少し空いてしまいましたが今回の「男の一人旅」完結編です。
前回と前々回の出雲編と松江編も付けておきます。
出雲編
https://blog.goo.ne.jp/gharada5000/e/f39f668f4bce661c0a88f86e944bed46
松江編
https://blog.goo.ne.jp/gharada5000/e/1c7b0c28f523d608f2556ab33794b9a5
今回は米子編と題してますが、まずは前日に閉館日で見られなかった竹島資料室へ。
さて、竹島問題はかなりデリケートなものですので、例え素人のブログであろうと投稿内容は慎重にならざるを得ません。
ごく簡単にこの問題をまとめてみます。
日本の主張は、1905年に他国が領有を主張していない事を確認した上で島根県隠岐島司の所管であると閣議決定しています。当時の島根県知事が「竹島」の名称と所管を告示したのがその年の2/22でした。この2/22が2005年に島根県で「竹島の日」と条例で定められています。
第二次大戦後、日本は多くの領土を失う事になりますが、竹島に関してはサンフランシスコ平和条約の日本が放棄する島には入っておりませんでした。韓国はアメリカに竹島も放棄する島に加えて欲しいと願い出ましたが、拒否されています。理由は日本側は1905年に閣議決定で島根県の管轄としてますが、朝鮮領土として扱われた事も領土主張がなされた事も認められないとの理由。これが1951年の出来事。
1952年に韓国が「李承晩ライン」を宣言して竹島を占拠しました。これが竹島問題の始まりです。
ここまでは事実でここからは僕の考えです。
ここまで読んでもらえれば日本の主張の方に理があるように思います。韓国側は1905年という時期は1910年に日韓併合される直前で、当時の朝鮮には日本に抵抗する力はなく、日本の侵略の始まりでありこれは無効であるというような主張をしている。それにしても1905年以前に領有を主張していた事もないので、無理がある主張ですね。
もっと昔に遡っていろんな文献などを持ってきて領有を主張しようとしてますが、それも間違いなどが散見され、最近のレーダー照射事件と同じく、言ってる事がコロコロ変わってる感じがあります。今も昔も国民性は変わらないということでしょうか。
さて、ポイントは日本が国際司法裁判所に合意付託する(決着をつける)事を提案してきましたが、韓国はこれを拒否しています。僕の感覚では何故に裁判する事にお互いの同意が必要なのか?というところ。一般的に裁判とはどちらかが訴えると相手側は被告となり裁判を受けざるを得ない。
この点について、今回の資料室訪問で謎が解けました。「主権は至高の権力なので同意しない限り、一方的に裁判を受けさせる事は出来ない」との文言が展示物の中にありました。どのような機関といえど、国家主権は侵せないという事でしょう。だから合意付託する(お互いの合意の上で決着を国際司法裁判所に任せる)事で国際司法裁判所の判決が出れば従うという流れに出来る。国際司法裁判所といえど、国家に対して一方的に支持や命令は出来ないというところでしょう。
もう一つ勉強になったのは、「選択条項受諾宣言」という概念の事。ネットから単語の意味を拾うと...
「つまり通常主権国家間の国際紛争は相手国との交渉,合意によって解決されるのが普通であるが,この条項の受諾宣言によって,同様にこの条項を受諾することを宣言した他の国々との間に,第三者たる国際司法裁判所の義務的管轄が自動的に発生することを認めたことになる」
となっている。
ようするにこの宣言をしている国同士だとどちらかが国際司法裁判所に提訴すれば、自動的に国際司法裁判所に付託される事になり、判決に従わざるを得なくなる。
日本は1958年にこれを宣言しています。韓国はこの宣言をしていません。ですので、韓国が応じないと国際司法裁判所に付託する事は出来ないという事になります。
ある意味絶望的ですね。この問題に関して、僕は強硬的な意見を持ってますので、国交断絶をチラつかせて付託に持ち込むくらいの事をしてもいいのでは?と思っています。そこまでいくと在日韓国人の人たちはある意味人質になるのでは?
韓国側からすると送り返されても困る、扱いが悪くなっても困る。日本からすると韓国の弱みなんていくらでも持ってると思うんですがね。
この選択条項受諾宣言についてもう少し詳しく書くと、宣言したその後に起こった事象について適用されるので、竹島問題が1952年からで日本の宣言が1958年ですから、竹島問題に適用される事はないという事。
おそらくら中国も宣言はしてないでしょうから尖閣諸島にも適用される事はないという事でしょう。こちらは日本が受けない限りは国際司法裁判所に付託される事はない。
元々は次の予定の絡みで30分以内にはこの資料室を出るでしたが、あまりにも興味深い内容でしたので1時間以上も滞在してしまい、後の予定に影響する事に...
