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大人に負けるな!

弱者のままで、世界を変えることはできない

教育基本法 全文

2005-06-18 21:59:28 | 官主主義狂育を斬る
 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。



(教育の目的)第1条

 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


(教育の方針)第2条 

教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。


(教育の機会均等)第3条

 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって就学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。


(義務教育)第4条 

 国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。

2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。


(男女共学)第5条

 男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。


(学校教育)第6条 

 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。

2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。


(社会教育)第7条

 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。

2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。


(政治教育)第8条

 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。

2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。


(宗教教育)第9条

 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。

2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。


(教育行政)第10条

 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。

2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。


(補則)第11条

 この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない。



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「学校解放」こそ、唯一の解決策

2005-04-21 12:46:59 | 官主主義狂育を斬る
 文部省は96年より、教員の民間企業研修制度を導入しました。学校の中と民間企業のあまりの違いに、カルチャーショックを受ける教員がほとんどだといいます。

 無理もありません。僕の兄も教員なのでよく分かりますが、教員になるタイプはたいてい真面目な優等生で、アルバイトも家庭教師や塾の講師などの学校関係。学校から一度も離れることなく、学校に帰っていくわけですから、一般の人と比べると、かなり狭い世界しか知らないわけです。

 それがただちに悪いのではありませんが、身近な大人がそういうタイプ「だけ」というのは、教育環境として不十分ではないでしょうか。児童生徒のほとんどは、やがて学校から離れて外の世界で生活していくわけですから、もっと多彩な経歴の大人に接する機会が必要でしょう。



 たとえば「英語教育を民間の英会話学校に委託し、代わりに英会話学校が校舎を借りる」という学校があってもいいのです。そこでは、生徒と住民が同じ教室で英会話を学ぶのです。
 お互いに経費節減になり、大人と共に学ぶという教育効果も大きい。私語なんて許されません。一石二鳥でしょう。
 こうしたことを実現させるためにも、行政の干渉を廃止する必要があります。
 国語や算数などは、公文に委託した方が、明らかに望ましいでしょう。



 場合によっては、生徒が住民に教える立場になることもありうるでしょう。
 都立田園調布高校では、パソコン部員が講師となって地域住民にパソコン操作を教える公開講座が開かれ、人気を集めました。
 他にも、生徒が教員の助手として公開講座に参加する例も増えています。

 誰でも、職場に後輩ができれば指導する立場になるし、子どもが生まれれば生活のあらゆることを教えなくてはなりません。社会で生きていく上では、学ぶだけでなく教える技能も必要不可欠なのです。生徒がそれぞれの特技を伸ばし、それを一般人に教える立場を体験することは、本人の自信にもなり、社会的責任感も養成されます。



 密室の空気は必ず濁ります。
 全体主義国家は、必ず閉鎖的です。
 閉鎖的な環境は、必ず偏った価値観をもたらすのです。地域住民には、学校を閉鎖的な場所にさせない責任があると思うのです。
 学校の諸問題の原因は、全て閉鎖性にあります。できる限り窓を開け放し、世間との違いを小さくすることこそ、学校を蘇らせる唯一の方法なのです。
 その極致が、学習と生活の場の融合、すなわち学園都市化です。学校の地域化であり、地域の学校化なのです。



 もちろん、ひとつの学校の設備には限界がありますから、専門的な内容の学習については、周辺でも特にそれに適した設備のある学校を拠点とすることが必要です。

 学校間連携は93年より制度化されました。ひとつの学校に在学したまま、他の学校でも授業を受けられるという制度です。全都道府県で積極的に導入を検討しています。これが企業研修のようなかたちで地域住民にも開かれていくことが望まれます。

 望ましい傾向として、少子化で増え続け、全国で5万室近くに達している小中学校の空き教室を、地域社会が有効に活用する例が増えています。保育園や養護福祉施設、住民交流のためのオープンスペースとして活用するケースも見られます。児童生徒にとっても、貴重な多世代交流の機会に結びつきます。

 横浜市は、59年から学校施設を住民に開放しています。市立新鶴見小のように、図書館を住民に開放している例もあります。

 現在のところ、小中学校の開放はだいぶ進んでいますが、高校や大学となると、まだまだ地域との壁が厚い面があるようです。今後は特に、少子高齢化で需要が激増する託児施設や老人養護施設との併用が期待されます。



 教育荒廃の責任は、学校のみにあるのではありません。むしろ、全てを学校に押しつけて、教育を放棄してきた地域社会の責任のほうが、一段と重いでしょう。
 学校だけではなく、経済オンリーでやってきた地域社会こそ、変わらなくてはいけないのです。

 千葉県の打瀬小は、学区内の全戸に学校便りを配布しています。望ましいことですが、こうしたことは区の協力なくして不可能です。開かれた学校づくりは、地域を挙げて応援しなくては進まないのです。

 現在では、学校に経済つまり生活がなく、地域に教育がない。分離してしまっています。しかし、人生には両方が必要です。それなのに、個人のレベルでは一方しか選べない。これは、全ての住民にとって不幸なことです。

 ブラジルでは、宗教者を中心としたボランティアが幅広い年齢を対象とした識字教育を進め、教育省からも認可を受けています。本来は、こうした地域住民の教育運動こそが、教育の原点だったはずです。

 もちろん、現実的には費用もかかるので、全てがボランティアというのは難しいでしょう。職業教育などは、現役で働いている人に現場でコーチしてもらうのが理想的でしょうが、それには所得保証も必要になってきます。



 本来、地域のあらゆる住民が自分の特技を教え合い、また学び合える、そのための費用と時間の保証された社会こそを目指すべきです。可能であれば、誰もが週3日か4日程度の勤めで生活でき、空いた時間を生涯学習や指導に費やせるような人生こそ理想的でしょう。

 ヨーロッパではどんどん労働時間が短縮され、社会全体として、すでにそれが可能な方向に進んでいます。日本でも、法定労働時間の厳守と有給休暇の完全消化が徹底されれば、かなり理想に近づくことができます。



 要は、経済最優先の文明の在り方そのものが変わらなくてはいけないのです。これには、教育関係者のみならず、社会全体のコンセンサスが必要です。教育改革とは、即文明改革でもあるのです。





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学校はいじめられっ子を切り捨てるな

2005-04-21 12:38:40 | 官主主義狂育を斬る
 校内で児童生徒の安全を確保する最短距離は、警察官を始め、「あらゆる大人がいつも出入りする場所にする」ことです。

 学校にも教員はいるけれども、絶対数が少ない上、世間の感覚とはズレているのも事実です。そのために、刑事事件として告発すべきような悪質行為までかばってしまい、ますます非行を増長させる結果を招いてしまうのです。
 非行生徒を更生させるのが、教員本来の職能ではありません。また、侵入者を取り押さえる高度な訓練を受けているわけでもありません。学校の防犯能力に限界があることは、最初から分かっていることです。
 そして、社会的にとうてい容認できないような行為までかばうことが、果たして本当に当人のためになるのか、真剣に考える必要があるでしょう。
 特に、暴行傷害、窃盗や脅迫といった被害者のいる犯罪については、被害者の処罰意志を尊重するのが当然です。教育の場が「やったもん勝ち」という無法地帯になることだけは、避けなければならないのです。



