蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

自己に向う?事物の二重化?

2006年02月26日 15時50分28秒 | 言葉の世界
どこの世界にも専門用語というものがある。しかし大抵の場合それらは説明されればあるていど理解可能なものだ。
哲学という学問分野にも専門用語というものがある。例えば「所与」、これを英語では"given data"、ドイツ語では"die Gegebenheit"という。外国語で書かれるとかえって判りやすくなってしまうのも考えてみれば問題だ。"given data"のどこにも難しさなどない。「与えられた、データ」と聞けばこれば何を意味するかは大方の人が直感的に理解できるはずだ。しかし「所与」などといわれても何のことだか見当がつかない。専門家が議論するとき一々「与えられた、データ」などといっていてはまどろっこしいのでこれを「所与」と称するのだと聞けば、まあそれなりに納得はできるが。
「超越」、これも哲学ではよく聞く専門用語だが「所与」よりは少々わかりづらい。英語では"transcendence"ドイツ語では"die Transzendenz"でほとんど綴りが同じなのは元になったラテン語"trans"(対格支配の前置詞「~を超えて」)と"scando"(向こうの上に登る)の合成語"tarnscendo"(~を超えてあちら側へ歩く)に因るわけだけれども、厳密には名詞"die Transzendenz"と形容詞"transzendent"、同じく形容詞"transzendental"では意味がいくらか異なる。名詞"die Transzendenz"を「超越」と訳すのはよいとして、形容詞"transzendent"(超越的)は「知覚できる範囲を超えている」というほどの意味であり、一方"transzendental"はスコラ哲学においては「アリストテレス的なカテゴリーを越えた概念」といったらよいか、つまり"ens"(有)、"unum"(一)、"verum"(真)、"bonum"(善)、などを指していう。そしてさらにカントによって"transzendental"は新しい意味を持たされる。これを「先験的」或いは「超越論的」と訳したりしているが、要するに内的直感形式としての時間や外的直感形式としての空間、純粋悟性概念、統覚などがそれに当たるのだそうで、だからカント哲学を超越論的哲学ともいう。このあたりは少々煩瑣ではあるけれども、まあなんとか判らないでもない。注意しなければならないのは、「超越的」と「超越論的」とではその表す意味はことなるということで、この点を理解していていないと議論がかみ合わない事態が発生する。
「即自」「対自」、これはドイツ語の"an sich"、"für sich"を訳したもので、ヘーゲリアンの哲学プロパーはごく気安く「即自」「対自」を連発するけれども、これがわたしには結構難解だったし今でも難解なのだ。普通のドイツ語辞典を引くと"an sich"は「それ自体として」、また"für sich"についても「それ自体として」「それだけで」「独りで」などの意味が載っている(注1)。しかしこれでは両者とも同じ意味となってしまいわけが判らない。ヘーゲル関係の事柄を調べるのならこれがいいんじゃないかと『ヘーゲル用語辞典』ってのを開いてみた。以下に引用する。
「ドイツ語のan sichは直訳すれば「自己に即して」、つまりその物にぴったりと重なり、分裂がない状態を意味する。an sichはふつう「それ自体として」などと訳されるが、哲学では「即自」、「自体」などと訳される。für sichは直訳すれば、「自己にたいして」、「自己と向き合って」となるが、普通「それ自体として」、「独りで」などと訳される。für sichは哲学では「対自」、「向自」などと訳され事物(自己)が二重化ないし分化することを示す」(注2)
白状するとわたしはこれを読んで何を言っているのかさっぱり判らなかった。この文章を素直に読めば"an sich"は「それ自体として」という意味であり、"für sich"も同じく「それ自体として」という意味であるがしかし哲学では「事物(自己)が二重化ないし分化すること」という意味となるということだ。まあそうであるとして、ではなぜ「独りで」が「自己の二重化」ということになるのかまったく理解できない。書いた人間の文章作成能力に問題があるのは確かだが、なにもここまで判りづらくしなくともよさそうなものだと思った。
これはそんなに難しい話ではない。"an sich"、"für sich"はそれぞれ「そのものとして」、「絶対的に」と訳せばよいのである。そもそも「事物が二重化する」の、イワシの頭のと妙な説明をつけるから判るものでも判らなくなってしまう。何でもかんでも平べったく言えば済むという話ではないが、かといって面妖な漢字で言い換えても返って馬鹿馬鹿しさを露呈するだけになってしまう。

(注1)『独和広辞典』1227頁 三修社 1986年12月15日第1版
(注2)『ヘーゲル用語辞典』72頁 岩佐茂 島崎隆 高田純 編 未来社 1991年7月30日第1刷

