蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

たまには弱音だって吐く。

2005年11月30日 05時45分17秒 | 彷徉
いけない。このところかなり参ってきている。とにかく気力に衰えが目立ってきているのだ。なんとかしなくてはいけない。といって特効薬があるわけでもなく、ひたすら気分が高揚するのを待つしかないのだからどうしようもない。不眠症というのではないけれども、毎日の平均睡眠時は約四時間くらいしかない。毎朝の吐き気は相変わらずおさまらないし、できれば数ヶ月間、完全にOFF状態に入りたいものだがそれも許されない。徹底的に落ち込んだときの常として単純な疑問が再び頭を擡げてきた。
俺はいったい何のためにここにいるのだろう。俺はどこへ行くのだろうか。

まちだ、きえて。

2005年11月29日 05時28分05秒 | 彷徉
街の空洞。このようにして生活の基盤となっていた場所が消滅していく。そして今わたしはその現場に立ち会っている。何れここにもマンションという名の集合住宅が屹立するのだろうが。まったくやりきれない話だ。
街というのはそこに住民がいなければ最早街ではない。そうなれば町名なんぞまったく無意味となり、「A」でも「い」でも「γ」でもよいことになってしまう。ところが昨今では人が住まっているうちから町名が行政によって恰も「A」「い」「γ」のように変更されてしまっている。
それで何が問題なのだ、と言い出す横紙破りは何時の時代にも、何処の世界にもいるものだが、しかしわたしはそれは問題なのだと断固主張したい。よろしいか、言葉(町名は端的に言葉です)は記号ではないのあり、意味とは「差異」によって把捉されるものではないのだ。発話される言葉の意味的重層性は決して記号に還元できるものではないということをわたしはここで読者諸賢に強く申し上げる次第です。

オサラギ

2005年11月28日 06時09分57秒 | 彷徉
「大仏」をなぜ「おさらぎ」と読むかは、語源学者たちにも今のところよく判っていないらしい。そもそもこの語源学に素人は深入りしてはいけない。泥沼にはまり込むからだ。わたしはなにも素人は絶対語源学に首を突っ込んではいけないといっているわけではない。そうではなくて深入りがいけないといっているだけなのだ。この学問分野は論理的につめて証拠を提出するのが難しい。そこに考古学のように素人の出てくる余地もあるわけだが、結局思い入れと、思い込みが幅を利かす凡そ非科学的な分野、反証可能性の限りなく少ない世界でしかないようにも思われる。

憂鬱な旅(一)

2005年11月27日 09時53分35秒 | 太古の記憶
レストランで食事を終えたわたしは乗客たちの流れを横断して通路の左側へ寄った。いくらか人混みが緩和して歩き易くなるだろうと思っての行動だったが、思惑は完全に外れてしまった。しかたなく他の人々が行く方向に自分自身の身体を預ける格好で進んだが雑踏にどうにも我慢ができなくなり、偶々見つけた横に延びる通路に逸れて一息つくことにした。
その通路は人通りがまったくなかった。六メートルほどもあろうかという高い天井には約三メートル毎に照明のための水銀灯が点され、両側の壁は赤煉瓦がむき出しのまま何の塗装も施されておらず、見たところ明らかに一般乗客用のものではなかった。通路入り口付近に矢印とともに「XX線ホーム」と記されたプレートが貼られているのを見たので、わたしは多分ここから行けば必ずホームに出られるだろうと判断した。奥へと進むと通路はいたるところで他の通路と交差したり、あるいは分岐したりしていたが、迷うことはなかった。天井には何本もの配電用パイプが通されていて、それらは通路の交わる地点で同じ太さのパイプと十字型に溶接され、分かれるところではY字方に接続されている。壁にはほぼ等間隔で鋼鉄製の扉がありそれらの多くは厳重に封印されていたが、中にいくつか開放されているものもあったのでわたしはその内の一つを覗き込んでみた。そこには旧式のエレベータ室に設置されているような受電盤、製御盤、信号盤、それにマグネチック・ブレーキ付きの巻上機があり、リレーの作動するときに生じる破裂音が間歇的に室内に響き渡っていた。
先へ進むにしたがって天井はさらに高くなり、辺りは通路というよりも倉庫のような巨大な空間に変っていった。コンクリートでできた太い角柱が前後左右の方向に等間隔で並びそれぞれにアドレス番号が白ペンキで几帳面に記されている。AD-FFA-06とある柱の付近から向こうが鮮魚の中卸店舗地区になっていて、免許番号の刻印された矩形の樹脂製札を貼り付けたフィッシング・キャップを被った業者を何人か見かけたが、繁忙時間が過ぎていたせいか各店舗の仲買人ものんびりと雑談を交わしている様子で、わたしの姿が場違いのためだろう、ときおりこちらの方を見遣ったりする。わたしは彼らの視線を無視して足音の共鳴する通路を歩いた。
まだ店先に残っているわずかな魚介類は、それでもかなり多岐に渡っていて東京湾や相模湾の近海物から、ハワイ沖にマダガスカル、カナリア諸島からセイシェル群島、大陸棚に深海魚、近代中世古代魚まで、時間と空間こえてあらゆるものが並んでいた。商品には和名とラテン語の学名が記されている。これには驚いた。和名はわかるとしても何ゆえ学名まで必要なのだろうか。スポーツ新聞を眺めている暇そうな店主に尋ねてみると、なんでも当局からの指導でそうしているのだそうだ。店主が「あんた、カツオくんの学名知っているかい」と聞いてきた。もちろん知るはずがない。「カツオヌス・ペラミスってんだよ。ペラミスってのはマグロの子ってことさ。プリニウスによれば古代ローマ人はカツオが成長してマグロになると理解していたわけだな」。わたしは中卸業者の博識に感動してしまった。回転寿司のネタの多くが「~もどき」だということを思い出したわたしは、これは必要なことなのだと大いに納得した。
遥かに高くなった天井からは水が少しずつ滴り落ちてきて、コンクリート打放しの床に水溜りを造っている。急がなくては列車に乗り遅れてしまいそうだったので、わたしは近くにあった貨物用エレベータで上に昇った。天井の上が目的のホームだった。