 いまだに、いじめがあればいじめられる方が転校するような状況が続いています。悲しいことに、僕のかつての教え子にも、そういう生徒がいます。こんなことがあってはならないのです。本来、いじめた方を即座に出席停止処分として刑事責任の有無を追求し、場合によっては転校の強制や補導、逮捕も視野に入れなければならないでしょう。

 僕は高校時代は柔道部だったのですが、あるとき、地元でも有名な、全国レベルの強豪選手を、大会で突然見かけなくなったことがありました。事情を聴くと、彼は寮生をいじめていたことが発覚して寮を追い出され、部活動も停止処分を受けたというのです。
 本当なら手に入れていたであろう輝かしい未来を、彼はいじめのためにパーにしてしまったのでした。
 僕は、この私立校の対応を高く評価したいと思います。
 もちろん、「前途有望な青少年の可能性を、たったひとつの失敗のために奪うべきでない」という意見もあるでしょうが、未来があるのはいじめられる側も同じです。
 いじめのためにノイローゼや不登校、自殺に追い込まれ、未来の可能性が絶たれる可能性を考えれば、いじめる側に厳しく対処するのはやむを得ません。



 僕の勤めていた学童クラブでも、かつて集団いじめがありました。本当に毎日、四六時中、みんなでひとりをいじめるのです。どんなに声を枯らせて注意しても止みません。これは本当に気力を消耗するものです。まさに、いじめとの闘いでした。
 それでも僕は、いじめる児童を厳しく叱り続けました。「いじめるなら来るな!」「警察に捕まるぞ!」と脅かすこともありました。時には力づくでも押さえつけました。そのために、児童たちとギクシャクした関係になることもありました。それでも、いじめは絶対に許されないんだということを、世の中は学校ほど甘くないということを、徹底して思い知らせる必要があったのです。
 幸いにも最終的にいじめはなくなり、その児童は卒業までクラブに通い続けました。

 素直でおとなしい児童は、どうしてもいじめられやすくなります。そこで、いじめっ子を説得して止めさせることは確かに大切ですが、同時に、暴力を伴ういじめが止められない場合、極端にいえば加害者をブン殴ってでも止めねばならないと思います。
 僕も以前は、絶対に手を出さず、口だけで説得する主義でした。しかし、目の前で児童が思い切り殴られ、それが理想論であることを痛感しました。
 何の罪もない児童が面白半分で殴られるような状況を、絶対に許してはいけないのです。
 被害者本人の心身の苦痛はもちろん、何より保護者の悲しみを考えた時、とても玉虫色の対応はできませんでした。本人にしてみれば、楽しいはずのクラブでみんなからいじめられる毎日なんて、生き地獄です。こうした場合、たとえ他の児童や保護者全てから憎まれようと、指導員は徹底的にいじめられる児童の味方でなくてはならないと思います。

 学校は、えこひいきと呼ばれることに対して、過剰に臆病になっているのではないでしょうか。集団いじめの場合、学校がいじめられている児童を徹底的にひいきし、守らなくてはいけないのです。ひいきよりいじめのほうが百億倍も極悪非道なのですから、躊躇することはありません。
 極端な話、授業を潰してでも、他の児童全員を出席停止にするくらいの姿勢が必要です。
 誰になんといわれても、大人が正義を示すこと。それが教育です。

 大切なのは、罪のない児童が学ぶ権利であり、いじめる側の学ぶ権利は二の次です。なぜなら、いじめはそれくらい悪いことだからです。
 また、学校にそれくらいの厳しさがないと、児童もやったことの深刻さが理解できないし、保護者も本気で我が子を叱らないでしょう。
 いまだに、「子どものいじめくらいで……」という認識の保護者もいます。しかし、いじめるほうは面白半分でも、大勢から寄ってたかっていじめられるひとりにしてみれば、不登校どころか自殺さえ考えるほどの地獄なのです。本来、出席停止処分くらいでは甘すぎるくらいです。

 あなたの子どもが集団いじめの犠牲になることを想像していただければ、加害者たちはなんら処分されず、犠牲者が逃げるように転校するしかない今の学校に、正義の欠片もないことが理解していただけると思います。
 そして、僕の超強硬な意見が極論でも何でもなく、正論であることも。





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学校は危険地帯

2005-04-21 12:28:46 | 官主主義狂育を斬る
 不審者に対しては、学校を関係者以外立入禁止にするという考えもありますが、全校児童の関係者の顔を全て覚えることは、とうてい不可能です。
 僕はむしろ、世間と同じように、いつも大人が大勢出入りする学校にしてしまったほうが、防犯効果は高いと思うのです。衆人の視線があることにより、侵入者だけでなく、児童生徒同士のいじめや暴力、教員の体罰やセクハラも抑制されるからです。


 あの池田小事件では、「子どもしかいない」という、学校の閉鎖的で偏った環境の弱点を突かれました。

 世間では、子どもに限らず、同年齢だけで何十人何百人も固まっている状況はまずありません。特に中学や高校では、全校生徒の年齢差は皆無です。学校独特の閉鎖性がもたらす人工的な偏った年齢構成は、校内暴力やいじめの温床でもあります。

 小学生が同級生にカッターナイフで切りつけられて死亡させるという事件まで起こっていますが、今の学校は、こういうことが起こる場所なのです。外部の侵入者を阻止するだけでは、安全を確保できないのです。



 これは百回でも繰り返したいのですが、
「外部の目が届かない学校は、一般世間よりもはるかに危険な場所」

 なのです。前述した通り、社会経験のない同年齢集団が外界から隔離されている環境の中では、社会人として最低限のモラルさえ身に付きません。メディアなどで歪められた社会のイメージが肥大し、万引きや喫煙、暴力やいじめなどが当たり前の、陰湿で危険なルールが確立されています。

 一時期、青少年のナイフ所持が話題になりましたが、僕も中学と高校ではナイフを持ち歩いていました。それは校内ではファッションとしても普通だったし、何より、万一の事態を想定しなければならないような環境だったからです。
 実際に、校舎内で背後からいきなり殴られたこともありました。犯人は、特にそれまで問題行動があった生徒ではありません。僕は急進改革派の生徒会役員として悪名が高かったので、教員・生徒を問わず敵が多かったのですが、さすがに暴行を受けたのは初めてでした。
 このときは怪我はなかったので、懐のものを使うには至らなかったのですが、学校と警察が犯人をかばうのを目の当りにして、つくづく学校の異常性と危険性を痛感したのです。いきなり後ろから人を殴っても咎められない場所は、プロレスのリングの上か、学校以外にありえません。
 やはり、校内は無法地帯でした。この一件が、不登校の直接的なきっかけとなりました。勉強どころの話ではなかったのです。法律が通用する世間に出て、なんて安全な場所なんだろうと安堵したことを覚えています。

