早朝6時、、、やっとぎっくり腰が何とか、、、
しびれまで回復。
コルセット2枚装着して、
syujinの早朝の、出勤に備えて、、、
この道路環境でも、、、来てくれる、、、タクシーへの
駐車スペースを造るのに雪を押してゆくと、
軽い雪は簡単に寄せることが出来た。
見かけは何センチもあっても、、、
今朝の雪は一握りの砂糖を膨らました縁日の綿あめのようだ!
雪は、
暖気の時の特徴のある、、、
綿あめ。。。かしらと。。。**************
少しつまんで、、、舐めてみた!
ッ、、、冷たい、、、
やっぱり、、、雪である。
疎開地の唯一のバス停留所に行く川向うに、、、祖父がアメリカ留学の時に観た
ゴールデンーゲイトの橋に似た吊り橋が、、、こんな山の奥にあった。
和歌山県には、、、アメリカ村、、もあった、、、けな~~~~!!!
進駐軍の影響では、、、なさそう、、、よ。
思い出は、、綿雪の中で、、、走馬灯のように、、、ゆっくりと
光乍ら、、、甦った、、、きっと、、、スコップを止めて
空の銀鏡に映った私の顔は、、、少女の頃の笑顔だろう、、、。
後は雪かきスコップをゆっくり押して、
朝の冷気の中で、、完全に目が覚める。
城砦のレンガのように積んだ昨日までの道路側の雪は
除雪車が圧雪の道路の雪を掻きだした馬力の象徴にように
北側の塀の外は、まるで、、、
高校時代に登った、、、
去年無くなってしまった高校の山荘が有った
蓼科山の頂上近くの岩山のように
除雪車が,、、入り口の無い北側サイドに
巨大な雪塊の岩雪を、重ねて走り去る
夢は、、、もう一度
雪を知らなかった南紀の「一枚岩のあたりの
川であ遊んだ、、、マルタのイカダを思い出した。
旧家の祖父は、、、山を持っていた。
祖父の兄と言うひとが、、、ミカンをいっぱい植えていた。
皆を、、、助太郎、、と言う名前の御爺さんだった。
子供らがミカンを獲っても、、、何も言わないで、、、
笑い顔で観ていた、、、け。
紅葉船や、町長さんや、村長さん、、、役場の大将、、、いろいろなものを頼まれたお爺ちゃん!
戦争の前までは、、、白い手袋、タキシードで
朝礼には、、、何やら難しい文章を、、、読むのが恒例だったとか、、、
母は、自分の両親が先生をしている学校に通っていたらしいが、、、
両親が先生と言う学校の朝礼は、、、誠に、、、
つらい時間だったらしいから、、、
可哀想な少女だったに、、、違いない。
理性だけで生きてるような、、、少女の顔とは思わない
写真そのものが、、文学の主人公に思えた母の写真を
私は、、、生涯、、、大切に持っています。
外から見た、、、立場と
本人の内側の心の立場の
文にも、絵にも出来ない、、、
苦しみを超えた理性が輝いているように思えて、
人の立場と、心は、、、内側と外側では、、、違うと思うと
私は、、、自分から、、、人に近づかなくなった。
お母さんの生きたいように生きるのを、、、
お母さんの私物の娘のように
お母さんの着物の袖のように、、、いつも、
存在消けしたもり、、、が。。。
母の嫌いな「理科系女」になっていた。
「点が動いて,、、線になり、、、線が動いて、、、立体となる」
母から見た私の印象は、、、、母の苦手な幾何学のようだと、、、
なじられた事が有った。
60歳から、、、80歳までの母は
ピアノに打ち込んでいたので、、、会う事は無かったけど、、、
最後の3日間だけ、、、弟の世話で病院に入院して
私以外の孫子に看取られて、、、社会参加の現役で
眠るように、昇天した。
北海道から、、、私は、鈍行に乗って、、、
母と話しながらのつもりで、、、
裏日本を走りながら、、
母の大好きな、、、藤田画伯のミュージアムに立より
ゆっくりと、新潟から、東京に向かった。
弟が確りと、、、母の見送りをしていてくれた。
弟には、、感謝しかない、。。。
生前北海道から、、、電話を掛けると
「チャーちゃんが、、、お母さんの一生は観ていてくれるから
一人ぼっちだって思ったことは無いよ、、、
電話、、、もったいないから、、、切るから、、、」
あっけらかんに元気な一生だったのに
娘の私は、、、北海道から、、、遠くから
母の葉高校も出来なかった、、、が
母には絶えず50人以上の、、、ピアノの、、、お弟子が居ましたから
お寺のお別れの会場には、、、泣いてくれている、、、お弟子さんが
娘のように、母との時間を共有して生きていたことが、、、一目でわかった。
私は、喪服に着替えることもせずに、、、
お寺の台所で、、、お通夜の皆の御膳のお運びと
片付けをしていた。
弟と、がんセンターの院長先生が
台所にやってきて、、、
「こんなところに居たの?、、、探したよ。」
と、、、無事に大役を果たした弟に
姉として、、、立派な見送りのできた弟が
頼もしかった、。。。
終わりよければ、、、すべてよし、、、
私の母は、、、幸せな女性でした。
、、、懐かしい祖父母の顔が浮かんでくる、、、。
