「元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主の浅野長矩が高家肝煎の吉良義央に斬り掛った。」一件から始まり、「元禄15年12月14日(1703年1月30日)、取り潰された赤穂藩の旧藩士47人が吉良邸に討ち入り、吉良義央の首級を挙げて主君の恨みを晴らした。」一件は、「赤穂浪士」や「赤穂四十七士」、「忠臣蔵」等の名称にて、多くの書物や演劇の形で伝わっている。この話を全く知らないという日本人は、多分少数派に属する事だろう。斯く言う自分も、小説やドラマでこの話を何度か見聞して来た。赤穂の者達をヒーローとする一方で、吉良義央を希代の大悪人として紹介する物が昔は殆どだったが、近年では「吉良義央は地元民から慕われた名君。逆に浅野長矩は病的な程の癇癪持ちで、それが“松の廊下事件”に繋がった。」とする説が主流になる等、その発生から300年を超えても猶“謎多き事件”で在る。その謎多き事件を「様々な物証」と「大胆な推理」で解き明かして行ったのが、加藤廣氏の「謎手本忠臣蔵」だ。
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その朝、勅使の登城は何故早められたのか?時の将軍・徳川綱吉の側近・柳沢吉保の胸中に兆した仄かな疑念。背景に浮上したのは、「幕府と朝廷との確執」と「喪失した秘密文書」。浅野長矩は何故、動機を語らずに切腹したのか?
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「日本人は300年間騙されていた!」というセンセーショナルな惹句が踊るこの小説。松の廊下事件に付いては「浅野長矩と吉良義央という2人の人間の間の“個人的な確執”が理由。」とする小説類が多かったが、この小説では全く違った理由が提示されている。両者間での事柄では無く、幕府内の“秘密工作”が理由というのはかなり面白い。これに加えて、或る秘密文書の存在も絡めているというのが、これまでの“赤穂浪士本”とは一線を画していると言えよう。「事件の発端は幕府内に在り、それにたまたま浅野&吉良という人物が関わってしまい、そしてその事件を柳沢吉保という人物が利用して行く。」という流れは、筆者が取り上げる物証からも「こういう見方が在ったのか。」と唸らせる物が在る。
歴史には比較的関心が高い方だが、それでも「へー。」と思わせる記述が幾つか在った。
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・ 豊臣秀頼は豊臣秀吉とその側室の茶々の間の子とされているが、秀吉が九州遠征中に茶々が懐胎している事から、秀吉の家臣・大野治長と茶々との間の“夫重ねの子”という説が在る。後に「淀の方」とか「淀君」といった呼ばれ方をする茶々だが、実は当時の女性の「君」には、「誰にでも身を任す娼婦」という意味合いが在り、「淀君」という呼称は蔑称だった。
・ 神田護持院住職・隆光が綱吉の母・桂昌院に「綱吉が世継に恵まれないのは、前世で殺生をしたからだ。」、「綱吉も桂昌院も、そして柳沢保明も戌年生まれだから、犬を大切にする様に。」と迷信を吹き込んだのが「生類憐みの令」発令の原因というのは、後世の悪意の作り話。何故ならば、「生類憐みの令」は綱吉が隆光に会う2年前から、部下に「生類憐みの令」に近い指示を与えているから。元々綱吉が殺生嫌いな上、仏教の「生類憐み」の思想に共鳴していた事から始まったと考えるのが適切。
・ それ迄の日本では、犬の殺生が酷過ぎたという「特殊要因」が在った。犬だけが残酷な扱いを受けた理由としては、次の点が挙げられる。日本では、牛は農夫の耕耘に必要という事で、殺して食する事をしなかった。馬は武士の掛け替えの無い武具で在り、乗物で在ったからこそ、これも食する事は無かった。鶏は「時を告げる神の使い」という事で誰も食べなかった。山野の獣類は食べるには食べたが、捕獲に手間暇と金が掛り過ぎた。となると、残る安直な食肉の対象は、犬しかなかった。武将に人気の鷹狩りも大いに影響した。鷹の飼料に犬が供されたからで在る。その為、野犬の捕獲だけでは足りず、食糧用の犬の大量飼育迄大々的に行われた。町衆は食糧不足を補う為に、野犬と見れば目の敵の様に乱獲した。綱吉が犬の殺生禁止を発令する迄、江戸では犬の姿を見る事が難しい程、その数が減っていた。
・ 当時、(江戸内の)自身番、辻番の数は、合計千八百ヵ所を超えていた。この頃の江戸は広さでは現在の東京の七分の一程度だから、現在の交番の数と比べると、自身番、辻番の密度は、ほぼ十六倍になる。江戸は、世界一の治安の良い町で在った。
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デビュー作「信長の棺」の面白さには及ばないが、読ませる内容では在る。総合評価は星3.5個としたい。
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その朝、勅使の登城は何故早められたのか?時の将軍・徳川綱吉の側近・柳沢吉保の胸中に兆した仄かな疑念。背景に浮上したのは、「幕府と朝廷との確執」と「喪失した秘密文書」。浅野長矩は何故、動機を語らずに切腹したのか?
