花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

私立の医学部のニュースに思う事(個人の日記です)

2018-12-13 05:40:41 | Weblog
母校の日大が、

何かとマスコミで書かれていますが

私的には、日記に書きたいことがありますので、

思う事を、

日記ブログのここに、書いておきたいと思います。

まだ、、、

ボケてはいないうちに、思っていることを、

ここに、吐露しておきます。


母校の日大も、

日大を卒業している親などの子は

同点だったときは

たぶん優遇されたことだと思うのは、、、常識になっていました。


国立ではない以上、

學校は経営を考えると思いますよ。

日大の創立の頃は、


日本は世界の文化の高いのに驚き


追いつけ、追い越せの、、、

富国強兵の時代だったのではないでしょうか???


だって、

創立130年目のお祝いに、

一卒業生として、

日大のロゴの入った記念品が欲しいと思うのは

卒業生なら、

あたり前の事でしょう?


○○円で、

130年間の先輩たちのご苦労と

合流して、

130周年を祝えるのならと、

一口出させていただきました。

新興勢力大学とは経由してきた歴史が違いますから

多くの戦争時代

敗戦も、復興も体験している大学ですから

単なる智を習うのではなく

次代を生きる力の多様性を感じながら

自分の勉強の為にも

家庭教師をしたり

教職を取得しながら

中学や高校の実習事業を学びながら

教える立場

学ぶ立場の視点の違いを

興味を持って

「薬学の傍ら。物理化学の高校。中学の教職を取得しました。」

教授の推薦で、寿退職をする東京大学の技官の空席に就職しました。

「我が身の丈と、環境におぶさる甘えとを自戒」しながら

兄きの入学できなかった東京大学を

内側から見られるチャンスに、体験しておくつもりで就職しました。

公務員として採用されましたが、

寿退職するはずの三十過ぎた薬剤師の先輩の破談によって

一年弱で。私は、大学病院の臨床薬剤師に転職しました。

月給は2倍になり、結構楽しい臨床の取得の夢がありました。

月給のこだわることも大切なことだと、

実感した瞬間でした、


振り返れば、、、心は寂しく、緊張した父の早逝でした。

死の前日、患者さんの手術をして、

麻酔が覚めるまでと、

患者さんの目覚めを待ちながら、

早朝5時に、

内科医の兄に起こされたときは

父の手が、、、まだ暖かだったのです。



患者さんはその後、、、元気になられ

父の49日には、

声をあげて、、、泣いていらっしゃいました。

私が大学を卒業できた時は


54歳の人生で、、、父はこの世に居ませんでした。


新進気鋭の内科医の兄は

父のあと受診にきてくれるお馴染みの患者さんたちを

カルテに沿って、、、「Do!」はできますが、、、

新患さんの前には冷や汗でしたでしょうね。


父の親友や、医師会の仲良しの医師が

兄の指導の為にも

手伝って下さり、患者さんに迷惑が掛からないように

一丸となって、サポ~トしてくださった10年間でした。

遊びの延長の日本舞踊で知り合った近くの病院の院長さんが
父の早逝してしまったことに、残念な思いに尽きると。。。おっしゃられて、

その後何年にも亘って、兄の診療を指導してくださいました。
医師会のお稽古事は、医学の絆で結ばれた先生方の毛細血管のように

体温を伝えてくれました。

父が医者だったことが、

兄の医者としての成長を支える同朋の力を借りられた。、、、

外野の妹の私は、ずーと後になってから、、、

ホット!胸をなでおろすのでした。

本来は私立大学に通える余裕は無いはずですが、

多くの親戚や、町長さんだった祖父が、

私財をはたいて、孫子に応援してくれた事も

大きかったと、、、ふと、、、振り返るのです。



日大は、リッチな家庭が多いので

戦争に行って大陸で戦陣外科を指導して

敗戦の時は、骨と皮になって帰国した父のような

苦難を歩いた先生方は、、、もしかしたら、、、

少ないのかもしれません。

父はもともとは、

宮内庁に勤務していた文人通りの住人だった祖父の

長男として

東京大学に合格するか、

外科医となって、お国にご奉仕するか、

厳しい選択を親から申し付かっていたそうです。

祖父は剣道5段で、木刀で、指導を受けるときは

鳥肌が立つほど、、、父は、、、祖父が怖かったと言っていました。

子供のころは、有島武郎や波多野節子さんを、近所の借家で見かけた話や

与謝野晶子、の「弟の詩」を教えてくれました。

父の屋敷は早稲田にも近くて、中学までは父も、叔父さんも

早稲田中学に通っていました。

戦争で、屋敷もすべて失い、祖母も、40歳代で早逝したそうです。

戦争から還ってくると、母は子供を3人も戦地で失った事もあり、

父は心の疾患から、立ち直ってもらう医療を兼ねて、

母の生まれ故郷の、熊野の新宮から、山道を北に北に、、、山間まで進んだ。

電気もない、高校も、大学もない、、、専門学校もない、、、

進駐軍も、B29も、めったに来ない疎開地で、

母は失った子供たちを、取り戻すかのよう

高齢出産で、、戦争を知らない新しい日本を担う男子が産まれたのです。

この子の成長とともに

母の心の傷は癒えて、

この子の「新しい教育の為に!」一途な思いで

東京に帰ってきたのでした。

晩年の、、、残れる力を、、、

未来の日本を背負う新生の男子にかけたのでした。


弟は、、、成人して、医師となり、団塊の世代の役割を

立派に果して、後に続く医学生の為に

教科書も残し、

姉である私の二男も、「叔父さんは素晴らしい、、、」と言って

放射線科の医師になった。

外科医の実父は、尊敬はしていたけれど、

母親の、私が、家庭サービスのない主人に

厳しい点を付けたせいもあって、

こどもに愚痴をいう事の責任を思うと

私自身、外科医の家内は落第であったと反省しています。

「家庭は、、、寂しい、、、。何度も子供に話してしまった。」

それが原因であるとは思えませんが、

影響を与えてしまったのではないかと、深く反省しています。

「自分の時間も、家族の時間も無いという、、、

外科の大変さは敬遠したようだった。」

二番目の次男の兄は、戦争が無くて、全員が生きていて居れば、、、

4男二当たります。

戦後の疎開地で育った兄は、

音楽が優れていて、語学がネイティブで、

ICUに行きたいと、文系の受験勉強をしていました。

長男は、本来が物理学者が似合っているような理系が得意な学生でしたが、

父が「東京大学を進めてしまい、、、敢無く挫折。」

浪人して、臨床医としてがんばりたいと、、方向転換した。


兄が日大に進学したことで、

父は、休むことを知らないほど、

東京での開業の毎日を、激務で過ごしていた。

保険制度も入ってきた。

外科医が、保険診療をしていたのでは

抗生剤が使えない状態も、、、間々あるため、

採算を度外視して、

自腹で、薬を処方して、患者さんからは、、、また、、、神様だった。

戦後の復活をする下町での診療姿であった。

内村鑑三先生に心の影響を受けていたことで

戦場での地獄も乗り切ったと、、、父は言っていたから、、、

経済的な事は考えない医療の展開が

東京では、無理がたたってしまう人手不足の

悪循環で、身体は、、、ボロボロになってしまったのでしょうか?




