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蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

「貸切」書籍バーゲン

2006年03月25日 17時33分49秒 | 本屋古本屋
三月二十一日と二十二日に東京古書会館地下のイベントホールで洋書バーゲンセールが開催された。ほとんど英語の書籍でなおかつビジュアル系が多く出品されていた。ビジュアル系が多いのは最近の風潮でいまさら論うまでもないが、読み応えのある書籍も出ていて探せば結構おもしろいものが見つかった。わたしは二十一日に訪れたのだが、しかしそれにしてもなんと客の少なかったことか。わたしを含めて三人ほどしか入っていなかった。もろ貸切状態。まるで王様気分で一冊一冊をじっくりと嘗めるように観て回って四冊ほど購入した。
客が少ない原因は明白だ。そもそもわたしがこの催し物を知ったのが十八日の土曜日に古書展を覗きにいったとき、地下ホールへの階段踊り場にある掲示板に、ほんとうに素っ気ないチラシが貼り付けられているの見たからなのだ。筋金入りの洋書痴には先刻承知かもしれないが、わたしも含めてごく普通の読書家にとっては何のアナウンスもないに等しい。それを考えると主催者の対応には大いに腹立たしいものを覚えた。「日本の古本屋」は東京都古書籍商業協同組合が開いている公式サイトだがここでは古書展の開催しか告知されない。つまり古書会館でのエベントであっても今回のような洋書バーゲンにはまったく触れていないのだ。全国の洋書ファンは断固怒るべきではないだろうか。そりゃあ古書と新刊との違いはあるかも知れないけれども、同じ古書会館での催し物じゃあないか、もっと融通を効かさないことにはますます本離れが加速されるというものだ。
それはそうとして「王様気分」で本を見て回るのは確かに極楽気分なので、こればっかりは興味のない人からはまったく理解も共感も得られないことだろう。しかしそうはいうもののわたしたち書痴は「理解」も「共感」もまったく望んでいない、いやむしろ拒否するものである、なあんて力むこともないのだが、じつはこのセールにイタリア書房も出品しているというので見に来たわけなのだ。ところが勇んでイタリア書房のコーナーへいってみると、これがなんとも情けないほどに貧弱な品揃えで、一瞬なにかの間違えかあるいはわたしの勘違いではないかとさえ思ったのだが、間違えでも勘違いでもなかった。イタリア語の書籍は素人向けの美術解説書と、旅行案内みたような冊子、それに子供向けの本がパラパラと置かれているだけ。一冊やけに重厚な仮綴本があったのでひらいてみたらアクィナス本の索引集だった。これに比べてスペイン語系は多く出品されていたとはいうものの、あくまでイタリア語と比較してというに過ぎない。これには心底がっかりさせられた。
仏語、独語の書籍はついに見つからずじまいで、これで洋書セールとはおこがましい。花のお江戸の書痴をなめるのもいい加減にしてもらいたいものだとブツブツ文句を言いながらも、わざわざ休日の午後駿河台下までやってきたからには手ぶらで帰るわけには行かぬと、自分でも訳がわからない理屈をつけて最初にも書いたように四冊購入した。
1."Does Socrates have a Method? -Rethinking the Elenchus in Plato's Dialogues and Beyond-" The Pennsylvania State University Press 2002. これはメリーランド・ロイヤルカレッジ助教授Gary Alan Scott編集による論文集。
2."Platonic Writings, Platonic Readings" The Pennsylvania State University Press 2002. これも同じ出版社から出ている論文集で編集はCharles L.Griswold Jr。この人はボストン大学の哲学教授で"Self-Knowledge in Plato's Phaedrus"という本も上梓しているそうだ。
3."Husserl at the Limits of Phenomenology" Nortwestern University Press 2002. これはモーリス・メルロ・ポンティの英訳本
4."Witchcraft in Europe: 400-1700" University of Pennsylvania Press 2001. 読んでの通り五世紀から十八世紀にかけての魔術使いの歴史を記述した本で今回購入した四冊のうちでもっとも興味を引かれるタイトルだった。なお編者のAlan Charles KorsとEdward Petersはともにペンシルベニア大学の歴史学教授なんだそうだが、そんなことはどうでもよい。暇を見つけてさっそく読んでみることにしよう。
ところで、白状するとわたしは英語が最も苦手なのです。

