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龍と仁と天と7 仁和寺伽藍

2021年11月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 御殿の見学を終えて退出、広い参道を伽藍へと向かった。霊宝館はシーズン外なので閉まっていた。
 仁和寺の現在の寺域は、創建時の約三分の一になっていると聞くが、それでも広々としている。九世紀代の建立になる古代寺院だけあって、中世や近世の寺院のせせこましさ、雑然さとは一線を画する。同時期に成立した京都の古代寺院に醍醐寺が挙げられるが、そちらも広い境内地と伽藍を残す点で仁和寺と共通するのは興味深い。

 しかし、醍醐寺が創建以来の五重塔や上醍醐薬師堂など平安期の建築を幾つか伝えるのとは対照的に、仁和寺は応仁の乱で全山が灰燼に帰してしまい、現在の寺観堂塔は全て江戸期の寛永・正保期つまり寛永十八年(1641)から正保二年(1645)にかけての再興になる。

 

 なので、古代寺院の山門ふうに見える中門も、江戸期の寛永・正保期の再建である。伽藍域の正門としての位置にあるが、現状のように段差上に聳える状態になったのは江戸期からである。

 

 九世紀代までの古代寺院であれば、七世紀以来の伽藍堂宇を揃えるのが常で、中門も主要建築に含まれる。その南側の山門が寺域の境界線上に配置されて南門とか南大門とか呼ばれる。仁和寺の場合は二王門が山門にあたるが、中門までの距離がいささか開き過ぎる。いまの状況は、おそらく創建当時の配置とは異なるのであろう。

 

 中門から石畳みの参道を進むと、右手に五重塔が見えてくる。が、五重塔は応仁の乱焼失前の旧仁和寺伽藍内に存在したかは疑問である。それよりも重要なのが、上図のように五重塔の手前までに段差があって階段が設けられている点である。仁和寺の境内地は、全体として四段の平坦面から成り、他の寺にはあまり見られない段差を連ねた地形になっているが、このことは余り注目されていない。

 上図の段差下の平坦面は、二王門から中門までの平坦面を一段目と数えると二段目にあたり、さらに五重塔が建つ平坦面が三段目、金堂や経蔵、鐘楼、御影堂が並ぶ四段目がある。これらの四段の平坦面は、すべて江戸期の寛永・正保期の再建時に敷地を造成した結果であり、応仁の乱焼失前の旧仁和寺伽藍の地形ではない。

 

 したがって、いま四段に連なる敷地に建ついまの堂塔も、全てが応仁の乱焼失前の旧仁和寺伽藍のそれを踏襲しているかは疑問である。とくに上図の五重塔は、応仁の乱焼失前の伽藍と院家および関連堂舎の由来を調査した史料である「本寺堂院記」および「本要記」に詳述が無い。不思議なことではある。

 応仁の乱焼失前の旧伽藍における塔婆は、史料上においては「観音院御塔」のみであるが、現在の五重塔の安置仏像および内部意匠は「観音院御塔」のそれに一致する。「観音院御塔」がどのような塔建築だったのかは不明だが、五重塔であったとしても違和感は無い。九世紀代創建の仁和寺ならば、塔婆は伝統的に五重塔であった可能性が高い。

 

 なので、位置はともかく、応仁の乱焼失前の旧仁和寺伽藍においては同時期寺院の醍醐寺と同じように、五重塔が空に聳えていたのであろう、と個人的には解釈したい。

 

 五重塔の北東には上図の九所明神が鎮座する。当初は境内の南にあったが、建暦二年(1212)に現在地に移された。のち応仁の乱で焼失、現在の建物は江戸期の寛永・正保期の再建である。

 

 祭神は御覧の通り。本殿、左殿、右殿の三棟の社殿に計九神が祀られるので、九所明神と呼ばれるわけである。いずれも平安前期の京都の主要地域神であるのが興味深い。端的に言えば、仁和寺創建の仁和二年(886)の時点で既に京都の古社として崇められていた神社はこの九神で全てであったものらしい。

 

 九所明神の横から北に段差を経て、上図の経蔵が建つ。古代寺院の経蔵によく見られた宝形造でありながらも、細部には板唐戸(いたからど)や花頭窓(かとうまど)等が見られる。禅宗様であるが、禅寺ではない真言系寺院の仁和寺にこの種の建築があるのは珍しい。江戸期の寛永・正保期の再建の基調が禅宗様であったのだろうか。

 

 金堂の前庭に移動した。 周知のように、慶長十八年(1613)建立の京都御所の正殿・紫宸殿の遺構であり、寛永年間(1624~1644)に現地に移築していまに至る。いまの京都御所の立派な紫宸殿が再興される以前は、この建物が内裏の中心建築であった。現存最古の紫宸殿であり、近世の寝殿造遺構としても貴重である。仏堂への変更に伴い、屋根を檜皮葺から瓦葺に変えているが、他は往時の姿をよくとどめる。

 

 この国宝の金堂も見応え充分であるが、個人的にいつも不思議に思うのは、「本要記」に応仁の乱焼失の旧金堂の土台に関して「南北廿八間、東西三十八間」と記される点である。現在の金堂の平面規模が「南北五間、東西七間」であるので、旧金堂の土台は単純計算でその約5倍以上の規模になるが、その上に建っていた旧金堂はどのような建物であったのだろうか。

 しかも「廻廊、東西各十間、金堂左右也、同南北廿間」とあって、いわゆる三面廻廊が付属していたから、これら金堂院の規模は相当なものになる。「本要記」によれば「上古ノ金堂土臺」の東南隅は現在の五重塔の位置にあたっていたというから、応仁の乱焼失の旧仁和寺伽藍が金堂ひとつをとっても現在とは全く異なった姿であったことが理解出来る。

 その応仁の乱焼失の旧金堂の土台は、その後もしばらく残されていたようであるが、これを含めて江戸期の寛永・正保期の再興造営時に全て整地し直して四段の平坦面に造り替えてしまったわけである。
 もしかすると、四段もの段差の造成は、かつての旧伽藍の巨大な旧金堂の土台の高さに起因するものであったのかもしれない。  (続く)

 

コメント
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