私は、兄の絶大な勧めによって、

日大も受験したといういきさつでした。

受験した大学は全部合格できましたが。

兄は、日大に行くことを勧めてくれました。


日大に進学するなら、卒業までは保証すると言っていました。


高校時代のジャンバースカートを縫い直して、

タイトスカ―トに造り替えて、

大学に通い始めました。

大学指名の幹事に任命されて、

教授の先生と、生徒の間の

雑用をさせていただいているうちに

男性の多い日大が、あまり緊張しないで過ごせるようになり

だんだんと、愛校心が育ってきました。


物理の諏訪部先生から、
、、
「君の兄さんの物理の力には、、、びっくりさせられたよ!、、、

彼は、僕の書いた教科書を、改訂させたからね!」

「すごい生徒だった、」、、、と言われました。


昭和38年ごろの日大の薬学科は

理工学部の中にあり、

教養時代の、語学や物理、化学は

医学部の教授が兼任していました、


卒業後、薬学部になって、千葉の校舎が建ちました。


卒業生として、現在も会費は

喜んで支払っています、

卒業した大学が、、、どんどん立派になるのですから、

わずかな会費で、応援席に居るように

母校の成長を楽しませていただけるのですから、
、、

130周年の日大!


マスコミが、、、何かと取り上げても、

大海原にゴミが打ち上げているような

必然の時代の創る不始末だと受け止めて

戦争を乗り切って、

「ふるはし、はしづめ!」日本の水泳で

戦後の沈滞を吹き飛ばしてくれたのを、

君や、、、知る?

日大の水泳陣の事を、、、今の時代のマスコミの人は

知らないかもしれないね、、、


戦後の日本は、、、

立ち上がれた事、、、、その事自体が

奇蹟に近い頑張る人たちのおかげだったと思いますよ。


日大の果たした役割も、

災害復興の役割も、

今日ある日本が、これからも、

パシュートの

ななちゃんのように

チームワークで日本を成長させてください。

評論家のようなワイドTVの

心無い放送で、

日大をむちゃくちゃに誹謗するのは、、、どうかと思いますね。


130年の歴史と、戦争を乗り越えた日大は

これからも、

日本を支えてゆく大学だと思いますよ。

感謝で母校を愛していますよ、、、

何を言われようと、、、

日大で学んだ事によって、

札幌の私の人生は支えられたと

母校に感謝しています。



父兄が出すこうした祝福の気持ちが、

日大の水泳の歴史を創ってきたかもしれないし

スポーツで

金メダル21個という快挙を出した応援金の一部として

役だったかもしれないと、、、思いたい。


卒業生が、母校に、喜んで出すお金だって

学園が元気になると思うのですよね。


私立大学は、親も卒業生であることが

どんな時代にも対応で来る強い同志のような

支え合いがあると思うのです。

卒業生の子供を優遇するという事は、

ある意味で、試験のレベルが

医師になれるレベルであれば、

日大の医学部を卒業した親からは

日大卒の医者が跡継ぎになるという事は

何ら、、、問題はないのではないでしょうか?



