聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人間の厳粛な死について

2007-09-22 | 「人の死とその備え」


●「私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。」(2サムエル14:14)。
 
 このことばは、エルサレム南方にあったテコアの町に住んでいた知恵ある一婦人のことばです。この一節だけを考えてみたいのですが、少しだけその背景の説明が必要かと思います。異母弟を殺したアブシャロム(ダビデ王の息子)は、父ダビデの怒りを恐れてエルサレムに帰らず、三年の間ゲシュルの王の所に身を隠していました。わが子がたといどのような大罪を犯したとしても父のわが子への愛情は簡単に消えるものではありません。しかし、たやすく息子を赦すことの出来ない王ダビデにとって、この三年はまことに長い年月であったであろうとことは推察できます。そのダビデ王の心中を察した部下のヨアブ(ダビデの軍の長)は一計を案じて、一人の知恵のあるテコアの女の協力を得てダビデにアブシャロムを呼び戻す召還の機を提起したのです。

 テコアの女は、ヨアブから指図されるままに、長い間喪に服している女を装い、王のもとに行って、言いました。「実は、この私は、やもめで、私の夫はなくなりました。このはしためには、ふたりの息子がありましたが、ふたりが野原でけんかをして、だれもふたりを仲裁する者がいなかったので、ひとりが相手を打ち殺してしまいました。そのうえ、親族全体がこのはしために詰め寄って、『兄弟を打った者を引き渡せ。あれが殺した兄弟のいのちのために、あれを殺し、この家の世継ぎをも根絶やしにしよう。』と申します。あの人たちは残された私の一つの火種を消して、私の夫の名だけではなく、残りの者までも、この地上に残さないようにするのです。」 と言って不孝なやもめ女を演じました。これは、すべてダビデがわが子アブシャロムを呼び戻すための策であったのです。

 それで、ダビデ王は彼女に同情し、この女のために命令を出すことを約束しました。そして、これは、ダビデの心情に訴えて、追放したわが子アブシャロムを赦し、召還させるためにした演技であったのです。それで、このチャンスを逃さず、その女は王に強く迫って言いました。「このはしために、一言、王さまに申し上げさせてください。あなたはどうして、このような神の民に逆らうようなことを、計られたのですか。王は、先のようなことを語られて、ご自分を罪ある者とされています。王は追放された者を戻しておられません。 私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。‥‥」(2サムエル14:12~14)。冒頭の聖句から、人生の大切ないくつかの真理と、ここに暗示されているキリストの福音について考えてみたいと思います。

【1】人間は必ず死ぬ者である。 
 彼女は「私たちは、必ず死ぬ者です。」と言いました。これは、何と厳粛なことばではないでしょうか。すべての人は、いつか必ず死ななければならない存在です。これには、いかなる差別もありません。老人だけでなく、今若い人もやがていつか死ぬ時が来ます。病気や病弱な人だけでなく、今健康に何の不安もない頑健な体を持った人も、やがては必ず死ぬ時が来ます。貧しい人だけでなく、大金持ちも例外なく死ぬ時が来るのです。また、身分の低い人だけでなく、一国の大統領や宰相も死ななければない時が必ず来るのです。だれでも、病院の医者から「あなたは癌です。」と告知されたら、非常に大きなショックを受けるでしょう。なぜでしょうか。死ぬのが怖いからです。最近は医学が急速に進歩して今は完治する癌も多くありますが、昔は、「癌」は死の宣告を意味しました。
 
 人間が一番忌み嫌う言葉は、「死」ではないでしょうか。死が怖いので、できるだけ死について考えないようにします。私は家のすぐ近くにガレージを借りていますが、左から1番、2番、3番とあって、その次が私の借りているガレージなのですが、4番ではなく、5番なのです。「4」は欠番になっています。日本人は「4」は「死」を連想させるので、忌み嫌います。ホテルも、病院も4号室がないのが一般的ではないかと思います。しかし、人がどんなに「死」について考えないようにしても、人間は動物と違って未来のこと、また死のことを考えざるを得ないのです。どんなに死を避けようとしても、すべての人はこれを避けることはできません。人間は、この世に生を受けて、誕生した瞬間から、一刻一刻と死に向かって歩んでいるのです。ですから、この死の問題の解決なしに人生にどんな意味があるでしょうか。

 どうか、あなたもご自分の問題として真剣にこの「死」の厳粛な事実についてお考え下さい。ニュースで、だれか有名人が若くして亡くなったことが報じられると、人は驚き、悲しむでしょう。でも、「死」を自分の問題として真剣に考えようとする人は稀にしかいません。隣りの家の人が何かの病気や事故で死んでも、「自分だけは死ぬことはない。」と頭の中で考えているのではないでしょうか。街を歩いている人を見ても、電車に乗っている人を見ても、みな、「自分は死とは関係ない。」と思って生きているように見えるのは、私だけでしょうか。人は、出産、入学、進学、就職、結婚、マイホームの建築、老後などのために備えをします。しかし、なぜ、人は、万人に必ず訪れる死のために備えをしようとしないのでしょうか。私にはそれが不思議でなりません。
 
