蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

報われない仕事

2006年03月06日 21時58分22秒 | 古書
先週土曜日、西神田の西秋書店の前を通ったら店先に『廣文庫群書索引補訂』が三百円で並んでいたので手に入れた。『廣文庫』『群書索引』と聞いてどのような本かすぐにわかる人がそれほど多いとも思えない。以前に「群書索引的効験」の回でこれらの本がどのようなものか少し触れているので興味ある方はそちらを参照願います。
わたしの持っている『廣文庫』『群書索引』は旧版だが、この名著普及会刊行の『廣文庫群書索引補訂』は新旧両版とも通用するので購入した。百頁にも満たないA5版の本なのだが定価は四千八百円となっていた。ついでに名著普及会で復刻した『廣文庫』が定価二十万円だったということもこのたび初めて知った。
わたしは元版の『廣文庫』を西神田の日本書房でもう随分と前に買った。じつはこの『廣文庫』の数冊が一万いくらの値で日本書房の店先に置かれているのをみたとき、わたしはこれがどのようなものなのかをまったく知らなかった。店の旦那に聞けばおそらく丁寧に教えてくれたことだろうが、こちらにも一応プライドってものがあったので、その日はやり過ごして帰宅してさっそく手元にあった新潮社の『日本文学大辞典』で調べてみて、やっとその来歴を知りそしてこのとき『群書索引』のことも同時に知った。数日後、再び日本書房を訪れたら『廣文庫』はまだ売れずに店先に置かれていた。今考えてみればこれはほとんど奇跡的といってもよいことなので、元版ゆえ大きく分厚く重たいため扱いにはことの外めんどうには違いないが、古文献の一大図書館とでもいうべき『廣文庫』がまだそこにあったということは、もうなにか自分との運命的な繋がりがあるとしかおもえなかった(ちとオーバーかな)。さっそく店の奥の帳場にいた大旦那に「店先にある廣文庫をください」と頼んだ。「持って帰れますか」とたずねたら、「そりゃあ無理ですよ」と笑われた。このとき初めて『廣文庫』が全部で二十巻もあることが判った。
『廣文庫群書索引補訂』は上にも書いたように百頁もないくらいの本だが、そこに『廣文庫』と『群書索引』の正誤表が載っている。考えてみればこの浩瀚な両書の文字を一々チェックする仕事は、ほとんど気の遠くなるようなことなのだ。例えばある引用文章の漢字が間違っているのか、正しいのかは引用した元ネタを見ればそれで済むとつい思ってしまうが、先ずはその元ネタとなった本を探さねばならない。公立図書館にあればこれは幸運といえる。稀覯本になるほど個人所有のものが多い。そうなると該当する所蔵家のもとを訪れて閲覧をお願いすることとなるが、彼らは概して筋金入りの書痴だから二つ返事で見せてくれるとは限らない。そこをなんとかお願いしてやっと閲覧できたとしても、何時間でも自由に調査できるわけではない。むかしTBSで日曜日の朝に「時事放談」という硬い番組を放送していた。出演者は細川隆元と小汀利得(おばまとしえ)だった。じつはこの小汀利得という人は名だたる稀覯本コレクターで、学者などもときどき小汀の蔵書を閲覧させてもらっていたそうだが、そのようなとき小汀は本を見ている学者の前にどっかと座ってその一挙手一投足を監視していた、という話を誰かが書いていた。そんな悪条件下で目的の書物を調べてもそこで問題が解決するとは限らない。同じ題名でも元ネタとして使用したものとは版が違うかも知れないからだ。膨大な文献学的知識と書誌学的知識のほか、文学、言語、思想、政治、宗教とあらゆる分野にわたる専門的素養を要求され、しかも大々的に評価されることのほとんどない、なんとも辛い仕事なのだ。そのようなことを勘案すると『廣文庫群書索引補訂』の四千八百円はけっして高い値段ではないのかもしれない。
始めのところで『廣文庫』の定価が二十万円だったと書いたが、この『廣文庫群書索引補訂』には「群書索引廣文庫購入者御芳名録」というのが載っていて「昭和五十二年十月二十日までに「群書索引」「廣文庫」のうちひとつまたは両方をお求めくださった方々」の姓名と都道府県名が記されている。じつはこれもけっこう面白い。大学図書館、公立の博物館などはまあ当たり前としても(それでも少ないが)、結構出版社が購入しているのにはさすがだと感心した。個人名をみて見ると、前尾繁三郎なんて政治家が東京都の部のトップに掲載されているのは、これはヨイショかなと思ったり、慶応義塾女子高校図書室なんえてのを見ると秀才お嬢ちゃんの通う学校だけあるなあと感心したり、その他気が付いた有名人としては、加藤郁乎、上笙一郎、平岩弓枝、佐伯梅友、児島襄、諸橋徹次、児玉幸多、大岡信。そうそう、神奈川県の部には澁澤龍彦(鎌倉市)というのもあった。