まち

2006年02月19日 08時22分38秒 | 言葉の世界
かなり以前のこと、地下鉄銀座線上野駅のホームで「この電車はしぶたに行きですか」と尋ねられたことがある。すぐに「しぶたに」が「しぶや」のことだと判ったのは、関西の人は「渋谷」を「しぶたに」と読むということを聞いていたからだ。たしかに言われてみれば思い当たることがある。もう亡くなってしまったが松竹新喜劇に「渋谷天外」という役者がいた。藤山寛美と親子の役をよく演じていたものだ。わたしたち関東の人間はこの芸名を「しぶやてんがい」と呼んでいたけれど、本名は渋谷一雄と書いて「しぶたにかずお」と読む。松本清張の自伝『半生の記』によると、戦後の生活難を凌ぐため彼が小倉から関西方面へ箒の行商にいっていたが、そのとき関西人が「小倉」を「おぐら」と発音していたということが書かれている。
東京日本橋人形町を「にんぎょうまち」と読む人は、最近ではかなり少ないのではないだろうか。いろいろなメディアが発達している昨今では、東京の地名もかなり知れ渡ってきており間違って読まれることはほとんどなくなってきている。ところが数日前、朝の地下鉄車内でどこかのネエチャンが迷惑にも携帯電話でどこかの誰かさんと会話していたのだが、そのなかでこのネエチャンから「にんぎょうまち」という言葉が出てきたので、わたしは思わず仰け反ってしまった。これは紛うことなく「人形町」のことに違いない。いったいこのネエチャンはどこの山から出てきたのかと彼女のことを眺め遣ったが、そこいらにいるごくありふれた普通の若い女だった。この物知らずめ、とそのときは感情に任せて彼女を軽蔑したものだったが、職場に到着して一息ついて考え直してみると、なんだか自分のほうが軽率に感じられてきた。
わたしは子供の頃から「人形町」を「にんぎょうちょう」と呼んでいて、これに何の違和感も感じてこなかったのだけれども、あらためて「にんぎょうまち」と「にんぎょうちょう」の響きの差というものに注目すると、「にんぎょうちょう」ってなんだか硬い感じがする。一方の「にんぎょうまち」はというと、こちらはとてもしっとりとしていて時間が二百年ほども遡行した気分になる。違いがひとえに「ちょう」と「まち」の差に負っていることは明からだ。「まち」は和語だけれども「チョウ」は呉音、つまり外国語の音だからだろうか。因みに漢音では「テイ」となる。さらに「まち」は「坊」とも書く。『和漢三才図会』に「坊者村坊也、説文云、坊邑里之名、町田區畦将也」「按今多用町字訓萬知、用坊字代房字、竟難改」(注1)と載っている。しかしこのあたりの議論をし出すと泥沼にはまってしまうのでもう止めておく。
つまりわたしが思ったのは、「にんぎょうまち」というのもちょっと風情があってよいのではないかということ。住人が皆人形の、なんだかとても幻想的な世界を想像してしまう。「まち」という言葉の柔らかさが、ある種の懐かしさに満ちているからかもしれない。「ちょう」と聞くと、これはせかせかした感じで、神田多町、神田司町、神田神保町と、どれもこれも気忙しい気分にさせられるけれども、神田小川町(おがわまち)と聞けば、ちょとほっとする。なんだか美味しい食べ物屋でもありそうな雰囲気になるじゃあないですか。萩原朔太郎の短編に『猫町』というのがあるけれど、これが「ねこちょう」だったらもう台無しだし、逆に「番町皿屋敷」を「ばんまちさらやしき」なんて読んだ日にはおどろおどろしさなんか吹っ飛んでしまう。

(注1)『和漢三才図会』(下)1149頁 寺島良安編 東京美術 平成2年10月1日第15版

法師

2006年02月10日 05時40分37秒 | 言葉の世界
あれは民芸品というのだろうか、「起き上がり小法師」という伝統的な玩具がある。わたしはこれを「おきあがりこぶし」と呼んでいる。別に誰に教えられたという記憶もないので、周囲にいる皆がそう呼んでいたに違いない。わたしは東京生まれの東京育ちなものだからついつい自分の話している言葉が全国どこででも使われているものだと思ってしまう、やらしい先入観がある。それでこの「起き上がり小法師」も北は樺太から南は波照間島まで全国津々浦々「おきあがりこぶし」と呼んでいるものだと思っていた。ところが一昨日偶然観ていたテレビ番組でナレーターがこれを「おきあがりこぼうし」と読み上げたのを聞いてびっくりした。まったく近頃の連中はものの読み方も知らねえのかと憤ったのだがどうも気になったので一応手近にあった国語辞典を開いてみた。調べてよかった。そこには見出し語として「おきあがりこぶし」ではなく「おきあがりこぼうし」が載っていたからだ。もしも辞書で確認していなかったならば、とんでもない恥をかくところだった。要すればナレーターの兄さんは極めて正確に「」の文字を読んでいたことになるわけで、何等非難されるいわれなどない。逆に憤ったわたしのほうこそものを知らない間抜け野郎ということになる。
とここまで考えたのだが、どうしてもわたしには納得がいかなかった。「おきあがりこぶし」より「おきあがりこぼうし」のほうが正しい読み方なのだろうか。正しい正しくないの議論でいうならば確かに「おきあがりこぼうし」のほうが正しいのだろう。「法師」は「ほふし」と読むのでありしたがって「こぶし」は「こぼふし」の転訛した「こぼし」がさらに転訛した読み方なのだそうだ。では実際のところどの読み方がもっとも一般的なのか、実は大多数の人々がこれを「おきあがりこぼし」と呼んでいるらしいことは、たとえばグーグルで検索してみるとヒット件数は「おきあがりこぼうし」が百十件ほど、「おきあがりこぶし」で六百件ちょっとであるのにたいして「おきあがりこぼし」のほうは七万三千二百件ということからも容易に想像できる。能の「弱法師」、わたしなどは三島由紀夫の戯曲のほうが近しいがこれは「よろぼし」と読む。なお『日本国語大辞典』では見出し語として「おきあがりこぼし」と「おきあがりこぼうし」をともに掲載してるが、発音の違いに関する説明には言及されていない。わたしの読み「おきあがりこぶし」はとても一般的とはいえなかったわけだけれども『言泉』や『大日本國語辭典』には寛永十五年山本西武撰『鷹筑波集』の「散れば咲く花はおきあがりこぶしかな」という用例が挙げられていたので、まったくの出鱈目というわけでもなかった。
ここでボンクラなわたしはやっと気が付いた。文字の読み方に正誤はあるが、言葉そのものに正誤はないということ、したがって「こぶし」でも「こぼし」あるいは「こぼうし」でもよい、そのように発音される事実があるだけなのであって、「」という文字はそれらを表記する単なる手段でしかないということ。

