花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

パッチワークのように記憶を繋げて思い出したい父の言葉

2015-06-24 08:12:43 | Weblog

私の記憶の始まりは、
赤子の時の、
「おしめ」をしていたころに

はっきりとした記憶の始まりを思い出すのです。

今のような、すっきりとした[吸収おむつ]
のないころに
さらしや、浴衣でつくられた
「おしめ」と呼ばれたおむつをしていたという記憶です。

赤ん坊の私は、異物感が腰のあたりにあるたびに
目が覚めて、薄暗い天井を見つめながら、全身を動かし
おしめを取り去ろうと、
大格闘していたという記憶の中に
黒っぽい母のタンスと
、8角形の柱時計が見えていたという事です、

となりには、
一つ違いの兄さんが、頭のてっぺんまで
おねしょの地図を描いた布団の上で寝息をたてていた。

父と母は唐紙で仕切られた隣の部屋で寝ていたという事です。

引き上げで命拾いをした9歳の長男の兄は

二階の自分の部屋で寝ていたという事が。
3歳の時にわかりました。

なぜ?3歳とだんげんできるのか?って?

書かねば信じてもらえないかもしれませんね!
2歳半の時、父は七か村の中で
唯一の、なんでも見てくれる神様のような医師としての
特別な、存在になっていました。
穏やかで、都会人で、柔和なのに、無口で、
ひたすら、患者さんの話を聞き続け、話を聞いてもらっているうちに
患者さんのすべての人が、自分にとって特別の人のように、
父に親しみと尊敬と、不思議な親近感を覚えていったようでした

山奥の小さなから準看になるために
診療所に勤めていた十代の乙女に
母は縁談を持ちかけて、しまったのでした。
そのショックで、囲炉りのそばで抱いてた私を
その中に落としてしまい
対面にデスク越しに居た母は、
父のように、自分で、デスクを乗り越えることに気が付いたのは
私の手が、団子のように焼けてくっついてしまった時でした、
「みのりさん!、、、早く抱き上げて!!!叫んでばかりいたのでした。

2歳と半年目の。ピアニストを母に持つ、どんぐり眼の娘の右手は
人差し指と親指と、後は手のひらにくっついたお団子になってしまったのでした。

この日から、私の頭の中は覚醒し、
人見知りもする、言葉をすぐに覚える2歳半の幼児に変身したのでした。

3歳の誕生日の日から、父は外科医となって、
「この手を治す!」と
小さな幼女に約束し、
湯の中でのマッサージ、
タルクという粉をつけてのまさーじ、
くっついた指の切開を始めました。

精神的に追い詰められていた私は、
おしっこを漏らしてしまう赤ちゃん返りをしていました。

3歳になったのに、、、おっしっこを漏らすなんて、、、
母がぼやいているのを、父は、母をたしなめながら
「おしっこを、漏らさなくなったら、精神的に正常に戻ったと思えばいいよ。」

後になって、母から父の医師としてのサポートを聞くことが出来ました。

おしっこ漏らしはかなりの間続きました。
父は、成長する指の骨が曲がらないようにと、
第3関節の付け根の部分を切開しては、マーキュロガーゼでふさぎ、
「矯正のしゃもじ」のような板を右手にタコ糸で固定し
首から右手を吊ることを強制してきた。

おしっこは、治療が進むたびに、思い出したように漏らす日々が続いた。
「みのりさん、という準看修行の乙女は、血tの叱責を受けることもなく
準看になり、小学校に私が進学する頃診療所から去って行った。

このような経過の中の、三歳のパッチワークの思い出を語るなら、
家族にショックなことが起きると、
兄弟は皆、おねしょマンになるという事を経験しました。

子供の部屋の蚊帳は白い小さな蚊帳で、子供が覇っきりと見えました。
父と母の部屋の蚊帳は濃い緑色の大きなひゃいっぱいに拡がった蚊帳だった。

私は、おしめを、何とかとって、すっきりしたくて、
もぞもぞ動き、寝返り、足をこすり、しまいには泣き出しました。

となりの蚊帳が動いて、
おしめをとってくれるのかと、泣き止んだが
いっこうに、おしめを変えてくれる様子もなく
父と母を呼ぶように泣きながら、再び、寝てしまったことが
妙に鮮明に覚えています。