医師そのものの能力も

国家免許も相続できない一代限りの能力と技術ですから。


「医師の人生アスリート、アーティスト」ですから

環境が良いことで

心置きなく医学が学べるのなら

良い環境をつくれる親の力も受験の一環だと思います。


一杯のかけそばからは、

私立大学の医師は

卒業までたどり着けないことは周知のとおりです。

あれは、、、ドラマの上だけに成り立つことであり

学問は、、、実に、、、実に、、、「大食いです。」

医師の父、医師の兄、医師の弟、医師の息子、

そして、医師の夫、おしの甥っ子、に囲まれて、

雑務と、応援の筋肉労働で、

グローブのような手になって頑張っています。

本来は、白魚のような手で、

マスコミはセレブだとおもいこむでしょう、、、

現実は、

「医師には、医師にしか出来ない仕事」だけでも

、、、睡眠不足の人たちです、」

近所では。ご主人が雪を掻いています。

患者さんの肌に手を触れる医師の手には

スコップは握らすわけにゆきません。

かといって、勤務医は、月給は、

医師のバ^ジョンアップに

宵越しのお金を持って居るようでは

日進月歩の医学の世界についてゆけません、

患者さんと、学問と、自分の身体のベストな状態を

維持するだけで、、、精いっぱいの

日本の医療事情です。

アメリカでは、プール付きの邸宅だそうですが

日本の勤務医は

家庭が舞台裏と同じの仕事の備品でいっぱいです。

断捨離で捨てられるものが無くて、、、どの部屋も

医師の主人の物で埋まっています。

患者さんは、、、病気という

ある種のブラックホールを持っています。

医師は白鳥座のように

「至近距離に居る白い鳥」です。

ブラックホールに吸い込まれてしまわないように

環境が、医師の力を100パ^セント病人に向けれるように

専門的な視線で理解し、医師の能力が発揮できるように

雑務や、時間を必要とする通勤に

配慮することで、

良い仕事を引き出すことが、
紙一重の集中力が命をこの世に引き戻すことだってあると、信じて、、、

家内は、持てる自分の時間と筋力と、雑務に徹して応援してもも

自宅に帰ると、抜け殻になっていますから、、、

医師にしか出来ない仕事だけに絞り込んで担当してもらう。


裏方の理解が、見えない患者さんを救っていると信じて

労働は祈りであると思って、

雪かきは生涯、、、私が担当してきました。


やんごとなきお方の御病気の際、

神の手を持つと言われた医師の方も

親が医者であることが、、、決して稀ではありません。


卓球の愛ちゃんが、泣き虫愛ちゃんから

オリンピックのメダリストに成長したのも

卓球教育の天才のお母さんの力は、、、

すごいのではないかしらね。

日大は医学部はほかの学部と違って、

社会的にも国際的にも、

力のある親御さんの御子息が多くて

昭和38年に教養学部の時通った下高井戸の教養時代には

ピカピカの高級車で通学してくる生徒さんが多くて

圧倒されました。

我が家のように、

敗戦まじかまで従軍軍医で、

着の身着のままの引揚者だとか、

疎開先の御奉公が重なり

心身ボロボロに近かったのではと、、、推察される医師や。。。


国立病院や、大学病院を行き来しながら

公的要素の大きい病院の勤務医だとか、

勤務のサラリーマン医師の月給では、

およそ普通の4年生学部に於ける学生生活を

支えるのに、男子優遇の受験戦争は

敗戦からの復興時代は当たり前の域を出なかったのは

時代の産物ではないかと思います。


一口に言えば、、、

日本は、教育にさえ、復興を考えなければならないほど

物資も、心も、社会性も、

全て、、、ぞん底だったと思いました。


我が子に限って言うならば、

名門の私立医科大学には合格したものの

一年生の夏休みに

「インスタンプールからヨーロッパへの旅行」に

誘っていただけたのですが、、、

たとえ、、、

入学試験に合格しても、

生徒たちの、ダイナミックな

地球をマタにかけた

教養取得を兼ねたレクレーションの行動力と

経済力にはついてゆけないと思いましたよ。、、、(**!

医師は晩婚の先生も珍しくありませんから

卒業まで、健康で授業料を支払えるかを

まず。考えてしまい、

クラスの友人との旅費は出しませんでした。

名門私立大学の受験の前も、

合格しても、我が家は勤務医だから、

クラスで一番質素な学生時代になっても

覚悟はできていますか?、、、と。

息子には念を押して、受けてもらいました。

「医師になれるだけでいいから、、、

卒業したら、、、出世払いするから、、、。」

彼は親に約束をしました。

たとえ合格しても、大学院や留学が当たり前の

私立の医学部で、

大学院に行って博士になって、、、

大学で研究や臨床の切磋琢磨の人生で

お金儲けの時間が無くても、

臨床も研究も続けるわけですから、

親の理解が大切な学部であることは確かです。


「あしながおじさんの気持ち」が無いと、


私立医科大学は親にとっては大変だと思います。


息子は、臨床医として、現場で臨床を磨きながら

救急病院で、

高度な技術を学ぶ機会が生きがいになっているようです。

43歳で、持ち家も、車もなく独身で、大学病院の至近距離の

1Kの独身寮で、日夜救急の患者さんのお役に立てる人生に

生きがいを感じながらも、、、結婚をしている時間はなさそうです。

医者バカの、仕事以外は、、、不器用な、、、

雑務をやらない、、、父とそっくりかもしれません。

目の前に75歳のやってきた私も、

息子の結婚は、もう、、、神の一存と、思います。



医師をするという事が生きがいなら、

そちらが守られれば、

病院が家族のように

居場所になっているのでしょうから

ほどほどの歳になって、結婚して、

自分の親の、総合病院に戻ってゆく先生方も

少なくないのだろうと思ったりしています。

息子の場合、

もう故郷には医師としては、、、

戻らない、、、。戻れない。

母校の大学附属病院にて、

医療現場で役に立つことが人生だと言っている。



かって、、、私も、、、日大の学生だった。



思い出します、

ピカピカの高級車を見ながら、

医学部の親の経済力が推察できました。

私の兄も日大の医学部でしたが、

父の後継ぎという事で、開業の後継ぎを暗黙の了承で

考えねばならない立場であった。

本来は「物理学者のような傾向の頭脳の持ち主ですが、

医学部に進学することが必須でした。

自分が大学教育を取得した後は

父の亡き後の 50歳代の未亡人の母の音楽人生をサポートしながら

国立がんセンターの研修医をしながらの

開業の継続に早朝5時から、靴の音が廊下に響いていた。

医学部の経済的に豊かな家庭環境の多い同級生の中で、


教養時代のたった1年間で

人の物は羨ましがりません、、、!

玉石混合で、大富豪と、

サラリーマンの家庭の普通の中流との

入り交じりの日大で

自分のペースで身の程知って生きてゆかないと

経済力では

かなう相手ではないことが、早々とわかりました。


駐車場を観ればわかりました。


さりげなくブランド品を持っていたり、、、。

学習院大学を卒業してから

日大に入学してきた学生もいました。

セレブな家庭の様子も、身近に学習できました。

飛行機を交通手段として

世界中を隣町のような感覚で言ったり来たり、、、

別荘を持っていたりしました。

同級生の新年会などに招かれたとき

30人以上座れる日本間の一段高い床の間風の空間に

お琴や、ナツメ、見事な壺など、さりげなく、逸品でした。

マンションの一フロア―全部が自宅だったり。。。!

学問以外に、多くの文化を、

目からも学習しました。

医学部は

入学さえすれば卒業までゆけると思うのは、、、

どうなんでしょうか?、、、ね。

兄の場合など、卒業までには山坂ありましたね、、、。

5年生ぐらいのとき、、、大病をして、

進学できるのかどうか、、、

ピンチを切り抜けました、

ひょんな事で

北海道で国立大学の医学部の大学院生に出逢いました。

結婚生活など、、、考えられない、、、やっと食べてゆけるような、、、

奨学金が生活を支えている、、、貧困の中の苦学。

主人のように、、、

国立大学の学生は、、、

その点、

貧乏のぞん底に疑問を持たないで、

先輩と実験したり、

医療現場で医術を学ぶことしか

!!!見えない!!!

自家用車なんて、、、持ってる学生の方が珍しい。

親に金銭的なプレッシャーはかけませんよね。

、国のお金が

授業料となって応援してくれている生徒たちで、

おまけに、

奨学金まで貸してくれたりして、

授業料は、比較になりません。

成績が優秀であれば、、、親以外から

貰う事に抵抗もなく、

お互いに先輩や友人の仕事を手伝っている最中も、

昼ご飯はスパゲッティを割り勘とか、

仕事の会場までのタクシーも割り勘とか、、、。

先輩が仕事の為に用意してくれた宿泊所に

汚れた仕事着のまま、、、問答無用で流れ込んできて

山小屋風な、、、使い方をするとか、、、

根本的に文化が違って、

仕事で一緒に行動しても、

その、泥臭さに、、、しばらくはストレスが大きかった。

共同の机の上に、、、クサイ靴下や、泥んこリュックを置くとか。。。

仕事の最中に欠品した用具や材料は

「足りないから!」と、中断して

相棒が、どこからともなく、調達するまで、

ひたすら、待てる気配があって、、、負けてしまう。

薬剤師として、月給をもらっている私の方が支払うとか、、、。

持ち合わせの有る方が、払う役になってしまう。

何の、、、悪気が無い空気の中で、相棒になった私の方が

ありえない忍耐力に負けてしまう。

学業優秀という水戸黄門様の印籠のように

周りが、、、問答無料で上席に座ってもらう雰囲気になり

堂々と、、、もらい慣れしている自然態には、、

文化の違いを感じてしまうから、

空気の流れで、、、良くて割り勘、

ほとんどは、、、便乗されて、

当方払いの共同の仕事に

なっていることが多かった思い出を振り返る。

国立の生徒の、とりもちのような年張りと、忍耐力は

一体???

