8月31日に「ドーピング検査」という記事を書いたところ、多くの方から貴重な御意見を戴いた。今回、「ドーピングの是非」に付いて再度書いてみようと思ったのは、寝ゲロ様から戴いたコメントに興味を惹かれたからである。先ずは、当該コメントをコピーペーストしたい。
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(寝ゲロ様のコメント 9月26日付)
書き込みありがとうございます。
全く別のトピックですが、少し興味があったもので。
最終的な意見から言うと、ドーピングをありにする、認めてしまうっていうのはダメですかね?
オリンピックも、ロサンゼルス以降?のプロ化の波は留まるところをしりませんし、もはやオリンピックにアマチュア精神を求めるのは酷かもしれません。「何でもあり」っていうのはルールとして、見る側にとって非常にわかりやすいんじゃないかと思いますし。アメリカの4大プロスポーツを鑑みると、とりあえず多くのファンというか、お金を払う人はしっかりついてくるんじゃないでしょうか。
また、たとえばMLBのマーク・マグワイア選手。彼は引退後に、ドーピングしていたことを後悔しているようなコメントも残していますが、彼がもう一度野球人生をやり直せるとしたら、最終的に同じ人生を望むのではないでしょうか。お金や名誉もあるでしょうが、限界への挑戦という欲求は、スポーツとしてしごく当たり前なもののような気がします。
見る側も楽しめ、競技者も満足。こういう、アメリカの政治みたいな発想って、我ながらとても幼稚だと思うのですが、これはこれで一つの真実ではないかとも思います。
・・・って、ここまで駄文を書き連ねてきて、また下らない思い付きが浮かびました。階級別のような感じで、ドーピングしてる人としてない人を分けて競技するとかどうですかね? やっぱ安易ですかね?
私もスポーツは大好きですし、スポーツ精神のようなものもとてもすばらしいものだと思います。でもドーピングうんぬんはこれに当てはまらないような気がします。
日本のメディアでのドーピング論は、なんていうか、とりあえず「ドーピングはダメ!」って、納得できるような理由もないのに、初めから決め付けられているような気がして。どこかの動物愛護団体が「鯨を食べるのはダメ!」って叫んでるじゃないですか。同じように聞こえて仕方ありません。「じゃあなんで牛は食べてもいいの?」みたいな。
・・・なんかまとまりもなく冗長ですみませんでした。。
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薬物という物に拒否反応を持っている自分は、「ドーピング=人間として犯してはならない愚かな行為。」という概念しか持っていなかった。基本的に、その気持ちに変わりはないのだが、寝ゲロ様の意見にも成る程と思う部分が有った。
金メダルを獲得する事に付随して、多くの名誉や金を手に入れられる現実が有る。快楽を得る代償として、悪魔”メフィストフェレス”に、己の魂を売る契約をした”ファウスト”ではないが、際限の無い人間の欲望を考えた時、ドーピングに身を委ねてしまう気持ちも判らなくはない。”直接的に”誰かを傷付けている訳ではなく、自らの命を削った”自殺”とも言える行為。
極限迄記録を伸ばしたいという欲求は、アスリートなら誰しも持っているだろう。実際に、ドーピングに走るか否かは、選手個々人のモラルに委ねられているだけの事。オリンピックでは、アマチュアリズムやスポーツの爽やかさを強調しつつ、1984年のロサンゼルス・オリンピック以降の商業化は肥大化する一方で、それに伴い、「何でも有り」的な感じになっているのが実情。決して、理想と現実は一致してないのである。ならば、ドーピングを一概に断罪してしまうのは如何なものか?という意見にも頷けてしまう部分が有るのだ。
寝ゲロ様が、「”納得出来る”理由を提示する事なく、ドーピング禁止とするのは、某動物愛護団体が「鯨を食べるのは駄目!」と叫んでいるのと似ている。」と書かれているのにも納得。江戸時代には、アメリカも鯨を捕獲しまくっていた。但し、それは鯨肉を食らう為ではなく、燃料としての鯨油を手に入れるのが目的で、それ以外の部位は全て廃棄していたのだとか。翻って、我が日本の場合は、鯨肉を食らうだけではなく、鯨油も利用し、髭はバイオリンの弓の弦として加工、骨や性器等も工芸品として利用する等、正に余す所無く使い切っていた。生物殺傷という事実は同じだが、有効活用という意味では日本側に肩入れしてしまう。ましてや、「鯨は知能が高い動物だから、殺すのは野蛮だ!」と愛護団体の人間は言っていたが、それならば、湾岸に押し寄せたイルカ達を、棒で叩き殺していたアメリカ人の姿は一体何だったのだ?と思ってしまう。
話は逸れてしまったが、ドーピングに走る根底には、人間としての欲望の他に、アスリートとしての欲望も潜在している。「人を殺すのは何故いけないのか?」と子供に問われて、明確な答を返せない大人は多い。ドーピングの是非に付いても、人間の根幹に拘わる難しい部分を抱え、明確な答を引き出せない問題なのかもしれない。
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(寝ゲロ様のコメント 9月26日付)
書き込みありがとうございます。
全く別のトピックですが、少し興味があったもので。
最終的な意見から言うと、ドーピングをありにする、認めてしまうっていうのはダメですかね?