さて竹島資料室を後にして、次なる目的地はこちらも昨日休館日で入れなかった古代出雲歴史博物館。そこまでの交通手段はほとんどの時間帯で1時間に一本しかない一畑電鉄。竹島資料室で予定を超えて滞在してしまったので、出雲での時間はあまりない。
昨晩コンビニで買った缶チューハイを一本残してしまっていたので、カバンからそれを取り出し飲みながら歩いて松江しんじ湖温泉駅へ。
冷たくして飲みたいと旅館の冷蔵庫の冷凍部分に入れていたため、朝まで放置して半分凍っていたものがいい具合に溶けて冷たくて美味しい。朝から酒を飲みながら観光。一人だから何でもありです。
駅に着く頃に缶チューハイを飲み干し、1時間の電車の旅に備えてトイレへ。すると...発車のベルが。
1時間に一本という認識から、勝手に前の電車の1時間後と思いこんでしまい、実は55分後だったので駅の外のトイレで発車のベルを聞く事に。
切符も買ってないので間に合うはずもなく、さてどうしたものかと。
次の電車も1時間後。 それで行くと帰りのバスに間に合わせるには出雲滞在は1時間もいられない。これではゆっくり博物館を見られないし、昼御飯を食べる時間もない。
「米子へ行こう!」一瞬で頭が切り替わりました。帰りは諸事情から16:20米子発のバスを予約してましたので、米子観光をする事に。
そもそも出雲の博物館に行きたかったのは、古代の出雲大社の模型が見たかったから。後々考えると、もしかしたら数年前に京都で見た模型は出雲から出張してきたもので、同じものなのではないか?そう考えると帰りのバスとは反対方向の出雲に向かう事がバカバカしくなってきました。
旅の前に考えていたプランの一つに松江に泊まった翌日は宍道湖の隣でこちらも汽水湖の中海をレンタカーでドライブして米子に乗り捨てるというのがありました。
しかし!
先程お酒を飲んでしまったのでそのプランは不可能に...
またまた切り替えの早いワタクシ。すぐにJR松江駅行きのバスに乗り、電車に乗り換えて米子まで。そして米子に着いたのがたしか12時ごろ。
米子で観光しようにも、たった4時間程度では行けるところも限られています。米子城跡が歩いて行けそうな距離だったので、地元名物を食べられそうなお店を探しながら歩く事に。
しかしながら米子の名産を検索しても何も出てこない。道の選択肢が2つあったが、選んだ方の道は駅のすぐそばから店が並んでいる感じではない。イオンがあったので入ってみるが、どうも入りたい店はない。
昼食は後でもいいかとスタスタと米子城跡まで。
[user_image 00/c7/87f14a099e23d7b7125e86b88434aef7.
以下に米子市ホームページより「米子城の歴史」
https://www.city.yonago.lg.jp/4438.htm
さらに米子市ホームページより米子城の概略を引用します。
西伯耆の拠点的な城であった米子城は、山陰で最初に築かれた近世初期の城郭です。
天守のあった標高90メートルの湊山は、北側に丸山、東側に飯山、さらに南西側には中海という天然の要衝を擁する地で、この城山を内堀で囲み、さらに外郭に武家屋敷を配し、外堀を巡らせるという、典型的な平山城の特色を備えていました。
湊山頂上には、四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が、華麗に連なっていました。
江戸時代に発布された「一国一城令」の下、例外として存続を許された「支城」と呼ばれる城のなかで、このような天守をそなえたものは全国でも稀です。
城の建物は、ほとんど姿を変えることなく、明治にいたるまでその偉容を誇りました。
その城の建物は残っていませんが、石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめ、その構造を知ることができる城跡として重要です。また、米子城に関する文献・絵図資料なども数多く、良好な状態で伝えられています。
そのため、平成18年1月26日、米子城跡は国史跡に指定されました。
現在、内堀から内部は、飯山と湊山の一部を除き、「湊山公園」となっています。
また、城山一帯には、市街地に残る数少ない貴重な自然が保護されており、多くの動植物に接することができます。
城山はウォーキングコースとしても市民に親しまれ、ふもとから約15分の頂上から望む大山、日本海、島根半島、中海は絶景です。
現在の国道9号線沿いに位置していた米子城。ふもとから石垣が残っていましたが、天守閣があったと思われる頂上まで登るには15分ほど。まさか山登りをする事になるとは思っていませんでしたので、大きめのトートバッグを持ってよく滑る靴で泥混じりの道を歩く事に。
道中は小さいながらも泥沼のようなところもあり、靴を汚しながら汗まみれになって山頂へ。
