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絵 ゴッホ32歳の傑作「ジャガイモを食べる人々」
本編に登場する若き天才:ミレー ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホは、牧師の子としてオランダで生まれた。母親は水彩画を趣味としていた。
少年時代から気難しく、何かに夢中になると周りのことに気がつかなくなるところがあった。
彼は、一人で昆虫採集に出かけ、捕まえた虫をスケッチするのが好きだった。なぜか鳥の巣を集めるのも趣味だった。
8歳のときには、セメントで本物そっくりの象のミニチュアを製作して、周囲を驚かせている。芸術に興味を持っていたフィンセントは、画商になるのが夢だった。
11歳のときに寄宿学校に入るが、ここでも協調性が無いために、5年間友人ができなかった。
16歳のときに、叔父の世話でグーピル商会に入り、画商の見習いとなる。この時フィンセントは、ミレーなど初期印象派の作品と出会い、大きな影響を受ける。仕事を覚え、ロンドンへ栄転。フィンセントは、20歳のたくましい青年に成長していた。
若き画商フィンセントが絵を見る目は確かだったが、ひとつ問題があった。なんと、自分が気に入らない絵は、客に売ろうとしなかった。店としては、どんな絵でも売れるに越したことはないのだが、フィンセント青年は、画商はただ絵を売るのではなく、客に絵画の善し悪しを教え、良い絵を普及するのが使命だと考えていた。
フィンセントは、当時ロワイというフランス人の家に下宿していた。その家には、ユルシュラという娘がいた。フィンセント青年は彼女に恋をし、帰ってくるといつも傍にいて離れなかった。そして、悩み抜いた末、彼女にプロポーズする。しかし、この恋は実らなかった。ユルシュラには、すでにずっと前から婚約者がいたのだった。
見かねた叔父は、傷心のフィンセントをパリに転勤させる。フィンセントは23歳になっていた。だが、ここでも自分の気に入った絵しか売ろうとしないので、客とのトラブルが絶えず、店長と衝突を繰り返した。
このときフィンセントがひいきしていたのは、ミレーの作品だったという。
ミレーはほとんど独学で絵画を覚え、26歳でサロンに入選した若き天才で、農村を描き続けたことで知られている。フィンセントは、すっかり画商という職業に失望し、下宿に帰っては聖書を読みふける日々が続いた。
その後ロンドンに転勤するが、性格は相変わらずだった。あくる日、またも客とトラブルを起こしたフィンセントはついにクビになり、オランダの実家に返されてしまう。
オランダ・フランス・イギリス・ドイツの4か国語に堪能だったフィンセント青年は、イギリスにあるパブリック・スクールの、フランス語及びドイツ語の教師として採用された。この学校は経営難に陥っていたので、フィンセントに給料は支払われず、食事と部屋だけ与えられるという条件だった。牧師の息子だということが知られると、彼には語学のほかに宗教の時間も任せられた。
ある日、フィンセントは授業中、校長に呼び出された。授業料を収めない父兄が大勢いるので、彼に集金に廻ってほしいというのだった。フィンセントは生徒の家を廻ったが、皆貧しくてゆとりがなく、1ポンドも集めることができなかった。それどころか、自分の旅費を少しも残らず生徒たちの家に配ってしまい、一文無しになって、徹夜で歩いて学校に帰っていった。
怒った校長は、その場でフィンセントをクビにする。彼はその足で歩いてロンドンに向かう。もともと信心深かった彼は、宗教の教師をしていたこともあって、小さな教会の助手となることができた。フィンセントは熱心に布教に取り組むが、宣教師として通用するほどの英語力がなかったこともあって、たちまち疲れ果て、倒れてしまった。こうしてフィンセントは、またオランダの実家に送り返された。
翌年には書店に勤め出すが、牧師になりたいという気持ちはますます強くなっていた。酒も呑まず、肉も食べず、暇があれば聖書ばかり読みふけっていた。あまり熱中して、店の台帳にまで聖書の言葉を書き込み、わずか3カ月で店を追い出された。次に勤めた雑穀商の仕事も続かなかった。
しかし今回の出戻りを、父は喜んだ。フィンセントが自分の跡を継ぎ、牧師になる決意を固めていたからだった。
牧師になるには、聖書を原語で読めなければならない。つまり、まずラテン語・ヘブライ語・ギリシャ語をマスターする必要があった。フィンセントは熱心にこれらの言葉を学んだが、もう24歳になっていただけに、なかなか頭に入らない。その上、数学も学ばなければならない。
フィンセントは、物覚えの悪い自分に罰を与えた。こん棒で自分の体を殴りつけるのだった。そのため全身に血がにじみ、週に3度もシーツを変えるほどだった。
また、フィンセントは、信仰する上でなぜ何千年も前の古い言葉にこだわらなければならないのか、疑問を抱いていた。牧師がそのような言葉で神に祈るのは、信仰の本質には関係なく、聖職者の威厳を保つために過ぎないと思っていた。
実際、宗教にはその本質と関係ない形式の部分があまりにも多い。それが近代における宗教離れの原因の一因であることは否めない。日本の仏教も、いまや法事の時以外はまるで存在感が無いけれども、僧侶が法事に携わるようになったのは、釈迦の時代よりずっと後だった。経典には、法事に僧侶を呼べとも、読経しろとも記されていない。つまり、本来仏教とは関係の無い形式の部分が、今日の仏教のイメージにまでなってしまっている。
