聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★神の愛と罪の赦し

2006-11-18 | 「神の愛について」



 いつかどこかで聞いた話ですが、ある男がまだキリストの集会(教会)行き始めて間もない頃のことです。その男は聖書のお話を聞いているうちに次第に自分の罪深さが示されて、小さい頃、何度か万引きをしたことを思い出したのです。過去の罪を悔い改めなければと思い、思いつく限り一軒一軒店に立ち寄り、昔万引きしたことを告白し、代金を払って廻ったそうです。そして最後に警察に立ち寄り、すべてを告白して「私はどうしたら良いのでしょうか」と尋ねたそうです。ところが、お巡りさんは「もう時効となっているから、これからは何か社会の役に立つような生き方をしなさい」と言われたそうです。そして、彼は納得して家に帰りました。

 ところが、なぜか彼の心には平安がありませんでした。どうしてだろうかと考えました。彼は居ても立ってもいられない気持ちを抱えながら、自分の部屋で聖書を読み、神様にお祈りをしました。そして、主イエス様のみもとに歩み寄って赦しを乞いました。すると、主イエス様は不思議な平安で彼を包み、「あなたの罪はすべて赦されました。私があなたの罪を赦すために、十字架で身代わりとなったのだから、私を信じる者はもう罪が赦されているのですよ。」と優しく語りかけてくださったのです。彼はやっと悟りました。一つ一つの罪が問題なのではなく、自分が神様に背を向けて、自分勝手に生き、神様を悲しませて来たことが問題だったのだ。だから、こうして悔い改めてイエス様を信じて神様のもとに立ち返る時に、初めて心の平安と喜びが湧き上って来るのだと分かったのでした。

 多くの人は自分の罪がキリストを十字架に張り付けにしたなどということを全く知らずにいます。十字架上で血を流し、激痛と渇きに苦しんでいるキリストの話を聞いても自分とは全く関係ないものと思っているのです。ある人は薄気味悪いと言い、ある人はあんな死に方だけはしたくないと言います。しかし、キリストを十字架につけたのは、確かに私であり、あなたの罪なのであります。そして、十字架上で鮮血に染まったイエス・キリストを自分の罪のためであったと心から信じて神様のみもとに立ち返るとき、あなたのすべての罪が赦されるのであります。人間は、そのことを経験することなしに、本当の愛も平安も分からないのであります。

 私のブログに似たような話を別な箇所に書いた記憶がありますが、ある小さな女の子が泣きながら帰って来ました。学校でいじめられたのです。「お前の母ちゃんはお化けみたいだ!」と言われて、心がひどく傷つき、悲しくなりました。女の子のお母さんの顔は酷い火傷でただれていたからです。女の子は自分がいじめられるのはお母さんのせいだと思いました。お母さんがお化けみたいな顔をしているから、いけないんだ‥‥。「どうしてそんな顔なの!」と尋ねても、お母さんは決して答えようとはせず、ただ「ごめんね‥‥」と言うだけでした。ところが、ある日再びいじめられて帰って来た女の子は、もう我慢ができずに「どうしてお母さんはお化けみたいな顔なの。どうして他のお母さんたちとは違うの!」と、大声を出して泣き出してしまったのです。すると母親は初めて真実を語り出したのです。

 それは女の子がまだ幼少の頃のことでした。誤ってストーブのやかんをひっくり返してしまったのです。母親はあわてて女の子をかばい、上におおいかぶさりました。熱湯は容赦なく母親の顔にあびせかけられました。その痛みと苦しみ、そして女性として大切な顔が失われていくことは、一言では言えないほどの悲しみであったはずです。しかし、それによって女の子の命は救われたのです。女の子は初めて真実を聞き、体が震えるような衝撃を受けました。そして、涙がぽろぽろと頬を伝って流れ落ちたのです。それから後には、彼女は一切母親の悪口を言いませんでした。友達からからかわれても、もう平気で問題ではありませんでした。母親の火傷の跡に、自分に対する大きな愛を見たからでした。母の愛を知った時、女の子の中に大きな変化が起こり、心の中に平和が生まれたのです。

 「女は弱し、されど母親は強し」ということばがあります。母の愛は、世界を敵にまわしても、わが子のためなら自分のいのちまでも差し出す覚悟があるのです。母親の愛は神の愛に似ていると言えます。私たちは本気で十字架に張り付けになったイエス様のところに飛び込んでいかない限り、神の愛は分かりません。キリストの受けられた傷、十字架で流された血潮の一滴一滴が私に対する愛であったことを知るとき、私たちは初めて自分はイエス様によって救われたのだと知るのです。その瞬間、神の平安は確かにやって来るのです。私たちはキリストを個人的に救い主と信じる時に救われ、生まれ変わるのです。女の子が母親と本当に深い愛の関係を得たように、私たちは神様との愛の交わりが与えられて、神の子どもとして生まれ変わるのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネの手紙4:8)。

                     
●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。 」 (イザヤ書49:15)。 

 この世で最も美しく、崇高であるはずの「母親の愛」も、最近はどうも狂って来ているようです。自分のお腹を痛めて産んだわが子を、愛人との生活に邪魔だからとか、言うことを聞かないからとか、そんな簡単な理由で、虐待して半殺しにして川に捨てたり、食べ物も与えずに放置して死なせたり、昔は考えられないような非常に悲しいニュースが連日のように報じられるような昨今であります。「たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。」との聖句は、そのような愛の冷えた時代が来ることを、神様は2.700年も前に予知していたかのようなみことばにも思われます。母親があなたのことを忘れることがあっても、神はあなたを忘れることはないのです。どうぞ、ご自分の罪をお認めになられて人知をはるかに超えた神の偉大な愛をお知りになって下さい。 
 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

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