かねがね日本の教育は暗記教育となっているから、生徒の考える力がつかないと言ってきた。暗記教育とは言うまでもなく、教師が伝える知識・情報を生徒が丸のままなぞり、自身の暗記能力に応じて丸のまま暗記して、暗記した分に関しては教師と同じ知識・情報を生徒自身の知識・情報とする構造の教育を言う。
当然、生徒が学んだ(=暗記した)知識・情報は教師が伝えた知識・情報とほぼ双子の関係を取る。この知識・情報の双子の関係性は教師から生徒への知識・情報の授受の中間に生徒が自分で考え、思考するプロセス(機会)を介在させないことによって成り立ち可能となる。生徒が教師が伝える知識・情報を自分から考え、思考した場合、知識・情報の双子の関係性は崩れ、暗記教育でなくなる。
暗記教育でなくなった場合、いわば生徒が教師が伝える知識・情報を自分から考え、思考して自身の知識・情報へと変えていった場合、生自身の考える力、思考能力、あるいは言語能力は成長と共に向上・発展していき、これらの能力の欠如に対する大人たちの嘆きは現実のものでなくなる。だが、嘆きは消えることなく現実に存在し続けている。暗記教育であり続けているからなのは断るまでもない。
と同時に、やはり当然のこととして、その知識・情報は丸のまま暗記したものだから、暗記形式に応じて、いわば自分から考え、思考するプロセスを介在させない習慣づけによって、現状に於いても将来的にも発展・向上は期待できないことになる。
勿論のことだが、暗記能力には個人差があり、年齢的な能力の問題もある。教師が伝える知識・情報をすべてなぞり、すべて暗記できるわけではない。だが、このことが幸いしている。もし教師とすべての生徒がそれぞれに知識・情報の授受に関して双子を乗り越えてまるきり同じクローン状態になったなら、これ程恐ろしいことはないからだ。殆んどの生徒が思考の点で教師に似たロボットと化すことになる。
日本の暗記教育は日本人の思考様式・行動様式となっている権威主義性からきている。ここで言う権威主義性とは親や教師、会社の上司といった社会の上位者が自らの命令・指示で社会の下位者である子どもや生徒、部下をほぼ無条件に従え(かつて権威主義が時代的に強かった時期は無条件性も完璧に近かった)、下位者は上位者の命令・指示にほぼ無条件に従う上下方向の思考様式・行動様式を取ることを言う。この一般社会の権威主義性が学校社会にも反映され、教師から生徒に向けた知識・情報の授受に於いても同じ力学が働くことになっている。ゆえに暗記教育を権威主義教育と名付けることも可能となる。
教師は自身が発する知識・情報をそのまま生徒に伝えることを役目とし、生徒は教師が伝える知識・情報を暗記の能力に応じてそのまま受け止め、頭に記憶することを生徒としての務めとしている。
生徒が自分で考え、思考し、考える力、思考能力、さらに判断能力や言語能力を身につけるためには、当然のことながら、日本の教育を暗記教育でなくすることが第一条件となる。
だが、日本人の精神的な血肉ともなっている権威主義性からの思考様式・行動様式に基づいているから、なかなか暗記教育から脱することができない。脱することができない中で、生徒に考える機会、考える習慣を身につけさせていくしかない。
教師がすべての授業で同じ役割を担っていたのでは生徒は自分から考え、思考する習慣は身につかない。だが、すべての授業から教師の今までの役割をなくしたなら、長い間の伝統・文化としていることから、これまた授業は成り立たない。
となると、生徒が自分で考え、思考する機会を奪っているのは暗記形式の教育、あるいは授業そのものだから、特別の授業を設けて、その授業に限って教師の従来の役割を外し、教師が伝える知識・情報を生徒がそのままなぞり、暗記する従来型の知識・情報の授受を断ち切ることが先ず先決となるはずだ。
そのためにはその授業は時間数は少なくても、インパクトのある授業でなければ、少ない時間で経験する自分で考え、思考する機会は時間数の多い従来型の暗記教育の影響を受けて、考えないまま、思考しないまま知識・情報を授受する暗記習慣に惰性的に流され、ほぼ埋没の運命を抱えることになる。
特別の授業を設けて教師を従来の役目から外すということは同時に生徒が単に教えられて暗記能力に応じて機械的に暗記する役目を生徒から取り上げることを意味する。教師の役目だけ取り上げて、生徒の従来の役目を取り上げなければ、意味を成さない。
従来型の教師の役目と生徒の役目を取り上げた上で、少ない時間数であっても生徒自身が自ら考え、思考するインパクトのある機会を与える授業として、かなり前に一度当ブログにも取り上げたが、朗読劇がふさわしいように思う。
この方法は自分で考え、思考する習慣が早い年齢の内から身につくように幼稚園・保育園の園児の頃から始めるべきだろう。保育園・幼稚園で行っている、いわゆる“お遊戯”を台本を見ながらセリフを読み上げる朗読劇に変えるだけだから、不可能ではない。
保育園・幼稚園はその世代にふさわしい、小・中学校もやはりその世代にふさわしい朗読劇の台本を各種前以て取り揃えておく必要が生じる。