大きなお世話、かも。

2005年11月25日 04時57分30秒 | 彷徉
いろいろなブログが開設されていて、とてもではないがそれらすべてを閲覧することはできない。そもそも自分の興味を引くブログを探すことがかなり難しい。キーワードで検索してもそのほとんどはハズレだ。だからたまたま面白いブログを見つけたらこれは幸運というほかない。就職活動を記述したブログが時折見られるが、多くは学生や女性で大方真剣に就職活動に励んでいる様子が伝わってくる。
そんななか、最近閲覧しているブログというのが、これはどうも四十代の独身男性らしいのだが、彼自身の再就職活動を日記風にほぼ毎日アップしている。ブログに掲載されている記事を信じるならば、かつてシステム関係の仕事に従事していて、鬱病に罹り数年の闘病生活の後どうにか回復して企業に就職しようとしている千葉県内房のある町に居住している人物らしい。しかしまだ完治しているというわけではなく、医師の診察を受け薬を服用しているらしい。
景気が回復しつつあるとはいえ概して就職が難しい今日日、四十代での再就職は特殊な技能を持っていない限りかなり難しい。この男性はヘルプデスクやシステム運用の分野で職探しをしているらしいが、それにしてはSE経験もプログラマー経験もないと自分でいっているのは何とも不可解だ。彼の考えているヘルプデスクがどのようなものなのかわたしにはわからないが、少なくともシステム運用に関しては業務事態についての認識が不足しているように見受けられる。現在のシステム運用とはサーバやネットワークの維持管理、システム障害時の復旧作業、それに加えて端末のシステム設定などなど、かなり多用なスキルを要求される上、さらに最新のソフト、ハード情報にも明るくなければならない。SE経験がなくてどうしてこれらの業務をこなすことができるのだろうか。
支援センターとやらに通ってアドバイスを受けているようだが、そこではいったいどのようなアドバイスをしているのだろう。わたしがアドバイザーだったら探す職種の再検討を勧める。いくら本人にやる気があってもこれでは「四十代の未経験ですがシステム運用の仕事がしたいです」といっているようなものだ。いくら懐の広い企業でもこれでは応じかねるのではないだろうか。それに契約社員を嫌がっている彼の姿勢も気になる。仕事をして金を稼ぎたいのが目下の希望であるなら立場にこだわってはいられないはずだ。それとも正社員という身分になれば絶対安泰だとでも思っているのだろうか。東京までの通勤時間は片道二時間が限度だということだが、ということはたとえば九時から午後七時半までの勤務として、定時退社できたとしても帰宅は九時半ということになる。仮に二時間残業するとして帰宅は午後の十一時半。しかも朝は六時頃に起床しないと間に合わないのではないか。くわえてもしシステム運用の仕事に就くことができたとしたら、定時退社など夢のまた夢だ。
このブログにはだいたい決まった人物からのメッセージが投稿されている。一般的にいって利害関係のない人間というのは優しい言葉をかけてくれるものだ。言葉だけならタダだから。しかし利害関係が生じてくるとそうはいかない。だから企業内での人間関係は表向き仲良しクラブみたいだけれども、じつは自分のためだけに動いている心の干乾びた人間同士の往来でしかない。そして経営者は従業員をそのように仕向けてさえいる。このヘルプデスク希望の四十代男性も、そのような環境の中で鬱病に罹患したのではなかったのだろうか。とすれば運良く再就職が叶ったとしても、とどのつまり同じ轍を踏むことになる。これでは本当に悲劇だ。
わたし自身、企業組織に馴染めず飛び出してしまった人間なので、とても偉そうなことはいえないのだけれども、しかしこのブログから見えてくる彼の就職についての考えには、とても危ういものを感じてしまうのである。