オリンピックも、ロサンゼルス以降?のプロ化の波は留まるところをしりませんし、もはやオリンピックにアマチュア精神を求めるのは酷かもしれません。「何でもあり」っていうのはルールとして、見る側にとって非常にわかりやすいんじゃないかと思いますし。アメリカの4大プロスポーツを鑑みると、とりあえず多くのファンというか、お金を払う人はしっかりついてくるんじゃないでしょうか。
また、たとえばMLBのマーク・マグワイア選手。彼は引退後に、ドーピングしていたことを後悔しているようなコメントも残していますが、彼がもう一度野球人生をやり直せるとしたら、最終的に同じ人生を望むのではないでしょうか。お金や名誉もあるでしょうが、限界への挑戦という欲求は、スポーツとしてしごく当たり前なもののような気がします。
見る側も楽しめ、競技者も満足。こういう、アメリカの政治みたいな発想って、我ながらとても幼稚だと思うのですが、これはこれで一つの真実ではないかとも思います。
・・・って、ここまで駄文を書き連ねてきて、また下らない思い付きが浮かびました。階級別のような感じで、ドーピングしてる人としてない人を分けて競技するとかどうですかね? やっぱ安易ですかね?
私もスポーツは大好きですし、スポーツ精神のようなものもとてもすばらしいものだと思います。でもドーピングうんぬんはこれに当てはまらないような気がします。
日本のメディアでのドーピング論は、なんていうか、とりあえず「ドーピングはダメ!」って、納得できるような理由もないのに、初めから決め付けられているような気がして。どこかの動物愛護団体が「鯨を食べるのはダメ!」って叫んでるじゃないですか。同じように聞こえて仕方ありません。「じゃあなんで牛は食べてもいいの?」みたいな。
・・・なんかまとまりもなく冗長ですみませんでした。。
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薬物という物に拒否反応を持っている自分は、「ドーピング=人間として犯してはならない愚かな行為。」という概念しか持っていなかった。基本的に、その気持ちに変わりはないのだが、寝ゲロ様の意見にも成る程と思う部分が有った。
金メダルを獲得する事に付随して、多くの名誉や金を手に入れられる現実が有る。快楽を得る代償として、悪魔”メフィストフェレス”に、己の魂を売る契約をした”ファウスト”ではないが、際限の無い人間の欲望を考えた時、ドーピングに身を委ねてしまう気持ちも判らなくはない。”直接的に”誰かを傷付けている訳ではなく、自らの命を削った”自殺”とも言える行為。
極限迄記録を伸ばしたいという欲求は、アスリートなら誰しも持っているだろう。実際に、ドーピングに走るか否かは、選手個々人のモラルに委ねられているだけの事。オリンピックでは、アマチュアリズムやスポーツの爽やかさを強調しつつ、1984年のロサンゼルス・オリンピック以降の商業化は肥大化する一方で、それに伴い、「何でも有り」的な感じになっているのが実情。決して、理想と現実は一致してないのである。ならば、ドーピングを一概に断罪してしまうのは如何なものか?という意見にも頷けてしまう部分が有るのだ。