フライマウラーなど。

2006年02月05日 23時18分25秒 | 古書
先週の土曜日、ほぼ一ヶ月ぶりで高円寺の都丸支店を覗いてみた。
地下鉄丸ノ内線の新高円寺で下車してルック商店街をJR高円寺駅に向かって北上する。直接JRでいったほうが遥かに近いのは判りきっているのだけれども、わたしは都丸を訪れるときには必ずこの経路を通ることにしている。まずこの商店街には高いビルが面していない。ほとんどが木造二階建てでそれも低めの二階建てなのだ。だから空が開放されていて、まるで五十年も前の東京に戻ってしまったような不思議な感覚に浸れる。わたしは基本的にレトロ趣味ではない。しかし今様のあのアーケードに防護された商店街にはどうも馴染めない。たしかに雨や雪の日にはこちらの方がよいに決まっているのだが、でもあのアーケードの天井を眺めているとなんだか自分が倉庫か工場のなかに迷い込んでしまったように思えてしかたがない。
それともう一つ、このルック商店街のよいところがある。さきほど「五十年も前の東京に戻ってしまったような」と書いたが、じつはそんな気にさせる商店街は他所にだってある。例えば墨田区京島の橘通り商店街。ここはかつて山田洋次監督の第二作目「下町の太陽」で倍賞千恵子が暮らす町のモデルになった場所だ。ここだって充分にレトロスペクトなのだが、残念なことに電信柱と電線で空が押さえ込まれてしまっているのだ。それに道幅もルックより狭いのではないだろうか。まあそんなこんなで、わたしはわざわざ遠回りをして都丸に向かうことにしている。
まずは店先の廉価本棚を見渡した後、店内の棚をチェックする。入り口を入って右側の西洋哲学関係の棚から始まって反時計周りで本を見て回る。店の奥の辞書、言語学コーナーが終着点となるが、中心部分の外国文学、国文学の棚は辞書、言語学コーナーを完全にチェックしてから足を向ける。しかし今日も面白そうな辞書、文法書の類は見つからなかった。ところでキリスト教書籍コーナーで『セプトゥアギンタ』二巻が眼に留まった。たぶん以前から置かれていたはずなのだが、目に付かなかった。あるいはわたしがそこに置かれているのをすっかり忘れてしまっていたのかもしれない。裏見返しに貼られている値札をみたら五千ナンボだったので諦めた。所持金がもっと多かったなら購入していたかもしれないが、今現在ギリシア語で旧約聖書を読みたくなっているわけでもないし、本気で読みたいと思ったら新品を教文館あたりで誂えれば済むことだ。
ここで再び表に出て廉価本棚をこんどは慎重にチェックしてゆく。ふしぎなもので先ほどはまったく目に入らなかった品物が、まるで湧き出したかのように次々と見つかり始めた。四週間のインターバルを置くとさすがにこれだ。そんなわけで今回は次の四冊を購入した。
1.Grundriss der Geschichte der Philosophie Band II.
2.Internationales Freimaurer-Lexikon
3.Eretici italiani del Cinquecento
4.Ästhetik als Philosophie der Sinnlichen Erkenntnis
一番目はウエバーベーグスの哲学史第二巻。先月神保町の古書モールで第一巻を購入しているが、こんなに早く第二巻に出会えるたは思ってもいなかった。しかし惜しいことに版は新しくない。
二番の本はLexikonとういうからには辞典で、それではどのような辞典かというとこれが"Freimaurer"つまりフリーメイソン会員の辞典。コンパスを持つ骸骨みたような男が窓から身をのりだしているレリーフの写真をレイアウトしたカバーもおどろおどろしいが、この辞典は一九三二年にヴィーンで出版されたもののファクシミリ復刻版なのだそうだ。わたし自身はフリーメイソンに詳しいというわけではないのでこの辞典の内容的価値を判断できないのだけれども、わざわざ復刻版(一九八〇年)を出すに当たってはそれ相応の水準のものであり、なおかつ購入者数も見込むことができたのだろうと想像する。そもそも日本ではフリーメイソンとペリーメイスンの区別もつかない輩が多々存在するので困ったものだが、これは区別できない者が悪いのではなくて、そもそもこのフリーメイソンという団体が秘密結社であるという事情によるのだと思う。
三番目の題名は「十五世紀の異端的イタリア人たち」ということになるのだろうか。そのうちイタリア語が読めるようになったら頁を繰るつもりでいる。そして四番目が美学関係もので題名は「知覚認識の哲学としての美学」というほどの意味だろう。この本の副題が"Eine Interpretation der《Aesthetica》A.G.Baumgartens mit teilweiser Wiedergabe des Lateinischen Textes und deutscher Übersetzung"となっていて、要すればラテン語原文の一部とそのドイツ語訳から構成されたバウムガルテンの『美学』の解釈に関する本だ。著者のHans Rudolf Schweizerという人は一九三二年のバーゼル生まれ。一九五一年にギムナジウム終了試験(ドイツのアヴィト-アみたいなもの)に合格し、ゲルマン語、ギリシア語、ラテン語、文学、さらに哲学をバーゼルとチュービンゲンで学んでいる。ところでわたしはどうもこの「美学」ってやつが胡散臭くてしようがなかったし、いまでもしようがない。そもそも「美学」という言葉はバウムガルテンによって作られたものだそうだが、これを機会にちょっと「美学」を勉強しなおしてみようかと思った
今回はフリーメイソンを初めとしてなかなか面白そうなものを手に入れることができた。これでお値段がしめて二千三百円はお値打ちです。