山頂の景色はなかなかのものでした。松江城もそうでしたが、江戸時代あたりに作られたお城はちょっとした山の上に築かれてるんですよね。江戸城、名古屋城、大阪城などの巨大な城は別として。
山頂からの景色。
山頂が白くなっているのが大山です。
9年程前にこの山に登ったんだなぁと感慨深く眺めておりました。確か初夏あたりだったはずなので景色は全然違いますが。
さて、山から降りてきてもまだ14時になっていない。行くところもないので、昼食ついでにビールを飲めそうな店を探す事に。行きとは違う方の通りを歩くと、それなりにランチをやってそうな店がチラホラと。
そして入った店が「大阪」とか「串カツ」とか書いてある「山ちゃん」という店に。調べてみると大阪には1店舗しかないようで、あとは鳥取・米子・松江・出雲にあるらしい。山陰で大阪の味も良いかと思い、もとい、ここが一番昼から酒を飲むのに相応しい店だったので、旅の最後は「大阪新世界 山ちゃん」で。
せっかくなんで普段はあまり頼まない刺身を食べてみると、やっぱり関西で食べるよりは美味しい。昼からビール3杯ハイボール1杯を飲み干し、米子駅へ。
便宜上今回は「米子編」としましたが、米子の内容は薄い薄いものに...
今回の一人旅。おそらく最初から最後まで一人で旅をしたのは初めて。あまり計画も立てずにその場その場で行き先を考えながら、時間以外の何にも囚われず、自由で楽しい体験でした。
42才にして一人旅の魅力に気づいてしまい、これからチャンスがあればたまに行きたいと思います。日本は魅力的な国ではですから、行きたいところははいくらでも。
4月からの転職先でガッポリ稼いで、次はもうちょっとリッチな旅を!
前回と前々回の出雲編と松江編も付けておきます。
出雲編
https://blog.goo.ne.jp/gharada5000/e/f39f668f4bce661c0a88f86e944bed46
松江編
https://blog.goo.ne.jp/gharada5000/e/1c7b0c28f523d608f2556ab33794b9a5
今回は米子編と題してますが、まずは前日に閉館日で見られなかった竹島資料室へ。
さて、竹島問題はかなりデリケートなものですので、例え素人のブログであろうと投稿内容は慎重にならざるを得ません。
ごく簡単にこの問題をまとめてみます。
日本の主張は、1905年に他国が領有を主張していない事を確認した上で島根県隠岐島司の所管であると閣議決定しています。当時の島根県知事が「竹島」の名称と所管を告示したのがその年の2/22でした。この2/22が2005年に島根県で「竹島の日」と条例で定められています。
第二次大戦後、日本は多くの領土を失う事になりますが、竹島に関してはサンフランシスコ平和条約の日本が放棄する島には入っておりませんでした。韓国はアメリカに竹島も放棄する島に加えて欲しいと願い出ましたが、拒否されています。理由は日本側は1905年に閣議決定で島根県の管轄としてますが、朝鮮領土として扱われた事も領土主張がなされた事も認められないとの理由。これが1951年の出来事。
1952年に韓国が「李承晩ライン」を宣言して竹島を占拠しました。これが竹島問題の始まりです。
ここまでは事実でここからは僕の考えです。
ここまで読んでもらえれば日本の主張の方に理があるように思います。韓国側は1905年という時期は1910年に日韓併合される直前で、当時の朝鮮には日本に抵抗する力はなく、日本の侵略の始まりでありこれは無効であるというような主張をしている。それにしても1905年以前に領有を主張していた事もないので、無理がある主張ですね。
もっと昔に遡っていろんな文献などを持ってきて領有を主張しようとしてますが、それも間違いなどが散見され、最近のレーダー照射事件と同じく、言ってる事がコロコロ変わってる感じがあります。今も昔も国民性は変わらないということでしょうか。
さて、ポイントは日本が国際司法裁判所に合意付託する(決着をつける)事を提案してきましたが、韓国はこれを拒否しています。僕の感覚では何故に裁判する事にお互いの同意が必要なのか?というところ。一般的に裁判とはどちらかが訴えると相手側は被告となり裁判を受けざるを得ない。
この点について、今回の資料室訪問で謎が解けました。「主権は至高の権力なので同意しない限り、一方的に裁判を受けさせる事は出来ない」との文言が展示物の中にありました。どのような機関といえど、国家主権は侵せないという事でしょう。だから合意付託する(お互いの合意の上で決着を国際司法裁判所に任せる)事で国際司法裁判所の判決が出れば従うという流れに出来る。国際司法裁判所といえど、国家に対して一方的に支持や命令は出来ないというところでしょう。
もう一つ勉強になったのは、「選択条項受諾宣言」という概念の事。ネットから単語の意味を拾うと...