ちょっと不愉快な

2006年02月23日 07時17分19秒 | 本屋古本屋
このところ古本屋ネタが続いているけれど、今回も古本屋の話。
川崎駅の東口は首都圏有数の繁華街で、とにかくいつ行っても人通りの絶えたことはない。しかも東京みたように気取っていない、つまり多少の猥雑さがともなった賑やかさなのだ。日常性と淫靡が綯い交ぜになったマージナルな空間と思えばよい。小心者のわたしなどは今でもここに来ると身構えてしまうのだが、そんなところに古書店が四軒もあるというのはちょっと意外な気もする。いや四軒と書いたのはわたしの知っている限りでのことなので、もしかしたらこれ以上あるのかもしれない。
中でも最も有名な店が近代書房で、昔と比べて硬めのものや黒っぽいものが減っているとはいうものの、まだ見ごたえのある品揃えなっている。以前たしかここで国書刊行会の『古今要覧稿』を購入したと思うのだが、古い記録がなくなってしまっているので確認のしようがない。しかしわたしが買ったのだからけっして高くはなかったはずだ。砂子通りの大島書店は最近行っていないがまだあるのだろうか。この店はたしか娯楽本を中心とした軽めのものが多かったが、硬い本も結構あったように記憶している。
ところで近代書房のある新川通りには他に二軒あって、一軒は文庫やマンガ、ムックが中心の小奇麗な店なのだが、あいにくとわたしの興味を引く分野でないので滅多に入ることはない。問題はもう一軒目の店だ。場所としては三軒のうちもっとも第一京浜寄りに位置し、店内も最も広いのではないだろうか。しかも本の量が多く人文系の書籍も探せば結構ある。棚と棚の間が狭いので足元近くの段に並んでいる本を見るのにはちょっとつらいものがあるけれども、かなり見ごたえがある。
今日、久方ぶりでこの店を覗いてみた。平日なのになぜ川崎にいるのかって。じつは体調不良で仕事を休んだのです。体調不良なのになぜ川崎にいるのかって。休む旨の連絡を入れた後、不思議と体調が良好になってしまい、家に引きこもっているのもなんだかもったいない気がしたもので、それならというのでこのところご無沙汰している川崎駅前の古本屋を見て歩くことにしたのです。そんな事情であまり時間的余裕のなかったこともあり、今回は新川通りの店だけをチェックしたというわけだ。で、この三軒目の古書店なのだが、たしかに店名を確認したはずなのだけれども、帰宅したらうろ覚え状態になてしまった。古書籍商組合には加盟しているはずなのでインターネットで調べてみたのだが該当する店は見つからなかった。どうもよく判らない。というのも古書店をやっていくには商品の古書を仕入れる必要があるわけで、もちろん店買いで客から直接仕入れることもあるけれど、大半は業者の市で競り落とすのが普通であり、その市に参加するためには古書籍商組合に加入しなくてはならない。したがって古書店は皆この古書籍商組合の組合員であるはずなのだ。組合員であれば「日本の古本屋」サイトで検索できるにもかかわらず該当する店がない。これは考えるにわたしが見た店名と「日本の古本屋」サイトに掲載されている店名が異なっているからではないのか、そういうことなら納得できる。
さて書きたかったことは、購入本の成果なのではない。件の三軒目には確かに面白そうな品があったのだけれども、値段的にはけっして安くはなかった。他の店と大差がないのならば、わざわざここで買う必要もないわけで、持って帰るのも億劫だ。
そしてここからが書きたかったこと。わたしが店内に入ると奥のレジで女性がなにやら店主らしき男性に声を上げていた。車の話だった。子供の送り迎えがどうの、新車を買うの、日本車はいやで外車がいいとか。もしかしたらの女性は店主の娘なのだろうか。とても他人同士の会話には聞こえなかった。いったいこの店は客を石ころか何かとでも思っているのだろうか。すくなくともわたしだったら見ず知らずの他人がそばにいるのに、あのような大声でプライベートな話はできない。あまりに耳障りだったので途中で本を探すのを諦めてしまったほどだ。一般に古書店は無愛想というのが定番だし、こちらもそのほうが気兼ねなく本を物色できる。しかしこの店の態度は無愛想とは違う。あきらかに別次元の問題だ。店主がもし普通の感覚の持ち主だったら、客がいるのにあのような真似はさせておかないのではないだろうか。客を人としてみていないような店には二度と入る気がしない。