ドノカリキュラムから体得したのだろうか?

一方、、、私立大学での思い出は、

合宿も、山荘も、大学側の施設を利用できるので

フィフティ、、、フィフティ、、で。楽しかった。

親に庇護を受けていたことや、

リッチな友人の別荘に招待されて

親御さんに

「フラメンコ」の切符を戴いたこともあった。

フラメンコは芸術だと思ったのは、、、

実際の舞台からくる感想です。

親の力で大学に通えている私立の大学生の多くは

試験の合格点の゛ウンヌンではなくて、

学生時代に親が死んでしまったりすると

卒業にもかかわるほど、

経済的には厳しい状況になるのは当然ですよね。

一方、国立の生徒の中には、、、生活力がたくましくて

他人に空気で負担させる説得力は、、、実に魔法のようであり

まずは、、、未来において、

倍返ししてくれるだろうという魅力に近いですよね。

実際は、、、倍返しなどありえませんが、、、

社会性があるので、金銭では返済されなくても

人間関係のポテンシャルエネルギーで

当方が当方の都合で、挽回できる総合力は

彼らのすごい武器だと思った。

一方。

私立大学の医学部に進学させるのなら

経済力が必要であることは常識であります。

むしろ、、、

お金が無いのは、首が無いのと同じだと思える10年間を

父兄は、あしながおじさんを続けることになる。


子供が医師になることを

喜んでいる親であるという事が

卒業まで、

走り切れる力となると思うのですよね。

親が医師だと、

物ごころついた頃より、



医師の視点が御子息を育てるわけですから

卓球愛ちゃんの環境と似てますよね、、、

私立大学で、

親を選ぶのは、、、

生徒を途中で挫折させないためでもあると思いますよ。

親だって、

自分の母校に息子や娘が進学することは

授業料を喜んで出せると思うのですよね。

生徒の心も、応援団の親の心も

医師になりたいという

気持ちの結束が

大切だったように思うのです。

私の父は

慈恵会医科大学でしたが

兄はあえて、

父の七光りだと誤解されるからと

受けるのを避けていました、

両国高校でも10番という、成績の兄でも、

国立の医学部は失敗しました。


浪人して、

日大の医学部に進学しました、

父は、

私立の医学部に進学するのなら、

自分の母校に進学してほしかったのではないでしょうか?

兄は、元来、、、

父のような幅のある人格者とは違っていました。

「総合大学にいきたい。」,、、と

それだけのことが、

日大を受けた動機だそうでした。

父と長男との価値観の一致は、

卒業までの二人の頑張りには

大切な条件でもあると思いました。

兄は、

元来、、、、医師には向いていない鋭い知識の持ち主に思えた。

理工学部物理学科が似合うような性格だと思いました。

自己顕示欲も旺盛だった。

自分自身をこよなく愛するところも感じられた。

切れ味の鋭い頭の良さからくるのかもしれないが、

無理やり他人に等しい者も巻き込んでしまう竜巻のような知識だった。

主役はいつも、自分自身であったような印象だった、


父のように、

「病気だけを診ないで、病人のすべてを丸ごと診る」という

人間を謙虚に理解して、様子を診るという

謙虚な視点の持ち主ではありませんでした。

兄は、家族全員の、、、

今は早すぎるという、、、反対を無視して

学生結婚もしました。

父のノルマは大変だったと思いました。


医学部の結婚と、学問は果たして、、、

両立するものなのでしょうか?

日大の合格発表は
兄が一人で見に行って
写真を撮ってきました。

拾人ぐらいしか合格していない3月近い受験コースでした。

兄は、40倍近い最後の受験の突破を自分毎のように喜びました。




私も、家から30分という

至近距離の日大に進学しました。

薬学は、実験が多いので、

通学に時間と体力をかけるわけにはゆかないと思っていました、

受験した薬科大学は全部合格しましたが

近いという事はどこの大学よりも魅力でした。

近い大学を選べた幸運が

教職も、車の免許も、華や料理の学校も顔を出しながら

雑学も学べ

家庭教師も、英会話を使った英語の勉強を兼ねたアルバイトも

友人との連携で実現させることが出来た,

教えていた学生が大学合格出来たとき、

親御さんから特別ボーナスが出て、

協力してきた相棒の学生と

笑いが止まらなかったという、、、

忘れられない楽しいアルバイトでした。

リッチな雑学時代でもありました。

時には、、、銀パリや、歌声喫茶や

新宿の、「ぞん底」にも

モダンジャズを聴きににいったりもする傍ら

あまりのモクモクのたばこの煙で、咳が止まらなくって;

2度と行く機会がありませんでした。

飯田橋の百円映画館で

シナリオ丸暗記するまで通ったりしながら、

ESSの部活仲間と学園祭に、

「英語劇」に参加させていただいたり、

実家の近くの大学に通うという事のメリットは

盛りだくさんの大学生活のおかげで、「愛校心」に代わってゆきました。

英語劇で、私の娘役の「エミリー」を演じた超美人の後輩は

男子生徒のあこがれのアイドルだったこともあり

英語劇は、男子学生が観客席をうずめてくれました。

彼女の自宅にもお招きいただき

食事を御馳走していただきましたが

あまりの、、、お金持ちなのに、、、びっくりしました。

大きな会社、、、一部上場の会社の社長のお嬢さんでした。

一方、大学院の夜間授業で知り合った理工学部の他科の学生たち。

教職で知り合った大学院生の女性の家にもお招きいただき

玄関から門までの間が、、、非常に長い植込みが続くお屋敷で

びっくりが重なりました。

その女性は大学院を出てからも

社会貢献度の高い

女性学生の

最先端の生き方を

まっしぐらに進んでいきました。

お父様も日大で、著名な方でした。

内側から眺めて、、、50年たった今、、、

私のような、スタンダードな経済力の学生が

天下の日大で、天真爛漫に、

友達のおかげで、

社会勉強が出来た幸運に感謝するのは、

北海道に嫁いでから気が付いた感謝でした。

国立の医学部の医師と結婚して、

ゴルフも、ダンスも、日舞も、買い物も、

全部禁止、

家内として、、雑役の無月給の長い時間を

子育てで充実させていた、、、一人ぼっちのような、長い時間なのに

人生はス飛んでゆきました。

自分の事にだけ集中して生きていた主人は

それなりに、社会のお役に立つ医師として、

患者さんに必要とされて、予約もいっぱいになりながら

一人前以上の医師になっていたことに

私は、、、気が付かない状態で、子育てに、仕事に薬剤師として

すれ違うことも自覚がないままに75歳になろうとしています。

忙しかった、、、とにかく、、、忙しい人生でした。

主人は「居てくれた。」というだけで、

外堀になってくれていたのでしょうね!きっと、、?