 当時はまだ、校内の刑事事件に対して警察が消極的な時代でした。人が死なない限り、校内でどんなことがあってもまず表沙汰にはならず、内々に処理されました。加害者はやり得、被害者はやられ損です。
 教員が教室で生徒に刺殺される事件が発生して、ようやく警察も多少は介入するようになりましたが、無駄な血が流されない限り変われない日本社会が、つくづく情けないと思います。






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ゲーテが提唱した「教育州」構想

2005-04-21 12:20:38 | 官主主義狂育を斬る
 ゲーテは、自らの考える理想の学習環境として、『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』の中で「教育州」を描いています。
 ここでは共同生活を送りながら、それぞれの個性に合わせた職業教育が施されます。自立型の生涯学習コミニティのようなものです。



 北欧諸国には現に、国民高等学校でゲーテの理想が実践されています。

 フィラデルフィア市は、市全体を学園の敷地と見なしています。

 僕は、こうした学園都市こそ、理想の教育環境であると考えています。



 文豪、政治家、科学者など、さまざまな顔を持つことで知られるゲーテですが、教育者としても知られていました。特に晩年は、若い世代の教育を最優先に考えていたようです。

 もちろん、200年も前に生涯学習を訴えていたことは特筆に値しますが、さらに1歩踏み込んで、

「学習の場は、生活と切り放されてはならない」

 という主張までしていたあたり、やはり並大抵の天才ではありません。

 フランクフルト市長の孫であり、上流階級出身のゲーテは、もちろん学校に通っていました。しかし、彼はあまり学校生活が好きになれなかったようです。大学に進学してからも、2年に渡って休学しています。

むしろ、父親から受けた個人教授と、頻繁に出入りしていた職人たちの工房が、彼の思想に多大な影響を与えています。学校の教師だけではなく、家庭と地域の大人たちこそが、文豪ゲーテを育んだのです。



 学園都市といっても当然、物理的な拠点は必要です。
 そこで重要になってくるのが、全国あらゆるところに点在する学校です。

 全国のほとんどの地域には、歩いていかれる範囲に小中学校があります。さらに高校や大学もある。ここを地域の核として活用しない手はありません。

 事実、阪神大震災の直後には、校舎は避難場所として地域の交流拠点となりました。不登校だった生徒も出席してきたといいます。しかし、混乱が収まって学校が「正常化」し、校則なども元通りになるにつれ、再び出てこなくなってしまうというのです。



 例えば、近所に高校がある場合、原則としては子どもからお年寄りまで誰もが利用できる、「学習公園」のような場所を目指すべきです。
 もちろん防犯上の問題がありますから、警察官が校舎内を含め、重点的にパトロールする必要があるでしょう。





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学歴・学閥差別禁止を立法化しよう

2005-04-21 12:14:09 | 官主主義狂育を斬る
 イリッチ博士は、年齢や性別、国籍や人種などによる差別と同様、学歴による差別禁止の立法化を提唱しています。より具体的には、進学や就職などに際して学歴を調査することを禁止するのです。

 東大、特に法学部OBによって中央省庁のトップポストが寡占されているのは、よく知られた事実です。教育を統括する文部科学省でさえ、教育学部OBならまだしも、教育実習の経験さえない法学部OBが頂点を占めています。
 これは戦前から一貫する傾向で、いまだに新規採用がほとんど東大法学部からという省庁もあります。18歳そこそこでの選択で人生が決まってしまうのが、日本社会の現実です。東大はともかく、法学部は即時廃止する必要があるでしょう。

 こうした悪弊は、日本社会のあらゆる層に及んでいます。例えば長野県の公立学校では、信大教育学部を出ていなければ、まず小中学校教諭には採用されません。学閥を最優先の判断基準としているために、もっと有能な人材を採用するチャンスを自ら逃しているのです。

 しかし、学閥は非公式のコネクションであるため、法的規制が実質的な効力を持てるかどうかは疑問です。
 そこで、公的機関においては、「同一学閥の人物が一定以上の割合を超えてはならない」という別の規制が必要でしょう。
 例えば、「特定学閥が占められる事務次官のポストは、全体の2割まで」というように。





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教育予算を直接市民に支給しよう

2005-04-21 12:09:49 | 官主主義狂育を斬る
 慶応大学の中条潮教授は、あらゆる学校の民営化とあらゆる教育予算の廃止、そしてその費用を直接利用者に支給することを提言しています。


 中条教授に限らず、世界のたいていの経済学者は、公的資金を直接教育機関に投入すること、つまり公立学校制度には否定的です。そんな予算があったら、まず学習者本人に予算を配分し、学習者が自由に授業料を払う学校を選んだほうが無駄がなく、競争原理も働くからです。


 これが実現されれば、学習者のニーズがある学校は発展し、ニーズのない学校は改革ないし廃校を迫られます。また、それは当然のことなのです。確かに今でも行政による評価で予算の配分が変わることはありますが、これは官主主義の考え方です。



 国際的には、公立学校制度は、進学できる富裕層とそうでない貧困層の差異をいっそう強固にしているという論議もあります。

 世界人口の半分が、学校に通ったことがないといわれています。ラテンアメリカの場合、3分の2の児童が、5年生になる前に退学してしまいます。メキシコでは、6年間の義務教育を修了できるのは4%の児童だけです。今でも世界中で約半数の子どもが、中学校を卒業できないのです。
 そこでさらに公教育を拡充することは、貧困層に振り向けられるべき社会資本が、ひと握りの富裕層のために消費されて、貧富の差を拡大することにつながります。ラテンアメリカでは、大卒者の教育のために支出される公費は、平均的市民の1500倍にも達するのです。

 このように、教育機関に直接公的資金を投入することは、結果として、貧しい層からも強制的に集めた税金を、裕福な層に対して重点的に投入する結果を招いてしまうのです。

 アメリカでは60年代に「タイトル1」という教育改革プログラムが実施され、世界史上最大の30億ドルもの公的資金が投入されたものの、貧困層の学力は向上せず、むしろ中流階級との差が広がってしまいました。この種の投資は、極めて公共性の高いものに限られるべきでしょう。

 日本においても、全国の5000を超える高校のうち、東大合格者の1割を、わずか3校のエリート高校出身者が占めています。もちろん、こうしたエリート校に入学できるのはごく一部の裕福な家の子弟に限られます。その上で塾や家庭教師、予備校のための資金も必要です。東大生の家庭は、全国の大学生の出身家庭の中で、最も所得が高いことが知られています。
 有力学閥に入る上で最も重要なのは、「本人の素質以前に、まず親の経済力」というのが、日本社会の現実なのです。



 日本では、アパートを借りて子どもを4大に通わせる場合、受験から新生活までに平均で200万円近くかかるといいます。仕送りも毎年100万円を超えます。高校入学から大学卒業まででは、1000万円にもなるのです(国民金融公庫総研の調査より)。1人でも大変なのに、何人も子どもがいる世帯では、その負担は想像を絶します。

 日本では過去30年間に消費者物価が約3倍に上昇していますが、私大学費の場合、9倍近くにも高騰しています。
 私大入学初年度負担は、自宅通学でも平均150万円に迫り、自宅外では300万を超えています。家計における教育費の割合が5割を超える世帯も、2割に達するといいます。仕送りの約半額は、住居費です。東京商科学院専門学校では、学費滞納が全学生の1割に達する年もあったといいます。