次の日の夕方、私を負んぶした母が
帰国してから村の人にほとんどを手伝ってもらってキャベツを植えたのが
私の頭ほどに成長しているのを、毎日見に行っては
背中をゆすりながら、歌ってくれていた。

きゃべつチャン、、きゃべつチャン、、、かわいいね~~~

「*+@。。。ネエ!!!」と大きな声で母の言葉をまねようと
同じ言葉を繰り返そうとして、、、私は「、、、、ネエ~~」と
語尾だけを繰り返した。

キャベツ畑の向こう側に
真っ赤な「カンナ」の花が
黒緑の細長いうちわのような葉を重ねて
花といえども、
強そうなパンチで母を振り向かせていた。

ぼろぼろになって、
あちこち板が抜けている垣根の向こうには
ダリヤの花がポンポンと小さなリズムで
まき巻の花びらを
空に向けておしゃべりしていた。

ガンギを積んでる端っこには、
びっくりグミの大きな細長い実が
鈴なりにさがって。ダンスをしていた。

母は野菜畑がいたく気に入っているのか、

納屋の手前に広がったかぼちゃの花のしおれた下に
小さなかぼちゃがうずくまっているのを見つけて、
背中の私を見るように
首を捻じ曲げて、嬉しそうに言った。

かぼちゃの赤ちゃん!!!   
カワイイネ~、、、、
「小さな馬車で、お城に行って、お姫様になりましょ~~~ネ!」

診療所の赤い電気、
住宅との境にあった「大きなキンモクセイの木」
並ぶように滑らかな木肌の「ヤマモモの木」が立ち並び、

住宅に向かう間は、
長い長い折れ曲がった。つるつると滑りやすい廊下であった。
広縁と呼んでいた幅の広い縁側が、
後になって、
月見団子を囲んでの、
おじいちゃんや、おばあちゃん、
親戚や、母の仲良しの、
サロンのような役割を果たしていたのを知るようになったのは

弟が、青い木製のトラックにまたがって、
ご機嫌で、庭を走り回っていたころでした。

大きくなってきた弟を見つめていると、
赤ちゃんの頃の、
あわや!と思った出来事が甦ってきます。

まだ、赤ちゃんだった弟が、
廊下に面した戸を、
自分で開けて、広縁に這ってきたのです。

3歳の私は
広縁から、寝っころがって
弟の這い這いの真似をしてはしゃいでいると、

廊下の突き当りの事務室の板を蹴って
父がすっ飛んで走ってきたのでした。

父はそのまま、
一メートル以上の高さのある広縁の下に
身を投げ出して
横に這いつくばり、
とっさのところで

広縁の端っこから落ちた弟を体で受け止めたのでした。

事の重大さのわからない弟は、
父の上にまたがったまま
大はしゃぎをしていたことが、
生涯忘れられない記憶として、残っています。



晩年になって、、、大学を出るころ、ふと
すでに亡くなっていた父の面影を慕いながら、、、

戦場で、球が飛んできたのを避けるために、
塹壕に自分の身を放り投げる
兵隊さんの身のこなしではなかったのかと
突然に、育児戦争だったのだと、
命の危険を察知する父の緊張感が伝わってきて
父が恋しくなり、
涙が出てきたことがありました。

無一文になった引き揚げ命令からの
23年目。
父が命をかけての
「鮭の里帰り」のように
子供の教育の為に、
すべてを捨てて、
父が育った市谷に戻ろうと動き始めた。