里帰りも出来なかった、、、北海道の転々と、、、異動の暮らしが
友も、家族も、親戚も、祖父母も、、、疎遠になってしまった結婚だった。
本州の親戚親子、駿河台の学友たちも、
北海道行ってしまった、、、
「遠い人」
集いに声をかけるには、、、異物感が有った時代でした。
戦前に生まれた主人にとっても、、
北海道は、、、異文化に思えた時代だった,,,とポツリと言う。
東京に帰還して、開業したばかりの父の応援のつもりもあり
医師会の、家族のお稽古事や、踊りや、お茶会、、レクレーションに
出来る限り参加して、、、40歳半ばの東京帰還の父の友達との
家族の会には、、、緊張と、義務感と、開業の応援で
学校に行くよりも、、、一生懸命の参加だった。
お金持ちでもない,、、名士でもない、、、
疎開地から、、、やっと、、、故郷の東京の
下町のはずれに,、、還れた父の、一生懸命な姿は
感謝鹿ありません。
結婚前は、3日に一回ぐらいは和装で、、、日舞を習いにいていた。
日舞の仲間と、、、開業仲間の家族の絆を造るという他にも、
芸を深めるためにも、、、
話題について行けるためにも、、、
田舎っぺを、、、返上するためにも。。。努力の日々だった。
歌舞伎や、新橋演舞場や、日生劇場や、、、
能楽の舞台のある神社に行ったり
忙しく7変化していた。
従軍した父は、、、靖国神社にも連れて行ってくれました。
日本は戦争から、、、立ち上がり始めた時に
団長の思いで、父は疎開地の患者さん方に、、、
さようならを、、、言いながら、、、
何かに、、、別れを告げたに違いなかった。
開業に日々は、、、coronaの毎日のように、、、閉じこもって
患者さんが来るのを待つ、、、受け身の日々が始まった。
子供たちも、職員も、、、交際を増やし、、、人脈を
信頼のある、同好会や、お稽古や、地域指導の会などで
力いっぱい、、、仲間に入ろうと、、、努力をした。
8歳上の兄がゴルフが好きで
リバーサイドに早朝誘われるので、、、まいっていたが、、、
ゴルフの費用が500円と言う格安で
毎朝誘いに来る兄貴に、、、集回ぐらいの同行をした
父は縁日が好きだった。
縁日で、まだ、、、10センチぐらいしかない錦鯉の模様が、気になるらしく
いつまでも観ているので、、、父を残して、金魚すくいや、綿あめを飼って戻ると
父は、、、まだ…錦鯉の子供を眺めていた。
魅せの親父さんが、、、しびれを切らして、、、
「 五匹まとめて、、、買うなら、、、負けとくよ!!!」
しびれを切らした私は「買ってよ❕、、、池に放そうよ!」
父を促し、、、無理やり、買わしてしまったことなどが、、、
ふわふわと舞う、、、春のような雪に投影されて
思い出し笑いをしていた、、、。
実家に帰りたかった、、、が。。。
父は私が成人する前に、、、早逝した。
お疲れさまでした、、、お父さん、、、ありがとう、、、19歳まで、、
過労死する直前に、私は、
近所のお寺の松を観に行こうよと、、、
父を散歩の誘ったのだった。
帰り道に、、、父の顔見知りの板さんが経営する
握りずし屋さんが有り
父が、御馳走してくれた。
父とは、、、めったにない、デートが出来たことが、、、
神様の贈り物だった。
戦前は市ヶ谷のお屋敷の長男として生まれた父。
戦争の続く、、、富国強兵策の日本の時代
元来が、総合病院の院長さんだった
日赤の感が婦さんらと、、、御国の方針に従った父にとって
従軍、、、軍医、、、急遽帰国、、、終戦、、、財産没収、、、疎開、、、
ダム工事の計画された、疎開地の、
七つの村が無医村と言う、、
たった一つの診療所、、、
おりからの「天然痘の流行、、、」
たった一人で、村人に種痘、、、
感染症の流行を阻止した
終戦後の、東京に還り、、、
経済的には成り立たない、、、
バンカブルな「開業医」を初体験
お坊ちゃまで産まれた父の、、、初めての借金開業!。
来る日も来る日も、、、家から出れない、、、開業医、、、
コロナの、、、今の状況と、どこか似ている、、、
閉塞感の中で
外科医でないかった 親友は、母校の教授になられていた。
同級生は、、皆元気だったのに、、、父は、、戦争と、へき地の医療従事と激務に
戦場の不規則な食事事情などに
外からは見えないダメージを受けていたのでしょうね、、、。
激務に次ぐ、、、激務に、、、医師として、、、
気の毒な医療環境が続いていた。
保険は出来たばかりで、、、外科手術の後の抗生剤は、、、
国が認めた量では治癒に導けず、、、自腹だった。
時代に翻弄された、、、54歳の短い人生だった。
真綿をちぎったような、、、春の雪のような思い出が
不用心に、、、外に出た軽装の私に
雪が面白がって、泊まりに来た。
まるで、、、思い出がセーターに降り注いできた、、、
天からの父の魂のように
北海道で、、、懐かしい家族を、、雪空の中に
見つけていた。
コロナが収束して、、、はやく。。。春が来て、、、5月が来てほしい!!