神学部に入って牧師の国家試験を受けるのに、7年間の準備が義務付けられていたことも、フィンセントには納得できなかった。順調にいっても、彼が牧師になったときには30歳を過ぎていることになる。
彼の希望は宣教師になることで、牧師の国家資格を取ることではない。そこで、牧師の資格は諦め、ベルギーのブリュッセルで3カ月間の講習を受けて、宣教の資格を得た。
しかし、講習所では赴任先までは面倒を見てくれない。フィンセントは自分でいろいろ調べ、誰も行き手の無いボリナージュという街に向かった。ここは古い炭坑の街で、もう石炭もあまり採集できず、煤害もひどく、人々は貧しさと病にあえいでいた。
彼は見るに見かねて、自分の給料どころか、シャツを破って包帯を作ってまでして、怪我をした人々に与えた。重病の者を下宿に引き取って看病までした。家賃も払えなくなり、物置小屋を借りて土間に藁を敷いて寝た。パンと塩と水しか口に入らなかった。
それでも彼はますます熱心に人々のために尽くし、顔を煤だらけにしながら神の教えを説いた。人々は、自分たちの貧しい生活の中に飛び込んで法を説くフィンセント青年を、イエスの生まれ変わりのように尊敬した。彼もいつしか25歳になっていた。失業を重ね、辛酸を嘗め続けてきた彼も、ようやく天職に巡り会ったかに見えた。
そんなある日、フィンセントはブリュッセルの本部から呼び出しを受けた。足代もないので、彼は歩いていった。そこでは、彼があまりにも汚い、貧しい格好をしているので、宣教師の対面を傷付けていると注意を受けた。もちろん、フィンセントは聞き入れない。ボリナージュで布教するにはどうすべきか、現場にいる彼が一番良く知っている。
フィンセントは、ここの悲惨さを本部に伝えるために、木炭で炭鉱夫のスケッチを描いている。だが彼の情熱は本部には通じず、宣教師を辞めてもらうという通知が彼の元に届いたのだった。
今までの解雇には、それなりに彼自身の落ち度があったかも知れない。しかし今回に限っては、彼のように素晴らしい宣教師を辞めさせる理由はどこにもなかった。もし、このときに彼の上役がもう少し理解のある人物だったなら、フィンセントは宣教師として、貧しいながらも幸せな生涯を送ることができたかも知れない。
惜しまれながらボリナージュを去ったフィンセント青年は、弟のテオドルに勧められて、いよいよ画家になる決心を固める。彼はすでに27歳になっていた。子供のころから絵が好きだったとはいえ、本格的に絵の修業を積んだことはない。1から始めるには、少々遅すぎる年齢だった。この時点で、フィンセントが世界史上に名を残す巨匠となるとは、誰が予想できただろうか?
弟のテオドルは、当時兄より4つ年下の23歳。パリで働く新進気鋭の画商だった。兄の、画家としての才能を始めて見抜いたのもテオなら、兄を経済的にバックアップし続けたのもテオだった。この青年がいなければ、画家ゴッホは有り得なかった。今後、若きゴッホ兄弟は、二人三脚で歩んでいくことになる。
フィンセントは美術学校に通うが、教授の指導を無視し、なんと落第している。その後しばらくは独学でやっていたが、弟テオの紹介で、若き画家ラッパルトのアトリエを借りている。しかしラッパルトに弟子入りしたわけではないから、やはりフィンセントに特定の師匠はいなかったことになる。そのうち生活費も尽きてしまい、翌年オランダの実家に戻った。
フィンセントは、泥だらけになってじゃがいもを掘る農民や、地面に落ちた鳥の巣など、一見すると汚いようなモデルを好んで描いた。そこには、人生の辛酸を嘗め尽くしてきた彼ならではの、誰にも見向きもされないようなものへの暖かい眼差しが込められていた。
彼とは比べものにならないほど教養も、権威もある宣教師たちが、はたして本気で苦しんでいる人々を救おうとしているだろうか? それどころか、彼らは体面を気にするだけだった。フィンセントがどんな思いで人々を救おうとしていたのか、知ろうともしなかった。
彼の心を理解し、受け入れてくれたのは、教養の無い貧しい坑夫たちだけだった。フィンセントは坑夫たちを救おうとしたが、実は彼の方が坑夫たちに生き甲斐を与えられ、救われていた。
教養がなんだというのか? 財産がなんだというのか? 見栄えがなんだというのか? そんなものはこけ脅しに過ぎない。貧しい労働者や女性たちこそ、真に尊敬に値するのだ!
フィンセントの暗中模索の半生は、決して無駄ではなかった。彼はその中で、何が真実で何が虚栄かを鋭く見分ける目を養っていた。それこそ画家にとって、いや人間にとって、最も大切なものなのだから。
「僕は、農民画家のミレーを目標にしている。薄っぺらな御婦人の絵など描く気がしない。百姓の女を描きたい。本当の人間を描きたい。種を蒔く農夫は、正しい人間の道を歩こうとして、その第一歩を踏み出しているのだ。僕はあれが描きたい」
そんなフィンセントの高潔な志も、家族を除いては、なかなか分かってもらえなかった。
そんなある日のこと、年上の従兄弟で、夫を亡くしたばかりのカーチャが、子供を連れて遊びに来た。フィンセントはたちまち彼女に夢中になり、プロポーズする。しかし、彼女にはまだ再婚する気はなかったし、フィンセントのあまりにも激しい性格を嫌っていた。
そうとは知らず、彼はカーチャの家にまで押しかけて面会を求める。断る両親を前に、火のついたロウソクの上に手をかざし、こうしている時間だけでも会わせてくれと懇願する。しかし当の彼女が、フィンセントに2度と会いたくないと思っていることを知らされ、失意のうちに自宅に戻った。さらに牧師の父親に向かって、