ソーカツ

2006年01月28日 10時42分45秒 | 言葉の世界
だめだ。完全に頭の芯まで凍りついてしまっている。だから何も見えないし何も書けない。
昨日は代休がとれたので久方ぶりに金曜日の古書展を見ることができた。初日なのでそれなりに品物はそろっていたものの、筋金入りの書痴どもは開場と同時になだれ込み目当ての品物を掻っ攫っていくので、午後にはもう目玉商品はなくなっている。もっともわたしの興味ある分野には大方の書痴は見向きもしないので、午後だろうが二日目の土曜日だろうが影響はない。
今回は趣味展だった。昨年七月の趣味展では十五冊ほど購入したものだが、今回は控えめの四冊で内容的に古本の王道を行くようなものだった。中でも特筆すべきは禅学辞典で大正四年八月二十日に東京府巣鴨の無我山房から刊行されたもの。著者は神保如天、安藤文英の両氏。かなり使い込まれていて、引かれていない頁は恐らくまったくないだろうと思われるほどに各頁に手油が染込んでいる、というほどのもの。こうなってくるとさすがのわたしでも少々触るのを躊躇してしまう。まあそれほど黒っぽい本なのだ。惜しむらくは皮装の背を透明フィルムで補強してあることか。これじゃあ普通は二、三百円が相場なのだが、さすが「禅宗辞典」だけあってなんと八百円の値が付けられていた。ついでに書いておくと戦後の版は東陽堂で九千円で売っている。
それから寺川喜四男、日下三好による『標準日本語發音大辭典』なんてのがあったので買った。五百円。実はこの本、昭和十九年六月二十日に初版が三千部出ているが、わたしが購入したのは昭和二十年三月十五日刊行の再販で二千部出たうちの一冊にあたる。しかしそれにしても昭和二十年という時期によくも出版されたものだと思って中身を読んでみて納得した。
「方今、内には皇國正統の國語を醇化し培養し、外には斯の醇化國語を遠く海外に宣布し昂揚し、弛緩なく假借なく、勇往すべきこと、すでに最近の帝國議會に在りて、橋田文部大臣も問者に對して明快なる應答をせられたるが如くである」(新村出の序より)。
「『言靈のさきはふ國』日本の『ことば』は、大東亞諸民族の團結を象徴して、幸ひに幸はうとしてゐる。『共榮圏日本語』は、口から耳への『ことば』として、その據るべき基準をもとめられてゐる。」(寺川喜四男のはしがきより)。
「今次大戰勃發の動機は、澎湃たる國民的自覺を促し、延いては我が國語學界にもこの著しい現象が觀られて、語學史上一新時代を劃したものといふべきである。」(日下三好のあとがきより)
「惟ふにこれは、八紘為宇の大精神に貫く民族史の辿るべき、大和語の輝かしき歸結であって、この時代史的脚光を浴びて世に浮かび出たのが、我が「標準日本語發音大辭典」」(同)
つまり言語によってもアジア圏を支配しようという国策が背後にあったわけだ。なお山田孝雄も序を寄せているが、新村や著者たちのような勇ましいことは書いてない。ごく当たり障りのない文章になっている。
事ほど左様にそんなわけだから、この大辭典には「自由主義」という単語は出ていてもさすがに「共産主義」や「独裁」はない。まあこれは何時の時代でも形を変えて現れることだからそれほど騒ぎ立てるはなしでもない。ところで『標準日本語發音大辭典』の出版が政治性、党派性を孕んでいるのは確かなのだけれども、一般にイントネーションそのものに政治性や党派性はあるのだろうか。わたしはあると思う。たとえば「総括」。「ソーカツ」はわたしとしては"下中中中(平板)"イントネーションで発音されねばならないと思っている。それを"上中中中(頭高)"と発音されるとどうしてもあの連合赤軍事件を思い出してしまう。これなどはれっきとしたイントネーションにおける党派性ではないだろうか。ところが近頃ではこの「連合赤軍」的イントネーションが随分と幅を効かせてしまい、とうとうNHKのニュースアナウンサーまで"上中中中(頭高)"で「ソーカツ」と読み上げる始末だ。これを聞くたびにわたしはそのアナウンサーが党派的に感じられてしかたがない。