寝ゲロ様が、「”納得出来る”理由を提示する事なく、ドーピング禁止とするのは、某動物愛護団体が「鯨を食べるのは駄目!」と叫んでいるのと似ている。」と書かれているのにも納得。江戸時代には、アメリカも鯨を捕獲しまくっていた。但し、それは鯨肉を食らう為ではなく、燃料としての鯨油を手に入れるのが目的で、それ以外の部位は全て廃棄していたのだとか。翻って、我が日本の場合は、鯨肉を食らうだけではなく、鯨油も利用し、髭はバイオリンの弓の弦として加工、骨や性器等も工芸品として利用する等、正に余す所無く使い切っていた。生物殺傷という事実は同じだが、有効活用という意味では日本側に肩入れしてしまう。ましてや、「鯨は知能が高い動物だから、殺すのは野蛮だ!」と愛護団体の人間は言っていたが、それならば、湾岸に押し寄せたイルカ達を、棒で叩き殺していたアメリカ人の姿は一体何だったのだ?と思ってしまう。
話は逸れてしまったが、ドーピングに走る根底には、人間としての欲望の他に、アスリートとしての欲望も潜在している。「人を殺すのは何故いけないのか?」と子供に問われて、明確な答を返せない大人は多い。ドーピングの是非に付いても、人間の根幹に拘わる難しい部分を抱え、明確な答を引き出せない問題なのかもしれない。
本当にありがとうございます。
僕もgiants-55さんを始め、いろんな方にTBや
コメントを頂いたのが、すごく励みになっています。
giants-55さんの幅広い話題・幅広い知識には
いつも感心させられています。これからも目標として、頑張って更新していきますので、よろしくお願いします。
さて、今回のドーピングの件ですが、
僕は単純に「ルールとして、ドーピング禁止に
なっているから禁止」と考えています。
サッカーでハンドは反則、と決まってるような感じです。
基本的にスポーツはルールの中で競うものであって、
そのルール1つ1つに、別に意味づけをする必要は
ないかな~、と思います。
すいません、なにせシンプルな脳みそなので(笑)。
だから、真の無差別級ということで、
「ドーピングでも何でもアリ」みたいな階級が
出来れば、別にOKかな、と思います。
人間が自己防衛のためにかけてる身体機能のリミットを
薬物の力で強引にはずす。当然限界以上の力は出るだろうけど、
確実に体は蝕まれていく。
お金も凄くかかるし、それにつけ込む悪い奴らも出てくる。
そもそもドーピングしなきゃ勝てないなら、その人はそこまでの能力しかなかったってことだと思うし。
こんなことを認めるなら、嫌なことから逃げるためにアルコール依存になったり、
麻薬や覚醒剤を使ったっていいじゃないってことになっちゃう。
そうじゃないと思いません?理性があるから人間でしょ?
嫌なこと、辛いことがあってもそれを乗り越えるのが人間だと思う。
クスリを使うのはただ楽して逃げようとしてるだけ、そんな気がします。
クジラの話とはなんか違う気がしたので。
あれは環境テロのヒステリーでしょ!?
奴らの言うことは矛盾だらけですよ!!