「僕にとっての神は、愛です。美術です。教会の神なんて抜け殻です」
そう言い放ち、家出する。
フィンセントは親類の画家モーブの元へ転がり込んだ。しかしモーブから石膏像の写生を勧められた時、彼は激しく拒絶して、石膏像を粉々に砕いてしまう。こうして、モーブの元からも追い出されてしまった。度重なる失恋や失業、家庭不和で精神のバランスを崩していたためか、このころから、彼の激しい行動にいっそう歯止めがかからなくなっていく。
またこの当時、フィンセントはシーンというモデルと同棲するようになった。シーンは彼を愛していたのではなく、生活のために転がり込んだというのが本当。カーチャに嫌われ、父親とも喧嘩別れしたばかりで、彼自身、誰でもいいから慰めを求めていたのかも知れない。
シーンだけでなくその母親や子供も引き取ったので、テオの仕送りしか収入の無い彼の生活はたちまち窮乏し、水を飲んで飢えをしのぐ日々が続いた。その上フィンセント自身、性病を移されて入院する始末。相変わらず、絵は一枚も売れない。
テオはシーンと別れるように説得するが、頑固な兄は耳を貸さない。結局、生活は成り立たず、シーンは去っていった。彼も30歳になっていたが、いまだに自立できないのだった。
母親のとりなしで実家に戻ったフィンセントは、マルゴという彼より4つ年上の女性と親しくなる。今回は両想いで、2人の仲は結婚しようというところまで進展する。
ところがマルゴの家族は、フィンセントは成功の見込みが無いからと、結婚に反対する。絶望したマルゴは、毒を飲んで自殺を図った。幸い一命は取り留めたが、精神に異常をきたし、入院させられてしまった。横槍が入らずにこの結婚が成立していたなら、フィンセントのその後の人生もまた変わっていたかも知れない。運命の女神は、どこまでもフィンセントに残酷な試練を強いた。
傷心のフィンセントは、部屋に閉じこもって一心不乱に筆を振るった。その中で、フィンセント32歳のとき、オランダ時代の最高傑作である『じゃがいもを食べる人々』が完成した。泥臭いが、正直に生きる庶民の姿を描いたこの絵は、フィンセントの絵画哲学の集大成ともいうべき作品だった。それはまた、見栄えはしなくてもあくまでも理想に生きようとする、ビンセント自身の青春を象徴していた。
しかし、親友の画家ラッパルトは、この絵を散々にけなした。フィンセントは何度も手紙を送って自分の絵画哲学を説明するが、華やかな暮らししか知らないラッパルトには理解できなかった。結局、数少ない理解者であるラッパルトとも決別する。その上、父親も心臓麻痺で急死してしまった
翌年、フィンセントはテオを頼ってパリに出る。そこで印象派の作品や、日本から渡ってきた浮世絵に出会い、その鮮やかな色彩に大きな衝撃を受ける。そして、以前からテオに勧められていたように、今までとは打って変わって、明るく鮮やかな色彩を用いるようになった。
この時こそ、兄フィンセントが今まで培ってきた、シンプルなフォルムで描く独特のスタイルと、弟テオのアドバイスによる鮮明な色彩が融合し、フォービズム(野獣派)が確立された瞬間だった。フォービズムは、後に多くの若い画家に絶大な影響を与え、20世紀の絵画に革命を起こすことになる。つくづく、テオの貢献の偉大さを思い知らされる。
しかし、フィンセントの絵が一枚も売れないのは相変わらずだった。テオの勤めている店も、いわゆる巨匠の絵ばかり取り扱って、若い画家の新しいスタイルの絵には見向きもしなかった。そこでフィンセントは、他の若くて売れていない画家たちと共同で展覧会を開いたが、どの絵も売れなかった。
健康状態も最悪だった。慢性的な栄養失調で、歯はすでにボロボロ、持病の梅毒は当時の医学では完治できず、化学療法で症状を抑えていた。彼は実年齢より10歳も老けて見えたという。
このころから、あまりにも疲弊困憊したフィンセントには、精神分裂の症状が見られるようになる。来客があってもすぐ喧嘩してしまい、テオの家には誰も訪ねてこなくなってしまった。その上、アプサントというドラッグに溺れ、兄は毎晩のように夜中まで弟に芸術論を吹っかけてくるのだった。テオの生活は目茶苦茶になってしまった。
テオは妹への手紙の中で、兄の中には2つの人格があるようだと述べている。1人は、善良で受けた恩を忘れない立派な兄だが、もう1人は頑固で我がままな兄で、この2人が代わる代わる表れるのだという。それでもテオは、兄が認められるまで援助を続ける決意を変えなかった。
フィンセント自身、弟の暮らしを乱していることを気に病んでいた。しかし、自分を抑えることもできなかった。都会の暮らしにも疲れていた。そこで、友人ロートレックの勧めもあって、プロヴァンスのアルルへ移り住んだ。彼も35歳になっていた。
ゴッホは、強烈な陽射しに照らされたアルルを一目で気に入った。ここに滞在した15カ月の間に、200点もの作品を描き上げている。夜明け前に出かけて、午前中に仕上げてしまうこともあった。この時期にゴッホの代表作『はね橋』『ひまわり』『果樹園』『ムスメ』などの大作が次々と描かれた。
フィンセントは、アルルでの自分のスタイルのベースは日本の浮世絵にあると、テオへの手紙の中で語っている。決して妥協を許さないゴッホに誉められたことは、浮世絵を生み育てた日本人にとって、大変な名誉であろう。
