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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

龍と仁と天と6 仁和寺御殿

2021年11月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 仁和寺御殿のうち、黒書院はじっくり見学した。御殿は前述のごとく明治二十年(1887)に焼失し、明治末期から大正初期に再建されているが、黒書院だけは再建にあたって花園にあった安井門跡(やすいもんぜき)の宸殿を移築して改造した江戸期の建物なので、文化財的価値も高い。

 安井門跡(やすいもんぜき)は、正式名称を蓮華光院(れんげこういん)といい、鎌倉期の正治二年(1200)に後白河天皇の第一皇女・亮子内親王(りょうしないしんのう)が弟・以仁王(もちひとおう)の第二王子・道尊(どうそん)を開基として太秦安井の御所・安井殿に創建した門跡寺院である。その七年後の承元元年(1207)に道尊は仁和寺別当に就任、安井門跡蓮華光院は仁和寺の院家に列した。のち東山に移転し、明治期に廃絶したが、旧鎮守の安井金比羅宮が現存して観光の名所の一つになっている。

 その安井門跡の宸殿が花園にあったのは、安井門跡蓮華光院が戦国期の天文三年(1534)から大覚寺に属したからである。いま大覚寺に移築されて安井堂(御霊殿)となっている旧御影堂も同じく安井門跡蓮華光院の遺構であるが、ほぼ同じ江戸期の建築で、造作や設えも似通っている。

 ともあれ、かつて仁和寺の院家に列した安井門跡蓮華光院の数少ない建築遺構が、いまの仁和寺御殿の黒書院である。一般的には堂本印象(どうもといんしょう)の障壁画があることで知られるが、建物自体も旧門跡系の御殿建築なので、見応えがある。

 

 黒書院から通廊を経て宸殿の南側に回った。白砂の石庭が勅使門と二王門を借景として広がるが、龍安寺の石庭とは対照的に明るくて広くて謎めいた雰囲気は微塵も無い。庭石も全く置かれない。正式名称は「南庭」で国の名勝に指定されている。

 

 宸殿の南縁にて腰を下ろして一休みした。拝観客も疎らな時期であったから、広い御殿内に我ひとり、という感じであった。コロナ流行前であったならば観光客で賑わっていたであろう。

 

 宸殿の東側へ回ると、江戸期の池泉鑑賞式庭園である「北庭」が見えてきた。こちらも国の名勝であるが、いかにもそれらしいのびやかな作庭状況をとどめて見応えがある。

 

 「北庭」は、伽藍の五重塔を借景にしていることもあり、仁和寺御殿の中心的な庭として位置づけられている。宸殿の前庭ともなっており、仁和寺御殿見学順路のハイライトである。

 

 宸殿より「北庭」の西側ごしの高台に霊明殿が見えた。明治四十四年(1911)の建立で仁和寺歴代門跡の位牌を祀るが、本尊はかつて仁和寺の院家のひとつであった喜多(北)院の本尊・薬師如来坐像(秘仏)である。

 私は仏教彫刻史専攻だったので、この薬師如来坐像も三度ほど拝する機会があったが、いまでも鮮やかに記憶に残っている名像の一つである。大学生だった頃の昭和六十一年に、京都国立博物館の調査で初めて見出されたので、当時の新聞紙上でも秘仏発見の速報を見た記憶がある。
 この像は、像高11センチ、光背と台座を含めても24センチほどの白檀材の小像であるが、光背には七仏薬師像と日光菩薩・月光菩薩、台座には前後左右各面に三体ずつの十二神将を表す入念な作である。藤原期の康和五年(1103)に白河天皇の皇子・覚行法親王の発願により仏師の円勢と長円が造像したもので、平成二年に国宝に指定された。画像はこちら

 

 宸殿の北広縁。宸殿自体は大正三年(1914)の再建である。

 

 宸殿の東側の釣殿。「北庭」の鑑賞スペースとして設けられたものか。

 

 北側の通廊をへて黒書院の北側に回ったところで東を振り返った図。宸殿の全容が望まれた。

 

 宸殿前の「北庭」の西側へ通廊を上がっていった。

 

 霊明殿は非公開なので、見学順路はここまてで折り返した。一礼して秘仏薬師如来坐像の鮮やかな記憶にしばし浸った。

 

 霊明殿の西下、黒書院の北側の庭は、苔の庭であった。  (続く)

 

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