 スウェーデンは、満7歳からの義務教育から、大学までの高等教育、さらに成人教育に至るまで、全てを無償にしました。その結果、マイナス10%を下回る経済成長率がわずか5年でプラスに転じ、赤字財政を克服しました。

 不公平感を是正するには、これも確かにひとつの方法です。ただ、競争原理が働かないために、コストが無制限に増大するというデメリットは否定できません。スウェーデンの国民負担率は7割に達しています(日本は4割前後)。

 国際文化資料センターのイワン・イリッチ博士は、教育機関への直接助成を廃止する代わりに、どの教育機関でも使用できる学習クーポンのようなかたちで、学習補助を全国民に分配することを提唱しています。

 ただクーポン制にしてしまうと、政府がクーポンを使える機関を指定した時点で、競争は著しく制限されます。学習塾や家庭教師、予備校が教育機関に入るかどうかという判断を、官僚に一任することになります。それでは意味がありません。


 やはり原則としては、何が教育機関で何がそうでないのか、利用者が個別に判断するのが一番です。僕は、現金支給が最も望ましいと考えています。
 もちろん、現金にすれば、教育以外のくだらないことに使ってしまう利用者も現れるでしょう。ただ、そうした例外を利用者の基準として考え、民主主義を否定するのは極論です。
 「大衆の多数は賢である」という前提を否定すれば、民主主義は成り立たないのですから、例外の可能性ばかりを針小棒大に騒ぐ必要はないでしょう。


 それでも足りない分は、各自の責任で奨学金を利用すればいいでしょう。
 アメリカでは、大学生の総数をほぼカバーできるほど、奨学金制度が充実しています。
 日本においても、99年度よりスタートした「きぼう21プラン」では、事実上希望者全員への奨学金貸与が実現されました。






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江戸時代に義務教育は無かった

2005-04-11 17:46:36 | 官主主義狂育を斬る
 江戸幕府には、義務教育がありませんでした。かろうじて藩ごとに藩校が設けられていましたが、人口の1割に満たない武士の子弟しか通えませんでした。では、それ以外の大多数の庶民は、どこで学んでいたのでしょうか? 
 そう、寺子屋です。庶民は商業の発展に伴い、自然に読み書き算盤の必要性を自覚していきました。自発的に学のある人間の元に集い、自由に学んでいったのです。一斉教授ではなく、手習いが一般的でした。
 高等教育のためには、私塾がありました。開国以降の急速な近代化が可能になったのも、それ以前に自由な民間教育が高度に発展していたからこそです。

 僕が、義務教育不要論を唱えるのも、日本にはこうした誇り高き民間教育の伝統があるからです。



 開国以降も、政府の指示を待たずして、各地で自発的に学校設置が進められていました。教科書も自由で、民間人による土地柄に応じた執筆が望まれていたのです。伊藤博文は、

「教育、特に徳育は賢者哲人に一任すべきであって、政府が介入すべきではない」

 そう主張していました。公教育が浸透した後も、女性の高等教育は、ほとんど民間人の手で担われてきました。



 もちろん、自由には競争と責任が伴います。民間の学習塾などは、限られた収益の中で、絶えず生徒が集まるような工夫が必要になります。
 教育機関であることと、営利を追求することとは矛盾しないばかりか、むしろ両立すべきなのです。ニーズに応えるところは発展でき、応えられない悪徳業者は淘汰されるべきです。この健全な競争原理は、教育の分野にも当然必要なのです。



 そもそもオックスブリッジやアイビーリーグなど、欧米の大学の元祖は私学でした。こうした私学は、公的助成や学費もある程度受けるものの、原則的には保護者や卒業生からの寄付、資産運用で成り立っています。
 自立しているからこそ、自己責任の基に、独自の教育方針を貫くことが可能になるのです。

 日本の東大などの国公立大学は、私学を真似て後追いで作られていったのです。東大について福沢諭吉は、

「こうした官製の大学が増えれば、日本の教育は滅びるであろう」

 そう予言していました。税金で運営される大学には、競争原理は働きません。潰れる心配がない代わりに、自立もできないのです。
 自由もなければ責任もない。そこに切磋琢磨が生まれないことは、一度でも競争を経験してきた人なら、誰でも分かると思います。




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教育機関の等級を、官が定めるべきではない

2005-04-11 17:40:58 | 官主主義狂育を斬る
 学歴差別を無くしていくには、まずそのおおもとである中学、高校、大学などといった学校ごとのランクづけをなくさなくてはいけません。極端にいえば、制度上は小学校を含めた全ての学校で大学を名乗り、大学教育が受けられるようにしてしまうのです。

 学校の等級を、行政で定めるべきではないと思うのです。要は学力が備わっていればいいのですから、学歴など問わなくても、採用試験なり資格試験なりの内容がしっかりしていればいいのです。

 現実として、医学部を出ていない人間が医師国家試験に合格することは、天才でない限りありえません。もし、やたらと素人が合格できるとしたら、それは試験内容が的確でないことの証明です。



 また、就学期間も個人に応じて柔軟であるべきだと思います。自動車学校がひとつのモデルとして挙げられます。

 子どもが未熟児で生まれて発育が遅いなどという理由で、就学猶予を訴える保護者がいます。しかし文部科学省は、一律満6歳での就学を原則とし、ほとんど就学猶予を認めていません。しかし明治18年までは、小学校でも学年制をとっていなかったのです。何歳までに何を学ぶべきか、一律に決めてしまう必要があるのでしょうか? 



 日本の教育では、6・3・3・4制が自明の格付け、学ぶべき学校の段階として認知され、これを少し外れるだけでも大騒ぎになります。しかし、こうした格付けは果たして本当に普遍的なものなのでしょうか? 

 僕は世界のおよそ200の国と地域を調べてみましたが、まるで一貫性がありません。せいぜい、満6歳から初等教育、満18歳から大学教育が始まる傾向があるくらいです。それも、旧宗主国の慣例が残っているだけに過ぎません。
 世界的には初等教育の段階からコースの多様化が始まっていて、日本のように全員が小中学校で同じ年数を学ぶ国はむしろ少数です。義務教育9年で飛び級も認めず、一律6・3制を採用しているのは、日本だけです。



 現在、日本全国には34校の夜間中学があります。夜間中学への入学は4月に限らず、いつでも可能。ひとクラスの人数はひとケタ程度で、学力に応じて編成されます。最近は不登校だった青少年の入学が増えているそうですが、中には70代の生徒も在学し、ひらがなから学べるクラスもあります。こうした学校は、一応便宜的に中学に分類されていますが、実際には格付け不能でしょう。
 文部省の答弁では、約70万人の義務教育未修了者がいると認めていますが、実際にはそれよりはるかに多いと推定されています。現在の年齢別学年編成では、そうした人々に学ぶ機会を提供することが不可能です。

