GOの解説部屋~素人の視点から政治を語ります~

政治とは国民の暮らしに密着したものであり、公の場で政治を語るのがタブー視されている現状を変えたい、その一心で投稿致します

男の一人旅日記〜米子編

2019-03-28 16:47:04 | 日記
少し空いてしまいましたが今回の「男の一人旅」完結編です。

前回と前々回の出雲編と松江編も付けておきます。

出雲編
https://blog.goo.ne.jp/gharada5000/e/f39f668f4bce661c0a88f86e944bed46

松江編
https://blog.goo.ne.jp/gharada5000/e/1c7b0c28f523d608f2556ab33794b9a5


今回は米子編と題してますが、まずは前日に閉館日で見られなかった竹島資料室へ。




さて、竹島問題はかなりデリケートなものですので、例え素人のブログであろうと投稿内容は慎重にならざるを得ません。

ごく簡単にこの問題をまとめてみます。

日本の主張は、1905年に他国が領有を主張していない事を確認した上で島根県隠岐島司の所管であると閣議決定しています。当時の島根県知事が「竹島」の名称と所管を告示したのがその年の2/22でした。この2/22が2005年に島根県で「竹島の日」と条例で定められています。

第二次大戦後、日本は多くの領土を失う事になりますが、竹島に関してはサンフランシスコ平和条約の日本が放棄する島には入っておりませんでした。韓国はアメリカに竹島も放棄する島に加えて欲しいと願い出ましたが、拒否されています。理由は日本側は1905年に閣議決定で島根県の管轄としてますが、朝鮮領土として扱われた事も領土主張がなされた事も認められないとの理由。これが1951年の出来事。

1952年に韓国が「李承晩ライン」を宣言して竹島を占拠しました。これが竹島問題の始まりです。

ここまでは事実でここからは僕の考えです。

ここまで読んでもらえれば日本の主張の方に理があるように思います。韓国側は1905年という時期は1910年に日韓併合される直前で、当時の朝鮮には日本に抵抗する力はなく、日本の侵略の始まりでありこれは無効であるというような主張をしている。それにしても1905年以前に領有を主張していた事もないので、無理がある主張ですね。

もっと昔に遡っていろんな文献などを持ってきて領有を主張しようとしてますが、それも間違いなどが散見され、最近のレーダー照射事件と同じく、言ってる事がコロコロ変わってる感じがあります。今も昔も国民性は変わらないということでしょうか。

さて、ポイントは日本が国際司法裁判所に合意付託する(決着をつける)事を提案してきましたが、韓国はこれを拒否しています。僕の感覚では何故に裁判する事にお互いの同意が必要なのか?というところ。一般的に裁判とはどちらかが訴えると相手側は被告となり裁判を受けざるを得ない。

この点について、今回の資料室訪問で謎が解けました。「主権は至高の権力なので同意しない限り、一方的に裁判を受けさせる事は出来ない」との文言が展示物の中にありました。どのような機関といえど、国家主権は侵せないという事でしょう。だから合意付託する(お互いの合意の上で決着を国際司法裁判所に任せる)事で国際司法裁判所の判決が出れば従うという流れに出来る。国際司法裁判所といえど、国家に対して一方的に支持や命令は出来ないというところでしょう。

もう一つ勉強になったのは、「選択条項受諾宣言」という概念の事。ネットから単語の意味を拾うと...
「つまり通常主権国家間の国際紛争は相手国との交渉,合意によって解決されるのが普通であるが,この条項の受諾宣言によって,同様にこの条項を受諾することを宣言した他の国々との間に,第三者たる国際司法裁判所の義務的管轄が自動的に発生することを認めたことになる」
となっている。

ようするにこの宣言をしている国同士だとどちらかが国際司法裁判所に提訴すれば、自動的に国際司法裁判所に付託される事になり、判決に従わざるを得なくなる。

日本は1958年にこれを宣言しています。韓国はこの宣言をしていません。ですので、韓国が応じないと国際司法裁判所に付託する事は出来ないという事になります。

ある意味絶望的ですね。この問題に関して、僕は強硬的な意見を持ってますので、国交断絶をチラつかせて付託に持ち込むくらいの事をしてもいいのでは?と思っています。そこまでいくと在日韓国人の人たちはある意味人質になるのでは?
韓国側からすると送り返されても困る、扱いが悪くなっても困る。日本からすると韓国の弱みなんていくらでも持ってると思うんですがね。

この選択条項受諾宣言についてもう少し詳しく書くと、宣言したその後に起こった事象について適用されるので、竹島問題が1952年からで日本の宣言が1958年ですから、竹島問題に適用される事はないという事。

おそらくら中国も宣言はしてないでしょうから尖閣諸島にも適用される事はないという事でしょう。こちらは日本が受けない限りは国際司法裁判所に付託される事はない。

元々は次の予定の絡みで30分以内にはこの資料室を出るでしたが、あまりにも興味深い内容でしたので1時間以上も滞在してしまい、後の予定に影響する事に...