リニューアル

2006年02月21日 23時28分48秒 | 本屋古本屋
リニューアル、近頃よっく聞く英語だがわたしなんぞはこれを耳にするとけつの穴がくすぐったくなってくる。理屈ぬきで生理的不快感がむくむくと沸いてくる、なんとも不愉快な響きの言葉だ。もう考えたくもないのだけれども、わたしの意思にかかわらず毎日目にも入ってくるし耳にも聞こえてくる。だからわたしは二六時中けつの穴がむずむずし通しなのだ。え、そりゃあ回虫の仕業だから虫下しでも飲めってか。なんだか話が穢くなってきたのでこの辺りにしておく。ところで古本屋のリニューアルというのはほとんど見た事がない。だか高度経済成長時代(懐かしいねえ)にはあの神保町でもリニューアルが盛んに行われ、今日日立派なビルになっている店のほとんどがその頃に改築されたものだ。しかししょせんは古書店、どれほど店内の意匠を凝らしたとてすぐに買い入れた本の束で埋め尽くされてしまいそこいらへんの町の古本屋ぜんとしてしまう。雀百まで踊り忘れずっていうか、どれほど気取ろうが古本屋とはそんなものなのだろうと思う。
わたしは何年か前に門前仲町の某所で仕事をしていたことがある。ここにはいろいろな食べ物屋があって「昼食難民」になることはけっしてなかった。そして夜はもっともっと賑やかになる。もんじゃ焼きは月島が有名だけれども、門仲にもけっこう美味い店がある。深川不動尊よりちょっと木場寄りに「魚三酒場」という飲み屋がある。魚介類を肴に酒を飲ませる店で、たしか子供は入店御断りのはずだ。わたしも二三回入ったことがあるが、どうもあの雑然とした雰囲気には馴染めなかった。何よりもわたしは騒音が嫌いなので、わいわいがやがやの店内で立ち飲みするのには耐えられない。まあその分お値段は安いのだけれども。浜松町の駅から第一京浜に出る途中に大きなもつ焼き屋がある。開店前から店の前には客が並ぶような有名店だが、わたしは入ったことがない。いや入る気がしない。ここも雑踏と立ち飲みスタイルだからだ。
はなしを元に戻す。古書店のリニューアルだった。じつはさきに上げた「魚三酒場」の隣に古書店がある。朝日書店というが、この店は十年ほど前までは随分と殺風景な、古書店というよりはエロ本屋みたような、つまりそれほど白っぽい娯楽本や雑誌のたぐいを並べている店だった。神保町は置くとして、町のごく普通の古本屋はマンガやエロ本を置かなければとてもではないが経営的に成り立たないということを、以前ある古書店の主人に聞いたことがある。そうだろうなあ、下町の古本屋の棚に『佩文韻府』を置いたとして、いったい誰が買ってゆくというのだろう。そんなわけでこの朝日書店も要すれば門前仲町という町に適合した商いをしていた。
今日何年かぶりでこの朝日書店を覗いてみた。いやああああ、ビックリした。店内がまるで青山辺りの本屋みたいになってしまってしたのだ。これじゃフランス文庫なんかを立ち読みしようと思っているオジさんにはちょっと入り辛いだろうなあ、そんな感じの店になっていた。でも残念なことに、棚に並んでいる品はむかしと変わらず貧弱なものばかりだった。

ナジャとの再会

2006年02月15日 03時53分34秒 | 本屋古本屋
いま職場が東陽町なので今日は久方ぶりに砂町のたなべ書店を覗いてみようと思い立って、仕事を定時の五時半でさっさと終了してしまい、地下鉄東西線西船橋行きに飛び乗り、といってもたったの一駅なのだが、南砂町駅で下車すると工事中の南砂三公園を抜けてまずは砂町駅前店に入った。三年以上後無沙汰している店だ。しかし棚の品がひどく貧弱に見えた。以前にはおもしろそうな品が結構並んでいたものだが、今日行ってみたらその同じ棚の場所は愚にもつかない小説本とハウ・ツー物で占められてしまっていた。そもそも品物の並べ方が最悪なのだ。どういうことかというと、本が作者別、または出版社別に分類されているという、なんとも措置なしの状態なんですよ。これって判りますか。
例えばサスペンス小説が読みたいと思って本屋に入ったとする。普通の新刊書店はだいたいジャンルで大きく棚を分け、その中で作者毎に本を並べるという体裁をとっている。これは極めて当たり前のことで、通常本を読もうと思った場合、特殊な事情を除いて先ず分野を考えるはずなのだ。スリラー、サスペンス、ホラーに推理物、恋愛物なんてのもある。要すればここが入り口なのであって、作者で選ぶなんてのはその作家が死んだときかあるいは何か事件を起こしたときくらいなものだ。それをいきなり作家でドカンと分類されるとこれはたまったものではない。さらに悪いのが出版社分類で、これはもう糞みそ一緒というか、何が何だかわからない。たしかに著者が判らないので出版社を頼りに探してゆくこともあることはある。現にわたしだってそんな探し方をする場合がある。だからといって本屋の棚が出版社別に分類されているとすれば、少なくともわたしはそこで探そうとは金輪際思わない。そもそも探せない。だってわたしは出版社が好きで本を買っているわけではないのだから。
これでは収穫は望めないと判断して本店へと向かう。さすが本店で駅前店より幾分かましな品があったが、それでも店の棚は八割方コミックつまりマンガに占領されていた。前はこれほどではなかったのに。そりゃあコミックはよく捌けるさ。わたしはこのような状況に出会うたび、戦後日本の大手出版業者が犯した犯罪的行為を糾弾したい衝動に駆られる。講談社、小学館、集英社、秋田書店、その他いろいろ。これらの出版社はコミックで大儲けしているが、それと逆比例的関係で日本の若人のお頭はどんどんと退化しているのだ。暗澹とした気分で棚を眺めまわしていると入り口近くの一角に現代思潮社版の『ナジャ』があったので思わず買ってしまった。コンディションもまあまあだし値段も八百円だったこともある。そしてなによりこの本がこんなところに置かれているのが可哀想でたまらなかったのだ。今では岩波文庫からも出ているけれども、わたしがはじめて見た版がこれだった。近頃の小説と比較すれば『ナジャ』はかなり大人しいということになるのかもしれない。しかしこれがガリマールから出たのが一九二八年つまり昭和三年ということを忘れてはいけない。あの有名な最後のフレーズ「美は痙攣的でなくてはならない。そうでなければ存在しないだろう」をこの版では「美とは痙攣的なものであり、さもなくば存在すまい」と訳している。「さもなくば存在すまい」とは今からしてみれば随分と古風な物言いだが、まあこれも時代というものだろう。
なんだかがっかりしてたなべ書店本店を出てバスで亀戸駅に向かった。とても南砂町駅まで戻る気力がなかったからだ。