文科省が指導要領で朗読劇の時間を義務づければ、教科書会社がそれぞれの年代にふさわしい朗読劇台本を競って出版するはずである。
クラスをいくつかのグループに分け、グループごとに同じ朗読劇を朗読させるのではなく、グループごとに教師の助言のもと、異なる台本を選ばせる。
台本をグループに選択させるというこの段階で既に生徒は考えるという作業を共同で行うことになる。
異なる台本とするのは、一つのグループが一つの朗読劇というドラマ――人間劇を学ぶと同時に他のグループが朗読によって演じるドラマ――人間劇を併行して学ばさせることを目的とする。一度に多くを学ばさせるという手法である。
また、それぞれに異なるドラマだから、マネをするという横並びは許されないことになり、自分で考えて朗読しなければならない独自性が常に要求されることになる。
生徒自身が望むなら、それが小学校高学年の段階か、中学の段階か、高校の段階か分からないが、吉本新喜劇の喜劇台本でもいいわけである。
各グループの台本が決まったなら、グループごとにいきなり朗読させるのではなく、本読み(=台本読み)を行う。いわば台本を各自読んで、何を伝えようとしている台本なのか、そのテーマをお互いに意見を言い合って解き明かしたり、分からない言葉の意味を調べたり、自分たちなりに劇の内容を読み解き、その上で言葉をつかえずに読めるように練習しておく。
この段階も生徒に考える作業を要求することになる。教師の関与なく、自分で考え、思考する働きを生徒同士で、あるいは自分自身で機能させていることになる。また共同の本読みは一般の読書に通じる作業を伴わせていることになる。一般の読書と違うところは仲間と読み合い、教え合い、考え合うことであろう。
このことによって読書習慣の欠如という現状の補完に役立つはずである。
この段階を経て、次にクラスの生徒の前に立って台本を見ながら、だが、登場人物の普段の日常会話に近い話し方で朗読する本番が待ち構えることになるが、本読みを十分に消化したからと言って、朗読の本番で登場人物の普段の日常会話に近い話し方で朗読できるわけではない。同じ朗読劇を繰返すことによって理解が深まったり、あるいは違う理解に到達する場合も生じるはずである。
いわばすべての段階で思考能力を要求されることになる。自分から考えて進めないことにはドラマの内容を理解し、セリフを暗記していたとしても、セリフ生きてこないだろう。また他の登場人物のセリフと響き合うこともないに違いない。
この生徒同士の話し合い、考え合いとドラマのセリフの遣り取りを通して自然とコミュニケーション能力を高めていくはずだ。言語力の獲得である。
また、コミュニケーション能力の獲得は利己主義一辺倒ではない、合理的な自己主張能力の育みにつながっていく。
様々な人間が登場する一つのドラマを理解していくうちに理解を通して様々な人間の生きる姿をも学んでいくはずである。学ばなければ、セリフは各登場人物の人生に即した、あるいは生活に即した話し方で喋るところまで到達しないことになる。
勿論、小・中学校の段階ですべての点に於いて完璧な域に達することは不可能だろうが、繰返し、積み重ねていくうちに少しずつ、少しずつ上達し、併行して様々な人間の生きる姿への理解を深めていくはずである。人間の和とか仲違い、反撥、行き違い、思い遣りといった感情行為、利害の対立とその克服も学び、対人関係能力を自然に身につけていくはずである。
ドラマに登場する様々な人間の姿を学び、対人関係能力を高めていくことによって、そのような他者との比較から、自分という人間を考え、省みる機会を持つ生徒も現れるはずである。自己省察能力の獲得である。自己省察能力がよりよく合理的な自己主張能力を育む。
最初の本番となると、最初は棒読みか、棒読みに近い読み方になるかもしれないが、各グループが交代で何回か繰返すうちに、またそのことが競い合いとなって、登場人物が劇の中で話すように話そうと考え、努力するうちに台本の中のそれぞれに割り当てられた登場人物のセリフを読むのではなく、自身が登場人物となって話すようになるまでに上達していく。慣れれば、自分以外の人間を演ずる愉しみは誰も本能として持っているはずだからだ。他者を演ずることも自身を知る教育となる。
朗読劇を通して色々な人間を演じる。演じることによって、色々な人間を自分から学ぶことになる。自ら考え、思考することによって。これは暗記教育の受動的学びにはない、それとは正反対の自発的、主体的な学びとなる。
そして何回も繰返すうちに自分のセリフを記憶し、台本を読まなくても言えるようになり、自然と手振り身振りが出てくるようになる。朗読劇から演劇への発展となる。朗読劇からの卒業である。
実際に行ってみないと、それがいずれの年齢か分からないが、その段階に達したなら、演劇への移行も生徒にとっての一つの発展を示す。あるいは自分たちでドラマを作り上げて演じるのも自分で考え、思考する能力の一層の向上に役立つ。思考能力だけではなく、言語能力や判断力のより高度な発展・獲得につながっていく。