さて竹島資料室を後にして、次なる目的地はこちらも昨日休館日で入れなかった古代出雲歴史博物館。そこまでの交通手段はほとんどの時間帯で1時間に一本しかない一畑電鉄。竹島資料室で予定を超えて滞在してしまったので、出雲での時間はあまりない。

昨晩コンビニで買った缶チューハイを一本残してしまっていたので、カバンからそれを取り出し飲みながら歩いて松江しんじ湖温泉駅へ。

冷たくして飲みたいと旅館の冷蔵庫の冷凍部分に入れていたため、朝まで放置して半分凍っていたものがいい具合に溶けて冷たくて美味しい。朝から酒を飲みながら観光。一人だから何でもありです。

駅に着く頃に缶チューハイを飲み干し、1時間の電車の旅に備えてトイレへ。すると...発車のベルが。

1時間に一本という認識から、勝手に前の電車の1時間後と思いこんでしまい、実は55分後だったので駅の外のトイレで発車のベルを聞く事に。
切符も買ってないので間に合うはずもなく、さてどうしたものかと。

次の電車も1時間後。 それで行くと帰りのバスに間に合わせるには出雲滞在は1時間もいられない。これではゆっくり博物館を見られないし、昼御飯を食べる時間もない。

「米子へ行こう!」一瞬で頭が切り替わりました。帰りは諸事情から16:20米子発のバスを予約してましたので、米子観光をする事に。

そもそも出雲の博物館に行きたかったのは、古代の出雲大社の模型が見たかったから。後々考えると、もしかしたら数年前に京都で見た模型は出雲から出張してきたもので、同じものなのではないか?そう考えると帰りのバスとは反対方向の出雲に向かう事がバカバカしくなってきました。

旅の前に考えていたプランの一つに松江に泊まった翌日は宍道湖の隣でこちらも汽水湖の中海をレンタカーでドライブして米子に乗り捨てるというのがありました。

しかし!

先程お酒を飲んでしまったのでそのプランは不可能に...

またまた切り替えの早いワタクシ。すぐにJR松江駅行きのバスに乗り、電車に乗り換えて米子まで。そして米子に着いたのがたしか12時ごろ。

米子で観光しようにも、たった4時間程度では行けるところも限られています。米子城跡が歩いて行けそうな距離だったので、地元名物を食べられそうなお店を探しながら歩く事に。

しかしながら米子の名産を検索しても何も出てこない。道の選択肢が2つあったが、選んだ方の道は駅のすぐそばから店が並んでいる感じではない。イオンがあったので入ってみるが、どうも入りたい店はない。

昼食は後でもいいかとスタスタと米子城跡まで。

[user_image 00/c7/87f14a099e23d7b7125e86b88434aef7.
以下に米子市ホームページより「米子城の歴史」
https://www.city.yonago.lg.jp/4438.htm
さらに米子市ホームページより米子城の概略を引用します。

西伯耆の拠点的な城であった米子城は、山陰で最初に築かれた近世初期の城郭です。
天守のあった標高90メートルの湊山は、北側に丸山、東側に飯山、さらに南西側には中海という天然の要衝を擁する地で、この城山を内堀で囲み、さらに外郭に武家屋敷を配し、外堀を巡らせるという、典型的な平山城の特色を備えていました。
湊山頂上には、四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が、華麗に連なっていました。
江戸時代に発布された「一国一城令」の下、例外として存続を許された「支城」と呼ばれる城のなかで、このような天守をそなえたものは全国でも稀です。
城の建物は、ほとんど姿を変えることなく、明治にいたるまでその偉容を誇りました。
その城の建物は残っていませんが、石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめ、その構造を知ることができる城跡として重要です。また、米子城に関する文献・絵図資料なども数多く、良好な状態で伝えられています。
そのため、平成18年1月26日、米子城跡は国史跡に指定されました。
現在、内堀から内部は、飯山と湊山の一部を除き、「湊山公園」となっています。
また、城山一帯には、市街地に残る数少ない貴重な自然が保護されており、多くの動植物に接することができます。
城山はウォーキングコースとしても市民に親しまれ、ふもとから約15分の頂上から望む大山、日本海、島根半島、中海は絶景です。



