気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伏見城の面影18 七本松観音寺の山門

2024年07月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 洛翠園不明門を辞して南禅寺永観堂道バス停より市バス5系統に乗って四条烏丸へ行き、そこで昼食をとった後、52系統に乗って上図の七本松出水バス停で降りました。

 U氏が「このへんは初めて来たな」と言い、私も「僕もや」と応じました。
「で、どこなんだ」
「すぐそこや、見えるやろ」

 

 バス停の南約30メートルに、上図の門が建っていました。観音寺の山門です。
「ほう、小さな門だな、通用門クラスかな」
「そうやろな」

 

 門の左脇に立つ案内板です。U氏が早速読み始め、いつものように三度読んでいましたが、最後に冒頭の「慶長一二年」を指して「これはアリかもな」と言いました。私も頷きました。

 慶長十二年(1607)といえば、徳川家康が伏見城の作事を停止して、建物や屋敷、器材などを駿府城へ運ばせ始めた年です。家康は慶長十一年(1606)に居城を伏見城から駿府城へ移しており、慶長十二年からは家康の異父弟の松平定勝が伏見城の城代に任ぜられています。そして伏見城の規模や機能の縮小が徐々に行われたとされており、幾つかの建物が不要となっていったようです。

 

 「伝えによれば、山門は旧桃山城の牢獄の門を移建したものといわれ」と書いてあります。U氏が「牢獄だと?」と呟いて私を振り返り、「伏見城に牢獄ってあったのかね?」と訊いてきました。

「そりゃあ、あれや、城郭も生活空間の一種やし、城兵がなんか悪事とかやらかしたら裁いて罪に問うことにはなるやろうし、牢獄ぐらいあっただろうな。例えばさ、黒田官兵衛も荒木村重に監禁されて有岡城の牢獄に押し込められたからな」
「そうか、なるほど」

 

 門の扉を見ました。U氏が言いました。
「この板とか、なんかものすごく古い感じだな。隙間が出来るぐらいに縮んでるし。下半分は修理したんだろうが継ぎ接ぎになってるし。枠のほうがちょっと新しい感じに見えるが」

 

 反対側の門扉も同様でした。こちらのほうが、下半分の板の継ぎ足しが無いので、オリジナルに近い感じがします。

 

 門をくぐって内側斜めから見ました。典型的な棟門の形式ですが、主柱や貫、屋根などは後世の材で造られているようで、木肌の色や雰囲気が門扉部分のボロボロの板とは違いました。

 

 やはり門扉の板と内側の閂がやたらに古い感じでした。ボロボロになっても張り替えなかった事自体、それなりの由緒があって残し伝えないといけなかった経緯を示唆しているのでしょうか。

 

 主柱や貫、屋根などは、何度見ても細部を観察しても、木肌の感じ、製材痕などが綺麗に見えました。やっぱり後世の材で造られているな、とU氏も言いました。

「本当に牢獄の門だったのであるとすれば、こういう棟門じゃなくてさ、簡単な冠木門の形式だったかもしれん。冠木門だったなら、いまの棟門に直した場合に主材はだいたい交換するだろうから、残るのは門扉ぐらいになるかもしれんな」

 そのU氏の推測は、なかなかいい線をいってるな、という気がしました。確かに冠木門から棟門に改造されたのであれば、主柱や貫、屋根などが後世の材で造られているように見えてもおかしくありません。

 

 だとすれば、この柱の木製の根巻飾りも江戸期の移築後に付けられたものと考えられます。安土桃山期の建築ではこういった根巻飾りは金属板で打たれて金箔押しになっているケースが多いからです。

 

 屋根裏の造作も完全に新しいものに見えます。蟇股の目玉部分がほとんど造形されておらず、脚の両端が雲形に象られているあたりも江戸期の造りによくみられる特色です。

 

 屋根全体を後世の追加と推測するならば、上図の妻飾りも同様になります。

 

 風雨の影響を受けやすかったためか、かなり風食朽損が進んでいます。紋章が打たれた痕跡も見えません。

 

 総じて、江戸期に建てられた門という雰囲気が強いです。門扉の板だけが妙に古めかしくみえますが、普通は交換されていてしかるべき部材ですので、ボロボロになってもそのままになっているのが不思議です。

 U氏が「あえてボロボロの板を残してるってことは、それがもとの伏見城の門の板だったから、ということかもしれんな。だいたい寺の創建が慶長十二年ってのが、伏見城の作事停止、駿府城への移築で建物の解体が始まった年だからな、そのときに牢獄の門だったか、こういう通用門クラスの門を何らかの形で譲り受けて移築する、ってのは可能性としてはアリだな。案内板の寺伝はただの伝承じゃないんだろう、何かの記録とかが残ってるのかもしれんな」と言いました。

 その言葉通り、いまの観音寺山門が旧伏見城からの移築である可能性は否定出来ません。ただ、いまの門は柱も屋根も全部江戸期のものに見えますので、妙にボロボロになっているのに今も現役の門扉だけが、旧伏見城から移されてきた部材かもしれない、と推測しておくほうがよさそうに思います。

 時計を見ると14時47分でした。それで京都駅まで移動して新幹線ホームまで行ってU氏を見送りました。別れ際に「次は桜の頃に行くから、例の長楽寺とか養源院とか行こうぜ」と言われました。

「次は日帰りなのか?」
「いや、一泊二日で行こうかと思ってる。伏見城の移築建築、まだ他にあるのかね?」
「京都市内はもう無いと思う。あとは宇治市やな」
「いいじゃないか、宇治市は久し振りに行きたいな。平等院とかさ」
「なら、一日目は長楽寺と養源院、二日目は宇治方面、でええかな」
「いいよ、あとは右京大夫に任せる」
「承知」

 ということで、次は桜の時期に伏見城移築建築巡りを行なうことになりました。  (続く)

 

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