42歳という年波は、
下町の太陽に続いて
、下町の皆の医者として
江戸川の流れる近くに開業をするなら、
臨床の経験がきっと、皆の役に立てるはずだ!。

お父さんは医師を辞めてしまっているような人生だけれど、
戦場で、戦陣外科を体当たりで駆使し、
敵も味方もなく手当てをして、
野草の薬効を熟知している父は
皆の必要とする「医者」であり続けることが出来る
キャリアの持ち主であった。

思い起こせば、こんなこともあった。
疎開地の熊野の奥では、
村人、町民が空き地を提供してくれて
「大きな薬草園になっていた。」

小学校の階段の脇から広がる薬草園にだけは、
音楽の先生の大好きな
グラジョウラスやダリヤ、トリトマ、矢車草、ナデシコ、
学童の好きな小さな個人の花壇が、河原の丸い石で区切ってあった。
園芸に興味のある学童が、父とほうずきなどを植えながら、
いきなり飛び出してきたモグラを追い回して、奇声を張り上げていたりした。
そして、百合の花、などを、境界線の畝に栽培し、
花が満開になるころを楽しみにしていた。

私は、父から頼まれて、職員室に花を届けに行ったものでした。

種は、手紙を書いて、方々から取り寄せていました。
特に、グラジオラスなどは、祖父母の友人のアメリカ人から
船便で送ってもらっていました。

小学校4年生の時、ジギタリスの葉っぱを乾かして、
粉にして、それを、カエルを使って、薬の強さを測り、
使ったのだと父は教えてくれた。

紫の「シオン」はぜんそくの時、
植えている植物は、
美しい花が咲いているが、
その花さえ薬になる植物でした。

オレガノ、ユキノシタ、大文字草、ウイキョウ、タチジャコウソウ、、、

パパベラゾムニヘルムのように
、保健所の許可の必要な「けしの花」はさすがに無かった。

既定以外の、けし坊主の小さな、
花の色のピンクに近い芥子等が記憶に残っている。
大輪の、ポピーなども風に揺れていた。

今では、ハーブとして、
主婦の間でもてはやされている料理の香料なども、
香りが楽しかった。

村人、町のひと、あたり、七か村集合の町には医師は一人もいなかった。
その状況下で、日時はス飛んで行ったと、父が生前話していた。

戦後、13年もここにとどまる気がしれないと、他人は思うでしょうね。
患者さんが、父と心の絆で結ばれる「田舎の医師」を続けているうち
診療が途切れる日曜日など、
若者が、碁を教えてほしいと、押しかけてきていた。

かって、総合病院の医師をしていたことも、
仁川の日赤で日夜傷病兵の手術に追い回された戦争体験も、
野戦病院で、薬も包帯もなくなったときのことなどを
考えながら、
疎開地の、心も体も傷だらけの戦後を
次代を担う若者と胸襟を開いて接することのできる日々が愛しくて
一緒に生きて親身になって寄り添っているうちに、
気が付いたら42歳になっていたのでしょう。

きっと父は、医師として、
東京に戻るのがストレスだったのでしょう。
近代医学の病院の配置された真ん中に
臨床医として生きた実績が、都会では必要とされるのかどうか?
慈恵会医科大学時代の友人たちが、江戸川区に開業しており、
父の開業を、精神的にも、多角的にサポートしてくれました。

まして、自営、計算、健康保険制度、ややこしい請求事務。
事務員を雇い、正看護婦さんの婦長さんを迎え、準看さんを十数人雇用し、
家族丸ごと背負ってゆく責任はストレスだったことと思います。
高校に進学してからは、
私も、従業員の一番嫌うことをどんどん手伝うようにしました。
父は、戦前は、かなりの貴公子だったと想像されます。

従事したことのない医術以外の仕事には向かない人であったと思いました。
貧しい人たちから、医療費が滞納されても、催促もしないで
次の治療を引き受けて、ツケはたまる一方でした。
この時代から、日本の医療は世界の医療感覚に比較すると、
医師に依存する兆候が出始めてきていました。

容量の良い医師、銀座で、患者の出せる値段で診療するという
名物の医師が現れたのも、このころでしょうか?