シュトットガルトな意外

2006年01月15日 13時29分17秒 | 言葉の世界
日本経済新聞一月十四日付朝刊の二十九面に多和田葉子という作家の文章が掲載されていた。「溶ける街透ける路」の題で連載されていて今回が二回目になる。シュトットガルトの演劇活動を主に取り上げたもので大して面白い読み物ではなかった。だから普段ならそれきりになってしまうところだったのだが、この文章中次の一節に目が留まりちょっと考え込んでしまった。
「シュトットガルトは意外に文化の盛んな町でもある」。わたしはこの文を軽く素通りすることができなかった。そもそもシュトットガルトは今も昔も文化の香り高い街であることは、少しでもドイツに興味ある者なら誰でも承知している。ドイツ在住のしかも小説家のセンセイであってみればまさかそれを知らないはずはないと思う。もし本当に「シュトットガルトは意外に文化の盛んな町でもある」とこの作家が感じたとすれば、そのナイーブさはある意味で驚嘆に値するほど微笑ましくさえある。いっぽうこの文を読者がシュトットガルトをドイツの工業都市の一つくらいにしか思っていないという前提に立ったうえで書いているとしたならば、それは随分と読者を見縊ったものだと思う。穿った見方をするならこの作家の意識のどこかにヨーロッパ語を解することへの優越感があるのではないか。ヘーゲルを知らなくたってシュトットガルト管弦楽団ならご存知の読者諸賢も多いはずだ。そもそもドイツの都市で「文化の盛んでない町」なんてあるものだろうか。
以上が前口上でここからが今回の本題。
「シュトットガルトは意外に文化の盛んな町でもある」。何度読んでもどうもしっくりとこない表現だ。「意外に文化の盛んな町」というこの部分が引っ掛かって仕方がない。
「意外に」はどう考えても形容動詞「意外だ」の連用形にしか思えない。したがってたとえば「意外に少ない」といった表現ならば連用形+用言ということですんなりと受け入れられる。ところが「意外に文化の盛んな町」では形容動詞「意外だ」が名詞句「文化の盛んな町」を修飾する構造となっている。そうであるならばここでは「意外だ」は連体形をとり「意外な文化の盛んな町」とすべきではないだろうか。しかしこれだと「意外な」が名詞「文化」を修飾しているのか、それとも名詞句「文化の盛んな町」を修飾しているのか曖昧になってしまう。そこでこれを解消するためには「文化の意外に盛んな町」とでもするほかないだろう。「意外と」としても大方耳障りではないが、しかしこれは文語表現における曲用なので使わないほうがよいと思う。
誤解しないでいただきたいのだけれども、わたしはなにも文法規則に則った文章を書けと主張しているわけではない。そもそも始めに言葉という現象が在るのであり、文法とはこの現象を便宜的に体系化した構成法則のはずだ。だからわたしは先ず聞いて、話して何だか違和感を感じてしまう、というところからその違和感の源を確認しようとして文法を参照しているにすぎない。たしかに言葉というものは時間空間的に変化するものであり、江戸時代の言葉を日常的に使用している個人なり集団は今ではないだろうと思う。わたしだって標準的日本語を使っているとはとてもいい難い。しかしそんなわたしをしてさえ不愉快にさせる言葉と出会うこと再三なのだ。「何気に」なんぞ聞いただけで虫唾が走る。そういえば「ちなみに」も同断でこれがやたらと使われ出したのは、あの萩本欽一という客を弄ってしか笑の取れない三流芸人がバラエティー番組で使ってからだと記憶している。

