聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★重荷となる神と背負う神

2006-08-12 | 「人生の幸せと平安」
       
     
 
 ●「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行 く。・・・・・・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。 」(イザヤ書46:1~7)。
 
 この箇所には、「真の神」と「偶像」との違いがはっきりと書かれています。ベルとかネボというのは、ともにバビロンの偶像であり、これらは征服者の前に伏し屈み、これらの偶像は分捕り品の中に加えられて運び去られるというのです。征服者に負い、運び去られるバビロンの偶像の無価値なことを言っているのであります。これらの偶像は、民の重荷を負ってくれるのではなく、むしろ、民の重荷となってしまうというのです。真の神様は、「負う神。かついでくださる神。」であり、偶像というのは、「負われる神。かつがなければならない神。」であります。日本の多くの偶像の神々は、祭りのときに神輿(みこし)で担がれていますが、これは、何か日本の神々の無力さを象徴しているのです。 

 人間が作った多くの宗教は、人間の重荷を負ってくれるのではなく、逆に人間の重荷となるものが多いのです。多くの日本人は、ある信仰宗教に入ったために、心が安らぐどころか、その反対にそれによって苦しみ、大きな苦しみと負担を抱え込むことになるのです。ここで、「・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」と書かれているように、真の神様は母親の胎内にいるときから、白髪の老人になるまで、背負ってくださる神であるというのです。神は、私たちの人生の全生涯において、ご自身のみ力で責任をもって支えてくださる方なのです。何と偉大な愛に満ちた神ではないでしょうか。

●「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63:9)。

 イスラエルの民は、彼らの不従順のゆえにたびたび神の試みを受け、苦難と試練を通ったのですが、神は彼らと共に苦しみ、イスラエルの民の歴史の中で、ご自身の愛とあわれみを表してくださたのです。「昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」とあります。不従順なご自身の民に対して、神はこのようにわが子を背負い抱く母親のように真実の愛を示してくださいました。人間には、生きている限り必ず、苦しみがあり、悩みがあります。しかし、愛なる真の神は、その苦しむ人間の側に立って、いっしょに苦しんでくださる御方なのです。そして、私たちの生涯の間、私たちを背負ってくださるというのです。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

 ここに、人生の重荷のゆえに苦しみ、疲れ切っている人たちを招いておられる神の御子イエス・キリストのおことばがあります。「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し。」との徳川家康の遺訓がありますが、波乱万丈に満ちた生涯を送った徳川家康の心中が察せられる重みのあることばではないでしょうか。現代の私たちも同じように、人生は苦しみと悩みに満ち、重荷を負いながら、遠い道を歩み続けているのです。孤独で寂しい道であります。そして、その行き着くところは「死」であることを考えると、人は不安と恐れに満たされます。その重荷は益々重く感じられるのではありませんか。しかし、イエス・キリストは、私たちの重荷も私たち自身もいっしょに負ってくださる方なのです。

 私たちの人生において最も大きな重荷は自らの「罪」と「死の不安」であります。しかし、主はこの耐え難い重荷を負って解決してくださる方なのです。神の人類救済の方法はただ一つ、ご自身の御子イエス・キリストの十字架の贖罪のみわざによるものであります。これ以外に救いの道はないと、聖書は明確に語っているのです。キリストは、全人類、すなわち私たち人間一人一人の数え切れないほど多くの罪をご自身が十字架上で身代わりに負って死んでくださったのであります。どうか、信仰によって、真っ赤な血潮に染まったイエス様の十字架を見上げて下さい。イエス様はあなたの身代わりとなられたのであります。これは、神話でもなければ、フィクションでもありません。歴史上の事実なのです。

●「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロ2:22~25)。

●「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53:6)。
 
●「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカの福音書15:4~7)。


 イエス様が語られたこの例え話において、この羊飼いは迷ってしまい、疲れ果てている羊を肩にかついで帰って来たのです。私はこの箇所を読むたびに、この羊飼いの愛と優しさに触れて感動を覚えるのです。この迷い疲れ果て、傷ついた羊の首に縄をつけてグイグイと引っ張ったり、杖で追い立てて来たのではありませんでした。優しく腕(かいな)に抱き、肩に担いで連れ戻したのであります。当時のユダヤの律法学者たちについて、イエス様は「彼らは重い荷をくくって、人の肩に乗せ、自分はそれに指一本触ろうとはしません。」(マタイ23:4)と言われましたが、今日の多くに宗教家は同じように疲れている人たちを勧誘し、彼らにさらに重い荷を背負わせるのです。しかし、イエス・キリストは、そのような人たちとはまったく違う愛に満ちた御方です。どうか、あなたも偶像ではなく、本当の真の神様の愛の中に安らぐ人生に導かれますように切に祈ります。

今、人生の重荷を負って孤独だと感じておられる方、このブログのカテゴリー「人生の試練と逆境」の中の「人生の悲しいとき、辛いとき」の記事(2004年12月3日)中、足跡(あしあと:footprints)という詩がありますから、ココをクリックしてみてください。
 
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