日光街道に佇むもの

2005年11月24日 06時03分31秒 | 彷徉
一昨日、南千住にある叔父の家を訪ねた。今は仕事の都合で関西に住んでいる甥っ子が家族を連れて帰って来ているというので、久方ぶりに顔を見にいったのだ。翌日が休日ということもあって、かなり遅くまで盛り上がり、わたしは終電一本前の地下鉄日比谷線中目黒行きになんとか間にあって帰宅することができた。
ところで今回の話題はそのときの内輪話をしようというのではない。そんなものは身内同士では笑えても、他人様にはC級お笑い芸人のネタよりつまらないに違いないからだ。もっとも世の中には身内の話を延々として他人様の反応などにお構いなく自分でウケてるような野暮な奴が多いのでウンザリする。
その日わたしは池袋での仕事が午後六時に終わったので、この前早稲田から叔父の家に行くときに使った都電荒川線に乗ることにした。向原停留所から終点の三ノ輪橋まで約五十分ほどかかった。池袋駅からJR山手線と常盤線を乗り継いで南千住に行ったほうがおそらく早く到着するのだろうだけれども、わたしはJRはあまり好きではない。JRを使わないルートがあるならば、よほど時間の余裕がない限りは少々遅くなってもそちらの方を利用することにしている。
向原で乗車したときには立っている乗客も多くいたのに、三ノ輪橋での降車客はわたしを含めて五、六人だった。外が少し冷え込んできていた。停留所の前にある安井屋はもう閉店の準備を始めていた。営業時間中ならばここの鳥皮焼きを買って行きたいところだ。タレが美味いから何本食べても飽きが来ない。それから昆布の佃煮も美味い。これを肴にすると酒がすすむ。安井屋のよこを恨めしく通り過ぎ、都電荒川線の前身である王子電気軌道株式会社本社ビルの下を潜り抜けて日光街道に出た。本社ビルと聞けばなんだか随分と御大層だが、なんのことはない小さな鉄筋コンクリート三階建ての古ぼけた建物で、今では「梅沢写真会館」という金文字が正面に貼り付けられている。抜けたところに横断歩道があるので信号が青に変わるのを待って渡った。南千住駅方面に続く仲通商店街に入る道まではそこから約百メートルほど日光街道を北上する。わたしは人通りの無い歩道を歩いていた。それに比べて車道は上下線とも大型トラックやバイクが切り無く行き来していて騒々しい。街路灯が煌煌と周囲を照らしていた。
つまり、人通りがないことを除けば見通しのよいごくありふれた夜の街中の景色だった。そのとき前方のちょうど仲通に入る道の辺りに人が立っているのが見えた。歩道の柵に腰を掛けるように寄りかかっているのは身体の大きな若い土木作業員風の男だった。安全帽を被っていて、作業服が全体的に白っぽいというより、白く輝いているようにさえ見えた。安全帽を被っているのはわかったのだが、それと同時に彼の顔が幾分にこやかそうにも見えた。そのときはこれが奇妙なことだとはまったく感じなかった。この辺りは簡易宿泊所も近くに多くあり、彼のような格好の人間がいても珍しくはない。しかしそれにしても白っぽい姿だ、と思っただけだった。
ところが、わたしがその姿を確認してから八歩か九歩進んだところで、男の姿が急に見えなくなったのだ。「消えた」という表現はどうもしっくりとこない。「消えた」のではなくて「見えなくなった」といったほうがよい。だからわたしにはなんの違和感もなかった。現実に存在するものが消えたならばパニックに陥ったかも知れないが、見えているものが見えなくなったというのはあくまでわたしの主観に関わる事柄だ。だからそれはわたしにとってなにも不思議な出来事には感じられなかった。そして見えなくなっら、彼によって遮られていた向こう側の景色が見えるようになった。つまりわたしにとっては見えるものが変わっただけで、世界は何も変わってはいないということだった。どうも上手くこのときの状況を説明できない。しかし少なくとも恐怖感のようなものはまったくなかった、ということだけは断言できる。
じつはその日、叔父のところで甥っ子夫婦も交えて雑談していたおり、わたしが白い土木作業員を見た付近で、昼間単車による交通事故があったということを伯母から聞いた。単車の男性は死んだようだったと伯母は言っていたが、事実かどうかわたしは確認していない。