二足のわらじ

2005年10月23日 10時44分07秒 | 言葉の世界
「二足草鞋」の意味を急に知りたくなって、調べてみた。もちろん漠然となら知っていた。「やくざがお上から十手持を預かること。本来両立しないはずの立場に就くこと」くらいの意味だと思っていたが、確認のため日本国語大辞典を引くと「にそく の 草鞋(わらじ) 同一人が両立しないような二種の職業を兼ねること。特に、ばくち打ちが捕吏を兼ねることをいう」(注1)と出ていた。今では「二種類の仕事を同時にこなす」といった積極的な意味に捉えている人もいるので困ったものだが、本来はよろしくない所為についての言いなのだ。
しかしわたしが知りたいのは、それではなぜ「ばくち打ちが捕吏を兼ねること」が「二足の草鞋」といわれるのかということ。大槻文彦の『大言海』にはそもそも「二足草鞋」という項目さえ立てられてはいない。これは少々意外だった。当時は一般的な言葉ではなかったということなのだろうか。そんなことはないと思う。それとも辞書に載せるのも憚られるほどにごく当たり前の言葉だったのか。そんな馬鹿な。
「二足の草鞋」を履くことがどうして「両立しないような二種の職業を兼ねること」になるのだろう。ここで二足の草鞋を履くということは、草鞋をはいている上にさらに草鞋をはくということではないと思う。あくまで二足の草鞋を今日はこちら明日はあちらといった具合に履くということだろう。とすればなぜ同じ草鞋を履き替えただけで「両立しないような二種の職業を兼ねること」になるかが問題となる。ここで注目しなくてはいけないのが、そもそも二足というからには同一種類の草鞋ではない、ということだ。草鞋を履く生活とはまったく縁の無いわたしたちは、草鞋はすべて同じものだという先入見を持っている。だから「二足草鞋」の意味を理解するのに困難が生じてしまうのだと思う。
そもそも草鞋といってもその構造から大きく五つに分類されるのだそうだ(注2)。(一)ごんず類、(ニ)ぞうりわらじ類、(三)無乳わらじ類、(四)有乳わらじ類、(五)馬わらじ類、がそれで、まず(一)ごんず類は福岡県大宰府の七五三用こども草履にその典型を見ることができる。(ニ)ぞうりわらじ類は「じょうりわらじ」「あしなかわらじ」とも呼ばれ、山城、佐渡、伊豆諸島、下閉伊などの島嶼や山間部で用いられた。(三)無乳わらじ類は「ごんぞわらじ」と呼ばれ京都丹波の山村に見られた。(四)有乳わらじ類は「さわらじ」とも呼ばれ、このタイプは比較的新しいもので、乳(草鞋の左右についている鼻緒をかける部分)の数によってそれぞれ二乳草鞋、四乳草鞋、六乳草鞋、八乳草鞋と呼ばれる。このうちの四乳草鞋が現在最も一般的で、お祭などで履かれているものはこのタイプである。それゆえわたしは草鞋というとこれを思い出す。最後の(五)馬わらじ類は文字通り馬に履かせるもの。
このように草鞋の種類は時と場所によって異なり、その種類がかなり豊富であることがわかる。これは現在の靴とは比べ物にならない。そのような背景を知った上で「二足草鞋」という言葉を聞くとき、わたしには「ばくち打ちが捕吏を兼ねること」との内在的意味連関がよりリアルなものとなってくる。

(注1)『日本国語大辞典』第十五巻 469頁 日本大辞典刊行会編 小学館 昭和50年5月1日第1版第1刷
(注2)『世界大百科事典』第23巻755頁 宮本馨太郎記 平凡社 1969年12月25日初版
   以下、草鞋に関する薀蓄はすべて平凡社の世界大百科事典に拠る。

