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ゆるキャン△の聖地を行く39 その16  旧東海道筋の街並み 下

2024年07月29日 | ゆるキャン△

 島田市の島田宿大井川川越遺跡の復原エリアを東へ歩きました。御覧のように江戸期の景観が復原されていて、当時の旅人の気分が味わえます。

 歴史を学ぶための場として最もふさわしいのが、遺跡や遺構の実物大復原であることは、もと奈良県民で平城宮の壮大な宮殿や宮門の実物大復原に親しんでいた身としては本当によく理解出来ます。絵とか図面とか模型よりも、実物大の建物のほうが情報量、迫力、説得力がダントツであるからです。これが歴史か、と子供でも分かります。

 こうした江戸期の街並みは、全国各地に昔ながらの街並みが伝わって幾つかは重要伝統的建造物群保存地区に指定されている所でも見られますが、大なり小なり後世の修理や追加や改変が加わっていますから、ズバリの江戸期の街並みそのまま、というケースは皆無です。

 だから、島田宿大井川川越遺跡の復原エリアというのは学術的価値からみても非常に素晴らしいものです。昭和41年の指定以来50年余りを費やして遺跡の解明と保存維持に尽力している島田市の文化財行政のレベルがいかに高いかが分かります。
 大井川鐡道が鉄道遺産として世間に認識され、登録文化財に指定される建物が幾つかあったのも、実は本社と路線の半分ぐらいが島田市に所在していることが非常に大きく、島田市の教育委員会による文化財保護施策がさまざまになされた結果といえます。
 台風災害に埋まった線路をすぐ手当して復旧を施しているのも、鉄道文化遺産としての大井川鐡道を保護するという観点に関連する取り組みの一環であったのですが、訪れる鉄道ファンやゆるキャンファンの多くはその事を知らないようです。

 

 大井川川越遺跡の復原エリアに建ち並ぶ復原建物を順に見てゆくことにし、西端の南側に位置する「札場」に入ってみました。外の説明板は昭和50年代に設置されたものだそうで、文字がかすれ気味になっていますが、直すことはしないようです。

 

 札場の番台には川越業務の世話人の実物大イラストパネルが置いてあり、それらしい雰囲気を醸し出していました。

 

 札場の説明文です。現代風に言うと経理事務所とか経理課のような役割の施設です。川札の換金による売り上げの確定、人足への給料支払い、経費積み立てを行なっていたわけです。

 

 札場の隣は立合宿の建物でした。上図はその立合宿の内部です。今で言うと合宿用の宿泊施設で、内部の部屋空間が広いです。

 

 立合宿の隣の建物も宿屋でした。外観がちょっと違いました。

 

 中に入ってみても、部屋の造りや設えが綺麗で、身分の高い人か、それなりの職位にある役人向けの宿泊施設といった雰囲気でした。案内文には仲間の宿とありました。

 

 なるほど、川越業務の責任者、世話人、年寄の寄合などに使われた施設ですか。その責任者が役人や人足の投票で選ばれるというのが、いかにも江戸期らしいと思います。

 あまり知らない人が多いのですが、江戸幕府というのは徳川将軍家からのトップダウン方式での統治システムではありましたが、天領や諸藩での地域支配においては割合に自治を認めており、土地の事は土地の人々に任せる、といったスタンスでありました。幕府の関与は交通網の整備と監視、西国諸藩への監視と警備、治安維持と裁判、食料生産量のコントロールなどが主でしたから、地域の政治は諸藩や地域住民で責任をもってあたれ、というのが基本方針でした。

 なので、町や村単位での統治は住民の裁量に任される事が多く、納税の義務さえ果たせば、自治はある程度認める、というのが鎌倉幕府、室町幕府以来の伝統的な支配方針であったようです。自治がある程度認められていたから、地域でのルールや責任者を投票や多数決で決めるというのはどこでも普通に行われていたそうです。
 だから、投票や多数決で少数派のほうになってしまうと、あいつは反対しやがった、と差別すら受けました。いわゆる村八分の因習はそこから来ています。いまでもその流れが学校や会社などで普通にみられるでしょう。

 

 仲間の宿の向かいには、二番宿(上図左)、七番宿(上図右)の復原建物が並んでいました。番宿とは、川越人足が詰めていた施設のことで、今で言うと労働者の宿舎にあたるでしょうか。大井川の川越人足は一から十までの組に分けられており、それぞれの番号の番宿にて待機していましたから、一番宿から十番宿までがありました。現在は二番宿、三番宿、七番宿、十番宿が復原されており、そのうちの三番宿と十番宿が公開されていました。

 ちなみに二番宿の左隣は広い空き地になっていますが、江戸期の古絵図ではそこに川会所の記載がありますので、もとは川会所があった場所だと分かります。

 

 七番宿の右隣には明治期の古民家が残され、現在は島田市博物館の分館として公開されています。

 

 御覧のように、分館のなかに海野光弘版画記念館と民俗資料室が併設されています。海野光弘は静岡市出身の木版画家で、その没後に全作品が遺族より島田市に寄贈され、それによって版画記念館が設置されたということです。

 

 明治期の古民家にしては立派な玄関の構えです。これが分館の出入口になっていて、戸をガラガラと開けて中に入りました。

 

 入ると右に受付、正面が上図の土間でした。土間の中央右側に竈が設けられており、江戸期以来の典型的な日本民家の内部空間のレイアウトが示されていました。

 

 土間に向かって左側には、座敷や控えの間などの空間が4つあり、奥に2つの座敷があって中庭に面していました。

 

 土間の奥はもと厩と納戸であった空間で、内部には民俗資料室の大型の展示品が幾つか置いてありました。市民の体験講座もここで催されるようです。

 

 中庭に出ました。なかなか立派な外観の古民家です。この建物は明治32年に当地の地主を勤めた桜井氏の私邸であったもので、一階部分が地元島田市の大工によって造られ、二階部分は京都の大工を呼んで数寄屋ふうに造ったということです。中庭の左右には槙の古木がそびえ、とくに西側(上図左側)の槙は樹齢約300年とされています。  (続く)

 

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