クロノロジカル・テーブル

2005年11月23日 15時15分23秒 | 古書
戦前、といっても昭和十四年(1939年)に岩波書店から速水敬二編『哲學年表』が刊行された。四六版で本文三百十一頁ほどの本だが、わたしの所有しているのは戦後昭和二十三年の第四刷で、装丁も紙質も恐ろしく貧弱なものだ。この五年後になると出版事情もかなり改善されてくるのだけれども、わたしとしてはそんなことより何より、敗戦後まもなくの時代にあってこのような本が出版されていたということ自体に驚きもし、また少し感動もしてしまう。どのような本かというと文字通り年表であって、古代ギリシアから一九三六年、昭和十一年までの西洋の主要な哲学者、思想家の誕生没年、著作出版年を表にまとめたもの。上にも書いたように初版は昭和十四年、まだ物資に余裕があったころに出ているので、わたしの持っている第四刷よりはおそらくよほど綺麗なはずなのだ。古書値で三千円前後だと思う。それに比べてわたしの第四刷は東京古書会館の即売展でまんが市文化堂から六百円で出ていたものだ。しかし中身は変わらないから第四刷でも充分に重宝している。
調べものに使うのはもちろんだけれども、漫然と眺めているだけでも結構面白い。表形式というのは確かに載せられる情報量としては少ないのだが、たとえばカント、デカルト的大陸合理論とイギリス経験論のいいとこ取りをしてあの有名な『純粋理性批判』を書き上げたドイツの哲学者がバルト海に面した街ケーニッヒスベルク(現在のカリーニングラード)でオギャーと生まれた一七二四年に、遥か離れた極東は浪速の地で浄瑠璃本作家近松門左衛門が七十二歳で亡くなっているといったことや、あるいは賀茂真淵が亡くなった明和六年、西暦の一七六九年にフンボルトペンギンでその名が知られているドイツの地理学者フリードリッヒ・ハインリッヒ・アレキサンダー・フォン・フンボルトが生まれている、といったようなことが直感的に判るのがうれしい。じつはわたしはフンボルトペンギンというのはてっきりフンボルトが発見したからそのように命名されたのだと、つい最近まで思っていた。しかしこれはとんだ誤りでフンボルト海流(これはフンボルトに因んで名づけられたが、いまではペルー海流というようだ)に沿って生息しているのでこのように呼ばれている。そうだよね、フンボルトってのは博物学者ではないもの。
ところで、この年表に載っている最も若い人物というのがドイツの美学者Hermut Kuhnという人で、一八九九年生まれだから『哲學年表』が刊行された年に健在であったとすれば四十九歳になっていたはずだ。ところで四十九歳という年齢を若いというべきかどうかは少々問題がある。というのも一八九九年におけるドイツ人の平均余命がわからないことには判断できないからだ。ここでわたしのドクダンとヘンケンで敢えて言うならば、四十九、五十、五十一という年代は特に節目に当たっているように思えてならない。夏目漱石が亡くなったのが四十九歳のときだったと聞くとちょっと意外な気分になる。残された写真で見る限りではかなり老けた印象を受けるからなのだが、しかし男子の平均寿命が四十三歳の当時としてはけっして若死ということではなかったのだ。
『哲學年表』の最後は一九三六年、昭和十一年の欄で、出版された哲学関係の書籍としてはガストン・バシュラールの『持続の弁証法』、エチエンヌ・ジルソンの『キリスト教と哲学』、ニコライ・ハルトマンの『哲学思想とその歴史』が上げられている。また物故した学者としてはリッケルト、シュペングラー、テンニース、ウナムーノなどが記載されている。
この年、ナチスドイツはロカルノ条約を破棄し、また日本では昭和天皇を激怒させたあの二・二六事件が発生した。