なくなった店

2006年02月08日 06時31分26秒 | 本屋古本屋
基本的にわたしは寒がりではない。むしろ寒いほうが頭が冴えてくる。もっともその冴えはかなり限定的ではあるのだけれども。そのわたしが今年の冬に負けてしまっている。とにかくそれほど寒い。しかし寒いからといって終日家の中に引き籠っているわけにもいかない。仕事をしなくてはならないからだ。汚い身体ではやる気も思考能力も低下してしまうので、朝には必ずシャワーを浴びる。湯船たっぷりのお湯に漬かるのに越したことはないのだがそんな時間はとてもない。というのもぎりぎりまで寝床の中でうずくまっているから。そして最後の決断をして飛び起きたあとは、だいたい十五分で身体を洗いの、歯を磨きの、髭を剃りのでこれはけっこう忙しい。くわえて朝食も取らねばならない。これを抜くと力がまったくでなくなってしまう。平日は毎日こんな調子で暮らしているが、そのぶん休日にはゆったりとお湯に漬かって身体と心を弛緩させることにしている。そしてそのあと何をするかって。きまってるじゃあないですか、神保町チェック!
もうとっくに無くなってしまったが、靖国通と専大通の交差点近くに日清堂という本屋があった。人文系の洋書を扱う店で古書も新刊書も置いてあったと記憶している。さほど広い店ではなかったけれども、置かれている書籍にはいつも目を見張ったものだ。西洋古典に関する専門書も充実していたように思う。この店の前にも廉価本のワゴンが置いてあって、そこでときおり漁った本が何冊かわたしの書架に収まっている。人には読めもしない外国語の本を買うなんてまことに愚かしい行為に思えるかもしれないが、なにも買った時点でその外国語が理解できなくてはならないなんて道理はない。購入してからじっくりと勉強すればよいのだ。それよりなにより、この本との出会いはもしかしたら二度とないかもしれない。そう考えれば書かれている外国語が理解できるかどうかなんてことは大した問題ではない。こんなノリでわたしは本を買っている。
ところで日清堂だが、神保町をはなれて松戸のほうに店を移したということをむかし聞いたのだが、今現在インターネットで検索しても該当する店がヒットしない。あるウェッブサイトには神保町時代の住所が掲載されているがこのような人を惑わす真似はぜひともやめてもらいたいものだ。それはそれとして、日清堂はいまでも営業しているのだろうか、あるいはもうとっくに廃業してしまったのだろうか。知っている人は知っているのだろうけれど、わたし自身はそのような情報に疎いものでまったくわからない。