印象としては、

子育てと、

雑用と、

進学時期の社会復帰の仕事と、

雪かきだけにおわった

男女関係が無くなってからの40年間のすれ違いを

気が付く暇もなかった。

ローンが終わったの65歳だった。

結婚人生を振り返るからかもしれません。

子育てだけで、、、いっぱいいっぱいでした。

大学は、国立があるのですから、、、

自営に近い私立大学は

私立大学が、生徒を環境ごと選ぶのは間違ってないと思います。

私のようなスタンダードな学生が

環境の良い生徒の家に招かれて、

身の程をわきまえ、

頑張るしかない人生に、

謹んで頑張れるのは

お金が無いという事は

首が無いのと同じ世界があることを見れたという

社会学のチャンスが、、、

日大の生徒間の

環境のスケールの大きさから学べたという事です。


ちょっとばかりの経済環境が良いだけの友人なら、

私だって、、、一人前に、、、

アン人たちは。。。よかしゅ~~~~などと、、、

嫉妬まがいの心がむくむくしたかもしれませんが、、、


比較にならない社会貢献度の高いダイナミックな家庭の友人に

北海道と違って

東京では、、、

「医者は、、、開業医は、、、中の中?」、、

もしかしたら、、、「中の下」の経済力かもしれません

我が家はその「中の中」でも、

父の早逝によって

経済の環境は、

私立学生3人と国立一期校の下宿をしている医学生一人を抱えて

父は、、、激務に耐えて、、、一人で苦を背負って

早逝してしまいました。


私は日大在学中に父を喪いました。

医学生の間にすでに」結婚している内科医の兄の

ほやほや家庭の

居候に転落してしまったのでした。


学生結婚していた兄夫婦に

毎日、、、「まだ家に居たのか?」

「卒業したら、ササと嫁に行け、、、」等と、
、、
父を喪った外科内科の

一人ぼっちで開業を続ける医師のストレスを、
もろに、、、妹にぶつけてくるという、、、
悪循環が始まりました。


ある意味で、聴こえないふりをして、アルバイトに勤しみました。

大学卒業したら、、、自立できる。

私は、遺産相続の放棄の印鑑を押して、

卒業までの費用と交換した。

卒業旅行の3万円が足りなくて、

兄に、

「貸してほしい」と頼みました。

「お前は父の居ない子なんだ」と

「自覚しろ!」

「旅行までは面倒見切れない!」

単なる予防線を張る癖のある、、、気弱な兄きの、臆病風が言わした

「協力節約宣言」でした。

医学部志望の高校三年の弟が。。。

まだ、、、我が家のエースだった。

最後の切り札を医師にするまで、、、お金は節約という

結束が、、、暗黙の了解だった。


たった一人だったと思います、

卒業旅行に行かなかったのは。

岐阜城も犬山城も、川下りの醍醐味も、いまだに知らないで75歳が目の前に来た。



父の経営していた医療施設は長男と、

短大卒のお嫁さんが相続した。

「父と同じ外科医と結婚して家を一緒に継ぐのなら

ここに居ても良いが、、、

ほかの学部の男性と結婚するなら

すぐに出て行け。」。。。???パワハラみたいでしょう?


パワハラではないんです。


外科内科で看板を挙げていただけに、、、

外科のいない内科は弱かった時代です。


生き残ㇼがかかっていたのです。

兄は父と一緒に開業していましたから、

孤独で、、、怖かったのだと思います。


一人で開業するという事は、、、
恐怖だったのかもしれません。

私は勤務が病院でしたので

我が家の経済状態を知らない医師の先生方は

医師の娘で医師の妹で薬剤師で23歳という条件に

結婚を申し込んでくださり、

返事のしようがありませんでした。

友人の結婚式の代表挨拶で、道内一周旅行付の

結婚式に来たとき、

人生の岐路に差し掛かった。

奨学金の返済をしなければならない金額が100万にもなっており

大学院で、博士論文も研究中で、

金銭に今は困っているという学生医師に出逢ってしまった、

博士号を取得したら、我が家の父の空席の所に

自分が入り、東京に還り、両親を支え、

弟の大学も支えるという、

外科医の駆け出し医師に出逢った。

北海道に居るその学生は

東京大学で3人の心臓外科医と言われた

東大出身の教授の医局に居た。

「この外科医なら、師匠の東大出身の教授の退官とともに

東京に帰って来て、勤務医になるはずと思った、」

夏休みに母に会いに来て、必ず東京に帰還して

我が家を手伝うからと、母を納得させた。

その学生は、7年にわたる苦学の末の卒業が

国家試験の全員のボイコットの時代に卒業したため、
医師免許が無く、実家からは卒業した医師だと思われて
仕送りがストップしてしまっていた。

勉強漬けの7年で卒業しているのに
国家試験が受けられないという、、、あの、、、

青医連の時代の産物と言ったらよいのでしょうか?