いろいろな話題の名物ドクターが世に現れた時代に
弟は、父を亡くし、国立一本の背水の陣の
医学部受験戦争に挑み、
千葉大から、合格電話を受け取った姉の私が受話器を渡すとき、
彼の手が震えていてのを、思い出します。
父の早逝でにわかに貧困家庭になった我が家でしたが、

母は、ピアノ教室で、数十人のお弟子を抱え、
弟を7年間の医科大学性生活を支え切ったのでした。

晩年、弟が、名物先生の主治医となり、
画像診断を出来たというご縁は
家族の間ではトピックスでした。
思い起こさば、
父はストレスと、
過労と、
戦争の時代を強く生きたと思います。

開業12年で、
深夜手術の後、
うとうととしながら54歳で急逝しました。

もう休めるんですよ!お父さん!

家族は、開業の忙しさで忙殺されていたこともあり
涙が出てくる余裕もなく、
明日のことを考えねばなりませんでした。

外からは、よく見える医師の生涯を内側から見ながら
「風評被害に近い、、、ぼろぼろの酷使からくる尊敬」に
答え続けたのか?
無関係に、激務のリズムを身に着けてしまっていたのか?
医者バカでは済まされない、
子供たちの、グレードを守ろうとした生き残りなのか?
教育に全財産をかけた人生には、
明治生まれの女性でありながら、
経済力で医学生を卒業させた母の存在が大きいと思いました。
阿部首相が女性の活躍をと声を大にしておりますが、
主役になって、支えられ、サポーターによって
世に出てゆく恵まれた女性ばかりがキャリアウーマンとは限りませんよね。
医師になるのも難しいが、医師をするのはもっと難しいと、
岩手医大の先生が、ホームページに書いてあったことが、忘れられません。
母は自分のキャリアを前面に出せないまま、医師を続けるための捨て石となり、
医師を育てる捨て石となったのかもしれません。
子供に生きる。
子供を育てる。
教育こそ世界の中に居場所を作れる大きな力、
語学音楽、芸術、芸事、など
国境のない財産づくりの捨て石になる「愛の権化の母」が
今までの日本を支えてきたような、

父の場合、

30歳で一人前の医師となり、
24年間の濃密な医療人生に終止符を打っています。

私たちは、とかく時間貧乏です
8時から5時の勤めの人は
人生の時間があります。

24時間中睡眠も継ぎはぎの、医療にささげた時間貧乏の家族は
持ち時間を、医療以外の父の時間を代行して、
影の部分を、支えていたと思いました。
戦争で、ボロボロになった当時の従軍の医師達は

早逝を万感の思いで受容して戦い続けたのでした。。

このわずかな父との20年を、希望に変えたいと思うのです。、

民族を超えて、国を超えて、住民に寄与できる音楽も、医学も、
それをサポートできる看護婦さんも、

長生きのできる日本にならねば、、、と。

平和を願う71歳の、今、長寿の手探りをしています。

アフリカの独立などの歴史のプロセスを知るとき、
民族の、諍いを、超えて、
共存共栄する地球規模の協力国家が出来るまでに必要な
最大公約数、最大公倍数になるのは、いったい何なのか?