がんセンターの自室に飾って合って、、、気に入っていた絵を
許可をいただいて、、、バカチョンのカメラで記念写真として、
撮影してきた絵ですが、、、
私たちの、、、戦争からの、、、生き残った4人の姉弟みたいな気がして
北海道の私のパソコンの中で
唯一、、家族を思い出させる懐かしいマスコットの写真です。
道路の真ん中は、、、
春が来るまでは、、、我が家の前は、、、
蓼科山頂の
頂上付近の岩登りの風景である。
きゃしゃな,、、雪の城砦は、
岩のような雪の下になって、、、
自然を相手に戦う、、、除雪車の出番の季節となった。
去年までは、、、除雪車がほとんど来なかった、、、が。
今年は、良く来てくれるので、、、
歳をとっても、、、住めそうです。
南紀で生まれ、、、疎開から、、、東京へ帰還できたのは
小学校の5年が終わった春でした。
24歳まで、、、
駿河台を生活圏として生きていた事が
まるで、、、夢のような、、、北海道の冬である。
三省堂から、、、
古本屋の続くあの通りを、、、
どこまでも店を出たり、、、入ったり、、、
楽しかった。
坂の下の、、、ロシア料理店の紅茶には、、、ジャムが入っていたっけ、、、!
ニコライ堂の庭は、、、友人との昼休みが、、、くれた良い時間!
ジローのサバラン、、、美味しかった!
クラスメートがバイトをしていた、、、「ミロ」、、、の、、コーヒ!
丘の名曲は、、、眠り薬、、、。
明大の学食に有った、、カレーライス、、、
他大学なのに、、、マンドリンクラブに入っていた友人!
明大のラグビーは強かったよね!。
息子が駿河台の近くの医科大に進学したとき、がんセンターに勤務中の
叔父さんに、、、教えてもらった、、、
画像を診るときの、、、ピットホール、、、
半分は、、、駿河台に気持ちは帰っていた、、、。
30代の時に、、、なんとか本州に帰ろうと、、、
財テクに走ったが、、、逆に、、、全て失敗、
売り買いはしなかったが、、、拓銀と日航の株にしてあった。
絶対に、、、大会社や、都市銀行は大丈夫と、、、
根拠はないが信じていた。
私だけは、、、死なない,、、と。。。
漠然と信じているのと同じで、、、
びっくりした。
あれ以来、、、東京に還る夢は消えてしまった。
長年の貯金は紙くずになった。
雪が降る2月が近づいてくると、、、
東京に還りたくなる、
母も居ない、、、実家も無くなった、、、
甥っ子も、姪っ子も、、、他人以上に、、、出逢ったことが無い。
いつも写真入りの年賀状が来るのに、、、
今年は来ないから、、、、ますます、、、他人以上に知らなくなる。
結婚は、、、知人、友人、、親や兄弟に逢えない遠い所に行くことは
人間関係と言う、、、見えない宝を失うことtかもしれない。
coronaで、、、親しい人と会えない皆は、、、
孤独に慣れるまでの、、、若い時の私のように、、、
心寂しくならないように、、、
自然と友達のなると、、、
自分の世界が出来て、、、
心のコントロールが
上手になると思いますよ、、、
人生は、、、先が、、、ワカラナイ、、、
心をしっかり持とうよね!
本州の家賃も、家も高額で、、、
もう、、、買えるチャンスはなくした、、、が。。。
私の故郷は、、、50年住んだ、北海道と言う事になる。
人生、、、塞翁が馬、、、と言う事もあるし、、、
雪も、仲良くすれば、、、奥が深い友達ですよね!
北海道の、、、冬は、、、t本物です!!