今日の、気分は、低調です。

2005年11月22日 04時09分08秒 | 彷徉
前回、反町古書会館展が開催されているということを書いた。反町は東急東横線で横浜の一つ手前の駅に当たる。この駅の二つ渋谷寄りが白楽駅で近所に神奈川大学もあるが、その白楽駅の前から横浜上麻生通りまで商店街が通っている。わたしがいっているのはもちろん旧綱島街道のことではない。その一つ裏側にある木製アーケードの商店街のことなのだ。
しかしそれにしてもここは凄い。よくもこのような施設が残ったものだと思う。道幅にして二メートルあるかないかの商店街は、むかしむかしのいわゆる「マーケット」といった雰囲気だ。聞くところによると戦後の闇市から発展したということらしいが、なにぶんにも闇市なるものを知らないわたしとしては、精々上野のアメ横を想起するにとどまってしまう。太平洋戦争が敗戦に終わって六十年、もう「闇市」なんて言葉そのものが死語になりつつある。
わたしにしてからが戦争など知らない年代なのだが、両親はもちろんあの東京大空襲を体験している。父は横須賀の海軍に入隊したものの結核を疑われ帰郷させられたと聞いているが(だからわたしが存在している)、父の幼稚園時代からの親友Hさんは中国戦線に送られた。戦後かなり経ってかHさんから戦場の話を聞いたことがある。中国人ゲリラを斬首する場面に立ち会った時のエピソードだった。要すれば戦場というのは先ず自分自身が生き残らねばならないところなのであって、相手が正規軍兵士であろうがゲリラであろうが、または一般の非戦闘員であろうが関係ない。危険だと感じたら殺してしまうのが原則なのだそうだ。そのときのHさんの語り口は、まるで昨日の近所の出来事を語るような淡々としたものだったが、わたしは「戦争」と「戦場」の違いをずっしりと知らされたものだった。
なんだか話が辛気臭くなってしまった。白楽の木製アーケード商店街のことだった。
行って見るとわかるのだが、本当に映画のセットのような商店街で、あまりに出来過ぎてるのでちょっと戸惑ってしまう。一軒一軒はごく普通の商店なのだけれども、全体として見るとこれがなんとも異様極まりない。その異様さの原因はおそらく木組みのアーケードにあるのではないだろうか。まるで木造倉庫のなかにでもいるような感覚、子供風の表現でいうなら「ひみつ基地」みたいなアーケードの天井を見上げていると、あたかも自分が平成十七年ではなくて昭和の三十年代にいるみたいだ。近頃はこの三十年代が静かなブームなのだそうで西岸良平の漫画なんかも映画化されているが、たしかにノスタルジックではあるのだろうけれども、わたし自身もう一度あの頃に戻りたいかと尋ねられたなら、はっきり嫌だと答える。「むかしはよかった」みたいな意見にはどうも馴染めない、むしろあんな貧乏くさい世界など真っ平ごめんだ。特に子供の頃の記憶など思い出しただけでも虫唾が走る。小学校、中学校、それどころか高校まで最悪だった。どのように最悪だったかは別の機会に書くつもりだ。
いけない、いけない。愚痴話になってきた。どうも今日は気分が今ひとつ晴れない。昨日ブログの記事を抜いてしまったこともあるのだが、どうもそれだけではないようだ。仕事からくる苛立ちの他に何かもっと根源的な不安、といったらちと気障になるけれども、そのようにしか表現のしようがない不安感にときどき襲われる。まあ、常にそうだというわけでもないから耐えていられるのだが。

自己投資? 自己浪費?