正月三日目の憂鬱

2006年01月03日 06時35分38秒 | 本屋古本屋
正月も三日目となると何だか憂鬱になってくる。最近では「サザエさんブルー」なんて言葉があるそうだ。ちょっと前までは「笑点ブルー」だったと思うのだが、まあどっちでも意味するところは同じで、翌日から始まる仕事のことを考えると気分が限りなく落ち込んでしまう症候群を指していう。これって本当によく判る。サザエさんのエンディング・テーマを思い出しただけで、わたしでも胃の具合が変になってくるからだ。
二日目は朝の七時からテレビの前で燗酒をあおりながら箱根駅伝の中継に酔い痴れて、結局往路のレースが終了するまで見てしまった。とはいっても三区ではちょっと眠ってしまったけれど。そのほかにはなにもすることなく、夕食を摂ったあとこのブログ原稿を書いている。これといって興味を掻き立てられるようなネタもないのでこんな身辺雑記みたいなものを綴っているのだけれども、それにしてもわたしはなんと退屈な人間なのだろうと思う。気の利いた冗談の一つでもでればよいのだが、冗談どころか屁もでないありさまだ。
さて、話変わって今年の十月から岩波書店が『フロイト全集』の刊行を開始するそうだ。企画そのものはたいへん喜ばしいことで是非とも成功してもらいたいものだが、わたしとしてはどうも岩波書店のやり方に気に食わないものがある。たとえばある全集なり著作集なりの配本を始めたとする。最初の数巻あたりまでは予告どおり順調に進むのだけれども、ある時期から予定されていた日が一ヶ月先、二ヶ月先に延ばされるようになり、そのうち数年も音沙汰がなくなってしまい忘れた頃になってやっと予約していた本屋から入荷しましたという連絡が入る。現在刊行中の『カント全集』だってやっと来月に第六巻が出るらしい。「らしい」と書いたのはこれがまるっきり当てにならないからだ。おそらく翻訳を担当している「先生」たちの進捗が思うようにならないからなのだろうが、これはおかしい。購読者にたいする出版社としての責任の中には予告どおりの刊行も入るはずなのだ。「先生」たちはその辺の事情についてほとんど無頓着なのだろうが、編集者までがそうであるとは思いたくない。こちらが金を出して買う以上、売るほうにだって納期厳守の責任があるはずだ。サグラダ・ファミリアじゃあるまいし、悠長に構えられてもこまる。こちらが元気なうちに完結してもらわないことにはまったく意味が無い。フッセリアーナが完結したという話は寡聞にして知らぬがこれはそれでも許される。でも岩波書店が誰を対象に商売しているのかを考えれば数十年百年単位の刊行などおおよそ許されるものではいことは明らかなはずなのだ。今回の『フロイト全集』にしたところで、専門の研究者だけを読者として想定しているわけではないだろう。そうであるならば暢気な「先生」たちに振り回されること無く予定通りの刊行を是が非でも実現させてもらいたい。
などと、好き勝手に書いた。どうも正月早々だというのに穏やかに過ごせない自分が情けないが、言いたいことだけは言わないと気がすまない性分なので後宥恕願います。

自己投資? 自己浪費?

2005年11月20日 13時46分16秒 | 本屋古本屋
性懲りもなく、また都丸を覗いてしまった。「都丸支店で運試し」の回で「この店は二週に一度のサイクルで覗くと必ずなにか良いものに出逢うことができる」と書いた。だから月に二度くらいのペースがわたしにとってはベストなのだけれども、このところちょっと欲が出てきて三回続けて土曜日に出向いていたが、でもやはり二週に一度のサイクルを遵守したほうがよいと悟った。
昨日はさすがに廉価本コーナーに見るべきものはなかった。そりゃそうだろう、わたしが毎週買っていたのだから。それにしても自宅から高円寺の都丸まではお世辞にも近いとはいえない。なにも買わずに帰るのも癪だと思い、ちょうどイタリア語の辞書が欲しいところだったので"Dizionario della Lingua e della Civilta Italiana Contemporanea"を買うことにした。値段が八百円だったのが購入の決め手となった。少々重かったがなにしろ八百円なので我慢した。
店内を見て回ると仏教書の棚に大久保道舟の岩波書店版『道元禪師傳の研究』が税込み千五百七十円で出ていたのでこれも頂くことにした。隣にこの本の筑摩書房版も置いてあって価格は八千四百円ほどだった。岩波版は一九五三年三月の発行で、いっぽう筑摩版は一九六六年五月発行されている。筑摩版は修訂増補ということで岩波版よりページ数が若干多いけれども、わたしは専門の研究者ではないので知りたいことは岩波の旧版で充分間に合ってしまう。イタリア語と禅師様、二冊ともけっして高くはなかったのだが、それでも合計二千三百七十円というのはこの店で使う金額としては多い方だと思う。ここ数年で都丸支店で購入した二千円を超える「高額」商品を確認してみたら次のようなものがあった。
1."Wörterbuch der deutschen Gegenwartspräche" ベルリンAkademie-Verlagの全六巻ドイツ語辞典を五千円。
2.Moriz Heyne著"Deutsches Wörterbuch"全三巻の三修社復刻版を六千三百円。これも読んでの通りドイツ語辞典
3.Hans HaasとRichard v. Kienleによる"Latenisch-Deutsches Wöterbuch"全一巻の羅独辞典を三千百五十円。これはハイデルベルクのF.H.Kerle Verlagより出版されたもの。
4.Librarie HachetteのFélix Gaffiot著"Dictionnaire abrégé Latin-Français Illustré"二千百円。こちらは羅仏辞典。
5.Franz Altheim著"Geschichte der Lateinischen Sprache"も同じく二千百円。フランクフルト・アム・マインのVittorio Klostermannから出版されたソフトカバーの本。ラテン語史の専門書だがまだ読んではいない。
それにしても、随分とシケた買い物だ。どう贔屓目に見てもわたしは都丸書店にとって上客とはいいかねる。そりゃあ金がタンマリとあればどんどと買うさ、でも無いのだからどうしようもない。それにくわえて古書店は都丸だけではないのだ。
買うものがないと判断したならとっとと撤収し神保町に向かうべく総武線で移動した。いつもは古書会館の即売展を覗くため御茶ノ水まで行くのだけれども、昨日は即売展が開催されなかったので、一つ手前の水道橋で下車した。白山通りの古書店も結構なくなってしまっている。日大経済学部前の丸沼書店は最近は古書のスペースが少なくなってしまった。この店は歴史、法律、会計、経営等の新刊書や日大の教科書なんかも扱っている。不幸なことにわたしは法律にも会計にも、ましてや会社経営にもまったく興味が無いので(だから貧乏なのだが)滅多に入ったことがない。それでも今年の六月に偶々この店の前を通ったら、廉価本コーナーに竹内与之助の『字喃字典』が出ていたので衝動買いしてしまった。大学書林から出ているこの本はベトナム漢字の辞典で「字喃」はチュウノムと読む。もしかしたら高校時代に歴史の授業で習った方もいらっしゃるかもしれない。それをなぜ衝動買いしたかというと、じつはこの『字喃字典』、定価が一万五千円するのだがそれがなんと千円、つまり十五分の一の値段で出ていたからなのだ。さしあたってベトナム語を勉強しようという気はもうとうなかったが、美本だったこととそして千円だったことで後先考えずに買い込んでしまった。
即売展も開かれていないのに神保町にまで来たのには理由があって、11月16日に岩波文庫の新刊が発売されたのでそれを購入したかったから。いつもは信山社で買っているのだけれども、昨日は日本特価書籍で誂えた。竹越与三郎の『新日本史(下)』、レヴィナスの『全体性と無限(上)』、ディッケンズの『アメリカ紀行(下)』そしてアレクシス・デ・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー第一巻(上)』の四冊。この店はわたしが学校に通っていた時分からお世話になっているが、新しく出た本なら大体定価の一割引で売っているし返品物ならばもっと安いので、新刊書を買うときには先ずこの店からチェックすることをお勧めします。しかし扱っている品は人文系図書なので、理科工学系、また経済、法律等の実務書はないものと思って訪ねてください。
そんなこんなで昨日の収穫はさっぱりだった。そういえば今日は横浜反町で反町古書会館展が開催されているはずなのだが、今回も覗くことができなかった。う~ん、残念、残念、残念~んっ。