卒業はしても、、、働けない、一銭も無いという、、、

うつ病のように、、、無表情な

顔なしの時代の、、、可哀想な大学院生に出逢ってしまった。

薬剤師として総合病院に勤務していた私は

余裕が有った、

彼にとったら、、、溺れる者が藁をもすがる気持ちだったに違いない。

とにかく、、、ついてきた。

無視しても、、、ツイテきた。

そして、、、私の頭越しに、未亡人の母に談判した。

医師免許を取得して、博士になったら、

外科医だったご主人の空席を必ず、埋めに東京に帰ってきますから、、、

目下の必要経費は、勤務している以上、そちらが負担して

結婚してほしいと、母に申し込んだのでした。

「お父さんが若くなって、、、帰ってきてくれるのよ!」

もちろん、ほとんど仕上がっている医学生が、

社会に役立つ医師となるまでのサポートは、

全面的に、引き受けましたと、、、母は言いました。

母は喜びが隠せなかった。

私が、お断りの返事をする前に

「娘は、あなたに差し上げます。」。。。と

言ってしまった、

私は母の私物ではないと、、、

親子で言い争ったことを記憶しています。

薬剤師は30歳までは結婚しているようでは

一人前の技術は身に着かないから、、、と、

目下勤務の総合病院をやめたくはなかった。

しかし、、、兄は、

私を、、、医事新報雑誌の結婚欄に

「医師妹、医師に嫁ぎたし、、、23歳薬剤師、、、云々。」

私は本当に激怒した、

医師会の日舞に長年通っていたこともあり、

知人も容赦なく見る雑誌に

事もあろうに、、、

「妹をたたき出すような広告を出したのでした。」

翌日から、、、勤務を終えて帰ってくると、

兄夫婦は、私に無断で、応募者の先生と

談笑しながら、、、私を待っているのです。

本気にして、兄の、妹追い出し作戦だとも気が付かないで

私にデートの日時を申し込んでくるのでした。

時間貧乏で

付き合っている暇がゲットできない環境なのでしょうね、、、きっと。
兄きの笛に踊らされた気の毒な先生方は、、、、

こんな兄貴夫婦のパワハラに逢うのなら、
遺産相続放棄の書類に印鑑を押さねば良かったと後悔しました。

条件として、足手まといにならない薬剤師と結婚するのは

何ら、、、やぶさかではない、、、から。。。と

成りきに巻き込まれてくださる方々に、

どうやって、、、「ごめんなさい、、、」

「兄貴が、足手まといの小姑の、、追い出し作戦ですと、、」

失礼で、言えないと、、、、思いませんか?

はるばる北海道から私の頭越しに母に「契約結婚のような条件」で

23歳の薬剤師の目下の月給を、藁に見立てて、生きるためにやってきた医師未満、

結婚してから、大ぴらに、初恋の女性の作品を買いまわるので
気が付いたことですが、

主人が、芸大の有名作家との失恋のあとで、

心の空席を埋めてほしいという状態だったのですよね。

音楽大学を卒業していた私の母は

「あなたの気持ちは、この曲と同じでしょう?」
彼の前でグランドピアノを弾いた。

後に主人になった外科医師は、私というよりは
ピアニストだった母や、初恋の失恋相手の彼女を
50歳過ぎるまで、評価して、心の恋人として、慕っていた、

片思いも、ここまでくると、サポートしてあげたくなりました。



未来において、、、失恋も癒されたころ

生まれ故郷の、両親と、夜人兄弟との待っている家に帰るだろう、、、

博士号の為の実験論文が出来上がるころ

教授も退官で、、、東大卒なんだから東京に戻ってくるだろう

数年の北海道暮らしなら、

よそ者生活の蚊帳の外の扱いも、

社会体験で貴重かもしれないと

東京にいずれは帰還してくれることを条件に

母は、結婚を受諾して、どんどん式に向かって頑張るのだった。

札幌の風呂のないアパートの新居を見ても

「これなら、、、思ったより、、、早く帰ってくるわね!」と

かってに

家具や、

20インチのカラーテレビや、

絨毯を運び込んでは

「お父さんが、若くなって、帰ってきてくれるんだから、、、」と

夢にような、独りよがりのストーリーに酔っていました。

私は、、、可哀想な未亡人の

母の心のすき間を埋める「人形」だったかもしれません。

それから何十年か経ちました、

母と兄の思惑は大きく外れました。

医学部の学閥の認識が、世間を知らなかった主人にも解ってきて

主人は大学に残り、ひたすら、医局の仕事に奔走しました。

講師になったことは、

大学のスタッフの仲間になったことだから

大学関連病院で生涯地域の盛り立て欲として、

札幌で生きるだろう。

もう。。。我が家では帰ってくることは待たないと、

ミカン箱一杯、

病院経済状態の自宅の情報メールも手紙も

プチント途切れた。

医学部には、、、こうした学閥もあるのですから、、、

開業医の親元が
地域医療の継続の為にも
先代が残した患者さんを、路頭に迷わせるような
不安にさせないためにも
医療施設の存続は地域社会の大きな問題でもあると思っています。

