中と引き継いできた不足に対するものであろう。

 幼稚園・保育園に始まって小中と多様性・個性が出る教育となっていて、高校・大学ではそういう教育となっていないということでは矛盾することになる。

 「もっともっと」の意味が幼稚園・保育園に始まって小中で一応多様性・個性の出る教育はできているが、高校・大学ではそれ以上に多様性・個性が出る教育が必要だとする意味だとしても、多様性・個性に関しては幼稚園・保育園、小中、高校・大学とすべて同じレベルの教育となっていることになって、これまた矛盾することになる。

 いわば日本の教育は清家の指摘とは逆の、「もっともっと多様性とか、個性が出てくるような」教育とは全体的になっていないと言うことであろう。

 当然、清家はそのような教育になぜなっていないのかを考察しなければならないが、単に必要性を訴えているのみだから、現象を表面的に把えて、表面的に解説しているに過ぎないことになる。暗記教育で得た知識だからだろう。

 勿論、既に触れたように権威主義教育・暗記教育が多様性、個性を排除する構造の教育だからなのだが、そこに思い至らない限り、何も解決しないに違いない。

 ここで寺脇と宋が次のような遣り取りをするが、二人とも見当違いなことを言っているに過ぎない。
 
 寺脇「実は高校、大学というのは学ぶ場ですよね。学ぶためには力が必要なんで、その力を小学校で教えると、中学校で教えると。それはもう一つ、当然ある。ただそればっかりやっていると、学ぶ意欲、さっき宋さんがおっしゃった――」

 「いや、ボクは、先生、申し訳ないですけども、逆なんですよ。個性は絶対、小ちゃいうちだと思っています。知識は死ぬまで勉強するもんですよ。だから、東大は卒業したら、勉強する力なくなっちゃうんですよ。勉強し過ぎて――」

 寺脇が「さっき宋さんがおっしゃった」とは、宋が「教育できないものがある。馬は川へ行きたくないのに川へ連れて行っても、仕方がない。つまり、意欲がないと教えられない」と言ったことを指す。

 寺脇は、「高校、大学というのは学ぶ場で、学ぶためには力が必要」だと言っているが、権威主義教育・暗記教育の形式に則って教師が伝える知識・情報をそのままの形で受動的になぞり機械的に暗記した学力(=学びの力)と、そのような受動性を排して主体的に自分から考え、学ぶ、既にそこに学ぶ意欲を併行させた自ら獲得した学力(=学びの力)とは厳格に区別し、現在の日本の高校、大学が前者の“学び”となっているのか、後者の“学び”となっているのか把握して、そこを出発点としなければならないのだが、寺脇はそこまでの視点を持っていない。

 「学ぶ意欲」云々と言うなら、前者の教育からの脱却を図り、後者の教育構造に持っていかなければならない。意欲が学ぶ力をもたらす。

 宋が、「個性は絶対、小ちゃいうちだと思っています」と言っているが、個性を顔が違う、声が違う、怒りっぽいとか物静かだといったことの性格が違うに類する生来性を引き継いだ個性と、考え方が違うという後天性の個性に自覚的に明確に分けて考えないといけない。考え方が違ってくると、当然行動の方法も違ってくる。性格という個性は持って生れた性格をベースに学校社会での経験を含む本人の社会的経験によって大人としての性格に発達せしめることができるが、理性や人格につながる考え方の個性は自身の考えを進化させたり、発展させることで身につけていく個性であって、誰もが社会的経験を踏んだからと言って、大人としての理性や人格を有するとは限らない。親のしつけ、学校の教育を子どもに伝える中でそこに考えるプロセスがないと、考え方の個性に差が出てこないことになって、似たり寄ったりの人間ばかりとなる。日本人の均質性が言われるのはこの所以であろう。

 人間は死ぬまで何かを学ぶ生きものである。そういった点で宋が言っているように、「知識は死ぬまで勉強するもんですよ」ということになるが、その学びが権威主義教育・暗記教育形式で単になぞり暗記する学びであるなら、他者の知識・情報をそのまま自分の知識・情報とし、そういった知識・情報の量を増やすだけのことで、自分の考え・思考として身につけたことにならない。