外来語辞典

2005年09月25日 15時59分51秒 | 言葉の世界
とにかくカタカナ表記に悩まされている。原語の綴りを直接書いてくれたほうがよほどありがたい。それならばたとえすぐにわからなくともそれなりの辞書を引けば済むことだから。現代語ならインターネットでもっと早くわかるかもしれない。むかし学校に通っていたころ、ゼミで先輩からレジメを作れといわれた、何のことだか判らなかった。もちろんこれはフランス語の男性名詞résuméのことで「要約」あるいは「概略」を意味することは読者諸賢におかれては先刻御承知のことと思うが、馬鹿なわたしは当時そんなことも知らなかった。
同じような状況が、じつは今も続いている。いきなり「コンドミニアム」といわれてもなんのことだかわからない。これは"condominium"、なんのことはない「分譲マンション」という意味。原語の綴りさえ判ればあとは先ず英和辞典あたりを引いてみるとほとんど解決してしまう。それでだめだったら仏和辞典なり独和辞典を引いてみればよい。これでだめということはほとんどない。ところがいま流行の「ユビキタス」はちょっと手強かった。というのもわたしたちは「ユ」の綴りをとうしても"yu"と思ってしまうからだ。しかしこれでは英和辞典で「ユビキタス」を引くことはできない。つまりこれがラテン語起源の言葉だということを知らないととんでもない回り道をしてしまうことになる。英和辞典を引くと"ubiquitous"という綴りで項目が立てられていて「到る所にある」「遍在する」という意味が載っている(注1)。この訳を鵜呑みにしたのだろう、インターネットのサイトを検索するとほとんどすべてのページで「到る所にある」という説明をしている。あるいは「神のごとく遍在する」などという意味を載せていたりしてる。しかしこれはどちらかといえば特殊な用例だ。ウィキペヂアには「ラテン語に於ける ubiquitous の ubi は英語では where と訳され「どこで」を示し、ubique は、英語の everywhere に相当する「何処でも」を意味する。2004年現在、ubiquitous は「何処でも」の意味に加えて時間軸上における同時性または同時刻性を加味した使われかたをしている」とある。これでは"ubiquitous"とは本来どのような意味なのかという疑問にたいする説明を半分しかしていない。
ブロックハウスのドイツ語辞典を引くと"die Ubiquität"が載っていて、生態学、哲学、神学、経済における意味をそれぞれ紹介している。まず生態学における意味は"Eigenschaft von Tieren und pflanzen, nicht an einen bestimmten Standort gebunden zu sein"「特定の場所に結びついていない、動植物についての性質」。哲学、とくにスコラ哲学においては"Allgegenwart Gottes"「神の遍在」。福音主義神学では"Allgegenwart Christi"「キリストの遍在」。そして経済では"überall vorkommendes Gut"「到るところに存在する財」という意味になる(注2)。ドーデンにもほぼ同じ意味の説明が載っているが"vgl. frz. ubiquité"(注3)と書いてあったのでフランス語も参照してみた。大きな仏語辞典が手元になかったので小ぶりの辞典を引いてみると"ubiquité"の項に"État de ce qui est partout en même temps"とあった(注4)。「同時に到るところに在る、といった状態」というほどの意味だろう。どうもフランス語は苦手なので確認のため仏和辞典を見てみた。「henzai 遏遍:(Fog.) Avoir le don d'―, doko何処ni de mo doji 同時 ni oru 居る koto ga dekiru koto」なのだそうだ(注5)。
わたしははじめ"ubiquitous"とはラテン語で"ubi quitus"のことで、"ubi"は副詞、"quitus"は動詞"queo"「できる」の過去分詞、より正確には完了受動分詞として「どこでもできる」というほどの意味だろうと思っていたがどうもそうではないらしい。あくまで"ubique"なのだそうだ。"tous"の部分に注目しすぎて読み誤ったということ。というのもドイツ語の"die Ubiquität"にしてもフランス語の"ubiquité"にしても基本的に"ubique"だけから作られているからだ。
なんだか「ユビキタス」の語源探求みたようなことになってしまったけれど、わたしが言いたかったのはやったらめったらカタカナ表記をしてくれるなということだけ。そしてこのような状況のなかではどうしても外来語辞典に頼らざるを得ないのだけれども、本邦で出版されている外来語辞典で使用に耐えるものは残念ながらない。で、いまわたしの使用している外来語辞典というのが中国で出版されているものでこれが結構使える。『新編 日語外来語詞典』(注6)というのだが、中国の本なので説明は当然中国語なのだが、説明が簡単なので中国の簡体字に慣れればだいたい意味がわかる。わからなくとも見出し語のローマ字綴りを基に相当する言語の辞書をひけばそれで解決。わたしはこの辞書を主に綴りの確認のために使っている。
残念なのは出版されてから少々月日が経っていること。したがって最近のカタカナ言葉は載っていない。つまり「ユビキタス」も載っていないということ。

(注1)『ジーニアス英和辞典』1944頁 大修館 1994年4月1日改訂版初版
(注2) "Brockhaus Wahrig Deutsches Wörter Buch" Sechster Band s.356 F.A.Brockhaus Wiesbaden Deutsche Verlags-Anstart Stuttgart 1984
(注3) "DUDEN Das große Wörterbuch der deutschen Sprache" Band 6. s.2665 Dudenverlag 1981
(注4) "Dictionnaire Quillet de la Languefrançaise" p.2004 Librairie Aristide Quille Paris 1959
(注5)『マルタン仏和大辞典』1382頁 J・M・マルタン編 白水社 1974年11月25日7版
(注6)『新編 日語外来語詞典』史群編 北京商務印書館 1994年5月北京第4次印刷