私立の医科大学が、
親の環境なども、
生徒の未来の学問達成のためにも

はじめから選考基準に優秀環境点数として考慮に入れたとしても
不思議であるとは、、、

私的には思いません。


遠くの国立の医学部に入学した学生の卒業後は

医師として生きる充実とは裏腹に

地元の女性と結婚すれば

幸せであっただろうと思う反面

故郷に錦を飾ろうと思うと、

国際人になるまで頑張らないと、

御国がえりは出来ないと、医師の多くの人の言葉です。

地域には貢献できても、

「私生活はよそ者」としての

孤立の期間が長すぎるという

痛しかゆしのリスクが医学部はありうるという。

主人と、母の間で、院長が急逝した医療機関のメンバーとして

貴重な体験をしました。

この際、、、母の人形となって、

未亡人の復活の夢にかける

「人形」になって、

様子を見るのも人生経験であると割り切った、

一切の知り合いは出来ないと覚悟して、

表面は大切にされる客人としての分をわきまえる社会生活に向って

北海道の留萌の断崖絶壁の近くの病院に主人について、やってきました。

虎落笛のヒューヒュー鳴る、海は

まるで自分の心の中の嵐のようでした。

耐えられたのは、

山や自然が好きな、薬剤師だったという要素が

大きかったと思います。

主人は「愛がむしろ邪魔」という、

自分しか愛せない虐環境の時代の研修医師の卵の時代ですからね。

時間貧乏の外科医でしたから、

背中合わせに、

育児と仕事を分担するしかなかった

相棒の生活で、同居している背中合わせの二人だった

国立出身の初代の医師は、開業の医師のヴィジョンとは
方向が異なっていた。


私立の医学部は

、むしろ開業している地域の患者さんの為にも


病院が後継者が居なくてつぶれてしまわないように

医師になる学力さえあれば、

施設継続の為にも、同点ならば、

環境を考慮する加点があってもいいのではないかと思っています。

医師の周りのスタッフの幸せも、かかってくる問題であると思いました。

年老いた父母のもとに

学閥を超えて、帰ってこれるのは

私立医科大学卒業という環境の方が、実現しやすいと思いました。

先代が居なくなるころ、

若先生が、残された患者さんを引き受けて、

人生の終焉まで

地域の人が安心してかかれる病院があることは

好もしいことと思います。、


我が家の場合は、特殊かもしれませんが、

北大で、博士号を取得した後は、

娘の主人が東京に帰ってくるのを、待ちながら、

とうとう、、、兄も80歳を超えました。

還らぬ妹の伴侶である外科医を待っても、もう帰ってきませんよね。

母が、父の残した開業を継続する必要があったのでしょう。、、

閉院が遅れてしまったための

見えないリスクで、

兄は、中流から、持ち家のない特別老人ホームの介護付き施設にと

奥さんと引っ越してゆきました。

そこから勤務医をしています。

私は、、、

母の最後には間に合いませんでしたが

兄の言葉を借りて言うならば、、、

「待ちくたびれた、、、OOサンは嘘を言ったのかしら?。。。」

待ち続けて、、、亡くなった最後の言葉を伝えてきた。


主人も、心ならずも、会わす顔が無かったのか、

葬式も、諸七日も、49日も一周忌も、、、

仕事を選んでいた。

3周忌に、弟が開いてくれた法事に

中野の宝仙寺にて兄弟と再開、

和気あいあいの若者世代の会合は、

盛り上がり、法事であることが不思議な様子で

明るい世代交代の交流が始まったのでした。


去る者は、、、日々にうとし、、、


「お母さん、、、すみませんでした、親不孝な一人娘でした。」

墓石に向かって誤るのは私ぐらいでした。

昔、、、そう、、、昔、、、

主人が大学講師になったとき、

もう、、東京には帰還しないことを悟った兄貴は

一人開業の孤独が耐えられなくなったのだろう。、、、

一日150人の患者さんが来ていた盛業のまま

閉院することになったときのことを

私は、、、今も忘れない、


開業しながら、

がんセンターで研修を重ね

内視鏡の指導医を許され、

巨大な病院の勤務が決まった。、、、兄。

日大卒の根性を見せてきた。


ボーと、主人の期間をまっているような、、、

営業オンリーの待ちぼうけに会うような

やわな性格は、日大卒業の医師にはありえなかった。


23人いた従業員にも、専属だった税理士さんにも

退職金を払って、閉院してしまいました。

国立がんセンターで指導医の資格を取得して、

千葉の巨大病院に勤めてしまいました。


私の実家は亡くなりましたが、


兄は、

弟が、戦後の日本のCTや

へりかるCTの先駆者となって

生き生きと生きるのを観ていて、


大きな施設で

医学とともに臨床医をしたかったのでしょう。


私にとったら、

無断で実家が売られた、

職員の退職金に消えたのですから、、、

ショックであったことは確かです。

しかし、、、医師としての兄は、

頭がいいと思いました。

開業より、、、閉院は大変だと、、、

心からわかるからかもしれません。

勤務医として、医師の喜びに向かっていった

気持ちがわかるような気がしました。

開業で、たった一人になって、

毎日「命」と向き合っていたら、

孤独と、恐怖で逃げ出したくなると、、、

解るような気がしました。


医学部卒業したてのほやほやの若き医師にとって、、

親が医師であるだけで、助かります。

金銭的なことはともかくとして、

命と向き合う仕事だけに、

親が医師であることで、指導がいただけるので

命を前にした、自分の学門が及ばない症例の時など

孤独も、恐怖も無くなると思いました。

兄を見ていてそのように感じることが多かったからです、



日大の医学部が、

状況も、環境も、面接点になるようなら

あながち親を選ぶのは、

生徒への情けであるようにさえ、、、おもいませんか?


この年、75歳になって、、、

息子が医師になってからも

大学に感謝することが多いのです。


主人としては、家庭的ではなかったですが

息子が医師になった段階で

親が医師であったことは救いとなりました。


知識だけ、点数だけ、、、

それだけなら、、、

私だって入学点数はとれる。

医師の免許を取得してから


医師をすることの大変さを


目の当たりにしてきました。

家庭生活はゼロでも0は有理数だと認識できた。


医師の日常は、、、私には真似が出来ない。

あらゆることが、超人的に大変であることが解ってくる。

二代目、三代目、、、代が多くなるほど

親の力が育てたモノが

患者さんぐるみの人生を守れる知恵を

授かっていることも多い。

試験制度に正しいことを第一にするのなら
人工知能に、あらゆる条件を記憶させて

受験の正しい在り方を出させるのなら

正しいことが,,,
正しいと出てくるのか???

そこを知りたい。

点数だけを重要視するなら、、、国立でしょう!

東京大学とか、

京都大学とか、

ノーベル賞にも関係してくる頭脳が

世界を席巻する学部が

点数で合格するのはわかるような気がする。


能力が高くて、

限りなく自分のヴィジョンに生きる人たち。

しかし

私立の医学部の先生方は

社会の奉仕に近い、

心身や肉体、家庭ぐるみで

サービス業でしょう?