 有名男女タレントがテレビでああ言った、こう言ったと言ったままを話題にするだけの人間はこの学びの種類に入る。
 
 いわば権威主義教育・暗記教育形式の知識・情報の授受なのか、自身の思考の濾過・咀嚼を経た知識・情報の授受なのか、この二つを常に分けて問う議論でなければならない。後者の知識・情報は常に発展形を取る。当初から“考える”要素を備えているからだ。

 人生のある時期、考えを深化させる機会に恵まれて、それが個性となって表現されるケースもあるのだから、決して「個性は絶対、小ちゃいうち」とは限らない。あの人は小学校のときも中学校のときも目立たない平凡なだけの子だったけど、まあ、立派に活躍されてといったこともある。

 多分、頭の中で考えることに熱中して、考えるという活動が外に現れないことからの目立たない平凡なだけといった印象を与えていたのかもしれない。

 だとすると、一般的には考える習慣は「小ちゃいうち」に身につけるに越したことはないことになる。

 清家は上の宋の発言に対して、「確かにそういう面があると思いますが、個性というものが勉強し過ぎると全くなくなっちゃうかと言うと、必ずしもそうじゃない。むしろ問題なのは、今、大学生というのはむしろ授業をやめるようになっている。昔の我々の頃は授業によく出、教師の言うことをよく聞いて、しっかり凄い出席して――」と、相変わらず日本の教育の構造を的確に把握しないままに論を進めている。

 権威主義教育・暗記教育自体が個性を削ぐ教育、個性を育まない教育だと既に言った。日本の教育が権威主義教育・暗記教育であるという視点を持つことができないから、そういった教育であるかないかを把握できず、「個性というものが勉強し過ぎると全くなくなっちゃうかと言うと、必ずしもそうじゃない」といった見当違いのことを言うことになる。

 見当違いは、「今、大学生というのはむしろ授業をやめるようになっている」とか、「昔の我々の頃は授業によく出、教師の言うことをよく聞いて」といった発言にも現れている。

 確かに先人の知識量・情報量は多かったかもしれない。読書量も半端ではなかったろう。だが、その知識・情報が単に教師の言うことやあるいは書物の中の知識・情報をそのままなぞって暗記して取得したもので、自身の考えでその知識・情報を濾過・咀嚼して、そこに自分なりの新しい考えを付け加えていかない、あるいは打ち立てていない権威主義教育形式・暗記教育形式の授受に則って獲得した知識・情報であるのは、先人を代表する立場にあり、尚且つ大学教授という知識人の立場にありながら、清家自身の今の大学生は勉強しない、昔の大学生は勉強したといった自らの知識・情報とした勉強風景を見たままになぞって解釈する機械的思考しか取れないこと自体が証明していることであって、そういった先人の知識・情報の機械的授受を受け継いで、現在の大学生、それ以下があるということであろう。

 違いは勉強量のみで、基本的思考形式は同じだということである。

 勉強の量が問題ではない。一を聞いて十を知る、せめて二か三を知る考える力が問題となっているということを考えることができない。もし一を聞いて十を知ることができる考える力も身につけていたなら、一を聞いて一を知り、別の一を聞いてその一を知る段階的・重層的知識・情報の獲得は必要なくなり、当然、勉強量は少なく済む。

 尤も先人も現在の人間も同じ姿を取るのは日本の教育が権威主義教育・暗記主義教育を伝統とし、文化とし、歴史としている以上、当然のことであろう。違いは単に世代間の暗記式知識量の違いのみで、そのような世代間の違いは同じ世代の大学生であっても、個人間に受け継がれている違いでもあるはずだ。

 清家は須田アナが「授業でつまんなかった記憶しかないですけど」と問うと、「昔ですと、みんな休講なんか喜びましたけど、休講したら、登校するんですかと、そういう、あれですからね、それはそれでいい面があるんですが、逆に高校や中学になると、同じような形で一生懸命勉強するというパターンが大学に来てしまって、むしろ大学生はもう少し授業は教授はこういっているけれども、本当にそうなんだろうかというような形で考える、そういうスタンスになってもらいたいって気がします」と答えているが、今の大学生に対する「本当にそうなんだろうかというような形で考える、そういうスタンスになってもらいたい」の希望をそのまま裏返すと、今の大学生は「考えるスタンス」を取れないでいるということであろう。「考えるスタンス」を取ることができないまま、教授からの知識・情報の伝達を機械的、無考え、無条件になぞって受容する形式の知性となっているとの間接的な言い方で図らずも日本の教育が考える教育になっていないことを言っているが、なぜそういう教育となっているかまで突きつめて考えることはせず、大学生の現状を見えるままに表面的に把えて、見えるままの解釈を機械的に行う表面的な観察の終始にとどまっている。

