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龍と仁と天と8 仁和寺奥院より二王門へ

2021年11月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 仁和寺金堂の西側に建つ鐘楼は、応仁の乱で焼失した旧仁和寺伽藍にも存在したようであるが、「本寺堂院記」の記載によれば二階の建物で、元永二年(1119)四月に焼失している。二階とは現在のような袴腰造(はかまごしづくり)であったかは疑問であり、九世紀代創建の古代寺院たる仁和寺の鐘楼ならば、法隆寺鐘楼のような二層の形式に近かった可能性が考えられる。

 

 現在の鐘楼は寛永・正保期の再興造営中の寛永二十一年(1644)の再建で、中近世の鐘楼の一般的な形式である袴腰造(はかまごしづくり)で建てられる。気になるのは経蔵とともに金堂の左右に配置される点で、古代寺院の一般的な伽藍配置では講堂の左右に配置されることが多い。しかし、創建時の仁和寺伽藍には講堂が存在していなかったようなので、金堂が講堂を兼ねていたのかもしれない。

 

 鐘楼の北西には御影堂を中心とする一画がある。真言宗寺院には必ず設けられる宗祖弘法大師を祀る堂であるが、仁和寺においては開基宇多法皇、仁和寺第二世性信入道親王もあわせて祀られる。

 

 上図は御影堂の中門である。このように土塀で囲まれて中門が設けられること自体が寺内での御影堂の重要性を示すが、位置がもとからのままであるかは疑問である。

 というのは、創建当時の仁和寺伽藍は平安京の条坊制の地割に基づき、配下の院家群も含めて寺地の南北の中心軸が東に3度傾いていたからである。いまの二王門の前を通る市道183号線がやや斜めに通るのがその名残であるし、また中門からの二段目の段差面の南端線も同様である。

 その3度の傾きを、寛永・正保期の再興の敷地造成によって是正し、寺地の南北の中心軸をきっかり南北線に合わせたので、現在の堂塔すべてが正しく南を向く。さらに敷地を四段に造成し直して、堂塔の配置をそれらに合わせ直してあるので、四段目に金堂や鐘楼や経蔵とともに並ぶ御影堂が、もとの位置を保っているとは考えにくい。
 いまの境内地は三分の一に減じて北側の敷地を失っているが、本来ならば奥ノ院と位置付けられて伽藍の北におかれる御影堂は、かつてはもっと北に位置していたと思われる。

 

 現在の御影堂は、慶長十八年(1613)建立の京都御所の清涼殿の用材を用いて建てられており、金堂と同じく寝殿造建築の要素を色濃く残す。屋根こそ宝形造(ほうぎょうづくり)に代わっているが、檜皮葺である点は、蔀戸(しとみど)の金具とともに、旧清涼殿の意匠を受け継いでいるように感じられる。

 

 この御影堂は、応仁の乱で焼失した旧仁和寺伽藍にも存在したことが、「本寺堂院記」の記載によって知られるが、実は旧仁和寺伽藍に存在したにもかかわらず、寛永・正保期の再興造営にて再建されなかった堂宇も少なくない。

 「本寺堂院記」の記載によれば、三面僧坊、食堂、新堂、薬師堂、不動堂、角堂、北斗堂などがある。これらの大半が伽藍の北側に配置される建物であるので、いまは失われた北側の寺地にこれらの施設が並んでいたものと思われる。御影堂もそのなかに含まれていた可能性が高いが、宗祖および開基をまつる根本の堂宇なので再建しないわけにはゆかず、金堂院の西側、境内地の北西隅が斜めに張り出す区域になんとか収めて再建したのであろう。

 

 最後に観音堂を見た。敷地の三段目に五重塔と相対して建つが、正面は南を向く。応仁の乱で焼失した旧仁和寺伽藍においては院家に列して観音院と称し、廻廊に囲まれた観音堂がその中心であったらしい。
 その原位置はいまでは不明になっているが、観音院には「御塔」も付属してこれが現在の五重塔に引き継がれており、ともに金堂の前段左右に並ぶ現在の状況は、もとは院家であった観音院の重要さゆえに、寛永・正保期の再興造営にて伽藍の中に取りこんで再編成し、七堂伽藍の序列に組み入れて体裁を整えた結果ではなかったかと思われる。

 

 観音院の重要さは、仁和寺創建以来の真言密教儀式のひとつ「伝法灌頂」が代々観音院にて執行されていた歴史に示される。そのために院家でありながらも観音堂に廻廊と御塔をそえて一個の伽藍を整備していたものと推されるが、その歴史的役割を寛永・正保期の再興造営にて発展的に継承させるために伽藍の一部に組み入れた結果が、現在の観音堂の位置なのであろう。
 その本質的な意図は、本来ならば秘せられる仁和寺の最重要の儀式である「伝法灌頂」の場の、一種の「可視化」であったのだ、と思う。すなわち仁和寺の根本精神、中心的儀式とは何かを、寛永・正保期の再興造営にて観音堂を建てることで明確に示そうとした、と考えるのである。

 

 したがって、五重塔がかつての観音院御塔の系譜を受け継ぐ存在であるのならば、塔婆が応仁の乱で焼失した旧仁和寺伽藍にあったかどうかの記載が「本寺堂院記」でははっきりしないのも納得がゆく。もとは伽藍にあったのではなく、院家の付属建築として存在したからであろう。

 

 かくして、久しぶりの仁和寺にて色々と謎解きを楽しみ、さらに残る不詳の事々に頭を傾げつつ、中門を退出して伽藍を後にした。寛永・正保期の再興造営にてかつての3度の傾きを是正されてきっちり南北線に合わせた広い参道を、二王門までのんびりと歩いた。

 

 二王門も、寛永・正保期の再興造営による再建である。再建というより新造であるかもしれない。「本寺堂院記」に記載される旧仁和寺伽藍の諸施設名には、仁王門つまり現在の二王門に該当する名称が見られないからである。

 つまり、かつての仁和寺には仁王門が存在しなかったかもしれないのである。が、寛永・正保期の再興造営が寺地を完全に整理して敷地も四段に造成し、中心軸の3度のズレも直した大がかりなものであった以上、「衣笠みち」とも呼ばれた中世以来の大道に面する南の出入り口に門を設けないわけにはゆかず、ほぼ同時期に相次いで建てられた南禅寺三門、知恩院三門を参考にし、それに劣らぬ規模で建てることになったのであろう。

 

 それで現在、仁和寺の二王門は京都三大門の一つに数えられることになったわけである。先行建築の南禅寺三門、知恩院三門に対抗して、仁和寺の由緒を誇示するかのように贅沢に作った、との古老の言い伝えは、案外真実を示しているのかもしれない。  (続く)

 

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