地球のクラスメートのような
友達国家になれば、愛も芽生えるでしょう。

人間と、動物と、植物と、輪廻転生のように地球の生命に依存して、
恵みを自覚して、地球から「愛」を教えてもらうのには

コンクリートの摩天楼のひしめく
無機質な世界のコンクリートジャングルを、

世界中に作って、地球の呼吸を止めてはいけないと思います。

自然と共存出来る設計を、地球規模で模索して、知恵を出し合い
円卓を囲み、、
孫子子孫への戦争体験を
逆に財産にするといいですね。

22日には、韓国と日本の女性の、
「チマチャゴリ」と「着物」の
美しい姿の切手を買ってきました。

まず、隣の国とは、
仲良く助け合ってゆけるのがうれしいですね。

恩讐の彼方に、地球の未来の光を共に見れるのなら!
「地球丸ごとの平和があるという事に、
アフリカのある国も気が付いたようですね。」

まして日本は、
文化国家の仲間入りを果たしたのですから、
戦争のない世界へのお手本になってほしいと
心から願いながら、
思い出す事を、
パッチワークの記憶でつなげてゆきたいと思っています。


大正から昭和11年までの東京の青春

2015-06-24 02:38:18 | Weblog






女性はまだ日本髪と着物の時代に
私の母は
ヘップバーンのようなショートカット
編上げブーッツ、

大学卒業までは、それでも
袴にブーツ
学校以外では、ワンピースと
まだ、、常識的なおしゃれの写真が微笑ましい。

やがて、ハンチングのテニス姿、
ベビー帽子の水日姿、
ロングドレスの演奏会、、、

きっと、母は 
世に言われている「モダンガール」の一人だったのかもしれない。

17歳で家庭科の先生になったおばあちゃんと
27歳で、3か月もかかって船でアメリカに留学した祖父の
長女として、熊野の奥でうまれながら、
新宮の女学校に進学し、
「佐藤春夫」文士の妹さんと同級になり
佐藤春夫さんの影響を受けて、
自分も文学に進みたいと思ったという。

また、昭和40年前後に
NHKでラジオ番組で、
「街の音で詩のような情景」を放送して、「イタリヤ賞」をとられた
Sさんの母上とも親友だった。

卒業後、母は東京の音楽大学へ
Sさんの母上は画家とパリへ旅立ったという手紙がありました。

彼女の話になると
母の顔は輝きました。

日本にはないような「素敵なハットを、素敵にかぶり、、、
肩にミニマントのような翼のあるコートを着て、、、

ソウソウ、、、こんなスタイルで、、
わら半紙に、彼女の洋服のスタイル画を描きながら
魚目見るような瞳で、少女のように、

理系に行ってしまった私を相手に
語りながら、
いくつになっても、頑固なまでに
母は母の夢を持ちつづけておりました。

そのような母が、
日本の近代化の荒波の中で
ヨーロッパの
イギリス、フランス、ドイツ
そしてロシア

さらにアメリカ、、、

イデオロギーの違う、
他民族の、中国の「眠れる獅子」と言われた時代

アジアの覇者としての役作りの映画のように
に隣国の韓国に
日本の文化人が、派遣された時代でもありました。

韓国との関係も、歴史の物語る激動の時代に差し掛かり

父母は戦乱に巻き込まれ、
従軍で仁川の大学病院に
銃創や爆撃での負傷者の手術回復の為
戦場にきわめて近い医師として
指導、治療、などに赴任した父に同行したのです。

一度は帰国したものの
第二次世界大戦がはじまり
再び、戦場近くの基幹病院の院長として赴任した父に
同行して、海を渡ったのでした。

そして、戦乱の中で、
紀由子、高栄、輝栄、 流産と、4人の子供を失ったのでした。
戦争直前、
最後の韓宇連絡船で、日本に帰るときは
亡き子供たちの、遺骨も持ち帰れなかったそうです。

日本に着くや、
焼夷弾の雨降る爆撃の中を
東京の実家も親類も、
四散して、どこに行ったかもわからず、

夢に出てきた親が。振り向き、ながら、
古座川を、
熊野の奥に向かって、上ることを、
いざなって暮れたそうです。

串本の防空壕の中で、
私を産み、古座に向かったそうです。
産湯も古座川の清流が清めてくれたそうです。

これから、お話しする、あらすじだけを
目次のように記しましたが、

ゆっくりと、戦争の中を
どのように母たちは 生き残ったかを
お話してゆきたいと思います。