現在の国道9号線沿いに位置していた米子城。ふもとから石垣が残っていましたが、天守閣があったと思われる頂上まで登るには15分ほど。まさか山登りをする事になるとは思っていませんでしたので、大きめのトートバッグを持ってよく滑る靴で泥混じりの道を歩く事に。

道中は小さいながらも泥沼のようなところもあり、靴を汚しながら汗まみれになって山頂へ。

山頂の景色はなかなかのものでした。松江城もそうでしたが、江戸時代あたりに作られたお城はちょっとした山の上に築かれてるんですよね。江戸城、名古屋城、大阪城などの巨大な城は別として。

山頂からの景色。




山頂が白くなっているのが大山です。


9年程前にこの山に登ったんだなぁと感慨深く眺めておりました。確か初夏あたりだったはずなので景色は全然違いますが。

さて、山から降りてきてもまだ14時になっていない。行くところもないので、昼食ついでにビールを飲めそうな店を探す事に。行きとは違う方の通りを歩くと、それなりにランチをやってそうな店がチラホラと。

そして入った店が「大阪」とか「串カツ」とか書いてある「山ちゃん」という店に。調べてみると大阪には1店舗しかないようで、あとは鳥取・米子・松江・出雲にあるらしい。山陰で大阪の味も良いかと思い、もとい、ここが一番昼から酒を飲むのに相応しい店だったので、旅の最後は「大阪新世界 山ちゃん」で。

せっかくなんで普段はあまり頼まない刺身を食べてみると、やっぱり関西で食べるよりは美味しい。昼からビール3杯ハイボール1杯を飲み干し、米子駅へ。

便宜上今回は「米子編」としましたが、米子の内容は薄い薄いものに...

今回の一人旅。おそらく最初から最後まで一人で旅をしたのは初めて。あまり計画も立てずにその場その場で行き先を考えながら、時間以外の何にも囚われず、自由で楽しい体験でした。

42才にして一人旅の魅力に気づいてしまい、これからチャンスがあればたまに行きたいと思います。日本は魅力的な国ではですから、行きたいところははいくらでも。

4月からの転職先でガッポリ稼いで、次はもうちょっとリッチな旅を!

男の一人旅日記〜松江編

2019-03-21 13:44:27 | 日記
前回は竹島資料室に入れなかったところまで。
竹島資料室のある島根県庁から島根城はすぐそこ。



お城は真下から見るより少し離れたところからの方が趣があるもの。島根県庁横から撮った島根城です。よく見ると停車中の車の横の大きな石に「島根県庁」と書いてあります。

こちらは真下からの島根城。



僕の前にここで写真を撮ろうとしていたおじ様が「人の出入りが多くて写真に人が写ってしまう」とブツブツ文句を言いながら立ち去って行った直後に人の流れが途絶えるという運の良さ!

「誰もいなくなりましたよ」って声をかけてあげようかと思いましたが、おそらくおじ様が戻ってきたら人が出てくるだろうと、思いとどまりました。

中に入るとなかなか展示物が充実しており、ゆっくりと松江の歴史を学んできました。そう、僕は「お城好き」のつもりですが、風景を見るより展示物を見るのが好きなんですよね。初めて彦根城に行った時に長浜城跡にも行ったのですが、僕の感想は長浜城跡の方が良かった。何故なら、彦根城は江戸時代に建てられた城で、実際にここが攻められる事や戦に関連する事が無かったから。長浜城は戦国時代からある城ですので、いろいろな戦に関連があるわけです。そして展示物も充実していた。

さて、松江城に話を戻します。ここも江戸時代に作られているので、実際には戦に関わった事は無いはずです。しかしながら誰が建ててその後誰が治めたのかも知らなかったので、その辺りを城のすぐ横にある歴史博物館と場内の展示物で詳しく教えてくれています。

松江城を築いたのは堀尾吉晴という信長・秀吉・家康と当時の権力者に仕えた築城の名手だったらしい。名前だけは知っていましたが、その後国宝になる松江城を築いた人だとは知りませんでした。

現在、戦国・江戸時代から現存する天守閣を持つ城は12あると言われています。
何故5つだけが国宝なのか?それについて島根城の展示物には「築城の年と工法がはっきりしている事の価値が認められた」という感じの事が書いてありました。実際、国宝5城では最後に国宝認定を受けています。

館内の写真撮影は制限されていませんでしたが、周りの方々も写真を撮っている感じはなく、僕も何故か撮りたい気もしなかったので自粛。

最上階からの展望だけはきっちり撮影してきました。



湖が見える眺望は最高ですね!