親のセンスが英才教育となり、

理屈ではなく身に着いた技を持つ。

患者さんに寄り添える

多面性のある雑学の豊富な先生が多い。


天皇陛下の手術をされた勇気も、

親が医者だったという心の英才教育が

あのような。。。

畏れ多い方の畏れ多い手術を

引き受けられる、、、

「医者魂」の、、、すごい勇気があるのだと思いました。


言葉にも、文字にも書けない

すごい、、、何かの、、、エネルギーを感じます。

大学院の頃の主人が取り組んでいた博士論文は

自前で買い取った犬を使って

バイパスの実験に明け暮れていました。

陛下の成功の新聞記事の中で観た

「解説の医学の図」を睦めながら

主人の論文に同じようなバイパスの図が書かれているのを見ながら

研究は臨床で生かされてこそ

すごい価値があると思うと、

臨床医の主人には、、、

いよいよ、、、雪など掻かせてはならないと

循環の大切さを身に沁み乍ら、

陛下の御命が救われて、平成の時代が続いたことに

感謝しながらも、

災害の続いた地域への

国民とともに心の旅にお出ましになり

術後の御体に、、、国民はハラハラしながらも

お元気に役目を果たされた陛下を

後方で支えられた美智子様に

思わずTVの画面に向かって、

深々と頭を下げておりました。


このような大変な公務をつつがなく

まるで、、、

平常心の御顔で災害地に立たれた両陛下のお姿に

執刀された先生は、神の手、、、そのもののように思いました。


平成の「災」あったことも、

多くの事で、頑張る力を取り戻してきています。




もしも、、この先生が

昭和40年頃、日大の主治医になっておられたら

父は助かったのにと、、、思いました。

一方、、、国立の奨学金で卒業した国立の医師の一人は

例えば、私の家庭を例に挙げるなら


主人は一代医者ですから、、、

医師の家庭で育った医師の兄弟の居る嫁が必要でした。

医師の義兄弟が居ることで、

下腹に力が入ると言っていました。

臆病なナーバスな考えが湧いた時には

友人の医師とディスカッションしながら、

難局を乗り越えていました。

私は薬剤師ですが、

主人は医師以外の意見は受け付けません。

医師以外の者は

家を守ることを望み

一切の家事は、主人は自分には管轄外として、

医師であることを貫きます。


夜8時前には帰ってきたことが無く、

育児にもほとんどかかわらないで、

父である責任感だけは、、、

独り占めするほど

感じるのは、、、

独裁者に通じる自分流がありました。

一緒に食事をしたことも、思い出せません。



しかし、陛下の手術をされた先生が、

家事や雪かきをなさる姿はありえないことですし、

在ってはならないことだと思いました。


もう、、、主人に向かって、、、

腹を立てることはしなくなりました。

あれ以来、、、、。

日大は、平成の時代を一緒に生きてきました。

大きな役割を、

天が白羽の矢を

日大に届けてきた平成時代でした。

人生で一番大切な「時間」を

医療に捧げた、、、


医師は医師でないと支えにはならないのです。


医師になってこそ解るイデアのような、共鳴し

音叉のように周波数が一緒でないと

命の前には。議論する相手が限定されます。


女医さんになっていれば

私も、主人と話し合えたかもしれません。


医師になりたい学生の父が医師であることは

私立大学にとっても

地域医療にとっても

開業奨励の医療政治の時代でしたから

孤独な医師を救うためにも、

地域での唯一の開業医が
跡取りが居ないために
無医村になってしまう事を回避するためにも、

医師の息子が、優遇されるのは、周囲も願う事でした。

身内が病気になったとき

医師が高給料だとか、、、いい車に乗っていることなどは

どうでもいいことで、、、

地域に医療施設があることが

大切な、大切な時代でした。

ドクターヘリが、、、無かった時代ですからね。

地域にとって、医療機関は宝物の時代でした。

私立大学の、一見、不平等に見える入学制度が

医療政治の一環だった時代でした。

環境ごと医学生を選抜することが

必要な時代だったと思います。

地方勤務の先生は、日進月歩の医学の社会から

置き去りになる大きなリスクを抱えながら、

何万円のタクシー代金を払って

車の中で睡眠をとりながら、

町中の学会に出席していたことが、

思い出されます。

しかし、、、人工知能が会話相手として台頭し、

パソコンや、サイトや、アプリの効力が、

時代遅れの父親の医学を上回ることは

科学のなせる業と思うと、

時代の作り上げた制度は、

その時の環境で判断して付かないと、、

今の時代の環境から、、、

医科大学が、正しいとか、、、正しくないとかは

言う方が無理があると思います。

時代の不備な制度の中で

国会と喧嘩しながら

喧嘩太郎の名を有名にした先生もいらっしゃり

弟が、晩年その先生の

画像解読の主治医をしたこともありました。

父も主人も弟も、息子も、

全てを振り返らずに、断捨離して

医師として生きた、、、のを、、、身近にいるものは

感じながら、暮らしてきました。

背中が語るものが、、、

人工知能のような智ではないと思うのです、

正しいとか、正しくないとかではなく

命は一つですから、

命を救うことで、

どのような時代も

最善の事を考えながら

日本の医療は、アメリカ人がうらやむような

国民にとって良い制度として今日に至っています。




がんセンターで、人生で一仕事をなしえた弟は

疎開先での、、、

戦場からの引き上げの医師の姿とともに

暮らしてきました。

質素なレントゲンは父の指を潰瘍だらけにしていました。

一町立診療所の医師だった父の事を

70歳になっても、恵愛しているという弟。


父の背中は、医師を育てる、、、

遺伝子にも似た作用が有ったと思います。

姉の私は、田舎で頑張った父が、医の神様に思えるときがあります。

朝日がんセンターを戴いた弟の医師魂の根源になっていると思うのです。

ちなみに、、、

弟は国立一期校の医学部を卒業していますが、

幼いころから、

父に抱かれた父の分身のように

姉の私は、

弟に、リモコン操作で動かされているがごとく

弟の方が、、、はるかに優秀な子供時代であったと

苦笑しながら、、、振り返ることがあります。

短絡で、親に河合がれる弟を、嫉妬したり

かなり幼すぎる、、、馬鹿な姉だったと振り返ります、



月夜の夜、、、、

父の左腕に抱かれた弟が、

大勢の子供たちと、景踏みをしながら

皆、が楽しんだ、、、

父の居てくれた風景が

懐かしく、思い出します。

医師は、誰も相続できない能力です。

一代限りの厳しい職業だと思いますが、

一代限りの傑物は、、、、

子供のころ、月夜の番に

左腕から伝えられた体温が、

医学部を突破する気力を流したと、、、

姉の私は、、、

今でもふと、、、幼かったあの頃を振り返り、

私たち、

子供の一生の航路を照らしてくれた

月夜の夜の景文だったとだったと

父に感謝するのです、


父が疎開先を去って、

生まれ故郷の東京に還るとき、

いくつもの村からお別れに来た患者さんで、

橋も、道も、人で埋まり、、、駐在さんが整理に出てくれました。

患者さんだった、、、老婆は、、、道にペタン事座り、、、
「先生、、、行かないで、、、」子供のように泣きじゃくっていました。

そのとき、小学校3年生だった弟は、、、

「お姉ちゃん!!医者ってすごいね、、、

僕は大きくなったら医者になる、、、」


弟は、もらい泣きしそうになりながら、、、


父の背中をはっきりと見たと思いました。




医師は一代限りで

その能力も、免許書も相続は出来ない。

しかし、医師になろうとするパワーは

弟は父から受け取った瞬間を、

私は、、、ヤシカの子供カメラで、しっかりと撮り、

心にこの瞬間を刻み、未来の時代の医療の光を感じました。

弟を、、心から、、、
いつも、、、遠く北海道から

応援していた。

定年退職した弟の事を、

幸せな老後を送ってほしいと願っている

若き日の、単行本になっている

国立がんセンターの黎明期の本を読みながら

健康を大切に、過ごしてほしいと願っている。

医師の裏を守りながら

閉じ込められた雪国の雪を掻きながら

結構、、、マイペースで自分で

筋肉トレーニングと割り切って

孤独な登山にも似て、

労働は、祈りであると

ある種の信仰心で、雪山を美しく積んで除雪する。

弟よ、父の早逝のあと、、、

君は本当に、、頑張った人生だったね。

あの苦境を跳ね返して

国立一期校の医学部に合格することのできた君だから

周りの兄弟も、君に負けまいと、、、頑張れたと、、、

来し方の日々を振り返っている。

君が居たから、、、

人生の君の舞台を観ていたから

体は家庭に閉じ込められたけれど、、、

楽しかった、

頑張る医師の身内を応援するのも

君には届くことのない距離だったけれど

、まるでやりがいのある、、仕事のように

厳しく、一生懸命に戦った応援席でした。