彼は決して帽子をかぶらなかったので、彼の脳天はたちまちのうちに紫外線にやられ、禿げ上がってしまった。いつしか近所の人々は、一心不乱に絵ばかり描いている彼を「赤毛の馬鹿」と呼ぶようになった。
しかしルーラン一家だけは、オランダ人の奇妙な画家を家族のように親身に世話してくれた。ルーラン一家を描いた絵が、何枚も残されている。ゴッホの生涯でも、数少ない幸福な時期だった。それが傑作を生むエネルギーになっていたことは否めない。
しばらくすると、友人のゴーギャンもアルルにやってきて、ゴッホと共に暮らすことになる。しかし、普段は善良な彼が、突然わがままで乱暴な性格に豹変することに、ゴーギャンはすっかり戸惑ってしまう。
ゴッホ自身、自分の異常には気が付いていた。あるとき、ゴーギャンはゴッホがひまわりを描いている肖像を描いた。それを見たゴッホは
「これは、おかしいときの僕だ」
と語ったという。
また、2人で酒を呑んでいたとき、ゴッホは突然グラスをゴーギャンに投げつけた。ゴーギャンはゴッホを無理矢理寝かしつけた。あくる朝ゴッホは心配そうに
「昨夜、僕は君に何か悪いことをしなかったかい」
と訪ねたという。少しでも気に入らないことがあると、衝動的に相手に危害を加えようとするらしい。そしてゴッホ自身、そんな自分を止めることができなくなっていた。
ある日、ゴッホは剃刀でゴーギャンに襲いかかろうとした。ゴーギャンがきっと睨むと、ゴッホはうなだれて引き返した。そして自分の耳を切り落とし、友人のガビーの家に形見だといってそれを持っていき、家に帰って寝てしまった。
気が付いたとき、ゴッホは病院のベッドの上にいた。ゴーギャンはすでにパリに帰っていた。ゴッホはこの時に始めて、自分の異常がてんかんの発作だったことを知る。しばらくすると発作も治まり、退院を許されたが、住民は彼の退院に反対し、またもや病院に戻された。
翌年、ゴッホはアルルを離れてサンレミの精神病院に転院する。外出は止められていたが、広い庭があったので、どうにか絵を描くことはできた。『糸杉』『麦を刈る人』『教会』『星月夜』などはこの時期の作品。
彼は、ここで自分と同じてんかん患者の発作を目の当りにして、テオへの手紙に
「病気が憎い。2度と発作は起こしたくない」
と書いている。しかし、彼はその後も3カ月ごとに発作に襲われた。
彼は、環境が変われば症状も改善するかも知れないからと、病院を出て、絵にも理解のある医師ガッシェを頼る。だが、発作はひどくなる一方だった。ガッシェをピストルで撃とうとしたこともあった。
ゴッホはもう、どうしたらいいのか分からなくなっていた。このままでは、ガッシェを殺してしまうかも知れない。しかも、自分自身ではそれを止められないのだから。ゴッホの絵も、テオに送る手紙も、再び暗いものになっていった。
そしてある日、ゴッホはピストルで自分の胸を撃ち抜き、自殺を計った。その直前に
「それはできない、駄目だ」
とつぶやいていたのを、通りがかりの村人が耳にしている。
真相は不明だが、おそらく、この時彼は、再びガッシェを殺したいという衝動に襲われていたのではないだろうか。そして、それを止めるために、善良なほうの彼が引き金を引いたのではないだろうか?
弾丸は心臓をそれた。まもなく、寝台に倒れ込んでいるところを発見され、医師の手当を受けた。駆けつけたテオに、兄は
「僕は、みんなの幸せを願って、こうしたのだよ」
と語った。不思議にも少しも苦しむ様子を見せず、うまそうに煙草をふかしていたという。
ゴッホは、もう生きることに疲れ果てていた。やがて、だんだん意識が遠くなり
「もう死にたい」
そう言い残して間も無く、この世を去ったのだった。享年37歳。わずか10年間の画家生活の間に、800点の油絵とほぼ同数のデッサンを残した(破棄された作品も多い)ゴッホだったが、生前に売れたのは、『赤いぶどう畑』たった1枚だけだった。
ゴッホの生い立ちを追っていく時、彼が牧師の息子として生まれ、厳格なプロテスタントとして育てられたことは、生涯を左右する重大なポイントになるだろう。
もちろん生来の資質もあるだろうが、彼はあまりにも愚直に理想を追求したために、怒りや憎しみといった人間のネガティブな面を、意志の力で抑え込み過ぎた。そのために、行き場を失った彼のネガティブな感情が、発作という形で彼の人格を乗っ取ろうとした。それを止めるには、もはや命を絶つしかないところまで、状況は悪化していた。
また、クリスチャンには罪の告白を救済の条件とする傾向があるが、これは場合によっては、失敗記憶を繰り返し想起し、かえって失敗癖を強化してしまう恐れがある。深刻な欠点ほど、反省だけでは改善できない。より深い意識からの変革が必要なのだ。意志の力だけで変えようとすれば、必ず潜在意識からの反動を招く。人間の意識は、潜在意識の前には無力である。ゴッホ自身、麻薬や買春を止められなかった。
では、どうすれば潜在意識をコントロールできるのか? 今日の心理学では、言葉の力を利用することが有効だと考えられている。聖書の冒頭に
「初めに言葉ありき」
とあるように、言葉には潜在意識をコントロールする力がある。催眠術師は、言葉の力だけで他人の潜在意識を操れる。自らに言葉で繰り返し暗示をかける。これは、ナポレオン・ヒルの成功哲学やマーフィーの法則などでも必ず触れられるポイントだ。
この点、芸術家は言葉を用いず、潜在意識のイメージを直接表現する癖がついているから、一般の人より潜在意識の暴走に呑み込まれるリスクが高い。ゴッホは野獣的な絵を描き続けたために、自らがその野性の犠牲となってしまったのだろうか?