スーツ姿でお買い物。

2006年01月18日 00時00分26秒 | 古書
今日は仕事が休みだったので昼食のあと神保町に行ってみた。一月に刊行される岩波文庫を購入するのが主な目的だったので、古書については特に期待していなかった。最近では日本特価書籍でも岩波文庫を扱うようになり信山社で買うと高くつくのだが、梅原龍三郎のカバーが欲しいためここで買うことが多い。べつにこれといって魅力的なカバーというわけでもないのだけれども、わたしの所蔵している岩波文庫の大半にこれがかけられているので、ついつい揃えたくなってしまうのだ。節約したいのならばもちろん日本特価書籍で購入するに越したことはない。今月はレヴィナスの『全体性と無限』下巻とシエサ・デ・レオンの『インカ帝国史』の二冊だった。ついでに書いておくと去年は『アンデス登攀記』下巻と『クック 太平洋探検(三)第二回航海(上)』だった。
三省堂裏の古書モールを覗いてみたらウエバーベーグスの哲学史第一巻が二千円で出ていたので買ってしまった。マックス・シェーラーの原書もあったけれど八千円もしてはとても手が出なかった。ウエバーベーグスの哲学史は版を上げるごとに段々と大部になるので有名な本で、わたしが既に持っているマックス・ハインツ編集の一八九四年版第一巻で三百八十頁だったものがこのカール・プラエヒター編集の一九六七年版では九百二十頁にもなっていた。洋書の専門書は値段の付け方が極端で、専門店では高くてもこれが非専門店に並ぶと一桁分安くなったりする。コンディションがよければ高いというわけでもない。要すれば需要と供給の関係で値段が決まるのは和書以上のように感じられる。三茶書房のワゴン・セールを覗いて見ると浅野信の『日本文法語法論』がなんと五百円で出ていたので迷わずに買った。函付きでほんの少々汚れがあったものの、函無しなのに五千円で売っている店もあることを思えばやはりこれは安い買い物だと思った。三茶書房での買い物は一昨年の十月以来となるが、ここでは岩波文庫の古いものや三島由紀夫関係の本を買っている。
神保町に永く通っているといわゆる有名人を見かける事がある。いつだったか大雲堂の地下で自殺したポール牧をみかけた。弟子らしき若衆を連れてきていて「お前もいい本があったらお買い」なんぞと言っていたっけが、しかし大方は評論家や作家だ。数学者の広中平祐を明倫館の店先で見たことがある。もっとも本人かどうかは確認できなかった。頻繁に見かけたのは紀田順一郎かな。いずれにせよ神保町という街にはあまりスーツで決めたような人物は似合わないように思うのだが植草甚一はダンディーだったし、反町茂雄もやはりダンディーだった。
わたしは田村書店にはあまり入らない。どうにもここの店主の態度が気に食わないからなのだが、置いてある品物自体は魅力的なものばかりだ。随分と前のことになるが偶々この店に入って棚の本を眺めていたことがある。西洋哲学関係の本が並んでいる棚の前だった。ニコライ・ハルトマンの『存在論の基礎附け』が眼に留まったので棚から抜いて頁をめくっていると、隣に誰かが立っている気配がした。自分と同じ分野に興味がある客というものは、どうも気になって仕方がない。わたしはそれとなく横に立って本を探しているその客を見遣った。そのとき同時に客もわたしの方を見たのでお互いの目が合ってしまった。彼はわたしより幾分背が低かったが、この街には似合わないほど真面目な紺のスーツで決めていた。先ごろ引退表明した日本共産党の不破哲三だった。

平成十七年だった(下)