2005年11月20日 13時46分16秒 | 本屋古本屋
性懲りもなく、また都丸を覗いてしまった。「都丸支店で運試し」の回で「この店は二週に一度のサイクルで覗くと必ずなにか良いものに出逢うことができる」と書いた。だから月に二度くらいのペースがわたしにとってはベストなのだけれども、このところちょっと欲が出てきて三回続けて土曜日に出向いていたが、でもやはり二週に一度のサイクルを遵守したほうがよいと悟った。
昨日はさすがに廉価本コーナーに見るべきものはなかった。そりゃそうだろう、わたしが毎週買っていたのだから。それにしても自宅から高円寺の都丸まではお世辞にも近いとはいえない。なにも買わずに帰るのも癪だと思い、ちょうどイタリア語の辞書が欲しいところだったので"Dizionario della Lingua e della Civilta Italiana Contemporanea"を買うことにした。値段が八百円だったのが購入の決め手となった。少々重かったがなにしろ八百円なので我慢した。
店内を見て回ると仏教書の棚に大久保道舟の岩波書店版『道元禪師傳の研究』が税込み千五百七十円で出ていたのでこれも頂くことにした。隣にこの本の筑摩書房版も置いてあって価格は八千四百円ほどだった。岩波版は一九五三年三月の発行で、いっぽう筑摩版は一九六六年五月発行されている。筑摩版は修訂増補ということで岩波版よりページ数が若干多いけれども、わたしは専門の研究者ではないので知りたいことは岩波の旧版で充分間に合ってしまう。イタリア語と禅師様、二冊ともけっして高くはなかったのだが、それでも合計二千三百七十円というのはこの店で使う金額としては多い方だと思う。ここ数年で都丸支店で購入した二千円を超える「高額」商品を確認してみたら次のようなものがあった。
1."Wörterbuch der deutschen Gegenwartspräche" ベルリンAkademie-Verlagの全六巻ドイツ語辞典を五千円。
2.Moriz Heyne著"Deutsches Wörterbuch"全三巻の三修社復刻版を六千三百円。これも読んでの通りドイツ語辞典
3.Hans HaasとRichard v. Kienleによる"Latenisch-Deutsches Wöterbuch"全一巻の羅独辞典を三千百五十円。これはハイデルベルクのF.H.Kerle Verlagより出版されたもの。
4.Librarie HachetteのFélix Gaffiot著"Dictionnaire abrégé Latin-Français Illustré"二千百円。こちらは羅仏辞典。
5.Franz Altheim著"Geschichte der Lateinischen Sprache"も同じく二千百円。フランクフルト・アム・マインのVittorio Klostermannから出版されたソフトカバーの本。ラテン語史の専門書だがまだ読んではいない。
それにしても、随分とシケた買い物だ。どう贔屓目に見てもわたしは都丸書店にとって上客とはいいかねる。そりゃあ金がタンマリとあればどんどと買うさ、でも無いのだからどうしようもない。それにくわえて古書店は都丸だけではないのだ。
買うものがないと判断したならとっとと撤収し神保町に向かうべく総武線で移動した。いつもは古書会館の即売展を覗くため御茶ノ水まで行くのだけれども、昨日は即売展が開催されなかったので、一つ手前の水道橋で下車した。白山通りの古書店も結構なくなってしまっている。日大経済学部前の丸沼書店は最近は古書のスペースが少なくなってしまった。この店は歴史、法律、会計、経営等の新刊書や日大の教科書なんかも扱っている。不幸なことにわたしは法律にも会計にも、ましてや会社経営にもまったく興味が無いので(だから貧乏なのだが)滅多に入ったことがない。それでも今年の六月に偶々この店の前を通ったら、廉価本コーナーに竹内与之助の『字喃字典』が出ていたので衝動買いしてしまった。大学書林から出ているこの本はベトナム漢字の辞典で「字喃」はチュウノムと読む。もしかしたら高校時代に歴史の授業で習った方もいらっしゃるかもしれない。それをなぜ衝動買いしたかというと、じつはこの『字喃字典』、定価が一万五千円するのだがそれがなんと千円、つまり十五分の一の値段で出ていたからなのだ。さしあたってベトナム語を勉強しようという気はもうとうなかったが、美本だったこととそして千円だったことで後先考えずに買い込んでしまった。
即売展も開かれていないのに神保町にまで来たのには理由があって、11月16日に岩波文庫の新刊が発売されたのでそれを購入したかったから。いつもは信山社で買っているのだけれども、昨日は日本特価書籍で誂えた。竹越与三郎の『新日本史(下)』、レヴィナスの『全体性と無限(上)』、ディッケンズの『アメリカ紀行(下)』そしてアレクシス・デ・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー第一巻(上)』の四冊。この店はわたしが学校に通っていた時分からお世話になっているが、新しく出た本なら大体定価の一割引で売っているし返品物ならばもっと安いので、新刊書を買うときには先ずこの店からチェックすることをお勧めします。しかし扱っている品は人文系図書なので、理科工学系、また経済、法律等の実務書はないものと思って訪ねてください。
そんなこんなで昨日の収穫はさっぱりだった。そういえば今日は横浜反町で反町古書会館展が開催されているはずなのだが、今回も覗くことができなかった。う~ん、残念、残念、残念~んっ。

信じるものは救われるか?