だがもちろん、芸術がただ有害であるはずがない。芸術は極端に陥らない限り、潜在意識の秘められたエネルギーを引き出し、人生をより価値的にしてくれる。ゴッホは自らの人生を犠牲にしながらも、現代人が忘れてしまった原始の野性を喚起し続けた。
フィンセントの亡骸は、共同墓地に葬られた。テオは、あまりの悲しみに、葬儀が終わると倒れてしまった。その後精神を病み、兄の死からわずか半年後、テオもまたこの世を去る。33歳の若さだった。
しかし、絵画に命を懸けた、2人の若き兄弟の情熱は、滅びることなく次の世代に受け継がれていた。ゴッホ兄弟の死から10年後。パリの美術館で、ゴッホの迫力に圧倒され、釘付けになっている1人の青年の姿があった。彼こそは、20世紀の絵画に革命を起こすことになるパブロ・ピカソその人だった。
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本編に登場する若き天才:ミレー ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホは、牧師の子としてオランダで生まれた。母親は水彩画を趣味としていた。
少年時代から気難しく、何かに夢中になると周りのことに気がつかなくなるところがあった。
彼は、一人で昆虫採集に出かけ、捕まえた虫をスケッチするのが好きだった。なぜか鳥の巣を集めるのも趣味だった。
8歳のときには、セメントで本物そっくりの象のミニチュアを製作して、周囲を驚かせている。芸術に興味を持っていたフィンセントは、画商になるのが夢だった。
11歳のときに寄宿学校に入るが、ここでも協調性が無いために、5年間友人ができなかった。
16歳のときに、叔父の世話でグーピル商会に入り、画商の見習いとなる。この時フィンセントは、ミレーなど初期印象派の作品と出会い、大きな影響を受ける。仕事を覚え、ロンドンへ栄転。フィンセントは、20歳のたくましい青年に成長していた。
若き画商フィンセントが絵を見る目は確かだったが、ひとつ問題があった。なんと、自分が気に入らない絵は、客に売ろうとしなかった。店としては、どんな絵でも売れるに越したことはないのだが、フィンセント青年は、画商はただ絵を売るのではなく、客に絵画の善し悪しを教え、良い絵を普及するのが使命だと考えていた。
フィンセントは、当時ロワイというフランス人の家に下宿していた。その家には、ユルシュラという娘がいた。フィンセント青年は彼女に恋をし、帰ってくるといつも傍にいて離れなかった。そして、悩み抜いた末、彼女にプロポーズする。しかし、この恋は実らなかった。ユルシュラには、すでにずっと前から婚約者がいたのだった。
見かねた叔父は、傷心のフィンセントをパリに転勤させる。フィンセントは23歳になっていた。だが、ここでも自分の気に入った絵しか売ろうとしないので、客とのトラブルが絶えず、店長と衝突を繰り返した。
このときフィンセントがひいきしていたのは、ミレーの作品だったという。
ミレーはほとんど独学で絵画を覚え、26歳でサロンに入選した若き天才で、農村を描き続けたことで知られている。フィンセントは、すっかり画商という職業に失望し、下宿に帰っては聖書を読みふける日々が続いた。
その後ロンドンに転勤するが、性格は相変わらずだった。あくる日、またも客とトラブルを起こしたフィンセントはついにクビになり、オランダの実家に返されてしまう。
オランダ・フランス・イギリス・ドイツの4か国語に堪能だったフィンセント青年は、イギリスにあるパブリック・スクールの、フランス語及びドイツ語の教師として採用された。この学校は経営難に陥っていたので、フィンセントに給料は支払われず、食事と部屋だけ与えられるという条件だった。牧師の息子だということが知られると、彼には語学のほかに宗教の時間も任せられた。
ある日、フィンセントは授業中、校長に呼び出された。授業料を収めない父兄が大勢いるので、彼に集金に廻ってほしいというのだった。フィンセントは生徒の家を廻ったが、皆貧しくてゆとりがなく、1ポンドも集めることができなかった。それどころか、自分の旅費を少しも残らず生徒たちの家に配ってしまい、一文無しになって、徹夜で歩いて学校に帰っていった。
怒った校長は、その場でフィンセントをクビにする。彼はその足で歩いてロンドンに向かう。もともと信心深かった彼は、宗教の教師をしていたこともあって、小さな教会の助手となることができた。フィンセントは熱心に布教に取り組むが、宣教師として通用するほどの英語力がなかったこともあって、たちまち疲れ果て、倒れてしまった。こうしてフィンセントは、またオランダの実家に送り返された。
翌年には書店に勤め出すが、牧師になりたいという気持ちはますます強くなっていた。酒も呑まず、肉も食べず、暇があれば聖書ばかり読みふけっていた。あまり熱中して、店の台帳にまで聖書の言葉を書き込み、わずか3カ月で店を追い出された。次に勤めた雑穀商の仕事も続かなかった。
しかし今回の出戻りを、父は喜んだ。フィンセントが自分の跡を継ぎ、牧師になる決意を固めていたからだった。
牧師になるには、聖書を原語で読めなければならない。つまり、まずラテン語・ヘブライ語・ギリシャ語をマスターする必要があった。フィンセントは熱心にこれらの言葉を学んだが、もう24歳になっていただけに、なかなか頭に入らない。その上、数学も学ばなければならない。
フィンセントは、物覚えの悪い自分に罰を与えた。こん棒で自分の体を殴りつけるのだった。そのため全身に血がにじみ、週に3度もシーツを変えるほどだった。
また、フィンセントは、信仰する上でなぜ何千年も前の古い言葉にこだわらなければならないのか、疑問を抱いていた。牧師がそのような言葉で神に祈るのは、信仰の本質には関係なく、聖職者の威厳を保つために過ぎないと思っていた。
実際、宗教にはその本質と関係ない形式の部分があまりにも多い。それが近代における宗教離れの原因の一因であることは否めない。日本の仏教も、いまや法事の時以外はまるで存在感が無いけれども、僧侶が法事に携わるようになったのは、釈迦の時代よりずっと後だった。経典には、法事に僧侶を呼べとも、読経しろとも記されていない。つまり、本来仏教とは関係の無い形式の部分が、今日の仏教のイメージにまでなってしまっている。