 「もし、世界に核戦争が勃発したらどうしょう‥‥」と、世界の指導者たちはそのような事態を避けるために、懸命に努力をしています。なぜでしょうか。それは、「死」が恐ろしいからです。しかし、冷静になってお考えください。核戦争が起こっても、死者の数は、起こらなかった時よりも多くなるわけではありません。なぜなら、人間の死亡率は100%だからです。核戦争やテロが起こらなくても、人は必ず死ぬ時が来るのです。地球の温暖化は進み、地球環境は益々悪化の一途を辿り、私たちが住みにくい環境になりつつあります。これから、年々、温暖化が進んで行くと、地球の生態系も変わり、また、真夏の猛暑はさらに酷くなり、大型台風その他の甚大な被害を与える災害の増加などを人々は恐れています。それは、なぜでしょうか。明らかなことは、人はみな「死」を恐れているからです。

 では、人はなぜ死ぬようになったのでしょうか。人類は最初から死ぬべき者として創造されたのではありません。唯一の神(創造者)は、最初のアダムを創造されたとき、すべての良い環境が備えられたエデンの園に住まわせました。神である主は、人に命じて仰せられたのです。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:16,17)と。ところが、人間は悪魔の誘惑に陥り、サタンの誘いのままに、妻のエバと共に禁断の木の実を食べ、神の掟を破り、死ぬべき者となってしまいました。それから、人類は今日に至るまで、神に背を向けて自分勝手な罪の道を歩み、死と永遠の滅びへの道をまっしぐらに突き進んでいるのです。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです」(ローマ人への手紙5:12)。

●「罪から来る報酬は死です。‥‥」(ローマ人への手紙6:23)。

●「一生涯死の恐怖につながれて奴隷になっいる‥‥。」(ヘブル人への手紙2:15)。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル人への手紙9:27)。


 ですから、どんなに科学や医学が進歩しても、人間の「死」の問題を解決することは不可能なのです。医学によって、ある病気を一時的に治癒させることができたとしても、それは僅かに延命に役立つかもしれませんが、「死」の問題の解決にはならないのです。科学の力も、権力も、お金の力も、人類の「死」の問題を解決することはできません。人ができるだけ健康に留意し、そのために様々な努力をしたとしても、人は決して「死」から逃れることはできません。私たちが死を避けようとして逃げても、「死」が私たちを追いかけて来るのです。逃げても、逃げても、追いかけて来るのです。太陽が前方にある時、自分の影が後ろにできますが、その影からどんなに逃げようとしても、逃げることは不可能ですね。自分の「死」から逃げることも同じことなのです。

【2】こぼれた水が再び器に戻ることがないように、人は一度死んだら、再び地上に戻ることはない。
 「私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです」。
日本にも、「覆水盆にかえらず。」という古い諺がありますが、太公望の妻は、読書ばかりしている太公望に愛想を尽かして出ていったにも関わらず、彼が斉の宰相になった事を知って復縁を求めました。この時太公望は水を入れたお盆をひっくり返し、「元に戻せたら希望に応じる。」と言ったそうです。この中国の故事から、一度別れた夫婦は元には戻らないということがもともとの意味のようです。ここで、「神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。」というのは、永遠の復活を否定したことばではなく、人間は一度死んだら、もはや地上には戻っては来ないという意味です。天に向かって叫んでも、地に向かって慟哭しても、死んだ人は再び地上に戻ることはないのです。

【3】神は罪によってエデンの園から追放された人類に回復の道を備えられた。
 この知恵のあるテコアの婦人は、「どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。」と、ダビデに訴えたのですが、この要求は受け入れられ、アブシャロムは連れ戻されたのです。それと同じように、神様は、神に敵対して罪を犯し、霊的には死んだ者となり、肉体的にも死ぬべき者となり、死後には「第二の死」という永遠の裁き(火の池)を受けるべき者となってしまった哀れな人類を顧みてくださり、もう一度回復させてくださる救いの道を備えられました。それは、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、罪の全くない聖なる御方を十字架につけて、私たちの罪の身代わりに罰してくださることによって、この御方イエス・キリストを信じる者をみな救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださるという神の約束なのです。

 あなたのために、十字架上で死なれた御方は墓に葬られて三日目によみがえられ、今も生きておられるあなたの救い主です。どうか、神のこの絶大な救いへの愛の招きを断ることなく、御子イエス・キリストを信じて救われてください。主イエス様は、今日もあなたに救いの手を差し伸べておられるいつくしみ深いお方なのです。どうぞ、神の恵みを無になさいませんように、心からお勧めいたします。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 」(ヘブル人への手紙2:14,15)。

●「キリストも一度(人類の)罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち)の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(1ペテロ3:18)。
  
●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)。

 

管理人:「北国のこひつじ」

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