 01年には、文科省でさえ、15歳からの大学入学を認める方針を打ち出しました。もはや、個人差を無視した教育が通用する時代ではありません。



 逆に、小中学校で人より長く学ぶことも、可能であっていいでしょう。
 シカゴでは、一定水準の学力に到達しない中学生は卒業させず、進学させないで補修を受けさせています。再試験に合格しない限り、何年たっても卒業させません。



 受験というシステムも、普遍的ではありません。お隣の韓国では、中高の受験が禁止されています。ヨーロッパでも、公立高校入学に受験が必要なケースはまずありません。

 オランダも中高一貫教育なので高校受験は存在せず、大学も医学部以外は入学試験を課していません。定員オーバーだと先着順になります。

 ヨーロッパでは、一定の条件を満たせば、たいていどの大学にも入れるのが一般的です。権威あるオックスフォードでさえ、3つの科目でAを取れれば、どこでも好きな学部に入る資格を与えます。



 別に、センター試験を廃止する必要はありません。大切なのは、学校ごとに入学基準を定められることです。絶対に18歳未満は入れないという大学がある一方で、何歳からでも入れる大学があっていい。学習者が多様な選択肢を持てる社会であるべきでしょう。




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「学び」を官から独立させよう

2005-04-11 17:35:29 | 官主主義狂育を斬る
 僕はここで、「どうしたカリキュラムが理想なのか」という細部にまでは、具体的に踏み込みません。様々な例を紹介するに留めます。

 それ以前に大切なのは、まず教育が権力から独立していることなのです。独立してこそ、自由かつ多様な教育が保証されるのです。

 例えば、同じ学校の中に「のびのび自由教育コース」と「ガチガチ受験対策コース」が併設され、生徒が好きなコースを選択する、というスタイルが可能であってもいいと思うのです。

 欧米では、高校生にもなると自分で時間割りを編成します。学校は、いかに生徒それぞれの要望に応えるかに腐心しています。



 フリースクールの元祖であるイギリスのサマーヒルでは、児童生徒が中心となって時間割りなどを決めます。時間割りそのものがないクラスもあります。授業参加も強制ではありません。12年間1度も授業に出なかった生徒もいるといいます。

 日本でも現在、全国で数百のフリースクールが運営されています。文部省は92年、一定の条件さえ満たせば、フリースクーラーを出席扱いする方針を打ち出しました。ただ公的な支援がないので、保護者は大きな負担を強いられます。お隣の韓国では、フリースクールの運営資金の大半が公的資金によってまかなわれています。

 イギリスの学校では、もともと教科別授業や教科書、試験などがなく、教師自身が選んだ教材に基づく、日本でいう総合の授業が中心になります。生徒の評価も面接で行いますが、順位をつけるというより、学習到達度を測り、適切なアドバイスを与える参考とするのを目的としています。
 もっとも、教育ママはどこの国にもいるもので、これでは基礎学力がしっかり身に付かないと心配する保護者も大勢います。そこでサッチャーは、「オプティングアウト」という制度を導入し、保護者理事会が教育委員会の方針とは無関係に、独自に学校を運営できるようにしました。

 日本でも95年、県立神奈川総合高校が単位制高校として開校しました。150以上の科目から選択でき、各自がオーダーメイドで時間割りを作成できます。校則や制服もありません。
 00年には、都立桐ヶ丘高校開校を皮切りに、単位制定時3部制の「チャレンジスクール」がスタートしました。卒業までに一定の単位を取得すればいいのでクラスや学年の区分がなく、各自が好きな順番で好きな授業を選択できます。もちろん校則はありません。倍率は各校とも2倍を超え、小論文と面接で選抜しています。都内だけでなく埼玉や神奈川、宮城にも開校が予定されています。

 イタリアなどは、普通の学校でもクラスが編成されません。ファシズムへの反省から、一律の行動強制が教育の場から徹底的に排除され、個別作業が教室のいつもの風景となっています。イタリア人は、日本の管理教育をファシズムの復活だと考えています。

 日本でも、78年に愛知県の東浦町立緒川小が、教室の壁を取り払ったオープンスクール化を開始。その後、オープンスクールは全国に広がり、現在では全国で多目的スペースを持つ小中学校が1割を超えています。

 アメリカには学習指導要領にあたるガイドラインは存在せず、教育省の権限は極めて限られ、州の学校評議会が教育制度の全てを決定します。学部の新設にも規制はありません。各大学の教授会が自由に意思決定できます。

 日本では私大の学部新設にさえ、行政の雑多な関与があり、大学の自由な発展を妨げています。大学の設置には、校地面積が校舎の3倍以上必要だという基準があるため、都内の大学新設はほぼ不可能になっています。

 85年より、テキサス州ではテストで不合格をとった生徒のクラブ活動を禁止しました。禁止は、合格点を取れるまで続きます。どうしても合格点をクリアできず、クラブを辞める生徒もいます。個人的にはとても賛成できない制度ですが、全人教育に向けてのひとつの試みとは位置づけられるでしょう。アメリカでは州によって、それくらい独自の方針を貫くことが可能なのです。

 91年からは、ミネソタ州を皮切りに、チャータースクールが全米に広まりました。これは、生徒の学力向上を条件に、保護者や教師、住民が運営を一任される学校で、現在では1000校を超えています。

 また93年より、全米でホームスクーリングが合法化され、正規の卒業資格も与えられるようになりました。現在では在宅学習者は200万人に達し、その学力は通学生より優れているといいます。ハーバード大学など、名門アイビーリーグや全米の州立大学でも、ホームスクーラーの入学を受け入れています。結果さえ出ればプロセスは自由という考え方に、アメリカらしさが反映されています。

 現在、先進国でホームスクーリングを合法化していないのは、日本とドイツだけです。文科省は、具体的な判断を教委や学校に丸投げし、明確な意思表示を避けています。00年4月からは、大手学習塾の栄光ゼミナールが、インターネットによるホームスクーリングプログラムを開始しました。

 オーストラリアにも、学習指導要領や教科書検定のような制度はありません。政府として基礎8科目を提案していますが、それすらも強制ではなく、具体的には現場が自由に選択科目を取り入れています。ホームスクーリングも普及しています。

 世界トップの学力を誇るフィンランドでも、教科書検定制度はなく、教科書の選定や授業内容は現場教師に一任されています。教師のやる気を最大限に引き出すシステムなのです。逆にいえば、雇われ気分の教員には勤まりません。



 このように、教育の中央集権から脱して、現場の個性を重視していくのが、先進国の流れとなっています。これは、中央よりも現場のほうが的確な判断ができるという考え方に基づいています。それは当たり前のことなのですが、日本においては、むしろ「賢である中央が愚である現場を導く」という図式が成り立っています。これは官主主義の考え方です。
 日本がまずすべきことは、まず官主主義からの脱却です。現場を愚と前提するところからは、民主主義は育ちません。