 いわば清家自身も権威主義教育・暗記主義教育による知識・情報の機械的授受に毒され、そこから抜け出れないままに機械的授受の形式に則って機械的な解釈を施して、それで終わっているということであろう。

 大学教授なのだから、議論の展開ももう少し論理的に誰にも理解できるように喋ることができないものだろうか。

 日本の教育方法が受け身の、あるいは受動的暗記教育、権威主義教育となっていて、生徒自身に主体的に考えさせるプロセスを介在させる教育となっていないから、プロ野球でも、大の大人に対してチーム全体で「考える野球」を唱えたり、「もっと考えて野球しろ」と叱咤しなければならない。基本的には選手個々の主体性・判断に任せているアメリカの大リーグとの違いが生じる。主体性・判断の点で、日本の選手は大リーグの選手のようには大人になりきれていないということである。

 もし幼稚園から小中高校と考える習慣が身につく教育、暗記教育ではない教育を受けていたなら、プロ野球で「考えろ、考えて野球しろ」と言われる前に自分から考えるはずである。社会人になって、一から十まで新入社員教育を受ける必要もないに違いない。建築家の安藤が言うように優秀な大学を卒業していながら、「言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」といった無考えの行動、発展性のない行動は取らないで、自分で考えて、考えたことを積極的・主体的に行動に移していくはずだ。

 考えるとは他から受けた知識・情報を基礎として、そこからその時々に応じて自身に必要となる知識・情報へと応用を利かす応用力までを言う。考え、工夫を凝らすことによって応用力は生れる。

 そのためには知識・情報のあらゆる授受に際して、常に自分なりの考えで受け止める習慣を身につけ、それを習性としていなければならない。考える習慣のないところに工夫を効かす機会も応用を効かす機会も訪れない。

 一つの例を挙げよう。非正規社員が正規社員と同じ仕事をしながら、正規社員よりも給与がかなり低いことが問題となっているが、新入社員教育を受けない非正規社員が新入社員教育を受けた正規社員と同じ仕事ができると言うことは 新入社員教育を受けなくても非正規社員は仕事にそれだけの応用力を効かすことができているということであろう。身分が不安定な非正規社員は一通り教えられた仕事の手順を否応もなしに考え、工夫を凝らし応用力を効かせて仕事をこなすことができなければ、厄介者として直ちにお払い箱となる。

 安藤が日本の教育の正体を言い当てている。「今の若い人は本当に過保護に育っているから、一から教えなあかん」

 だが、過保護と言うよりも過管理と言うべきではないだろうか。暗記教育であり、自分で考える教育となっていないから、常に一から教えることになる。教える全体を逐一暗記させなければならない。勿論教えを受ける生徒の方はすべてを暗記できるわけではなく、暗記量に個人差が出るが、それでも教える方は暗記形式に則っている以上、一から始めてすべてを暗記するように段階を追って教える知識・情報を積み上げていく

 犬に最初にお座りを教え、次にお手、その次にチンチンを教えるように段階を追わなければならない。犬はお座りを教えただけで、犬の方からお手を学ぶことはしない。だから、現在以上の知識・情報を学ばせようとすると、教科書を厚くし、授業時間も増やさなければならないことが起きる。 

 生徒が自分で考えて教師が伝えた知識・情報を自分なりに発展させてくれないからだ。一から十までの段階を丁寧に追った教えが、一見過保護の教えに見えるが、必然的に何から何までの過管理を招くことになる。権威主義の思考様式・行動様式に則って上が何から何まで下を従わせようとするから、どうしてもこのような過管理が起きる。

 教師の側から一から教えることは生徒の側から言わせると、一から教わるということになるが、この相互性を持ったすべての段階を踏む知識・情報の授受自体が日本の教育である権威主義教育・暗記教育の基本構造を成していると見なければならない。