松江城の最後は「お決まりの自撮り」



出雲大社の時よりは上手になってますね。

松江城の後はすぐ横にある歴史博物館に行きましたが、こちらの展示物も松江の歴史に疎い者には充実の内容でした。

松江城とセットでチケットを買っていたのですが、この券だと現在開催中の特別展には入れないと言われましたが、「通常展だけで結構です」と中へ。特別展はツバキがどうとかって書いてありましたので、歴史の文献や展示物に興味がある僕からすると通常展だけで充分なんです。スケジュールも巻き気味ですし。今日中に松江を回り尽くすつもりですし。

この歴史博物館は松江藩の家老の武家屋敷を改築して作られているらしく、なかなか立派な建物でした。しかし、写真は撮ってきていない。そもそもこちらの歴史博物館も館内撮影はOKだった気がしますが、何故か気が引けて自粛。そもそも観光している時はこんなブログを書くつもりでも無かったんですね。

松江城と歴史博物館のセットで1,000円くらい払いましたが、どちらも充実の展示物で大満足でした。
松江の歴史の勉強を終えて、ゆっくり見てきたつもりでしたが、まだ結構時間はある。確か、ここまでで14時台だったかと。そう、7時ごろから観光しているので、出雲大社周りと島根城周りを観光してもまだまだ明るい時間帯だったんですね。ちなみに出雲大社あたりから松江に入るまでの所要時間は1時間ほど。

さて、まだまだ旅館に行くには早いのでもう少し観光をという事で松江にゆかりがある小泉八雲の関連施設へと。

道中の風景です。

松江城のお堀。湖も好きですが、やっぱり水のある風景ってキレイですよね。水質自体はキレイとは言えませんが。遊覧船も頻繁に走っていました。


こちらは小泉八雲記念館の前の風景。道路の向こうはお堀です。たまたま人も車も写らない風景が撮れました。この辺りは城のすぐそばという事もあり、武家屋敷が立ち並ぶエリア。八雲もその武家屋敷に住みたくてここを買ったとか。

そもそも小泉八雲とはどんな人物だったのか。小泉性の女性と結婚して帰化したラフカディオ・ハーンという人だという事と「耳なし芳一」などの怪談を書いた人だというところまでは知っておりました。

アイルランド人の父とギリシャ人の母の子で、幼少の頃に母親とは別れ、父方の大叔母に育てられた。資産家だった大叔母が破産して、若い頃は相当苦労をしてアメリカに渡る。そこで記者として活躍し、いつしか日本の文化に憧れるようになり日本に渡る。来日までの半生はこんな感じ。

来日後は英語教師や記者として生計を立て、文学作品を書くようにになる。実は夏目漱石も似たような経歴で、漱石の作品の一部はかなり八雲の影響を受けているものがあるらしい。松江には英語教師として来ていましたが、八雲が松江を離れた後の後任は漱石だったそうです。

小泉八雲の写真は常に顔の右半分しか写っていない。これは16才の時、遊戯中の事故で左目を失明しているから。コンプレックスを持っていたようです。小泉八雲旧居には八雲が愛用した机のレプリカが展示されていました。椅子の高さに比べて机が異様に高い。これは右目だけ、しかも視力も相当悪かったらしいのですが、目を擦り付けるように読書や執筆をしていたからだそうです。

1890年に来日してから亡くなるまでの15年間で松江に居たのはたったの1年と少し。その後は熊本、神戸、東京と住まいを変えて行くのですが、何故か松江にゆかりのある人で有名です。おそらく他の地は仕事の都合で行ったが、松江だけは文化に魅力を感じ、本人が希望して移り住んだ地であった事が関係してるように思います。

八雲という日本名は松江あたりの旧国名である出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」に由来しているとの事。

どんな人物だったかは興味があったのでそちらを中心に展示物を見て回り、文学作品の事はすっ飛ばして小泉八雲記念館から次の目的地へ。

そろそろ歩き疲れたので、旅のメインイベントであるお酒に。

島根堀川地ビール館。
残念ながらこちらの写真は一切なし。
もう夕方でしたので、地ビール飲み比べセットとどて焼きのようなものを注文。

地ビール飲み比べセットは「ピルスナー」「ペールエール」「ヴァイツェン」の三種。

こちらの写真は島根堀川地ビール館のホームページより引用です。

ピルスナーとペールエールは日本でも馴染みのもので特に抵抗もなく美味しく頂けました。
ヴァイツェンは説明書きにもあるように小麦ビールで変わった匂いがする。こちらはちょっと苦手でした。

いつもならおかわりと行くところですが、ぼちぼち旅館に移動して晩御飯をどうするかも考えないといけないところ。最初のオーダーだけで会計に。もっと地ビール飲みたかったですが...