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官主主義狂育略史

2005-04-11 17:25:17 | 官主主義狂育を斬る
 明治の市民は、就学と授業料徴収を強制する学校には否定的でした。

 学制公布直後には、学校焼き討ち事件まで発生しています。

 義務教育短縮運動も起きています。

 文部省の廃止も論議されました。

 しかし、国策として公教育の徹底が進められ、民間の自由で多様な教育はどんどん衰退していきました。私学に対しても、雑多な規制が設けられました。

 その結果は、皆さんご存じの通りです。



 日本の戦後教育の歴史は、戦前の全体主義への回帰の歴史といっても過言ではありません。

 終戦直後に、文部大臣を筆頭に国史を編纂する計画が決定されています。
 翌月には官僚から、国体護持の精神を育てるための青年団発足が提案されています。
 政府の中枢には、敗戦への反省など微塵もなかったのです。
 軍事演習を続行する学校もありました。

 戦後の文部省には、50年から翌年にかけて、公職追放を解除された官僚が復帰し、そこに戦争責任を問われて解体された旧内務官僚も加わっています。
 天野貞祐文相は、修身科の復活を希望しました。
 それまでは比較的自由だったホームスクーリングに対しても、厳しい態度で望むようになります。

 54年には、戦前同様に公立校教員の政治集会参加が禁止され、新憲法に規定された集会の自由が踏みにじられました。
 56年には、教育委員公選が廃止され、戦前の任命制が復活しています。
 58年には学習指導要領が官報告示され、拘束力が強化されます。

 60年には、文部省が高校生の連合体を望ましくないと通達。
 63年には、教科書出版社の指定制と、教育委員会による採択が導入されました。
 65年には、文部省が「集団行動指導の手引き」を発表。教連復活への目論みが表面化しました。

 66年には内申書重視が文部省から通達され、全国的な管理教育の流れが作られました。
 67年には、灘尾文相が国防精神育成の必要を強調。
 68年には、小学生への神話教育が復活します。実在の人物と並んでヤマトタケルが紹介されているのは、実に滑稽です。
 69年には、政府が大学の閉校ないし廃校を決定できるという法律が成立しました。また文部省は、高校生の政治活動を一切禁止するとの見解を示しました。

 74年には、田中角栄首相が教育勅語の再読を勧める発言をしています。
 80年には、奥野法相と田中文相が相次いで「現行教科書は愛国心に否定的で問題がある」などと発言。
 さらに翌81年には、自民党大会で「左翼偏重教科書糾弾」が決議されました。

 同年、東京高裁は、教員による生徒への暴行を無罪とする判決を示しています。ビンタ教育の復活です。
 さらに、教科書協会加盟17社が特定政党に献金している事実が発覚し、教科書の中立性が疑われます。
「防衛白書」では、愛国心教育の必要が強調されました。

 82年には、教科書検定で「侵略」を「進出」に書き替えさせたり、日本軍による沖縄住民虐殺の記述を削除させたりして、国際問題にまで発展しています。
 83年には、中学校教諭が生徒をナイフで刺す事件が発生したものの、この教諭は諭旨退職となっています。
 85年には教師の体罰による生徒殺害事件も発生し、ようやく体罰廃止が叫ばれ始めました。

 86年には、東京高裁が第1次家永訴訟の請求を全て棄却し、行政による教育管理を認めました。
 また、『日本を守る国民会議』の日本史教科書が外交問題に発展。藤尾文相は、

「韓国併合には向こうにも責任がある」

 などと発言しました。後に橋本内閣においても、島村文相が、

「先の大戦が侵略かどうかは考え方の問題」

 そう発言して、アジア諸国から猛烈な抗議を受けました。その後も、

「真意が伝わらなかった。誤解されたのは遺憾」

 などと発言は迷走し、結局は撤回しましたが、文相のポストにはそのままとどまったのです。
 どうも、歴代文相には同じような歴史観を持った人物ばかりが選ばれているようです。

 98年3月には、埼玉県立所沢高校で、卒業式の形式をめぐって校長と生徒が対立し、卒業生の大半が式をボイコットするという事件が起こりました。生徒主催の卒業記念祭には、ほぼ全員が出席。
 4月にも、在校生が独自の新入生歓迎会を企画しましたが、県教委は「入学式に出席しなければ入学を認めない」という文書を保護者に配布しました。教育行政の体質を象徴する出来事です。しかし、結局は新入生の半数近くが式を欠席。校長も、欠席者の入学を認めました。



 現状では、文科省の判断以前に、教委があらかじめ自己規制してしまうかたちが多いようです。この自己規制は学校管理職にも及んでいるため、3重4重の規制に縛られた現場の生徒が受けている束縛は、想像を絶します。
 世間だったらバカバカしいだけの校則が、大真面目に指導されているのです。その実態には、文科官僚ですら戸惑うといいます。



 学習指導要領には、各教科の総授業時間数や学力到達度が事細かに定められています。特に社会科においては、

「国を愛する心情を育てる」

「政治の制度や機構に深入りしない」

「天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにする」

「世界史は我が国の歴史を理解するための背景として取り扱うにとどめる」

 などといった部分まで踏み込んで、露骨に教育内容を拘束しているのです。



 僕は家庭教師もやっていましたが、こうした学習内容の拘束にどれだけ苦悶してきたか分かりません。
 本当はこうした学校教育の背景についても教えたいのですが、生徒及び保護者の関心はテストでどれだけ点を取れるかに集中しているので、教えるほうとしても、限られた時間の中では、ペーパークイズの解き方に専念せざるを得ないのです。
 これは、教師のやる気を大きく削ぐものです。クイズの解き方を教えるのが教育だと勘違いしている教師ならともかく、良心ある教師は誰もがそう感じているのではないでしょうか。

 国立病院での治療内容を、現場の医師が判断するように、公立校の学習内容も、現場の教師が判断すべきです。政府の役割は、それが違法だったら止めさせるという次元に留めるべきです。

 やっぱり、学習指導要領は、いりません。ムダどころか、邪魔です。

 現場のことは、現場が一番良く知っています。少なくとも、役人よりは。




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日本に残る奴隷制度

2005-04-11 17:13:32 | 官主主義狂育を斬る
 それにしても、学校が教育の一環と称して、児童生徒に校舎の無償清掃を強制しているのは不可解です。市民が市役所を無償で清掃するべきでしょうか? それは市の職員か、依頼された業者の仕事です。
 ひどいときには、体育の授業時間に児童生徒がプールを清掃することさえあります。それは教育ではなく、職員がやるか、業者に依頼するべき労働でしょう。

 欧米では、雇用創出の目的もあり、校舎の清掃は業者に依頼します。
 日本教育会が105カ国を対象に実施した調査によると、世界のどこでも校舎の清掃は清掃員の担当で、児童生徒が全校を清掃するのはアジアだけだといいます。

 仏教、特に禅では、作務(雑用)が修業の一環として重視されています。その影響が、アジア全域に及んでいるわけです。
 つまり、これは単に宗教的な慣例であって、清掃のような雑用が本当に教育的効果を持っているかどうかは、誰にも証明できていないのです。
 そうなると、学校が児童生徒をタダでコキ使っているという見方もできるのです。
 これは、憲法で禁止されている「苦役」に当たります。

