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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

龍と仁と天と10 天龍寺の庫裏と方丈

2021年11月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 天龍寺の総門より、中門への参道を進んだ。この寺に参るのは実は今回が初めてであった。以前に「中世嵯峨を歩く」と称して天龍寺の周辺を散策した際にも、この寺には入らずに次の楽しみにとっておいた経緯がある。その機会がようやく訪れたというべきか。
 総門は明治以降の建物だが、中門は江戸期の慶長年間(1596~1615)の建立で、天龍寺では数少ない明治以前の遺構である。

 

 だが、中門の南に建つ勅使門のほうがさらに古い可能性がある。いまは勅使門と呼ばれるが、正式には「旧慶長内裏裏御門」といい、もとは慶長年間の京都御所内裏の明照院の門であったもので、現在地へは寛永十八年(1641)に移築された。京都御所の前は伏見城の門であったと伝わるが確証は無い。

 

 勅使門は、江戸幕府京都大工頭の中井家伝来の「中井家文書」によれば慶長十八年(1613)の建立とされる。豪華な扉の意匠や龍虎の彫刻が、安土桃山期の絢爛にして繊細な建築様式を示すが、極彩色だった筈の装飾も色褪せて古色蒼然となっているため、一見しただけでは建物の美しさが分からない。いずれにせよ、天龍寺においては最古の遺構であり、双眼鏡持参でじっくり見たい建築である。

 

 しばらく勅使門を見学した後、中門からの参道に戻って庫裏の前に至った。

 

 庫裏の建物は明治三十二年(1899)の再建である。天龍寺は室町期の康永四年(1345)の創建以来8度の大火を経験しており、創建時の建物は皆無である。応仁の乱でも戦場となって焼亡壊滅し、幕末には禁門の変(蛤御門の変)で長州藩兵が立て籠もり、幕府軍や薩摩藩兵の攻撃を受けて炎上している。現在の寺観はその後、明治期に入ってからの再建事業で整えられたものである。

 

 だが、建物の細部には江戸期の様式要素が随所にみられるので、焼失前の建物を再現しているか、もしくは伝統的建築工法に拠っての再建であったようである。

 

 コロナ流行下においても一応、拝観は可能であったが、観光客の大半が遠慮して誰も中に入らないので、内部は閑散としていた。その寂漠たる雰囲気が外からも感じ取れたので、私も今回の拝観は遠慮しておいた。

 

 なので、庫裏の南に繋がる、明治三十二年(1899)の再建である大方丈の建物も、今回は外から仰ぎ見るにとどめた。内陣に祀られる本尊の釈迦如来坐像は藤原期の作であるが、内陣の仏壇は垂れ幕と柵に囲まれていたため、像の姿は外からは見えなかった。

 後日、国重要文化財の集成の図版にて尊容を把握したが、定朝様式の展開の最終段階の要素が見られ、十二世紀初頭を軸にして捉えたいような作風ではあった。
 しかし、図版を見るのと実像を拝観するのとは見え方も情報も全然違うから、やはり一度は拝観して仏前に進まないと確かなことは分からないな、と悟った。

 

 なので、もと仏像彫刻史専攻にして研究対象のメインが藤原期の定朝仏およびその周辺の仏像であった私としては、またここにお詣りする新たな楽しみが増えたことになる。今回は参拝の目的が別にあったので、大方丈本尊像の拝観は次の機会にとっておくことにした。  (続く)

 

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