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「日本人は300年間騙されていた!」というセンセーショナルな惹句が踊るこの小説。松の廊下事件に付いては「浅野長矩と吉良義央という2人の人間の間の“個人的な確執”が理由。」とする小説類が多かったが、この小説では全く違った理由が提示されている。両者間での事柄では無く、幕府内の“秘密工作”が理由というのはかなり面白い。これに加えて、或る秘密文書の存在も絡めているというのが、これまでの“赤穂浪士本”とは一線を画していると言えよう。「事件の発端は幕府内に在り、それにたまたま浅野&吉良という人物が関わってしまい、そしてその事件を柳沢吉保という人物が利用して行く。」という流れは、筆者が取り上げる物証からも「こういう見方が在ったのか。」と唸らせる物が在る。
歴史には比較的関心が高い方だが、それでも「へー。」と思わせる記述が幾つか在った。
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・ 豊臣秀頼は豊臣秀吉とその側室の茶々の間の子とされているが、秀吉が九州遠征中に茶々が懐胎している事から、秀吉の家臣・大野治長と茶々との間の“夫重ねの子”という説が在る。後に「淀の方」とか「淀君」といった呼ばれ方をする茶々だが、実は当時の女性の「君」には、「誰にでも身を任す娼婦」という意味合いが在り、「淀君」という呼称は蔑称だった。
・ 神田護持院住職・隆光が綱吉の母・桂昌院に「綱吉が世継に恵まれないのは、前世で殺生をしたからだ。」、「綱吉も桂昌院も、そして柳沢保明も戌年生まれだから、犬を大切にする様に。」と迷信を吹き込んだのが「生類憐みの令」発令の原因というのは、後世の悪意の作り話。何故ならば、「生類憐みの令」は綱吉が隆光に会う2年前から、部下に「生類憐みの令」に近い指示を与えているから。元々綱吉が殺生嫌いな上、仏教の「生類憐み」の思想に共鳴していた事から始まったと考えるのが適切。
・ それ迄の日本では、犬の殺生が酷過ぎたという「特殊要因」が在った。犬だけが残酷な扱いを受けた理由としては、次の点が挙げられる。日本では、牛は農夫の耕耘に必要という事で、殺して食する事をしなかった。馬は武士の掛け替えの無い武具で在り、乗物で在ったからこそ、これも食する事は無かった。鶏は「時を告げる神の使い」という事で誰も食べなかった。山野の獣類は食べるには食べたが、捕獲に手間暇と金が掛り過ぎた。となると、残る安直な食肉の対象は、犬しかなかった。武将に人気の鷹狩りも大いに影響した。鷹の飼料に犬が供されたからで在る。その為、野犬の捕獲だけでは足りず、食糧用の犬の大量飼育迄大々的に行われた。町衆は食糧不足を補う為に、野犬と見れば目の敵の様に乱獲した。綱吉が犬の殺生禁止を発令する迄、江戸では犬の姿を見る事が難しい程、その数が減っていた。
・ 当時、(江戸内の)自身番、辻番の数は、合計千八百ヵ所を超えていた。この頃の江戸は広さでは現在の東京の七分の一程度だから、現在の交番の数と比べると、自身番、辻番の密度は、ほぼ十六倍になる。江戸は、世界一の治安の良い町で在った。
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デビュー作「信長の棺」の面白さには及ばないが、読ませる内容では在る。総合評価は星3.5個としたい。
20年以上前に息子用に買った小学館「日本の歴史」では既に「淀殿」を使用していて、「淀君」は蔑称である由、が書かれていました。
