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龍と仁と天と11 天龍寺の曹源池

2021年11月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 天龍寺の大方丈の東辺から南へ回って西側へ移動した。大方丈の裏側にあたる西側には、今回の参拝の目的である、庭園の園池である曹源池(そうげんち)が広がる。創建以来8度の焼亡を経て全ての創建堂宇を失った天龍寺において、唯一残された創建時の遺構がこの池である。

 

 天龍寺の庭園は、この曹源池(そうげんち)を中心とした池泉回遊式の形態を示し、夢窓疎石の作庭とされている。江戸期までに数度の補修を受けており、方丈に面する洲浜や汀の一部は変更されている可能性が高い。全体としては、創建当時の作庭の面影をとどめているようである。

 

 天龍寺の寺域はもとは、亀山天皇の系統である大覚寺統の離宮であった亀山殿の故地である。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、亀山殿を寺に改めたのが天龍寺であるが、亀山殿にあった庭園は、いまの曹源池(そうげんち)に繋がっているかは不明である。
 周辺での発掘調査では、南側の大堰川寄りに九世紀代の庭園遺構および亀山殿期の庭園遺構が検出されており、いずれも西の小倉山麓からの湧水を水源としたものと推定されている。いまの曹源池も同様なので、亀山殿にあった庭園を造り直したのか、それとも完全な新造であったのかは、発掘調査でも実施しないと分からないであろう。

 

 個人的には、この曹源池は天龍寺開創にともなう新造の庭園の池であろう、と思う。その根拠の一つとして、上図の龍門瀑(りゅうもんばく)と呼ばれる滝石組の存在が挙げられる。これは鎌倉期までの「作庭記」流に則った浄土系庭園には無かった要素であり、 宋からの渡来僧によって持ち込まれた新たな庭園の造形思想の主軸となっている。その早い頃の事例が鎌倉建長寺の庭園であるとされるが、要するに初期の禅宗庭園の形態を示している。

 

 初期の禅宗庭園は、当時の宋式禅宗伽藍の庭園を範として平安期以来の作庭技術に一新をもたらしたが、その様式上の特徴のひとつは、宋式禅宗伽藍の後方に池泉庭園を配する、という点であった。その作庭思想を日本にもたらしたのが、建長寺の開山禅師ともなった蘭渓道隆であったが、天龍寺開山の夢窓疎石はその蘭渓道隆の門流に連なるので、夢窓疎石もまた宋式禅宗伽藍の作庭思想の担い手であったことになる。

 

 なので、鎌倉建長寺の庭園とここ天龍寺の庭園の基本レイアウトが共通するのは偶然の一致ではない。いずれも宋式禅宗伽藍の後方に池泉庭園を配する、という共通項がある。その意味では天龍寺の庭園も純然たる初期禅宗庭園の一典型であり、したがって亀山殿にあった平安期以来の庭園との接点は想定し難い。やはり天龍寺開創にともなう新造の庭園であり池なのだろうな、と思う。

 

 だから、現在の大方丈をはじめとする堂宇も、創建時の建物は失われたものの、旧軌にのっとって再建されていることに気付く。宋式禅宗伽藍の後方に池泉庭園を配するという基本レイアウトが、伽藍の後方建築たる大方丈とその後方の庭園および曹源池のありように明確に見て取れるからである。
 同時に、大方丈の正面は仏壇に対する東面だが、西面が庭園に向かって広縁を回して開けた造りになっている点も、曹源池を中心とする禅宗庭園への重視の姿勢をあらわしているのだと納得がゆく。

 

 大方丈が庭園とセットになっている以上、その北側に隣接する上図の小方丈は実質的に書院の機能を持つことになる。いまの天龍寺でも書院と称して東の庫裏とともに寺の事務的空間を担っている。大方丈の付属施設と理解すれば分かり易くなるであろう。
 ただ、現在の天龍寺伽藍は、正門たる勅使門からの中心軸上にあった仏殿を失い、法堂ももとは塔頭のそれを移設して再建しているので、外観上は半分ぐらいになっている。伽藍の後ろ半分が残っている、という感じであるから、いまの天龍寺の建築群が伽藍の全てではないのだな、と改めて理解した。この理解が無いと、天龍寺の歴史的全体像がなかなか見えてこない。

 

 だから、いま大方丈の本尊として祀られる釈迦如来坐像が、寺の創建より二世紀も遡る藤原期の遺品である点が非常に気になって仕方が無かった。この謎が解けない限り、私自身の天龍寺への基本理解は完結しないからである。

 図版で見た限りでは、藤原期十二世紀後半あたり、というのが釈迦如来坐像に関する個人的な仮説である。これが室町期創建の天龍寺に迎えられた経緯は、寺でもよく判っていないそうである。とりあえずは、前身の亀山殿に関連する像か、もしくは当地に存在した九世紀以来の檀林寺および大井寺、そして鎌倉期までに存在した舎那院や浄金剛院や西禅寺の旧仏であった可能性をも考えなければならないが、いまの私には手持ちの情報が皆無に等しかった。

 なにしろ、問題の釈迦如来坐像をまだ拝観していないのである。機会をみて必ず一度は拝観に赴かなければならない。その機会を、出来れば年内に持ちたいな、と願いつつ、大方丈の東辺へ引き返す途中で内陣に一礼し、まだ見ぬ本尊像に祈りをささげたことであった。  (続く)

 

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