2005年11月19日 10時14分15秒 | エソテリズム
近頃たとえば書泉グランデあたりを覗いてみても、グルジェフ関係の本が見かけられなくなった。ひところは十冊近く並んでいた時もあったものだが、人気がなくなってしまったのだろうか。
世の中、禅ブームのようで素人向けのムック版座禅入門書も出版されている。禅宗の坊さんが文学賞を受賞したことも影響しているのだろうか。いや、そんなことはないと思う。むしろ癒しが求められている社会的背景が先ずあり、そこへ「座禅イコール無」という誤解も相まって全てにおいて煩わしい今の状況から脱却するための一手段として座禅に注目が集まっているのだろう。まあ何でもよから、どんな縁であれそこから仏教に感心を持つようになればすばらしいことではないか。「いづれの入者か従縁せざらん、いづれの入者か退失あらん」(注1)と道元禅師もいっている。
グルジェフのワークも肉体的修行が重要視される点では禅寺での修業に通じるものがある。いやこのような言い方はあまりよくない。グルジェフは伝説によればチベットの隠者からエソテリズムの知識を学んだのだそうだ。つまり彼の原点はアジアにあったわけで、そうなると仏教との関係だってまったくないとはいい難いではないか。そこでグルジェフが獲得したという「東洋の知恵」と道元禅師の求めた「無上正等覚」も畢竟同じもののように思われがちだけれども、しかしグルジェフはというとこれがどうも信用できない。もっといえばペテン師とさえ見られている。彼の教義が広まらないのはそれがエソテリックなものであるからというよりも、むしろこちらのほうに原因があるのではないだろうか。
わたしがグルジェフの名前を知ったのは友人に因ってだった。このことは「我的穏秘学」の回で書いた。「友人」とは学校時代から知り合いだった今は亡きSのことである。Sに勧められウスペンスキーの『奇跡を求めて』を初めて読んだときの印象は、少なくとも彼の教義がこの日本でブームになることはまずないどろうというものだったが、それは今も変わっていない。「人間機械の諸センターはさまざまは<水素>で働いている。そしてセンター間の主要な違いはここから出てくるのだ。より粗悪で重く、密度の高い<水素>で働くセンターはゆっくりと働く。軽く活動的な<水素>で働くセンターは速く働く」(注2)とか、「<水素>シ12は<付加的ショック>の助けを借りて次のオクターヴのドになることができる。しかしこの<ショック>は二重の性質をもつこともあるので、異なったオクターヴを生む可能性もある。つまり一つはシを生みだした有機体の外に、もう一つは有機体中に。男性のシ12と女性のシ12の結合と、それに伴う一切のものは第一種の<ショック>をつくりだし、その力で始まった新しいオクターヴは新しい有機体あるいは新しい生命として独立して進展する」なんてディスクールを読んでいると、胡散臭さがますます募ってくるのだが、それでもSはしきりにグルジェフを礼賛していたものだった。
そんなグルジェフ本は姿をけしたけれど、相変わらずラジニーシの本が並んでいる。この手のものは支持者が増えることはないが熱狂的な信者が確実に存在するので、まあそこそこ売れる。どんな団体にとって出版物は今でも大切な金蔓なのだ。オウム真理教がサリンテロをまだ起こす前、書泉グランデでもあの俗物教祖の顔写真を恥ずかしげもなく表紙に載せた出版物が何冊も売られていたことを思い出す。言論表現の自由だか何だか知らぬが、そんなわけでわたしはオカルトコーナーなどで販売されている出版物をむかしから凡そ信用していない。

(注1)『日本思想体系 道元(上)』293頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注2)『奇蹟を求めて -グルジェフの神秘宇宙論-』304頁 P.D.Ouspensky著 浅井雅志訳 河出書房 1989年3月10日 第11刷
(注3) 同上 399頁