 幼い頃からこの基本構造の教育に慣らされているために大学でも繰返されることとなり、安藤が言うように大学出の若者に対しても「一から教えなあかん」ということになる。

 そこでは自分で考え、工夫を凝らして応用力を効かすという場面は期待不可能となっている。

 時折鋭い洞察力を見せる宋文州にしても、日本の教育構造を厳格に把握していないから、「本来、教育は二つの部分があって、一つは体験、一つは知識。どう教えても、日本は知識中心なんですね。体験はつくれないよね。先生も体験ないし、親も体験させたくない。そしたら、(知識だけを)一生懸命教え込むしかないんですよね」と少々ズレたことを言うことになる。

 「知識中心」であっても、それが機械的になぞり暗記する知識ではなく、自身の思考の濾過・咀嚼を経る知識であるなら、何らかの体験をしない人間はいないのかだら、何か体験したとき、それが少ない体験であっても、あるいは体験と言える程の体験の機会でなくても、知識・情報の授受の際の自身の思考の濾過・咀嚼を体験のときも応用することとなって、少ない体験を自分なりに発展させることが可能となる。

 逆に体験が暗記教育に於けるのと同じ管理を受け、生徒が暗記教育に於けるのと同じく教師の管理に忠実に従って管理どおりの体験となった場合、あるいは教師の手の離れた場所での体験であっても、権威主義教育・暗記教育に慣らされて自身の思考の濾過・咀嚼を経なかったなら、考える機会を持たないこととなって、単に体験を表面的になぞっただけ、機械的に体験をこなしただけの物理性を帯びることになる。

 いわば考えない体験 ただ体験しただけの体験で終わりかねない。知識中心であっても、体験中心であっても、考える知識、考える体験でなければならないということである。その相互性によって思考能力は発展を受け、体験を備えた知識、知識を備えた体験へと育っていくはずである。

 ゆえにあくまでも基本は考える教育となっているかどうかであり、何事もそこから出発する。

 宋が自分の子どもが日本の小学校から中国系小学校か中国の小学校なのか、移って自己主張が激しくなったというと、須田アナが中国の教育は詰め込み教育ではなく、コミュニケーションを重視するのかと聞く。対して宋は、「それは教育のせいじゃなくて、先生もそういう人間だし、友達もそういう人間。環境なんです。みんな言うから、言わないと何もできない」と答えている。

 ここにも日本の教育が権威主義教育・暗記教育であり、考える教育となっていないことが現れていると同時に、子どもの言語力の欠如が大人の欠如の反映であることを奇しくも宋は言い当てている。

 考えて思考能力を発達させることによって自己主張が生れる。だが、日本の教育は知識・情報の授受形式に従って思考・行動共に考える機会を介在させずに機械的に上に従う権威主義教育・暗記教育となっているから、子どもは当然思考能力を発達させることができないために自己主張が生れない。

 しかしこのような子どもの状況は大人も権威主義教育・暗記教育で育っているから、考えて思考能力を発達させる機会を持たないまま大人となり、そのような大人によって教育やしつけを権威主義教育・暗記教育の形式に則って受けることになるから、その循環が子どもにまで及んでいる思考能力の欠如に対応した自己主張欠如ということであろう。

 宋が「環境なんです」と言っているが、大人から子どもへ、あるいは子どもから子どもへ、逆に子どもから大人への資質の相互循環性を空間的に「環境」と把えた発言であろう。

 日本の大人の思考能力の欠如に対応した子ども、あるいは子どもが成長した姿の若者の自己主張の欠如は建築家安藤が優秀な大学を出ていても、「先ずは自分から一歩踏み込むことはしない」と指摘している、“指示待ち症候群”、あるいは“横並び症候群”、さらには“マニュアル人間”といった行動傾向が日本人全体を指すことに現れている。

 誰の指示を受けるまでもなく、「自分から一歩踏み込む」行動性も自己主張の一種である。だが、“指示待ち症候群”、“横並び症候群”、“マニュアル人間”といった行動傾向には「自分から一歩踏み込む」行動性は存在しない。

 宋の「環境なんです」という発言を受けて、須田アナが「教育というものは環境なんですね?教えることじゃないですね。如何ですか、寺脇さん?」と尋ねると、「学校以外の爺ちゃん、お婆ちゃんと、お母さん、近所の人たち」を持ち出して、寺脇なりの“教育環境論”を話す。

     ――以下続く――

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