さて旅館ですが、宍道湖のレイクビューを期待して松江しんじ湖温泉のとある宿を予約。案の定、部屋からは一面宍道湖の絶好の部屋。



夕方と朝の宍道湖。

宍道湖は日本で7番目に大きい湖。淡水にわずかながら海水が混じる汽水湖です。

旅館で温泉に浸かってから晩御飯を食べに松江の街にバスで繰り出すのですが、ちょうど日没時間。宍道湖の夕日は名物のひとつらしく、とても美しい風景でした。

残念ながら、バスの運転手さんのアナウンスで知ったので、目には焼き付けましたが写真は無し。

ちょうど角度的には宿泊してる旅館から出たところあたりが夕日スポットで、少しでも街の方に走ってしまうと夕日は建物や木の陰に隠れてしまいます。バスを降りたところでは完全に夕日は隠れて空が赤くなっているだけでした。

晩御飯の店は旅館に置いてる観光案内で、地元のお酒と魚を出してもらえそうな店をチョイス。

「食酒処かわばた」というお店へ。カウンターの端でおじ様がお一人座っておられて、その逆の端へ。どうやら政治・社会に関心の高い方らしく、カウンターの向こうの大将らしき人と「日本は外国勢力に侵略されている」らしき話をしている。なかなか僕には興味がある話。

注文時に一人旅である事を告げるとおじ様からいろんな質問が飛んできて、大将とのトークに僕も参戦!おじ様とは考え方は近いが、どうも少し過激な方である。「国破れてマッカーサー」という本を片手に「この本に外国勢力の陰謀が全て書かれている」との話。最初は面白い人だなぁ、と聞いていましたが、途中から自分が主催するセミナーの話や、反対勢力からのサイバーアタックを受けた話など。

だんだんと話が胡散臭く聞こえるようになり...最後におじ様が書いているというブログを読ませてもらいましたが...あまり中身の無いものでした。どうやら読んだ本の受け売りを自分の考えのように、そして多少の妄想を交えて話をされる方なんだと認識。世間にはいろんな人が居ますからね。

おじ様が帰った後に大将から「あの方のお話はついて行けないので、間に入ってもらい助かりました」との事。こんな所で政治・社会を多少なりとも勉強していた事が役に立つ事に!

その後はスタッフの方を交えて島根県の文化などをお聞きして楽しいひと時を過ごして旅館に戻る。この日はせっかく日本海側に来ているんですから、いつもはあまり食べない海産物をという事で、オコゼの刺身やカンパチのカマ塩焼きなどを頂きました。また来たくなる、とても良いお店とスタッフの方々でした。

帰りにコンビニに寄ってチューハイを2本買うも、1本空けたところで寝てしまっていたようです。日本酒もそこそこ飲んでいたので、そこそこの酒量だったはず。

翌日は竹島資料室から。つづきは次回へ。

男の一人旅日記〜出雲編

2019-03-20 19:14:17 | 日記
あまり旅をする事がないワタクシ。
約20年ぶりに一人旅をしましたので、備忘録として残しておこうと思います。

行きは夜行バスからのスタートでしたので、2泊2日の出雲旅行です。

きっかけはというと、今月の初めに名古屋に行ったついでで犬山城を見てきた事。

犬山城といえば、国宝5城のひとつ。

残りの4つは姫路城、彦根城、松本城、島根城です。

島根城以外は既に見ているので、最後のひとつを見ようと思い立ち、運良くヒマもありましたので一人旅をする事に。

そう、ヒマというと来月から転職するので、今月はほとんど有休消化なんです。運良く転職先もすんなり決まったので3月はめっちゃ気楽な日々を過ごしております。

さて、3/18(月)の京都発出雲行きのバスに乗り、翌早朝には出雲着。7時くらいには出雲大社付近に着いておりました。

さすがに7時では観光の名所、出雲大社でも人影はまばら。





昼間ではあり得ない、人影のない出雲大社の風景。6時から入場できるらしいです。

場内にはこんな看板も。

最近我が家では時代遅れのポケモンブームで、ゲームはほとんどやらない僕がややハマり気味なんです。元々は子供にやらせる為に始めたはずが...

