花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

お盆の思い出

2020-08-08 02:32:56 | Weblog

昭和25年の頃の

     お盆の思い出が、甦ってきます、

疎開先の南紀の山億の夏は

     草が、生い茂る川への道を 

蛍を観ようと、、、夕暮れる空の星の出現を見上げながら

地上の命の光のような 蛍に逢いたくて

   せせらぎも優しい音の小さな流れの傍に

 時めく思い出を置いたまま、、、疎開先から東京に向かったのは

13歳のときでした。

お盆には、戦争で亡くした家族の御霊を迎えようと

竹をそのまま立てて、カットしたてっぺんの方に

松の薪を円形に回して縄できっちりと、、、美的に縛って

   見上げるような「竹の松明が、、、家々の門の前に立てられていた。

一番星が出るころから、、、あっちの家、、、こっちの家の、、、松明に火がともされた。

空の彼方から、、、英霊となった息子達が、お盆には帰ってくると

叔母さんたちは本当に信じていたようだった。

我が家でも、、、、戦地の近くで、、、消えてしまった3人の子供たちが

松明を見つけて帰ってくるようにと

生き残った私たちを促して、、松明の良く見える縁側に

野菜類や、果物を並べて、家族でお盆のお迎えをしたものでした。

今生きていたら、、、100歳を超えている父母の事を思い浮かべる真夏の夜ですね、、、。

私は、、、ひょんなことから、、、北海道に住んで50年をとっくに過ぎました。

戦地で、母の御なかに住み着いた私は

   実は、戦地で亡くなった姉への未練が絶ちきれない母が

          姉を、、、もう一度、、、取り戻すのだと

                  もう一度,、、産みなおすのだと、

                         精神は決して豊かな状態ではなかったようです。

         日本がこんな形で、木っ端みじんになる終戦が来るとは

                             考えなかったのでしょうね、、、

                  私が臨月になって生まれそうな夏に、

      祖父が、戦地まで単身やってきて、、、有無を言わさず、、、

                 着の身着のままの娘家族を、

                         最後の連絡船に乗せて、日本に連れて帰ったそうです。

 腕のよう外科医だった父が、戦場で死ぬのも御奉公だけれど

           娘婿には、戦後の日本の復興に外科医は必要な日本本土で

                  生きて、、、御奉公してほしいと、、、説得したと、、、

                父は、舅に従ったと言っていた。

東京の実家はすでに無くなっており、、、どこがどこやらわからない破壊された街が続く中を、

祖父が「頼まれ町長をしていた、母の故郷の南紀の山奥へと、、、」

七か村、無医村と言う、、、医師としては激務の待っている町立診療所の医師として

お盆の高火の揚がる迎え火の中を、多くの英霊とともに、、、日本にたどり着いたそうです。

串本の祖父の実家に立ち寄って空襲を受けたそうです。

大きな防空壕は、ぎっしりと人が避難して、、、

生死の境の洞穴だったそうです。

焼夷弾の落ちる中を、、、間㎜気の山奥へと進み、

集落のいくつか集まった町立の診療所についたとき、

一粒のコメも無かった、、、着の身着のままだったそうです。 

翌日、、、精米所に言った母は

「お金は、、、後で払います。お米を少しください、、、」

もじもじと、、、小声で頼んだそうです。

精米所の、、、西前さんとか名乗った叔父さんは

    眉毛を糠で真っ白にした御爺さんかと見間違うような叔父さんだったそうですが

「ようがす、、、お医者さんを連れてきてくれたんだ!!!

      遠慮はいらない、、、この俵ごと、、、差し上げますよ!」

精米機のベルトが回る騒音の中で、ひときわく聞こえる大きな声で、、、

    米俵をくれたそうです。

母は、、、米俵の傍にうずくまってしまい、、、初めて、、、涙がボロボロと流れたそうです。

                    

戦地でも、泣かなかった。

   3人目の子供を戦地で亡くしたときにも、、、涙が出なかったそうである。

連絡船の前で、けっこにゅびわと引き換えに乗船出来た時も、、、喉だけがカラカラだったと言っていた。

日本に帰還できて、、、防空壕の中では

栄養失調で産まれた私を抱いて、、、泣き声の力も無く眠り続ける赤子を

無感動に視ていたという。

それが、、、町立の診療所の住宅に、、、着の身着のままの居場所を得て

精米所で、、、今夜の米を、、手に入れなくてはと、、、緊張していた時

いきなり、、、俵ごとくれた、、、西前さんと言う叔父さんの前で

へなへなと座り込み、、、涙がとめどなく流れ続けたそうであった。

戦争の現場から、、、日本に帰還できた母の気持は

               涙になって現実の命のぬくもりを実感したのかもしれませんね、、、?

その夏の御盆の松明の中を、、、父と子供たちを伴って、

         蛍の光る竹藪の裏を流れるせせらぎに行って、

                    命の光、、、小さな蛍の言葉のように

     闇の中を照らす、、、命を、、、

                 言葉にも歌にも文にも出来ない感動で

                         東京生まれの父と

                             子供なのに寡黙な兄と、

                                   いつまでも、、、観ていたそうです。

南紀のお盆はそれから、、、13回も体験して、私たち家族は

                 息子たちの戦後教育の為に

                        鮭が、、、故郷の川に還ってゆくように

                           戦後の復興の為の

                              新しい教育の流れの川に

                                 父は、戦後の日本を担う教育の川へと

          卒業した高校のある、、、東京へと、、、

                最後の命を振り絞って、

                      生まれ故郷の東京に還ってきたのは

                            私が13歳のときでした。

 戦争で、、、家も、実家も、、、自分の病院も全部なくして

                戦後は、アメリカの教育に追いつき追い越さなば、、、

                      日本は小さな島国である。

                父は命も、戦後働いたお金も、、、

                      すべて、子供たちが新しい世の中に貢献できるようにと

                       教育にかけてくれました。

             兄弟4人は、父の最後の頑張りの、、、国の復興を託しての教育に

                    女性の私が、、、男のような性格だったために

                      男性並みの教育費の負担を父に懸けたのかもしれません。

                  私立の大学の在学中に、、、父は54歳で、、、過労死してしまいました。

             戦後、、、希望の新生児として我が家に生まれた弟は、、、高校生でした。

 

父の初盆には、、、東京の開業していた醫院の庭で、、、松の小枝で出来た松明を

ささやかに灯して、、、家族は、、父の早すぎるお盆を、、、無言で迎えて

線香花火のような、、、あっけない大黒柱だった父の命を忍びました。

                    

               父の思い出のアルバムを開いて

                  早稲田高校の時代の記念写真らしい同級生と映っているもの

        疎開時代の祖父のいつものトレードマークの三つ揃えの写真

                    

   母の国立時代の教養の時らしい写真を、、、

         コロナの中、感染していない私だから、、、探し出して、

           離れ離れの兄弟に、気が付いてもらえたら、、、

                  まだまだ、、、頑張れそうですよ。

   医療家族に育った以上、、、コロナとは、、、最大限の注意力でたたくことに

                           努力は惜しみませんが

                 コロナは勝手に動くので、、、

                        3蜜を避けて、、、不要不急の一切を控えるしかありません。

夏休み明けの、、、若者の間のコロナが、、、どうか、、、第3波につながらないように、、、

          祈るしかありません。

 

                 

 

 

 

 

             


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