「淀君」という呼称の件、御存知でしたか。歴史的な事柄に関してはそこそこ知っているつもりでしたが、恥ずかし乍らこの話は知りませんでした。歴史は奥深くて面白いです。
読みましたよ。この本。小説としては面白いしドラマにすれば見ごたえあると思いますが、朝廷の陰謀ってのは僕は無理があると思います。
松の廊下事件は浅野長矩の総合失調症が原因だと僕も考えます。短刀って切っても殺せませ
ん。刺すべきでした。
それに事件の後、不思議なほど冷静だったとの記録もあります。
綱吉を実は名君だったという説も少なからずあります。譜代門閥によらず側用人という制度を考えたのも彼です。
生類憐みの令も人殺しが横行するような殺伐とした世相を抑えるために劇薬ではあるが必要だった措置であったと。
それはともかく江戸時代を通じて徳川綱吉の治世が景気も一番よくて文化も華やかだったことは確かです。
御結婚されるとの事、心より祝福申し上げます。ブログがずっと更新されておりませんでしたので「御多忙なのだろうな。」とは思っておりましたが、慶事で御多忙だったとは。松浦亜弥さんに負けず劣らず素晴らしい方と勝手に思っておりますが、末長い御幸せを!!
で、この小説はやはり読んでおられましたか。歴史って権力を掌握した側から描かれる事が多いし、史実とされる事柄の“裏”を推測して行くのも歴史の醍醐味ですよね。今回の推測が史実かどうかは別にして、なかなか面白いなあとは思いました。
良く書かれている事では在りますが、日本刀って時代劇等で見られる様に、バッサバッサと斬り捲る武具では無い様ですね。骨に当たって刃こぼれしたり、血や脂(脂肪)で切れ味が落ちたりと、数人切るのがせいぜいとで、「突いて殺す道具」だったのではないかと。
南方の戦闘の記録に白兵戦で日本刀の打突を米兵がライフルの銃身で受けたところ、真っ二つに斬れたという記載を目にしたことがありました。 たぶん気合で斬るんですよ。 刀は。
えーと、高校三年生のころ祖父の財産分与で形見分けがありまして、だれもいらない、いらないと押し付け合った刀がありました。 「じいちゃんのことやけ絶対誰か一人くらい斬っとるよ、恐ろしい、そがいなものいらんけ」とたらい回しで結局五男で発言力の弱かった父が持って帰ってきました。で、中学の後輩から喧嘩するので貸して欲しいと頼まれて、貸したまま行方不明です。 「それがいちばん恐ろしい、言わんこっちゃない、このバカ息子が」と言われ
ましたがそれきりで両親とも知らん顔でした。
そうなんですよね。魚や肉を捌くだけでも、骨に包丁が当たって四苦八苦する位なのですから、況や人間を刀で斬るなんていうのはそう容易い事ではないでしょう。静止している対象に対して刀で斬り込むならまだしも、相手は動き捲っている訳で、当然乍ら斬れ味の芳しくない角度になるケースの方が多いだろうし。そうなると、やはり「突く」っていうのが無難なんだろうなと推測します。まあ、この場合にも太い骨に当たったりする可能性は在る訳ですが。
「刀には妖気が籠っている。」なんて表現する人も居りますが、確かに博物館等に展示されている刀類をじっと見ていると、吸い込まれそうになる感じは在りますね。
なんと、奇遇です。
先週、群馬県安中の「元助遺跡義士石像」という所に行ってきまして、今日そのブログを公開しました。
供養のために赤穂四十七士の石像を彫ったんですがなかなかお見事でしたよ。
記憶を手繰り寄せて行くと、恐らく「赤穂浪士」なる存在を初めて知ったのは、TVのニュースで義士祭を見た事によってだったと思います。あの独特のスタイルで、太鼓を打ち鳴らし乍ら歩く義士達の姿はインパクトが在りました。