 理想をいえば、希望する児童生徒が放課後に清掃し、賃金を受け取るのがベストだと思います。保護者も小遣いが浮いて助かります。
 校内の雑務に学生バイトを当てるのは、大学などでは当然であり、高校以下で賃金が支払われていない現状こそ、人権問題です。児童生徒は、奴隷ではありません。

 僕自身にも、生徒会費を稼ぐなどという名目で、全校生徒が幾度と無く、授業をつぶして丸1日がかりで廃品分別作業やスグリのヘタ取り作業をやらされた記憶があります。これは、学習指導要領を逸脱しているのではないでしょうか? ゆとり教育をいうのなら、まずはそうした無償奉仕の時間を削るべきでしょう。
 勤労とは、労働の対価として報酬を受け取り、多少なりとも経済的に自立することであって、いくら働いても自立につながらない無償奉仕の強制するのなら、それは奴隷制度というのです。

 日本の児童が苦役から開放されているという認識は、幻想です。日本の児童は、各種の無償奉仕を強制されています。毎日の校舎清掃はもとより、給食など各種の当番、係、委員会活動を抜きにして、とても学校運営は成り立ちません。僕のケースのように、そのものズバリお金のためという場合さえあるのです。
 ただ、それが無償であり、学校のカリキュラムに組み込まれているから、苦役という認識が持ちにくいだけです。悪いことに、教師でさえ「働かせている」という意識を持っていません。

 大人が1人で直接見ていられる子どもは、一度に20人未満が限度。職員を増やせない限り、ときとして児童の数が1000人を超える学校において、児童自治が必要なのは理解できます。
 しかし、教育の名目で児童を奴隷にするのは、もう止めにしたほうがいいと思います。世間ならば、いくらかの日当が出て当然のケースです。
 僕自身、こうした奉仕の体験が、今となってはいい勉強だったと思っています。こういった機会を全て無くす必要はないでしょう。
 ただし、強制をやめることと、世間並みの報酬が支払われることが条件ですが。
 そうやって育てられた子どもたちは、自然に社会生活のルール(ただで人を働かせてはいけない)を身に付けていくでしょう。それこそが、生涯学習の時代に要求される青少年教育のかたちではないでしょうか。

 仮にそれが不可能なら、雇用創出のためにも、校務員を増員すべきでしょう。

 繰り返しになりますが、これは過激な意見でも何でもなく、

「違憲行為を中止し、海外の児童生徒や大学生並みの権利を、日本の児童生徒にも認めるべき」

 という当然の訴えに過ぎません。これを過激に感じるとしたら、その感情こそ、あなたの中に植えつけられた青少年への差別心なのです。



奴隷制度の中で育った人々は、それが奴隷制度であることにさえ気づきません。奴隷自身でさえ。



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未成年のビジネスを推奨すべき

2005-04-11 16:59:39 | 官主主義狂育を斬る
 世界に目を向けると、依然として児童が労働力として重宝されている現実があります。
 児童が低賃金で働くために大人が職を逐われ、ますます家計の児童への依存が高まるという悪循環があるのです。
 日本において、青少年の低賃金アルバイトが中高年の高賃金正社員の仕事を取ってしまう現状が、より推し進められた状態と考えていいでしょう。

 ILOの調べでは、働くために通学できない児童は、世界で2億5千万人にのぼります。そのうちの半数以上が、ただちに止めるべき危険な仕事に従事しているといいます。

 これを改善するためには、まず児童労働者の賃金を上げる必要があります。現実に児童労働組合なども結成されていますが、賃金が上がれば長時間働く必要がなくなり、ここに至ってようやく学校に通うゆとりもできます。

 まずは児童の労働条件改善こそ、最大の教育的措置なのです。
 また、そうなれば大人の雇用も確保でき、子どもを学校に通わせるゆとりもできます。
 先進国には、なによりも財政援助が望まれています。

 実際に、適切な条件で働きながら通学している児童は、全世界で1億人に達しています。
 彼ら勤労児童が、決して日本の子どもより不幸だとは言い切れません。なぜなら、彼らには切実な学習意欲があり、多少なりともそれを満たされるからです。
 実社会で働いてみて始めて、生きるために勉強が必要なことを痛感するものだから。意欲があるから、貴重な学習のための時間も費用も無駄にならないのです。

 教師なら誰もが痛感していると思いますが、この「学習意欲」こそ、日本の教育現場に最も欠けているものでしょう。
 それというのも、児童生徒と社会が隔離されているからです。

 先進国は、児童労働を原則として禁止する方向に進んできました。無論、戦時中の勤労奉仕のような制度を復活させてはなりませんが、「労働の正当な対価として報酬を受け取る」ことが保証されているのであれば、社会参加の上からも、むしろ認めていくべきだと、僕は思っています。戦前には、日本でも2部制小学校は珍しくありませんでした。

 エジソンが小学校を中退して働いていたのは有名な話ですが、アメリカでは今でも未成年による起業が珍しくありません。
 99年、ジュニア・アチーブメントが奨学金コンテストで18歳以下のIT起業家を公募したところ、なんと応募者は300万人にのぼりました。3人の入賞者は、いずれも小学生のときからビジネスを始めていました。

 ティーンエイジの万引きやカツ上げ、エンコーなどが問題になっていますが、その原因のひとつは、正統に報酬を得る機会が、日本の青少年に認められていない点にあります。このくらいの年代になると、大人と同じく、ある程度お金のかかる遊びでなければ満足できなくなってきます。

「学生の本分は勉強だ! 遊びを覚えるにはまだ早い!」

 そんな建て前論を押しつければ押しつけるほど、ティーンはたとえ法を破ってでも、欲しいものを手に入れようとします。
 少なくとも、ストレス解消で無駄使いした経験のある大人に、ティーンだけに我慢を強いる資格はないと思います。



 しかしながら、小遣いを与えすぎるのも当然よくありません。ケータイを使いすぎるのは、たいてい使用料を親に払ってもらっているティーンで、口でいくら言ってもダメですが、バイト代で自腹を切らせればたいていは収まるものです。「遊びたければまず働く」のが、社会のルールです。

 遊びを禁じるより、社会における遊びのルールを学ばせるほうが、結局は望ましいのではないでしょうか。
「お金は、働かなければ手に入らない」
「予算の範囲で遊ぶ」
 実際には、それさえできなくて借金を重ねる大人も多い。それだけに、早くから原則を学ばせるべきです。

 全国高校PTA連合会の調査によると、全国の4分の1の高校が、生徒のバイトを禁止しています。
 一方で、高校生バイトを採用している事業所の8割が、「高校生バイトは必要」「働きぶりもいい」と、好意的な回答を寄せています。
 教育現場と実社会とのバイトに対する印象は、180度違います。むしろ、低すぎる時給が人権問題でさえあります。

 日本の教育界は座学を偏重し、青少年の職場体験を望ましくないとする体質がありますが、欧米などでは逆にインターンシップが定着し、1世紀の歴史を誇るアメリカでは、7割の学生が経験します。実業教育を重んじるドイツ南部でも、座学は半日で、あとは校外で働くという教育が普及しています。