神学部に入って牧師の国家試験を受けるのに、7年間の準備が義務付けられていたことも、フィンセントには納得できなかった。順調にいっても、彼が牧師になったときには30歳を過ぎていることになる。
彼の希望は宣教師になることで、牧師の国家資格を取ることではない。そこで、牧師の資格は諦め、ベルギーのブリュッセルで3カ月間の講習を受けて、宣教の資格を得た。
しかし、講習所では赴任先までは面倒を見てくれない。フィンセントは自分でいろいろ調べ、誰も行き手の無いボリナージュという街に向かった。ここは古い炭坑の街で、もう石炭もあまり採集できず、煤害もひどく、人々は貧しさと病にあえいでいた。
彼は見るに見かねて、自分の給料どころか、シャツを破って包帯を作ってまでして、怪我をした人々に与えた。重病の者を下宿に引き取って看病までした。家賃も払えなくなり、物置小屋を借りて土間に藁を敷いて寝た。パンと塩と水しか口に入らなかった。
それでも彼はますます熱心に人々のために尽くし、顔を煤だらけにしながら神の教えを説いた。人々は、自分たちの貧しい生活の中に飛び込んで法を説くフィンセント青年を、イエスの生まれ変わりのように尊敬した。彼もいつしか25歳になっていた。失業を重ね、辛酸を嘗め続けてきた彼も、ようやく天職に巡り会ったかに見えた。
そんなある日、フィンセントはブリュッセルの本部から呼び出しを受けた。足代もないので、彼は歩いていった。そこでは、彼があまりにも汚い、貧しい格好をしているので、宣教師の対面を傷付けていると注意を受けた。もちろん、フィンセントは聞き入れない。ボリナージュで布教するにはどうすべきか、現場にいる彼が一番良く知っている。
フィンセントは、ここの悲惨さを本部に伝えるために、木炭で炭鉱夫のスケッチを描いている。だが彼の情熱は本部には通じず、宣教師を辞めてもらうという通知が彼の元に届いたのだった。
今までの解雇には、それなりに彼自身の落ち度があったかも知れない。しかし今回に限っては、彼のように素晴らしい宣教師を辞めさせる理由はどこにもなかった。もし、このときに彼の上役がもう少し理解のある人物だったなら、フィンセントは宣教師として、貧しいながらも幸せな生涯を送ることができたかも知れない。
惜しまれながらボリナージュを去ったフィンセント青年は、弟のテオドルに勧められて、いよいよ画家になる決心を固める。彼はすでに27歳になっていた。子供のころから絵が好きだったとはいえ、本格的に絵の修業を積んだことはない。1から始めるには、少々遅すぎる年齢だった。この時点で、フィンセントが世界史上に名を残す巨匠となるとは、誰が予想できただろうか?
弟のテオドルは、当時兄より4つ年下の23歳。パリで働く新進気鋭の画商だった。兄の、画家としての才能を始めて見抜いたのもテオなら、兄を経済的にバックアップし続けたのもテオだった。この青年がいなければ、画家ゴッホは有り得なかった。今後、若きゴッホ兄弟は、二人三脚で歩んでいくことになる。
フィンセントは美術学校に通うが、教授の指導を無視し、なんと落第している。その後しばらくは独学でやっていたが、弟テオの紹介で、若き画家ラッパルトのアトリエを借りている。しかしラッパルトに弟子入りしたわけではないから、やはりフィンセントに特定の師匠はいなかったことになる。そのうち生活費も尽きてしまい、翌年オランダの実家に戻った。
フィンセントは、泥だらけになってじゃがいもを掘る農民や、地面に落ちた鳥の巣など、一見すると汚いようなモデルを好んで描いた。そこには、人生の辛酸を嘗め尽くしてきた彼ならではの、誰にも見向きもされないようなものへの暖かい眼差しが込められていた。
彼とは比べものにならないほど教養も、権威もある宣教師たちが、はたして本気で苦しんでいる人々を救おうとしているだろうか? それどころか、彼らは体面を気にするだけだった。フィンセントがどんな思いで人々を救おうとしていたのか、知ろうともしなかった。
彼の心を理解し、受け入れてくれたのは、教養の無い貧しい坑夫たちだけだった。フィンセントは坑夫たちを救おうとしたが、実は彼の方が坑夫たちに生き甲斐を与えられ、救われていた。
教養がなんだというのか? 財産がなんだというのか? 見栄えがなんだというのか? そんなものはこけ脅しに過ぎない。貧しい労働者や女性たちこそ、真に尊敬に値するのだ!
フィンセントの暗中模索の半生は、決して無駄ではなかった。彼はその中で、何が真実で何が虚栄かを鋭く見分ける目を養っていた。それこそ画家にとって、いや人間にとって、最も大切なものなのだから。
「僕は、農民画家のミレーを目標にしている。薄っぺらな御婦人の絵など描く気がしない。百姓の女を描きたい。本当の人間を描きたい。種を蒔く農夫は、正しい人間の道を歩こうとして、その第一歩を踏み出しているのだ。僕はあれが描きたい」
そんなフィンセントの高潔な志も、家族を除いては、なかなか分かってもらえなかった。
そんなある日のこと、年上の従兄弟で、夫を亡くしたばかりのカーチャが、子供を連れて遊びに来た。フィンセントはたちまち彼女に夢中になり、プロポーズする。しかし、彼女にはまだ再婚する気はなかったし、フィンセントのあまりにも激しい性格を嫌っていた。
そうとは知らず、彼はカーチャの家にまで押しかけて面会を求める。断る両親を前に、火のついたロウソクの上に手をかざし、こうしている時間だけでも会わせてくれと懇願する。しかし当の彼女が、フィンセントに2度と会いたくないと思っていることを知らされ、失意のうちに自宅に戻った。さらに牧師の父親に向かって、
「僕にとっての神は、愛です。美術です。教会の神なんて抜け殻です」
そう言い放ち、家出する。
フィンセントは親類の画家モーブの元へ転がり込んだ。しかしモーブから石膏像の写生を勧められた時、彼は激しく拒絶して、石膏像を粉々に砕いてしまう。こうして、モーブの元からも追い出されてしまった。度重なる失恋や失業、家庭不和で精神のバランスを崩していたためか、このころから、彼の激しい行動にいっそう歯止めがかからなくなっていく。
またこの当時、フィンセントはシーンというモデルと同棲するようになった。シーンは彼を愛していたのではなく、生活のために転がり込んだというのが本当。カーチャに嫌われ、父親とも喧嘩別れしたばかりで、彼自身、誰でもいいから慰めを求めていたのかも知れない。