ぎょうざ定食のころ。

2005年11月18日 05時49分12秒 | 本屋古本屋
何年か前、江東区にある日本経済新聞社南砂別館に仕事で数ヶ月通っていたことがある。
近所にはあの有名な砂町銀座商店街があった。昼食は南砂別館のすぐ近くにある小さなラーメン屋か、明治通りに面した中華料理屋、それに砂町銀座商店街の食堂と決めていた。理由は味が自分の舌に合っていたからだ。これはとても大事なことで、わたしはいくら安くても不味いものは絶対に口にしないことにしている。わたしの知り合いには安物志向の人もいて、たとえば不味い不味いといいながらも吉野家の豚丼なんぞで食事を済ませているが、考えただけで吐き気がしてくる。その点、上に上げた三軒の店はどこも値段と味のバランスがよい店だった。あと、城東警察署の近くにも食堂があったのだがどうもこちらは味、雰囲気ともに馴染めなかった。
砂町銀座商店街の食堂は文字通り街の食堂といった感じで和洋中華と、簡便だがなんでもあった。わたしが頻繁に注文したのが餃子定食でこれは美味かった。客筋としては近所の住民やワイシャツ姿の勤め人が多かったように思う。勤め人の客が目立つ店は概ね美味くて安いと決まっている。フロアから見える広い厨房は南向きで明るく、湯気の立ち込める中で店の主人がかいがいしく料理を作り、それをおかみさんが客に運んでくる、気分のよい店だった。わたしの食事時間は比較的短い方だと思う。だいたい十五分くらいなものだ。しかし心の落ち着く店にはなるべく長居しくなる。だから料理が思いのほか早く出てきてしまうとなんだか損をした気分になる。かといって遅いのも困るのだが。その食堂は料理の出方が遅くもなくまた早くもなく、わたしが痺れを切らす前には必ず出てきたものだ。近くには有名な激安寿司屋もあったが、そこにはついに一度も入ったことがない。わたしは並んで待つというのが大の苦手で、いや苦手という以上に腹が立ってくるので、どれほど美味いと評判でも客を並ばせるような店には自慢じゃないが金輪際入ったことがない。
ちょっと古本が見たくなると地下鉄東西線の南砂町駅近くのたなべ書店駅前店まで足を延ばした。そこは砂町銀座商店街とまったくの反対方向なのでこちらに来るときには餃子定食は諦めねばならなかったが、そんなおりには清洲橋通と丸八通の交差点にある牛丼屋で我慢したものだ。一度だけたなべ書店本店近くの回転寿司屋で昼食をとったことがある。店に入ったとたん雰囲気の暗さに圧倒された。客も暗けりゃ店員も暗い、おまけに回っている寿司は高いときてはもうなにもいうことはない。二皿食って退散した。
ところでこのたなべ書店は主に白っぽい本を扱う店で、駅前店は文庫や新書それに実用書、小説といったものを、また本店ではコミックやビジュアル物を中心に品揃えしている店なのでわたしはあまり期待していなかったのだが、それでも駅前店で関口存男の『独作文教程』なんて本を定価五千五百円のところ二千六百二十五円で買った。美本だったのでこの値段は安いと思う。本店では飯島洋一著『アメリカ建築のアルケオロジー』二千四百円を千二百六十円で購入、こちらは挨拶代わり。慧眼なる読者諸賢におかれては既にお気付きのことと思うのだが、売値が定価の半額なのだ。じつはこの店は基本的に古書的価値とは関係なく定価の何掛けで商品の売値を決めている。だから場合によっては安い買い物もできるのだが、逆に本を引き取って貰うのには古書の市場価値と関係なく評価されてしまうのであまり良い店とはいい難い。しかしコミックやアイドル写真集を持っていく分には向いているかも知れない。
序ながら、ちょとチェックしてみたら南砂別館に通っている間にたなべ書店で購入した本はほとんど文庫本や新書本だった。