神社や寺にはポケモンがウヨウヨ居て、ポケストップもたくさんある事が多いので、期待していたのですが、出雲大社の中には全くポケモンが居ないというまさかの展開。

それなりにゆっくり回りましたが、横にある古代
出雲歴史博物館を残してまだ8時台。警備の方に聞いても、まだ開館してないだろうとの事でしたので、少し寄り道をしようと。

1キロ程歩けば浜に出られるので、ポケモンGOをやりながら日本海を見に行く事に。

案の定、出雲大社関連の施設から一歩出ればポケモンがウヨウヨ。

浜まで出る道は「阿国ロード」といって、歩道はキレイに整備された道でした。残念ながら写真は撮り忘れ。

途中には出雲阿国関連の施設も。




そして「稲佐の浜」



鳥居のある大きな岩のようなものは「弁天島」というそうです。ここの浜の砂を出雲大社にお供えして、お供えしてあるものをもらって帰る習慣があるとか?要するに交換って事ですよね。少しの間だけ出雲大社に置いて清めたものを持って帰るというところでしょうか?



こちらは少し離れたところの高台にある公園から撮ったもの。弁天島が小さくて、前の写真と同じものとは、書かないと気付かないですね。

そしてポケモンやりながらゆっくり出雲大社に戻り博物館へと行きますが...



なんと今月唯一の休館日に当たったようです。

僕はただの歴史好き男で、神話には特段の興味があるわけではないのですが、何故か古代の出雲大社だけは興味があるんですよね。

今の出雲大社の本殿はそんなに高くないですが、古代のものは24mあったとか、48mあったとか、歴史ロマンを感じるものなんですよね。

数年前に京都国立博物館で「大出雲展」なるものが開催されていて、おそらく人生で初めて自分でお金を払って博物館に行ったという事もありました。それくらい古代の出雲大社には興味があったんですね。

諦めの良い僕はすぐに切り替えて、松江方面に移動しようと駅に向けてポケモンをやりながら歩き出す。おっと、入り口のところで沢山の人が自撮りをやっているので真似してみよう!


慣れてないのでヘタクソ。オッサンの顔メインですみません。

そういえば朝から何も食べてないので、出雲そばでも食べて行くかと、明らかに観光客相手に商売しているらしい店に入ったのがちょっと失敗!

そばを注文してから、「お酒は出されてないのですか?」と聞くと、「となりのお店に地ビールならありますが」と。地ビールじゃダメなんです。ビール好きの僕でも。そばを食べながら昼から日本酒を飲むのが酒飲みの至福の時なんですよね。

仕方なく、そばと美味しいそば茶を頂き一路松江へ!

松江城へ行く前に一駅前で下車して「松江イングリッシュガーデン」という施設に立ち寄る。

事前に公共交通機関で松江城方面へ行く時間を調べると、電車が1時間後でバスは15分後。

行ってみると入場無料のそんなに大きくない施設。10分で一周しバス停へ。これまで仕事でガーデニングをしておりましたが、次の仕事には関係なく、ゆっくり見る事もなくいそいそと松江城へ。そう、出雲の歴史博物館を見ずに松江に来たものだから、今日中に松江城周辺は回ってしまい、明日にもう一度出雲大社方面へ行こうかと考え巻き気味のスケジュールです。





備忘録なんで写真だけはつけておきます。まだ寒い季節なので、あまり花は咲いてないけどもキレイなイングリッシュガーデン。宍道湖が見えるのも良いところ。

さて、松江城の最寄りのバス停で降りると、島根県庁の一角に「竹島資料室」なるものを発見!スケジュールの具合はよく分かってないが、これは見ておかないと!

またしても休館日。こちらは火曜日が休館日だそうです。しかし、本日は松江泊なので明日また出直そう!相変わらず切り替えの良い男です。

では松江城に入りたいところですが、このまま突入するとかなりの長編になりますので、次回へと。

次も読んで下さい!