耶蘇會士

2005年09月12日 06時44分48秒 | 言葉の世界
閉ざされた集団の中では、ときに信じられないことが起こる。部外者の目には滑稽とも奇怪とも見える行為がその集団内では真顔で実行されたりする。遡れば連合赤軍リンチ事件があるし最近ではカルト教団のテロルや、もっと身近なところでは学校のいわゆる「いじめ」など、まあ例に事欠くことはない。ところでわたしはあの「いじめ」という言い方が大嫌いだ。アホな新聞雑誌、テレビのニュース番組などで気安く使われるようになったのはいつ頃からか記憶にないが、「いじめ」という通常は子供の世界の言葉を安易に使用することで行為自体の野蛮性、卑劣性、陰湿性が隠蔽されてしてしまうからだ。
閉ざされた世界を描いた、文学史に残る名作の一つがトーマス・マンの『魔の山』。この作品には当然ながらいくつかの山場があって、例えば「ヴァルプルギスの夜」などが有名だが、わたしの好きな、というより引き付けられる山場は終盤の"Die groß Gereiztheit"「苛立ち状態」と名づけられた章。岩波文庫版ではこれを「ヒステリー蔓延」としているけれども、意訳が過ぎるのではないか。まあそれはそれとして、この章であのイエズス会士になり損ねたレオ・ナフタが人文主義者ゼッテムブリーニとの決闘で死んでしまう。いやそれは形式こそ決闘だったが、まったく決闘の体をなしてなどいなかった。ゼッテムブリーニは銃を明後日の方向に発射し、ナフタは自らの頭部に銃口を向けて引き金を引いたのだから。
事の起こりはハンス・カストルプにたいしてナフタが彼一流の理性主義、啓蒙主義批判を吹き込むのに我慢できなくなったゼッテムブリーニが、ナフタにたいして"Infamie"という言葉を吐いたことによる。原文では"Einer solchen Aufforderung, mein Herr, bedarf es nicht. Ich bin gewohnt, nach meinen Worten zu sehen, und mein Wort wird präzis den Tatsachen gerecht, wenn ich ausspreche, daß Ihre Art, die ohnehin schwanke Jugend geistig zu verstören, zu verführen und sittlich zu entkräften, eine Infamie und mit Worten nicht strenge genug zu züchtigen ist..."(注1)「そのような要求は、あなた、必要ありません。私は自分の言葉を評価するのに慣れています。そしてもし私が次のように言うならばその言葉は事実にまさしくかなっています。つまり、あなたの手段それはそうでなくとも心の不安定な青年を精神的に混乱させたり、誘惑したり、倫理的に衰弱させたりもするのだが、そのような手段が下劣"Infamie"(原文ではイタリック体)なものであり、言葉をもってしては充分に厳しく懲らしめることができない、と言うとき...」となっている。
"Infamie"はラテン語の女性名詞"infamia"が起源の言葉だが、イタリア人であるゼッテムブリーニの発言ということでマンはイタリア語の女性名詞"infàmia"も念頭に置いてこの女性名詞"Infamie"を用いたのに違いない。そしてカトリックでは"Infamie"は「名誉剥奪」という意味もあることに注意する必要がある。イエズス会士になれなかったナフタにしてみれば神経を逆撫でされる気分だったのだろう。そのことが彼を怒らせ物語は一気に決闘へと展開していくわけだが、この部分をどう読んでもナフタが"Infamie"に過剰反応しているとしか、わたしには思えない。
おそらくナフタにとって言葉などどうでもよかったのではないか。ただすべてをご破算にするきっかけが欲しかっただけなのではないか。決闘の場面を読むたびに、わたしはいつも重苦しい気分になってしまう。

(注1)"Der Zauberberg"s.736 Thomas Mann Fischer Tschenbuch Verlag 1982.4

中間領域

2005年08月11日 06時18分32秒 | 言葉の世界
わたしは言語学など知らないから、もしかしたら間違っているかもしれないのだけれども、たとえばどうして英語を日本語に翻訳することができるのだろうかと、ときどき考え込んでしまうことがある。
前に書いたと思うのだが、"This is a pen"がどうして「これは一本のペンである」という日本語に対応しているといえるのだろう。"This"は「これ」ではないし"is"も係助詞「は」ではなく"a"は当然「一本」ではない。"pen"は単に「ペン」と読んでいるだけだ。なにも英語に限ったわけではない。他の外国語、ヨーロッパ語だけではなくスラブ語やセム語、アジアの諸言語につても同断。と、ここまで考えて気がついた。いまでこそナントカ語という形で分類されているけれども、そもそもこのような分類は絶対的なものなのか。つまり例えば日本語と韓国語を比較した場合、ちょっと見にはかなり違うけれども文法構造としては多くの類似点があるそうだ。モンゴル語も同系統であるらしい。で、ここからなのだが、韓国語と日本語が同系統ならばこの二言語の間に位置する言語もあるのではないか。あるいはかつてあったのではないか。つまり何を言いたいのかというと、各言語は離散的にあるのではなく連続的にあるのではないか、そしてもし韓国語と日本語の間に中間的な言語が存在し得るならば、これは微分的に無限の中間言語の存在を想定することが可能なのではないかということだ。このことを簡略化すると、韓国語を0とし日本語を1とした場合、中間言語0.000~1から中間言語0.999~9までの言語があってもおかしくない。そのような状況では人はおそらく韓国語0と中間言語0.000~1との差異などほとんど意識しないはずだ。もちろん中間言語0.000~1と中間言語0.000~2の間の差異も、日本語1と中間言語0.999~9の間の差異も然り。
ではそのような中間言語ははたして存在するのだろうか。わたしは勉強不足なのでそのような中間的存在の言語がはたしてあるのかないのかわからない。しかし素朴に考えたみるに、むしろないということの方が理解できない。世の中どんなものだって中間的な領域はあるもので、なにも言語が例外的存在である理由はまったくないのではないか。沖縄言葉は言語学的には正真正銘の日本語の方言なのだそうだが、わたしにはどうしても異国の言葉に聞こえてしまう。もしかしたら沖縄言葉の更なる方言があって、その先にはもっと日本語から遠ざかった言葉があり、それをたどって行くといつしか韓国語になってしまったりする、そのようなことを想像したりする。
言葉によって人は団結しアイデンティティを持つことができるが、一方で言葉が異なることによりお互いの意思を通じあわせることができない。意思を通じあわせることができないというのは、"das Geheimnis"が日本語の「秘密」に相当するということを知らないから話がかみ合わないといった単純なことではけっしてない、ということは判っていただけると思う。