ひさしぶりだね、ジュンク堂。

2005年11月12日 07時13分06秒 | 本屋古本屋
池袋のジュンク堂を一年半ぶりに覗いてみた。
この店はフロア面積が広く、加えて本を陳列してある棚が壁のように高いので、まるで書庫の中にいるような感覚を憶える。先だってオープンした丸善丸の内本店もこの棚を真似ている。商品が多く展示できるのが長所というだけではなくて、落ち着いて本を選ぶことができるのでわたし自身は気に入っているが、中には威圧感を憶える人もいるかもしれない。とくにうれしいのが人文書籍売り場の商品配置で、洋書と和書が同じ場所に置かれていること。むかしみたいに洋書をありがたがる時代ではない。そもそも特別に洋書のコーナーを設けることを、わたしは以前から疑問に思っていた。なぜ仰々しくForeignBookなどと看板を掲げて特設の売り場を置かなければならないのだろう。冷静に考えてみるとこれはとても奇妙なことだ。同じ本ではないか、日本語だろうが英語だろうが、タガログ語だろうが、スワヒリ語だろうが、言語で分類するのではなくて内容で分類すべきではないか。今だって新刊書店で量子力学の専門書と谷崎潤一郎の本が同じ棚に並ぶことはない。だから大修館から出ているヴィトゲンシュタインの『哲学的文法』の隣に底本であるBlackwell版の"Philosophische Grammatik"があってよいし、そのほうが自然のような気がする。
ところが残念なことに、このような配置は人文書籍と美術書だけらしいのだ。邦訳と原書を並べて置いて欲しいのは特に外国文学のジャンルではないだろうか。カポーティの初期作品などを文庫版で読んで、今度は原語で読みたくなったらわざわざ洋書コーナーで探さなくても同じアメリカ文学の棚で見つけることができる、そのような並べ方をわたしは求めている。もちろん英語に限ったことではない。文庫版として平凡社ライブラリーに収められ今では気軽に読めるようになった干寶の『捜神記』だが、漢文のものが中華書局の古小説叢書に入っている。だから中華書局版を同じ場所に置くというのも面白い。岩波文庫の『ドン・キホーテ』の隣にはスペイン語の仮綴本。聖書と並んでセプトゥアギンタやヴルガタを揃えておくのも一興だろう。もっとも今書いたような商品の展示をするとなると版型がばらばらになってしまい、たいそう置きにくくなるし見苦しくもなる。理想と現実にとても大きな落差があることは確かなのだけれども、人文書籍コーナーの試みをその他のカテゴリーにも広めて欲しいものだと、わたしは客の立場からそう思った。
ジュンク堂の帰り道、東通りを都電荒川線の雑司が谷停留所まで歩いた。昼間は知らないが、夜の東通りはちょっと風情がある。繁華街を少し離れれば商店も疎らとなり、脇道に入ると住宅街が広がっているような閑静な家並みが続く。そんな中にぽつんと粋な鮨屋や小奇麗なレストランなどがあったりするとちょっと入りたくなってしまう。左手にはサンシャイン・60の窓灯りが耿々と輝いて見える小道をさらに進んで行くと都電の踏切に差し掛かり、渡った先が夏目漱石眠る雑司が谷墓地。夜間なのでさすがに墓地には入らなかった。
雑司が谷停留所から一つ先の東池袋四丁目まで乗り、地下鉄に乗り換えて帰宅した。

三ノ輪橋でサムソンだって???