 もちろん、今日においては、単なるバイトだけではなく、起業や経営、投資の体験も不可欠です。
 青少年にビジネスを体験学習させることこそ、日本が21世紀に先進国であり続けるための最低条件なのです。




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座学エリート偏重は危険

2005-04-11 16:52:07 | 官主主義狂育を斬る
 受験エリートたちがしばしば暴力的に体制を転覆させようとしてきた歴史を見ても分かるように、座学で得た知識だけでは、真のリーダーとしての資質を養うことはできません。プラスアルファが不可欠です。



 精神医学的には、人間の成長とは、「依存性」「自己中心性」「迷信的思考」の三つから脱却し、これらを「自立性」「自他共存性」「現実的思考」に転じていくことだとされています。
 これを実現する上で最も有効なのが、実社会に出て働き、生活していくことです。

 実社会では親に頼ることもできず、同僚や顧客と協調せずに収入を得ていくことも不可能です。
 迷信的な思考も、冷徹な結果主義のビジネス社会には通用しません。
 嫌でも成長しなければ、生きていかれないのです。

 道徳の授業なども結局は座学なので、それだけで人間的成長に効果があるとは、とても考えられません。
 清掃などの共同作業をサボったところで、卒業には関係ない。実社会であれば、その場でクビになって収入がストップするというリスクがありますが、義務教育は退学がなく、受験で問われるのは学力だけなので、その気になればいくらでもサボれます。
 極端な話、毎日清掃をサボって、自分だけ受験勉強したほうが合理的です。

 少なくとも卒業までは、真面目に共同生活してきた他の生徒と処遇に差がつくことはないのです。
 つまり、学校では、人間的に成長しなくてもいいシステムができてしまっています。



 こうしたぬるま湯に慣れきったツケが回ってくるのは、社会に出てからです。

 中には、最後まで人間的に成長できず、悪徳商法や犯罪など、反社会的な行為に手を染める者も出てきます。

 この場合、座学エリートのほうがより社会の驚異になることは、大学紛争やオウム事件が証明しています。
 人間的な成長を後回しにしたまま、座学による知識を蓄積していくことは、むしろ危険ですらあるのです。

 座学とバランスを取って、実社会に参加することが必要です。
 社会の厳しさは、卒業してからでなく、最初に学ばなければなりません。




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義務教育短縮論

2005-04-11 16:40:51 | 官主主義狂育を斬る
 教育というと最初に学校が思い浮かびがちですが、僕はむしろ、家庭や地域の教育力こそメインであると考え、学校はそんなに重視していません。
 独学だけで立派に生きている人はいくらでもいます。

 義務教育制度も、日本では、すでにその役割を終えているように思います。
 義務教育は、社会にとって、生活保護のようなものだと思うのです。社会がある程度まで発達したら、必要性が薄れるばかりか、教育予算が財政を圧迫します。残すにしても、小学校までで、その先は自主性に委ねるかたちにしたほうがいいでしょう。



 教室での座学が、実社会であまり役に立たないという批判も根強い。
 アメリカやイギリスでは、教育改革のために莫大な予算が投じられましたが、学力は向上せず、「教育は費用や期間ではなく、質の問題だ」と結論された経緯があります。アメリカには、義務教育を短縮した州さえあるのです。

 日本でさえ、首相の諮問機関である「21世紀日本の構想」懇談会が、義務教育を週3日程度にするよう提言しています。人生の初期に知識を詰め込み、一生を逃げ切るというスタイルは、スピード時代の今日には通用しません。



 一方で、生涯学習はどんどん定着しつつあります。全米の大学生のうち、25歳以下は2割程度に過ぎません。中には、学生の平均年齢が40歳以上という大学もあります。特に大学院は、一度社会に出て自分に必要な専門知識や教養を痛感し、目的を明確にして、学資を貯えて進学するのが一般的になってきています。
 学習意欲の土台になるのは、実社会での生活経験なのです。

 僕自身、社会に出て始めて、学校で適当にやってきた勉強の必要性を痛感し、教科書を学び直しました。大部分の社会人が、時間と費用さえあれば何度でも大学に行きたいと思っているでしょう。

 おそらく、それが21世紀のスタンダートな学習のスタイルになっていくでしょう。画一教育段階は短縮ないし廃止され、進路は早い段階で分化する。そこでアルバイトなど様々な社会経験を重ねながら、各自が納得の上で高等教育に進んでいく。日本だけを見ているとよく分かりませんが、アメリカを中心として、世界的にはそういう方向に進みつつあります。

 日本より大学進学率の高いイギリスでも、高校へのフルタイム進学率は7割に過ぎません。早期から専門教育が始まるため、一般教養は生涯学習のかたちで学ぶのが当たり前になってきています。全国8000カ所に設置された学習センターでは、1000種類以上のオンラインプログラムが受けられます。

 スウェーデンでも、無償の成人高等学校の設置が、全ての自治体に義務づけられています。



 進歩の早い今日では、学生時代に学んだというだけでは、すぐ時代遅れになってしまいます。

 アメリカの専門医は10年ごとに更新試験を受ける必要があり、時期が迫ると、実績ある年配の医師が受験生と同様に勉強します。どんなに著名な教授でも、試験を免除されることはありえません。

 20世紀の中盤までは、世界的に「とにかく義務教育を長くする」という方向に進んでいましたが、先進国では、コストのきりがない増大と学習意欲の低下が新たな問題として持ち上がり、近年になって大きく方向転換してきています。

 日本でも、高校進学率が100%近くに達する一方で、中退率が2・5%にのぼります。

 イタリアでは、かつて大学全入を実施しましたが、すぐに中止されています。



 よく、不登校や中退に対して教師は「学校から逃げる」という表現を用いますが、実際のところ、進学する青少年の大半(以前の僕を含めて)が、実社会参加を先送りする口実として、進学を利用しているのです。「とりあえず進学」という進学の仕方こそ、現実逃避に他なりません。学校以外の世界を知らない教師には、残念ながらそれが分からない。
 中には、明確な目的意識を持って進学する者もいますが、大部分は、まだ働きたくない、親のスネをかじっていたいという気持ちから、落第しない程度に勉強しています。そんな状態で、学習意欲が高まるはずがありません。それなら進路変更して一度働いたほうがいい。この甘えを「中退では世間体が悪い」などという虚栄心から容認してしまう保護者こそ、教育荒廃の影の張本人でしょう。



 立教大学法学部は78年より、社会人入学を認めています。

 信州大学は01年、全授業のほぼ半分を住民に開放しました。

 他にも滋賀大、徳島大などにも前例があり、単位は認定されませんが、こうした大学が増え、アメリカのように単位の互換も認められるようになれば、社会人にとっての大学利用がぐっと身近になっていきます。



 しかも、現在では通信技術も発達し、高等教育を受ける上で、通学さえ必要としません。働きながら学び続けるためのインフラはできているのです。後は、ソフトの充実が課題でしょう。

 日本の通信大学もその一例ですが、アメリカでは通信教育を実施している大学が500校以上に上ります。日本の数十倍です。

 オーストラリアでは、全ての大学に通教学生の受け入れを義務づけています。




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