シーンだけでなくその母親や子供も引き取ったので、テオの仕送りしか収入の無い彼の生活はたちまち窮乏し、水を飲んで飢えをしのぐ日々が続いた。その上フィンセント自身、性病を移されて入院する始末。相変わらず、絵は一枚も売れない。
テオはシーンと別れるように説得するが、頑固な兄は耳を貸さない。結局、生活は成り立たず、シーンは去っていった。彼も30歳になっていたが、いまだに自立できないのだった。
母親のとりなしで実家に戻ったフィンセントは、マルゴという彼より4つ年上の女性と親しくなる。今回は両想いで、2人の仲は結婚しようというところまで進展する。
ところがマルゴの家族は、フィンセントは成功の見込みが無いからと、結婚に反対する。絶望したマルゴは、毒を飲んで自殺を図った。幸い一命は取り留めたが、精神に異常をきたし、入院させられてしまった。横槍が入らずにこの結婚が成立していたなら、フィンセントのその後の人生もまた変わっていたかも知れない。運命の女神は、どこまでもフィンセントに残酷な試練を強いた。
傷心のフィンセントは、部屋に閉じこもって一心不乱に筆を振るった。その中で、フィンセント32歳のとき、オランダ時代の最高傑作である『じゃがいもを食べる人々』が完成した。泥臭いが、正直に生きる庶民の姿を描いたこの絵は、フィンセントの絵画哲学の集大成ともいうべき作品だった。それはまた、見栄えはしなくてもあくまでも理想に生きようとする、ビンセント自身の青春を象徴していた。
しかし、親友の画家ラッパルトは、この絵を散々にけなした。フィンセントは何度も手紙を送って自分の絵画哲学を説明するが、華やかな暮らししか知らないラッパルトには理解できなかった。結局、数少ない理解者であるラッパルトとも決別する。その上、父親も心臓麻痺で急死してしまった
翌年、フィンセントはテオを頼ってパリに出る。そこで印象派の作品や、日本から渡ってきた浮世絵に出会い、その鮮やかな色彩に大きな衝撃を受ける。そして、以前からテオに勧められていたように、今までとは打って変わって、明るく鮮やかな色彩を用いるようになった。
この時こそ、兄フィンセントが今まで培ってきた、シンプルなフォルムで描く独特のスタイルと、弟テオのアドバイスによる鮮明な色彩が融合し、フォービズム(野獣派)が確立された瞬間だった。フォービズムは、後に多くの若い画家に絶大な影響を与え、20世紀の絵画に革命を起こすことになる。つくづく、テオの貢献の偉大さを思い知らされる。
しかし、フィンセントの絵が一枚も売れないのは相変わらずだった。テオの勤めている店も、いわゆる巨匠の絵ばかり取り扱って、若い画家の新しいスタイルの絵には見向きもしなかった。そこでフィンセントは、他の若くて売れていない画家たちと共同で展覧会を開いたが、どの絵も売れなかった。
健康状態も最悪だった。慢性的な栄養失調で、歯はすでにボロボロ、持病の梅毒は当時の医学では完治できず、化学療法で症状を抑えていた。彼は実年齢より10歳も老けて見えたという。
このころから、あまりにも疲弊困憊したフィンセントには、精神分裂の症状が見られるようになる。来客があってもすぐ喧嘩してしまい、テオの家には誰も訪ねてこなくなってしまった。その上、アプサントというドラッグに溺れ、兄は毎晩のように夜中まで弟に芸術論を吹っかけてくるのだった。テオの生活は目茶苦茶になってしまった。
テオは妹への手紙の中で、兄の中には2つの人格があるようだと述べている。1人は、善良で受けた恩を忘れない立派な兄だが、もう1人は頑固で我がままな兄で、この2人が代わる代わる表れるのだという。それでもテオは、兄が認められるまで援助を続ける決意を変えなかった。
フィンセント自身、弟の暮らしを乱していることを気に病んでいた。しかし、自分を抑えることもできなかった。都会の暮らしにも疲れていた。そこで、友人ロートレックの勧めもあって、プロヴァンスのアルルへ移り住んだ。彼も35歳になっていた。
ゴッホは、強烈な陽射しに照らされたアルルを一目で気に入った。ここに滞在した15カ月の間に、200点もの作品を描き上げている。夜明け前に出かけて、午前中に仕上げてしまうこともあった。この時期にゴッホの代表作『はね橋』『ひまわり』『果樹園』『ムスメ』などの大作が次々と描かれた。
フィンセントは、アルルでの自分のスタイルのベースは日本の浮世絵にあると、テオへの手紙の中で語っている。決して妥協を許さないゴッホに誉められたことは、浮世絵を生み育てた日本人にとって、大変な名誉であろう。
彼は決して帽子をかぶらなかったので、彼の脳天はたちまちのうちに紫外線にやられ、禿げ上がってしまった。いつしか近所の人々は、一心不乱に絵ばかり描いている彼を「赤毛の馬鹿」と呼ぶようになった。
しかしルーラン一家だけは、オランダ人の奇妙な画家を家族のように親身に世話してくれた。ルーラン一家を描いた絵が、何枚も残されている。ゴッホの生涯でも、数少ない幸福な時期だった。それが傑作を生むエネルギーになっていたことは否めない。
しばらくすると、友人のゴーギャンもアルルにやってきて、ゴッホと共に暮らすことになる。しかし、普段は善良な彼が、突然わがままで乱暴な性格に豹変することに、ゴーギャンはすっかり戸惑ってしまう。
ゴッホ自身、自分の異常には気が付いていた。あるとき、ゴーギャンはゴッホがひまわりを描いている肖像を描いた。それを見たゴッホは
「これは、おかしいときの僕だ」
と語ったという。
また、2人で酒を呑んでいたとき、ゴッホは突然グラスをゴーギャンに投げつけた。ゴーギャンはゴッホを無理矢理寝かしつけた。あくる朝ゴッホは心配そうに
「昨夜、僕は君に何か悪いことをしなかったかい」
と訪ねたという。少しでも気に入らないことがあると、衝動的に相手に危害を加えようとするらしい。そしてゴッホ自身、そんな自分を止めることができなくなっていた。
ある日、ゴッホは剃刀でゴーギャンに襲いかかろうとした。ゴーギャンがきっと睨むと、ゴッホはうなだれて引き返した。そして自分の耳を切り落とし、友人のガビーの家に形見だといってそれを持っていき、家に帰って寝てしまった。