大津から大阪の政局を考える...其の二。堺市も含めて大阪の維新以外の議員は住民の存在を無視している。

2019-03-16 15:12:48 | 政治
好評につき続編を...という訳ではなく、テレビや新聞では大阪の政局が客観的に流されていないように感じますので、僕なりの見解を交えて書いてみたいと思います。

まず当ブログ3/8の投稿

https://blog.goo.ne.jp/gharada5000/e/efa25249946c6d915ba489243d2cf9f8

一週間経って訂正したい点があります。大阪市長選に維新側が負けるメリットもあると書いてますが、あまりに危険な賭けであると思い直しました。全ての選挙に勝って大阪都構想を進めるための知事と市長の辞任だったのです。

何故、大阪の府知事と市長が揃って辞職して府議会・市議会の選挙と同日選挙にするのかの意味をしっかり理解してませんでした。

維新側が大阪都構想を進めようとすると、公明党との協力関係が無くなった今、府議会と市議会で過半数を握るしかない。全ての選挙区において中選挙区制の大阪市議会議員選挙で過半数を握るのは至難の技。定数が偶数の選挙区は半分取れば良いが5人のところは3議席、3人のところは2議席をある程度の選挙区で取っていかないと過半数には届かない。ハードルが高すぎるんですよね。

そこで知事と市長の選挙も同日に行い、投票率を上げる事によって無党派層の票が維新に流れるようにしようとしているわけですね。

その事は松井知事も明言しており、他党は維新の党利党略だと言うが、ルールの範囲内で政策実現の為に使える手を使っているだけで、何ら批判されるものでもない。

むしろ党利党略で国政では絶対手を組まない自民党と共産党や犬猿の仲の公明党と共産党が協力関係にある事の方がよほど党利党略だろう。

さて、今回の投稿は維新以外の大阪の議員たちは住民の意見を無視しようとしているという点を指摘してみたいと思います。

まずは大阪市で起こっている事。以前の投稿と重複があるかもしれませんが、改めて。

維新の会が大阪都構想を進めようとする時にこれまでは公明党の協力が必要でした。公明党は都構想には反対の立場ながら、住民投票を実施するところまでは協力する立場を取っていました。自分達の立場はどうあれ、住民の声を聞こうとする姿勢は素晴らしいものです。どんな打算があったにせよ。

しかしながらこの立場がここ数ヶ月で変わってきました。約束を反故にして実質的に住民投票はさせない方針に。

ここからは僕の推測ですが、公明党の方針転換は二つの理由が考えられる。

一つ目に、住民投票を実施すれば今回は可決されて大阪市は無くなり、大阪市議の立場も無くなる可能性が高いと踏んだ。

二つ目に、橋下氏が去って数年で力が落ちてきた維新との協力関係がなくても、自分達の選挙は安泰だと判断した。

おそらくこの二つの理由が混ざり合っての方針転換だと推察出来る。住民を無視した党利党略ですね。何におもねっているのか、テレビも新聞も絶対こういう事は言いません。

公明党の方針転換の結果、大阪府・市では完全に維新の会vsその他全党という構図で選挙が行われる事になる。

この構図から、無党派層はどの団体からも支援を受けていない維新の会に票を投じる事が正しい事を物語っている。間違いなく党利党略は維新以外の全党である。

松井氏が言うように、知事・市長の選挙をぶつける事で無党派層を動かし、府議会・市議会の過半数を何とか確保しようとする戦術は考えられる最善の策なのだろう。

さて、話題を堺市の方に移します。市長の政治資金に使途不明金が1億円以上出てきており、これは関西のテレビでも連日流れています。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190314-19340403-kantelev-l27

ニュース記事にもあるように維新の会が不信任決議案を出したところ、維新以外の全ての議員の反対により否決されてます。そして何ら法的拘束力もなく辞任の必要がない「問責決議」が可決されてます。これは明らかに議会の仕事したフリです。

市長の進退には何ら影響の及ばない問責決議を通しても何も動きません。自分達が支援して当選した市長をなり振り構わず守っている、しかし文句だけは言っているフリ。

ここも市長ポストを維新の会に取られれば自分達の立場が危うくなる議員たちの党利党略。

どう考えても、3年前に辞任に追い込まれた舛添都知事のケースよりも今回のケースが悪質です。その前の猪瀬知事も5000万円で辞職に追い込まれてます。まして今回のケースは一件の使途不明金ではなく、領収書が6割残ってないという悪質なケース。これが許されるなら政治資金規正法なんてザル法と言わざるを得ない。いや、実際に議員たちが自分達の逃げ道を残して作った法律なんでザルなんでしょうが。