2005年11月04日 06時32分51秒 | 本屋古本屋
都電荒川線は新宿区早稲田と荒川区三ノ輪橋間を結んでいるチンチン電車だ。なぜチンチン電車かというと発車するときにチンと鐘を鳴らすので俗にそう呼ばれている。これはむかし車掌が乗務していたころ、運転士に発車の合図をするための鐘をならしていた名残で、ワンマン運転の今日では必要ないものなのだが、どうしたわけか今でもチンチン鳴らして発車する。チンチン。
一昨日の水曜日、ちょっとした用件で南千住の叔父の家まで出向くことになってしまった。じつはこの日わたしは仕事を休んで西早稲田の古書店街を徘徊する予定を前々から立てていた。古書店巡りはとても疲れる。歩き回るから、というよりも棚の本を一冊一冊チェックするのに結構体力を消耗するのだ。苦労をしたあげくそれでも収穫ゼロの日には帰宅するのさえ億劫になり、通りがかりの喫茶店(どういうわけかルノアールが好き)に入り込んで一時間ほど休憩を取らなくてはならなくなる。そんなわけで古書店を見歩いた後、自宅とは反対方向の叔父の家に向かうのは正直言ってものすごく嫌だった。それでは古書店巡りのほうを諦めればよいではないか、たかが趣味なのだから、と常識ある人はいうに違いない。ごもっとも、仰るとおり、全面的にあなたは正しい。しかし、そのような融通がわたしには利かない。理由はいたって簡単、つまりわたしが書痴だからだ。
わたしは予定を変更することなく、早稲田通りを行ったり来りして古書店を覗いて回った。ここは神保町と異なり通りの両側に店がある。だから横断歩道を渡ってあっちへ行ったりこっちへ来りなんてことになってしまう。神保町に新規開店の古書店が増えているという話をきいたけれども、早稲田は古書店が減っていく一方のように見える。それとも増えているのをわたしが知らないだけなのか、それならよいのだが。ところでこの日の成果はというと、これはまったく無し。期待していた文英堂も五十嵐書店もだめだった。五十嵐は以前の店舗のほうがわくわくさせられたが、新しくなってからどうもいけない。
話は変わるのだが、かなりまえ穴八幡の近くに小さな洋書専門店があった。緑色をしたFelix Meiner社の"Philosophische Bibliothek"が狭い店内一杯に詰込まれていてとても人間の入る隙間などない、不思議な店だった。それとH堂がめっきり元気がなくなってしまった。わたしが学校に通っていた頃はまだ活気を感じたものだったが、いまではまるで死んだように侘しい。本郷も古書店が激減しているそうだ。神保町だけが頑張っているという構図はちとさびしい。
すっかり疲れて夕方五時頃、早稲田から都電荒川線に乗り込んだ。早稲田大学横のグランド坂を下って停留所までたどり着いたのだが、帰宅してから調べてみると西早稲田の古書店街への最寄駅は終点早稲田の一つ手前、面影橋停留所だった。早稲田では遠くなってしまうことを知った。しかし心身ともに疲労困憊だったわたしには、始発の停留所で腰掛けることができたのは幸運だった。というのもこの路線、思いのほか混んでいて特に町屋まではなかなか席が空かなかったからだ。町屋でかなりの乗客が降り車内はがらがらになってしまう。終点の三ノ輪橋に着いた時、客は数人にまで減っていた。
ところで三ノ輪橋停留所を出て左折すると古書店があった、どうも最近開店した様子で店の中は広いほうだ。「古書~」と金文字で入り口の表に店名を掲げていたが、名前を失念してしまった。入店するとまだ建材の匂いがプンプンとする。並べられているのはほとんどがコミックで、奥のほうの棚に小説の単行本が置いてあったが、白っぽい物ばかりでこれで「古書」店でとはちょっと痴がましい。せいぜい「古本」屋に留めておいて欲しいものだ、などと思いながら店の一番奥の棚に目を遣ると、これはなつかしい『薔薇族』『アドン』『サムソン』なんて雑誌のバックナンバーが置いてあった。わたしはノンケなので内容には一切興味ないが『サムソン』の表紙に描かれているデブ男たちの絵は笑えた。いったいどのような人物がこんなデザイン考え出したのか、大いに興味を掻立てられたのもだ。チンチン。
でもって、その後叔父の家になんとか行き着き、用事を済ませ一杯ごちになって地下鉄日比谷線で帰宅したら、十二時近くになっていた。今日も疲れた、頭が重い。