気が付いたとき、ゴッホは病院のベッドの上にいた。ゴーギャンはすでにパリに帰っていた。ゴッホはこの時に始めて、自分の異常がてんかんの発作だったことを知る。しばらくすると発作も治まり、退院を許されたが、住民は彼の退院に反対し、またもや病院に戻された。
翌年、ゴッホはアルルを離れてサンレミの精神病院に転院する。外出は止められていたが、広い庭があったので、どうにか絵を描くことはできた。『糸杉』『麦を刈る人』『教会』『星月夜』などはこの時期の作品。
彼は、ここで自分と同じてんかん患者の発作を目の当りにして、テオへの手紙に
「病気が憎い。2度と発作は起こしたくない」
と書いている。しかし、彼はその後も3カ月ごとに発作に襲われた。
彼は、環境が変われば症状も改善するかも知れないからと、病院を出て、絵にも理解のある医師ガッシェを頼る。だが、発作はひどくなる一方だった。ガッシェをピストルで撃とうとしたこともあった。
ゴッホはもう、どうしたらいいのか分からなくなっていた。このままでは、ガッシェを殺してしまうかも知れない。しかも、自分自身ではそれを止められないのだから。ゴッホの絵も、テオに送る手紙も、再び暗いものになっていった。
そしてある日、ゴッホはピストルで自分の胸を撃ち抜き、自殺を計った。その直前に
「それはできない、駄目だ」
とつぶやいていたのを、通りがかりの村人が耳にしている。
真相は不明だが、おそらく、この時彼は、再びガッシェを殺したいという衝動に襲われていたのではないだろうか。そして、それを止めるために、善良なほうの彼が引き金を引いたのではないだろうか?
弾丸は心臓をそれた。まもなく、寝台に倒れ込んでいるところを発見され、医師の手当を受けた。駆けつけたテオに、兄は
「僕は、みんなの幸せを願って、こうしたのだよ」
と語った。不思議にも少しも苦しむ様子を見せず、うまそうに煙草をふかしていたという。
ゴッホは、もう生きることに疲れ果てていた。やがて、だんだん意識が遠くなり
「もう死にたい」
そう言い残して間も無く、この世を去ったのだった。享年37歳。わずか10年間の画家生活の間に、800点の油絵とほぼ同数のデッサンを残した(破棄された作品も多い)ゴッホだったが、生前に売れたのは、『赤いぶどう畑』たった1枚だけだった。
ゴッホの生い立ちを追っていく時、彼が牧師の息子として生まれ、厳格なプロテスタントとして育てられたことは、生涯を左右する重大なポイントになるだろう。
もちろん生来の資質もあるだろうが、彼はあまりにも愚直に理想を追求したために、怒りや憎しみといった人間のネガティブな面を、意志の力で抑え込み過ぎた。そのために、行き場を失った彼のネガティブな感情が、発作という形で彼の人格を乗っ取ろうとした。それを止めるには、もはや命を絶つしかないところまで、状況は悪化していた。
また、クリスチャンには罪の告白を救済の条件とする傾向があるが、これは場合によっては、失敗記憶を繰り返し想起し、かえって失敗癖を強化してしまう恐れがある。深刻な欠点ほど、反省だけでは改善できない。より深い意識からの変革が必要なのだ。意志の力だけで変えようとすれば、必ず潜在意識からの反動を招く。人間の意識は、潜在意識の前には無力である。ゴッホ自身、麻薬や買春を止められなかった。
では、どうすれば潜在意識をコントロールできるのか? 今日の心理学では、言葉の力を利用することが有効だと考えられている。聖書の冒頭に
「初めに言葉ありき」
とあるように、言葉には潜在意識をコントロールする力がある。催眠術師は、言葉の力だけで他人の潜在意識を操れる。自らに言葉で繰り返し暗示をかける。これは、ナポレオン・ヒルの成功哲学やマーフィーの法則などでも必ず触れられるポイントだ。
この点、芸術家は言葉を用いず、潜在意識のイメージを直接表現する癖がついているから、一般の人より潜在意識の暴走に呑み込まれるリスクが高い。ゴッホは野獣的な絵を描き続けたために、自らがその野性の犠牲となってしまったのだろうか?
だがもちろん、芸術がただ有害であるはずがない。芸術は極端に陥らない限り、潜在意識の秘められたエネルギーを引き出し、人生をより価値的にしてくれる。ゴッホは自らの人生を犠牲にしながらも、現代人が忘れてしまった原始の野性を喚起し続けた。
フィンセントの亡骸は、共同墓地に葬られた。テオは、あまりの悲しみに、葬儀が終わると倒れてしまった。その後精神を病み、兄の死からわずか半年後、テオもまたこの世を去る。33歳の若さだった。
しかし、絵画に命を懸けた、2人の若き兄弟の情熱は、滅びることなく次の世代に受け継がれていた。ゴッホ兄弟の死から10年後。パリの美術館で、ゴッホの迫力に圧倒され、釘付けになっている1人の青年の姿があった。彼こそは、20世紀の絵画に革命を起こすことになるパブロ・ピカソその人だった。
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ご迷惑でしたらお赦しください。
自分が日頃から考えていることですが
人は一体、何のために生きているのでしょうか?
人はどこから来て
何のために生きて
どこへ向かっているのでしょうか。
神の存在、愛とは何か、生きる意味は何か、死とは何かな
どの問題などについて、ブログで分かりやすく聖書から福音
を書き綴っています。ひまなときにご訪問下さい。
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/
(聖書のことば)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところ
に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11:28)。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛
している。」(イザヤ書43:4)。
★私のブログから----------。
「生きる目的は一体何か」
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/m/200705
「人生の目的と意味は何か」
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