朗読劇をキッカケとした自分で考え、思考する働きは他の知識・情報の受容にも応用されていくはずである。教師が日本の教育の伝統・文化となっている暗記形式、権威主義形式の知識・情報の伝達に終始しようとも、その知識・情報を受容する過程で生徒の側は朗読劇で培った自分で考え、思考する働きを自然と作用させて自分なりの知識・情報へと発展させるか、単にそのまま暗記するのではなく、少なくとも一旦頭の中にとどめて、後から自分なりの考え、思考を付け加えて自分なりの知識・情報へと変化させていく工程を踏むことになるだろう。自分なりに考え、思考することを習慣とすることになるからだ。
2011年度から小学校5、6年で英語が必修科目となる。どうせ文科省は小学校5年では英単語をいくつ覚える、6年ではいくつ、あるいは中学で最初に始めた、「This is a pen」といった簡単な英文を小学校5年から予定数教えて、それを覚えさせた上で耳に聞かせるといった、そこに生徒自身に考える機会を与えない、ほぼ暗記で片付く学習を要求し、結果として暗記形式の知識獲得を強制することになる授業となる疑いが濃い。このことは後で触れるが、同じ文科省管轄下の中学校の英語教育が満足な成果を挙げていないことが証明していることである。
このことの解決に教科書会社等の出版社に日本語の朗読劇台本をそのまま英訳した英語の朗読劇台本の出版を要請し、小学校5年生になったら、日本語の朗読劇と併行してそれを忠実に英訳した朗読劇を英語の授業でも行わせたなら、既に日本語のセリフは頭に入っているだろうから、楽しく簡単に英語が話せるようになるのではないだろうか。
民間の教育研究所「ベネッセ教育研究開発センター」が昨年(09年)の1月から2月にかけて行った調査で、中学生の約6割が英語の学習を苦手と感じているという結果を得たと、《中学生の6割“英語が苦手”》(NHK/09年9月27日 8時16分)が伝えている。
全国の中学2年生およそ2900人から回答を得た調査だそうだが、6割の内の66%が中学1年生の段階で「英語学習につまずいた」と考えているという。いわば初期の段階からつまずいている6割の内の66%の生徒にとって、その挫折は中学3年まで続き、進学した場合、さらに高校3年間続く確率が高いということになる。
英語の学習が、
「とても得意」―― 8 %
「やや得意」 ――29.5%
「やや苦手」 ――32.5%
「とても苦手」――29.3%
一方で全体の半数以上が「外国に行きたい」、「外国の生活や食べ物などに興味がある」と答えていて、外国への関心が高いことが分かったという。
但し産能大学が企業勤務の400人に行った、9月16日発表のインターネット調査(6月)によると、67%が海外勤務したくないと答えている。《海外勤務したくない67% 産能大調査、語学力に不安》(47NEWS/2010/09/16 16:37 【共同通信】)
海外で働きたくない理由(複数回答)
「海外勤務はリスクが高い」 ――52%
「自分の能力に自信がない」――51%
海外勤務に向けて不足している能力
「語学力」――89%
役職別の「海外で働きたいと思う」
部長クラス――57%
一般社員 ――29%
記事は、〈産能大は役職が高いほど挑戦意欲が強く、海外勤務への心の準備ができている場合が多いなどと理由を分析している。〉と書いているが、上級職としてそういった意識を持たなければならない義務感からの、あるいは体裁上の海外勤務意欲といった側面もあるに違いない。
89%もが「語学力」が不足しているという統計は中学1年の段階で英語の授業につまづき、それが高校、大学、さらに一般社会に入っても続いている姿でもあるはずである。
中学生の約6割に英語の学習を苦手と感じさせている文科省教育が小学校5年生から英語授業を義務つけたとしても、単に年齢を早めただけで終わる可能性が高い。
同じドラマ内容の日本語の朗読劇と英語の朗読劇から入った同時進行の英語の授業なら、英文の意味は既に日本語で理解していることが助けとなり、その助けを借りて英単語の読みを含めた英文の読みと英会話(スピーチ)を一体とさせることになるから、このような英語授業の必修化であったなら、少なくとも従来の文科省式の英語授業よりも英語教育に役立つはずである。
いや、中学1年生で英語につまずいてしまう多くの生徒に対する挫折感、英語アレルギーを払拭して、積極的に学ぶキッカケとなる日本語・英語併行の朗読劇となると信じている。
朗読劇によって自分で考え、思考する習慣がつき、判断能力や言語能力の獲得に役立つ。様々な登場人物の生きる姿・生活する姿を学ぶことによって、他者を理解し、自己を省みる対人関係能力と自己省察能力の学びにつながっていく。対人関係能力と自己省察能力はコミュニケーション能力と合理的な自己主張能力に連動していく。
勿論、現実問題としてこのようにいいこと尽くめに進行はしないだろうが、少なくともこれらの能力の芽を育む火種とはなるはずである。