「つまり通常主権国家間の国際紛争は相手国との交渉,合意によって解決されるのが普通であるが,この条項の受諾宣言によって,同様にこの条項を受諾することを宣言した他の国々との間に,第三者たる国際司法裁判所の義務的管轄が自動的に発生することを認めたことになる」
となっている。
ようするにこの宣言をしている国同士だとどちらかが国際司法裁判所に提訴すれば、自動的に国際司法裁判所に付託される事になり、判決に従わざるを得なくなる。
日本は1958年にこれを宣言しています。韓国はこの宣言をしていません。ですので、韓国が応じないと国際司法裁判所に付託する事は出来ないという事になります。
ある意味絶望的ですね。この問題に関して、僕は強硬的な意見を持ってますので、国交断絶をチラつかせて付託に持ち込むくらいの事をしてもいいのでは?と思っています。そこまでいくと在日韓国人の人たちはある意味人質になるのでは?
韓国側からすると送り返されても困る、扱いが悪くなっても困る。日本からすると韓国の弱みなんていくらでも持ってると思うんですがね。
この選択条項受諾宣言についてもう少し詳しく書くと、宣言したその後に起こった事象について適用されるので、竹島問題が1952年からで日本の宣言が1958年ですから、竹島問題に適用される事はないという事。
おそらくら中国も宣言はしてないでしょうから尖閣諸島にも適用される事はないという事でしょう。こちらは日本が受けない限りは国際司法裁判所に付託される事はない。
元々は次の予定の絡みで30分以内にはこの資料室を出るでしたが、あまりにも興味深い内容でしたので1時間以上も滞在してしまい、後の予定に影響する事に...
さて竹島資料室を後にして、次なる目的地はこちらも昨日休館日で入れなかった古代出雲歴史博物館。そこまでの交通手段はほとんどの時間帯で1時間に一本しかない一畑電鉄。竹島資料室で予定を超えて滞在してしまったので、出雲での時間はあまりない。
昨晩コンビニで買った缶チューハイを一本残してしまっていたので、カバンからそれを取り出し飲みながら歩いて松江しんじ湖温泉駅へ。
冷たくして飲みたいと旅館の冷蔵庫の冷凍部分に入れていたため、朝まで放置して半分凍っていたものがいい具合に溶けて冷たくて美味しい。朝から酒を飲みながら観光。一人だから何でもありです。
駅に着く頃に缶チューハイを飲み干し、1時間の電車の旅に備えてトイレへ。すると...発車のベルが。
1時間に一本という認識から、勝手に前の電車の1時間後と思いこんでしまい、実は55分後だったので駅の外のトイレで発車のベルを聞く事に。
切符も買ってないので間に合うはずもなく、さてどうしたものかと。
次の電車も1時間後。 それで行くと帰りのバスに間に合わせるには出雲滞在は1時間もいられない。これではゆっくり博物館を見られないし、昼御飯を食べる時間もない。
「米子へ行こう!」一瞬で頭が切り替わりました。帰りは諸事情から16:20米子発のバスを予約してましたので、米子観光をする事に。
そもそも出雲の博物館に行きたかったのは、古代の出雲大社の模型が見たかったから。後々考えると、もしかしたら数年前に京都で見た模型は出雲から出張してきたもので、同じものなのではないか?そう考えると帰りのバスとは反対方向の出雲に向かう事がバカバカしくなってきました。
旅の前に考えていたプランの一つに松江に泊まった翌日は宍道湖の隣でこちらも汽水湖の中海をレンタカーでドライブして米子に乗り捨てるというのがありました。
しかし!