生身の人間がどれだけ限界に近づけるか。
それを競うのがオリンピックだと思います。
クスリを認めてしまうと、際限がなくなるからやはり認めるべきではないでしょう。
結局は、突き詰めてしまえば麻薬に近いモノが使われてしまうでしょう。
身体だけでなく、精神すら破壊する薬物を使用することは間違いないでしょう。
オリンピックを人体実験の場にしてはならない。
そういう思想であると信じています。
ドーピングしても負けてしまった人たちに対して
金メダルをドーピングのため剥奪された人と同じくらい
非難を浴びるようになったら、ドーピングを認めても
すっきりするかもしれませんね。
薬で限界を超えるノウハウは軍隊などが持っているでしょうが、そういうものはやっぱり裏のノウハウとして隠蔽しておくのが良いように思います。
そういえば、中国は漢方医学で指定薬物とは異なる漢方薬でドーピング的なことができるという話を聞いたことがあるのですが、心身を蝕まないで記録が伸びるならそういう方向の解禁はありかと思います。
練習や鍛錬は自然な気がしますが、化学薬品は自然ならざるものだと思います。
そうした自然ならざるものに依存して記録を求めだしたら、何か根本的で妥協できないラインを超えているように感じます。
ちなみにJOCのサイトで調べたところ、ドーピングが禁止される理由は、
1、スポーツのフェアプレーの精神に反する
2、ドーピングは社会悪になる
3、ドーピングは選手の健康を害する
・・・だそうです。
もっと怖いのは、選手本人が気づかない内に、マネージャーやコーチといった周囲のスタッフが薬を食事やドリンクに混ぜ込んだりして飲ませることではないでしょうか。
これらスタッフは、選手が活躍するかどうかに自らの生活がかかっているので、選手に薬を飲ませてでも良い成績を出させて、それで自らの名声&収入も上げようと考える不逞の輩がいてもおかしくありません。事実、ツール・ド・フランスなどで有名な自転車競技界では数年前にそのような事例が多発しました。
このような事例から選手を守るためにも、ドーピングは禁止すべきだと私は考えます。
問題の本質は、スポーツが余りにも商業化したことではないでしょうか。当然、「商業化することで誰が利益を得たのか?」も追求すべきと考えます。
「ドーピング」に関していろいろ考えさせられたのは
もちろんですが、2点ばかり別なことに対して、
触発をされました。
1つは僕の大嫌いな反捕鯨団体に関すること。
もう1つは「何故人を殺してはいけないのか」という話。
で、2つ目の「何故人を~」に関して、
僕もブログを書いてみました。
またお時間のある時にでも読んで頂ければ嬉しいです。
話は変わりますが、四国で独自のプロリーグを、
という話になっているみたいですね。
四国には球団が無かったことですし、地域密着型のリーグ
だということで、面白い試みだなぁ、と思います。
giants-55様の残尿感のような気持ちよく理解できます。ソウル五輪の100M走を生中継で観ていたのですが、世界記録で優勝した選手が翌日ドーピングで失格となり、2位の選手が金メダルとなりました。しかしそう言われても納得できません。目の前で観たことを否定しろ、と言われても人間の本能的に難しいのです。目の前で出た世界記録はドーピングですと言われても、そのように頭の中で画像を修正することは不可能なのです。
かつて中国や旧東独はやりまくっていたため、その当時選手だった人達は今、後遺症に悩まされているとの噂をみます。日本が今回メダルを取れたのもドーピングが減ったからではないか、との噂もあります。
選手に選ばれ、勝てば国家の英雄だが負けて帰ってくると一族郎党皆抹殺されてしまう(社会的にか物理的にか)というような環境では、ドーピングに走ると思います。それはアスリートとしての思いを超えた次元だと思います。
私はやはり積み重ねた努力の末に、更に向こうの世界が見える見えた、という状況であるべきだと思います。薬物を使って向こうの世界を覗こうというのは安易だと思います。
それはちょうど薬物を使って新たな芸術を生み出そうというのと同じです。突き詰めた思考の末に生み出された詩なり音楽であるべきで、薬物体験を利用して潜在意識を取り出した詩なり音楽というのは共感という点においてやはり一歩引くのではないかと思います。
基本的に、書き込みして下さった方のブログへ、直接レスを付けさせて戴く形を取っているのですが、貴ブログが見当たりませんでしたので、こちらに書き込む失礼の段を御許し下さい。
ドーピングを行なっていた結果、後に廃人となってしまった選手の事を見聞きすると、心が痛みます。ましてや、それが”国を背負わされた”結果として、ドーピングに手を染めていたのなら、一層です。(ドーピングとは関係有りませんが、”日本国”の期待を一心に背負い込み、挙句、精神的に追い込まれて、自殺してしまったマラソンの円谷幸吉選手の話にも、同じ悲劇性を感じてしまいます。)
心身共に害を及ぼさない薬物が開発されれば、その服用はどうなのか?という事も出て来るとは思いますが、やはり、選手個々の”混じり気の無い”肉体能力だけで記録を争う事に、自分は魅力を感じてしまいます。
なかなか難しい問題だと思いますね。
これからも宜しく御願い致します。