看托馬斯曼的作品

2005年07月24日 07時03分21秒 | 言葉の世界
"Ein einfacher junger Mensch reiste im Hochsommer von Hamburg, seiner Vaterstadt, nach Davos-Platz im Graubündischen. Er fuhr auf Besuch für drei Wochen "(注1)
トーマス・マンの『魔の山』冒頭部分。「真夏のある日、物事をあまり深く考えたこともない一人の若者が、故郷のハンブルクからグラウビュンデンはダヴォースの地へと、三週間の予定で旅立った」とわたしは読むのだが、岩波文庫版では「単純な一青年が、夏のさかりに、生まれ故郷のハンブルクからグラウビュンデン州のダヴォス・プラッツに向かって旅立った。ある人を訪ねて三週間の予定の旅であった」(注2)となっている。
わたしはこの邦訳が大嫌いだ。そもそも主人公であるハンス・カストルプはけっして「単純な一青年」ではない。高度な職業教育を終え、これから一流会社で働こうという一通りの教養を身に着けた若者である(昨今の日本の同世代と比べれば少なくとも知識量においては雲泥の差がある)。岩波版では彼がその一流会社「トゥンダー・アンド・ヴィルムス商会(造船、機械製造、ボイラー製造の会社)へ見習社員として入社する」(注3)と訳しているが原文は"seinem Eintritt in der Praxis bei Tunder & Wilms"となっており、"die Praxis"は実務、実践の意味こそあれ「見習」("die Lehre"、"die Probe")という意味はないと思う。
この物語は十九紀末が舞台なので、ひょっとして古い用法では「見習」の意味もあるのかと明治三十八年南江堂書店発行の『増訂挿図 獨和字典大全』(注4)や、もっと時代が下った昭和二年発行の同じく南江堂書店の『雙解獨和大辭典』(注5)にも眼を通してみたが"die Praxis"に「見習」の意味はなかった。そもそもドイツ語ではどのような意味合いかと思いDUDENもついでに見てみた。"alles das, was der Mensch tatsächlich tut, um seine Gedanken, Vorstellungen, Theorien o.ä. in der Wirklichkeit anzuwenden"「自分の思考、イメージ、理論などを現実に応用するためにその人が行う事のすべて」(注6)と説明されている。入社時の身分としては「見習」社員だろうけれども、このような意訳をする必要がはたしてあるのだろうか。因みに冒頭部分の「ある人を訪ねて」という文言は原文のどこを探しても出てはこない。これがあることで逆に文章が下卑てしまっている。
冒頭部分にケチをつけた序に終末部分にもケチをつけておく。
「ハンス・カストルプは、車室の小さな窓に鈴なりになっている頭のあいだから顔を出した。そして、それらの頭ごしに手をふった。セテムブリーニ氏も右手をふり、左手の薬指のさきで片方の目がしらをそっとぬぐった」(注7)。いよいよハンスカ・ストルプがダヴォースを離れる場面。この部分、文脈からハンス・カストルプが車内、セテムブリーニ氏がホームにいるのだということはわかるのだが、ここだけ読んでも情況が把握できない。両者の位置が逆でも矛盾が生じないからだ。原文では"Hans Castorp zwängte seinen Kopf zwischen zehn andere, die den Rahmen des Fensterchens füllten. Er winkte über sie hin. Auch Herr Settembrini winkte mit der Rechten, während er mit der Ringfingerspitze der Linken zart einen Augenwinkel berührte"(注8)となっているので、わたしは「ハンス・カストルプは自分の頭を窓枠を埋めている十人の乗客のあいだに押し込んだ。彼はその乗客たち越しに外へ合図した。セテムブリーニ氏もまた左手の薬指の先を眼の隅にそっと触れながら、右手で合図した」と読んでいる。言語感覚の問題ということもあろうが、こちらのほうが両者の位置関係は明瞭になっているのではないかと思う。
もちろんわたしは翻訳の専門家ではないので技術的なことは判らない。しかし一読者として拙い訳文というものが何かは大体見当がつく。そして一番よくある勘違いは(近頃減ってきているとはいえ)大学の外国語教師に文芸作品を翻訳させることではないだろうか。彼らは言語の専門家、文芸批評家かもしれぬが文章職人ではないからだ。

(注1) "Der Zauberberg"S.7 Thomas Mann Fischer Tschenbuch Verlag 1982.4
(注2)『魔の山』(上) 14頁 関泰祐 望月市恵訳 岩波文庫 2000年10月5日21刷
(注3) 同上 16頁
(注4)『増訂挿図 獨和字典大全』福見尚賢 小栗栖香平纂譯 南江堂書店 明治38年5月15日訂正増補第13版
   (書名中の「和」は龠と禾で作られているが漢字変換できないため「和」で代用した。)
(注5)『雙解獨和大辭典』片山正雄著 南江堂書店 昭和2年7月1日
(注6) "Das große Wöterbuch der deutschen Sprache" Band.5 S.2036 DUDEN 1980
(注7)『魔の山』(下) 643頁 関泰祐 望月市恵訳 岩波文庫 2000年10月25日18刷
(注8) "Der Zauberberg"S.753 ibid.