先程お酒を飲んでしまったのでそのプランは不可能に...
またまた切り替えの早いワタクシ。すぐにJR松江駅行きのバスに乗り、電車に乗り換えて米子まで。そして米子に着いたのがたしか12時ごろ。
米子で観光しようにも、たった4時間程度では行けるところも限られています。米子城跡が歩いて行けそうな距離だったので、地元名物を食べられそうなお店を探しながら歩く事に。
しかしながら米子の名産を検索しても何も出てこない。道の選択肢が2つあったが、選んだ方の道は駅のすぐそばから店が並んでいる感じではない。イオンがあったので入ってみるが、どうも入りたい店はない。
昼食は後でもいいかとスタスタと米子城跡まで。
[user_image 00/c7/87f14a099e23d7b7125e86b88434aef7.
以下に米子市ホームページより「米子城の歴史」
https://www.city.yonago.lg.jp/4438.htm
さらに米子市ホームページより米子城の概略を引用します。
西伯耆の拠点的な城であった米子城は、山陰で最初に築かれた近世初期の城郭です。
天守のあった標高90メートルの湊山は、北側に丸山、東側に飯山、さらに南西側には中海という天然の要衝を擁する地で、この城山を内堀で囲み、さらに外郭に武家屋敷を配し、外堀を巡らせるという、典型的な平山城の特色を備えていました。
湊山頂上には、四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が、華麗に連なっていました。
江戸時代に発布された「一国一城令」の下、例外として存続を許された「支城」と呼ばれる城のなかで、このような天守をそなえたものは全国でも稀です。
城の建物は、ほとんど姿を変えることなく、明治にいたるまでその偉容を誇りました。
その城の建物は残っていませんが、石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめ、その構造を知ることができる城跡として重要です。また、米子城に関する文献・絵図資料なども数多く、良好な状態で伝えられています。
そのため、平成18年1月26日、米子城跡は国史跡に指定されました。
現在、内堀から内部は、飯山と湊山の一部を除き、「湊山公園」となっています。
また、城山一帯には、市街地に残る数少ない貴重な自然が保護されており、多くの動植物に接することができます。
城山はウォーキングコースとしても市民に親しまれ、ふもとから約15分の頂上から望む大山、日本海、島根半島、中海は絶景です。
現在の国道9号線沿いに位置していた米子城。ふもとから石垣が残っていましたが、天守閣があったと思われる頂上まで登るには15分ほど。まさか山登りをする事になるとは思っていませんでしたので、大きめのトートバッグを持ってよく滑る靴で泥混じりの道を歩く事に。
道中は小さいながらも泥沼のようなところもあり、靴を汚しながら汗まみれになって山頂へ。
山頂の景色はなかなかのものでした。松江城もそうでしたが、江戸時代あたりに作られたお城はちょっとした山の上に築かれてるんですよね。江戸城、名古屋城、大阪城などの巨大な城は別として。
山頂からの景色。
山頂が白くなっているのが大山です。
9年程前にこの山に登ったんだなぁと感慨深く眺めておりました。確か初夏あたりだったはずなので景色は全然違いますが。
さて、山から降りてきてもまだ14時になっていない。行くところもないので、昼食ついでにビールを飲めそうな店を探す事に。行きとは違う方の通りを歩くと、それなりにランチをやってそうな店がチラホラと。
そして入った店が「大阪」とか「串カツ」とか書いてある「山ちゃん」という店に。調べてみると大阪には1店舗しかないようで、あとは鳥取・米子・松江・出雲にあるらしい。山陰で大阪の味も良いかと思い、もとい、ここが一番昼から酒を飲むのに相応しい店だったので、旅の最後は「大阪新世界 山ちゃん」で。
せっかくなんで普段はあまり頼まない刺身を食べてみると、やっぱり関西で食べるよりは美味しい。昼からビール3杯ハイボール1杯を飲み干し、米子駅へ。
便宜上今回は「米子編」としましたが、米子の内容は薄い薄いものに...
今回の一人旅。おそらく最初から最後まで一人で旅をしたのは初めて。あまり計画も立てずにその場その場で行き先を考えながら、時間以外の何にも囚われず、自由で楽しい体験でした。
42才にして一人旅の魅力に気づいてしまい、これからチャンスがあればたまに行きたいと思います。日本は魅力的な国ではですから、行きたいところははいくらでも。
4月からの転職先でガッポリ稼いで、次はもうちょっとリッチな旅を!