このケースは不信任決議を通して、市長の信任を選挙(この場合は辞職後の市長選か、解散後の市議選)で住民に問うべき案件である。

しかしながら維新以外の全議員が住民の声は聞かないというばかりの姿勢でやり過ごした。大阪府・市だけではなく、同じく大阪府内の政令市である堺市でも住民を無視した政治がまかり通っているのである。

ここまで書いて、維新の会に肩入れしている点が客観的ではないと言われるかもしれないが、僕に言わせればこれが客観的な大阪の政治の見方である。

そもそも維新vsその他全党という構図になるのは違和感がないか?本音を言うと自民党の中でも大阪都構想には反対ではないと思っている政治家はたくさん存在するはず。安倍総理と菅官房長官は間違いなく反対ではない。

客観的に見て、各論では議論の余地がある部分も否めないはずだが、総論では大阪都構想を真っ向から否定など出来る訳がないんだから。この10年の大阪経済や財政の持ち直しを見ればそれは明らかである。

大阪の住民の皆様には、誰が住民の方を向いていて、誰が自分達の事ばかり考えているか、それを見極めて投票に行って頂きたいと思います。もとい、大阪に限らず日本国中でそうあるべきだと考えます。

地域の生の声を書いてみます。

2019-03-10 00:46:13 | 日記
先日開催された地域の役員会での一幕を紹介したいと思います。

一通り議題が終わった後に話題が大津市政の話になり...

大津市において現在一番の話題は支所機能の事なんですよね。

支所とは市役所の出張所で、市民は市役所まで行かなくとも、ある程度のサービスは支所で受けられる。大津市においてはその支所を小学校区(大津市では学区と言います)毎に配置している。これは人口や面積の比率で考えても滋賀県内の自治体では断トツに多いものなんです。

そこで市長から現在36カ所の支所を10カ所に絞り、26支所から職員を引き上げる提案がありました。

これには支所が残る学区も含めてほとんどの学区が反対し、議員からもかなり反対の声が上がりました。主な反対意見は近いところに支所が無くなるのは不便なのでという事。反発は大きかったので市長は方向転換をしたという話。これは某市議から聞いた話なので間違いないとは思いますが...

代替案は26支所には最低限の人員は配置するが受付時間の短縮や業務の制限をするなどして、36支所の人員はこれまでの半分にするという案。

これを聞いての僕の感想は「市長は上手く反対論を逆手に取ったな」というところ。

試算すると代替案の方が人件費の削減幅は大きくなるらしい。しかしながら元々残る予定だった10支所は機能が維持される上に、業務が縮小された地域の住民が回ってくる事が予想されるのに、人員は減らされる事になるという話。どう考えてもこれまでより忙しくなります。

うちの学区は機能が維持される支所なんですが、支所長の話によると、体制が変わってない現状でも業務が忙しくて昼休憩が遅くなったり取れない日がほとんどだとか。

僕のこれまでの考えでは、役所機能は小さくしていくべきだし、市長の考え方には賛成していました。やり方は慎重にあるべきだとは思っていましたが。

様々な意見が飛び交う中で僕が一番良い事を仰ったなと思ったご意見を紹介します。記憶を辿るので正確ではないですが。

「人口が減っていくのが分かっている中で役所の業務を減らして行く方向性には反対しないが、今回のやり方は民の声を無視していないか?住民サービスの低下を危惧している中で、何故に住民に一番近いところから削ろうとするのか?役所の中や関連団体には天下りのようなものも存在するが、天下りの元幹部を一人削れば支所の嘱託や臨時職員の方を何人残せるのか?住民から少し離れたところで働いている本庁の職員の人員配置は適正なのか?市長や市議の報酬は適正なのか?そのような事を精査せずに、住民から近いところを削り住民サービスを低下させ、住民から遠いところは温存するのはおかしいのではないか?」

まさに正論!

これってまさに維新の会がやろうとしてる事なんですよね。しかしながらこの方が維新の支持者かというと、多分そうではないと思います。もちろんこの方には会合の後に「それは維新の会がやってる事ですよ」と伝えておきました。

この投稿で言いたかった事は「維新の主張は地域で頑張っている人たちには認知さえされれば受け入れられるものである」という話。

誰かを批判するつもりはないですが、総じて維新の関係者は広報というか、宣伝というか、自分達は正しい事をやっているのにアピールするのが下手なんだと思うんです。

そんな事言ってる僕も自分の親すら維新の支持者に出来てないので大きな事は言えないんですが...

ブレずにやるのは大事ですが、やはり広報や宣伝も必要だと感じた、しかしながら維新の会のポテンシャルも改めて感じた出来事でした。