気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

龍と仁と天と4 龍安寺の弁天島にて

2021年11月01日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 龍安寺の方丈および石庭の拝観を終え、庫裏の玄関より退出して参道石段を引き返し、境内地の東側へ寄った。そうして上図の塔頭大珠院(非公開)を外から拝した。龍安寺の境内地内に所在するが、現在は妙心寺の塔頭となっている寺である。

 

 大珠院は、室町期の明応二年(1493)に洛中にて大珠寺として創建されたが、戦国期の天文年間(1523~1555)に龍安寺境内に移って大珠院となり、その後に一度廃絶している。
 その廃寺に、慶長五年(1600)の関ヶ原戦で石田三成に従って敗れ没落した、豊臣氏家臣の石川貞清が身を寄せて寺を再興した。石川貞清は妻の龍光院、子の藤右衛門重正、藤右衛門重正の妻おかね、縁者の竹林院と共に大珠院に住んだという。龍光院は大谷吉継の妹、おかねは真田信繁(別名幸村)の娘、竹林院は大谷吉継の娘とされるので、当時の大珠院は関ヶ原戦西軍諸将の遺族たちの集まりであったわけである。

 

 大珠院から西へ回って鏡容池のほとりを南へ進みつつ、大珠院の堂宇を池越しに望んだ。大珠院の隣の西源院は前述のとおり方丈の建立に織田信包が関わっているから、これも関ヶ原戦西軍の敗将同士であったわけで興味深いものがある。

 ただ、織田信包は西軍に属しながらも徳川家康に罪を問われず、所領を安堵された後、大坂城にあって姪孫である豊臣秀頼を補佐した。その関係で慶長十一年(1606)の西源院方丈建立に関わったわけであるが、八年後の慶長十九年(1614)の大坂冬ノ陣直前に大坂城内で急逝している。

 こうしてみると、龍安寺には豊臣家ゆかりの人々が多数関係していた歴史が理解される。大珠院においても、おかねが両親真田信繁夫妻の墓と五輪塔を建てさせて供養したほか、関ヶ原戦西軍の英霊をまつったと言い伝えられる。

 

 おかねが祀った真田信繁夫妻の墓は、大珠院の境内地となっている上図の鏡容池内の小島にあるというが、龍安寺の寺史「大雲山誌稿」によれば同じ島に関ヶ原戦西軍大将石田三成の首も葬られたという。
 大珠院を再興した石川貞清は、石田三成の義兄弟であった石川頼明の弟であり、その石川貞清の子の藤右衛門重正が石田三成の首を鏡容池内の小島に埋葬した、と「大雲山誌稿」は伝える。

 

 史実とすれば、大変に興味深いが、現在の通説では、石田三成の墓は大徳寺三玄院にあるとされる。そこに埋葬されているのは首以外の胴体、ということになるのであろうか。謎は尽きない。

 

 そうなると、鏡容池のなかにある他の島にも、誰かの墓があるのではないか、という気がしてくるが、寺務所に尋ねても「ありませんよ」の一点ばりであった。第一、上図の伏虎島には舟が無いと渡れないので、墓の有無を確かめたくても出来ないのであった。

 

 だが、上図の辨天島には渡れるのである。鏡容池にある三つの島のうちの真ん中の島で、弁天社が祀られているので、その参詣者向けに橋が架けられている。

 

 早速、その弁天島に向かった。上図の石橋を渡れば島に行けるのであり、石橋の奥に弁天社の朱鳥居も望まれた。

 

 辨天島の弁天社はこじんまりとした祠で、覆屋がかけてあった。島の中央ではなく、やや南寄りに鎮座しているのには何らかの事情が介在しているように感じられた。

 

 弁天社に向かって右脇には墓碑や石仏が並ぶ。やはり弁天社だけでなく墓地もあるので、ここも関ヶ原戦西軍関連の墓碑もしくは供養碑なのだろうか、と感じた。寺務所に尋ねた際に「墓なんてありませんよ」と一蹴されたが、上図の二つのいわくありげな石造物は、どう見ても墓碑の類にしか見えない。墓碑でなければ供養碑であろうし、それ以外の何ものであるかは考え付かなかった。

 

 向かって右の石には「金剛般若経」や「普門品」の語句が刻まれるので、金剛般若経の名号碑であるようだった。いわゆる念仏名号碑の一種で、多数の死者を供養する場合に造られる供養碑の一種とされる。ここの碑がまつる多数の死者とは、果たして関ヶ原戦西軍とは無関係なのであろうか、としばらく考え込んだ。

 

 さらに気になったのが、左の石が何も刻まない「無名墓碑」の一種であることであった。文字通りの自然石を用い、表面にも背面にも何も刻まれていないのであったが、碑前には花が供えられて墓石であることを示していた。

 無名墓碑は、事情があってあからさまに名を出せない死者、または名を伏せておきたい死者、の墓石であることが一般的なので、いま完全に名を知られない誰か、もしくは多数を供養するものであることは間違いない。大珠院の人々といい、石田三成の首といい、関ヶ原戦西軍の関係者ばかりがここには集まっている感があるので、どのように想像をめぐらしてみても、それ以外の候補を思いつかないのであった。

 なので、関ヶ原戦西軍のほうに個人的思い入れがある身としては、襟を正し脱帽の上、最敬礼で合掌し祈るのが、精一杯の対応であった。  (続く)

 

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