2005年12月31日 22時59分46秒 | 古書
八月は最初から何も期待していなかったら、ほんとうに不毛な月になってしまった。なにか一つ上げるとすれば"Martin Heidegger karl Jaspers Briefwechsel 1920-1963"を高円寺南の都丸支店で八百円で買ったことくらいだろう。
九月はちょっと大きな買い物をした、といってもウン百万も使ったわけではない。わたしの買い物は基本的にセコいのだ。辻善之助の『日本佛教史』全十巻を神保町の山陽堂で一万円で手に入れた。同じ品が大雲堂で一万二千円で出ていたということは「新装開店」の回で書いているのでそちらを参照してください。また『ラテン語広文典』が白水社から復刊されていたので八重洲ブックセンターで少々高かったけれども買ってしまった。この本にまつわる馬鹿げた話を「古本は高くないって。」の回でちょっとふれているので興味のあるかたは見てください。その他巖松堂書店の二階で『正法眼蔵啓廸』上巻を購入しやっとこさこの本全三巻が揃ったこと、篠村書店でツェーラーの『ギリシャ哲學史綱要』を入手したことなどが、まあ出来事といえば出来事だろうか。
十月のイベントはもうこれしかない。東京古書会館の洋書展と神田古本まつり。洋書展も毎年つまらなくなっている。英語系の本ばかりのさばって来ているからだ。せめて独仏伊西語くらいは並べて欲しいもの。今回の洋書展での拾い物は都丸から出品された"Deutsche Grammatik Gotisch, Alt, Mittel- und Neuhochdeutsch"全四巻だろうか。コンディションはけっしてよろしくないにもかかわらず三千円の売値が付けられていた。しかしわたしはこれを安いと判断して買った。崇文荘からは"Bibliographie Pratique de la Litterature Grecque Des Origines á la Fin de la Periode Romaine"が出ていた。まるで他の本の間に隠れるように並んでいたこの綺麗な洋書を値段が八百円だったので思わず買った。崇文荘からは欲しくなるような美しい装丁のものが毎回出品されるのだけれども高くてとても手が出ない。しかしこういうこともごく稀にはあるものなのだと、自分の今回の幸運につくづく感謝したものだ。
神田古本まつりについては、言葉もない。すっかり有名になってしまい子供連れが多く見かけられる。へたなテーマパークより子供の情操教育にはこちらのほうがずっとよいことは確かなのだが、それでもなにか違うんじゃあないかと思ったりもする。すずらん通りのワゴンセールにしてからがちょっと書籍以外の品物を扱う店が多すぎるのではないか。出すなとまではいわないがもっとバランスを考えて出店してもらいたい。あくまで本のまつりだということを忘れてもらいたくはないものだ。そんなわけで今年も古本祭りでは一冊も買うことはなかった。
十一月に購入した本を改めて眺めてみると、買った量の割りにはどれもこれも概して小物ばかりだった。洋書展の売れ残りみたような"Ausführliche Grammatik der französischen Sprache"全五巻や大久保道舟の『道元禪師傳の研究』が目に付くだけだ。十二月は松下大三郎、渡邊文雄の『國歌大觀』『續國歌大觀』計四冊を定価の十三分之一の三千円で入手できたがこれが今年の最後の成果になってしまった。
来年の計画としては、今年と同じように辞書辞典類を中心に探していこうと考えている。それとこれは無理かもしれないけれども"Dictionnaire des Philosophes Antiques"のⅢ巻、Ⅳ巻そしてSupplementがどこかの洋古書屋に出ないものかと夢見ている。紀伊国屋あたりで新刊を注文すると一冊一万円くらいは取られるに違いないからこれは最初から念頭に無い。あくまで古書としての入手を目論んでいる。

平成十七年だった(中)

2005年12月31日 22時14分53秒 | 古書
前回「四月の異動の結果は五月になって出始める」などといっておきながらその舌の根も乾かぬうちにこんなことは書きたくないのだけれども、五月も全滅だった。しかし一冊だけ取り上げるとするならば高円寺南の都丸支店で手に入れた"Lectiones Latinae Latenisches Unterrichtswerk für Gymnasien"だろうか。読んでの通りギムナジウムの授業用文法書で一九六八年の発行だが、初版はもっと古く一九四七年頃らしい。しかも本文がフラクトゥーア体で印刷されているので比較的最近の出版であるにも関わらず古色蒼然とした感じがする代物だ。でもこんな文法書でラテン語をみっちりと叩き込まれるドイツのギムナジウム生徒がわたしには本当に羨ましい。動物が獲物の捕らえ方を親から学ぶのと同様に、人間だってあらゆることは学んで憶えなくてならない。これは食事から排泄、セックスにまで及ぶ、とすれば芸術や文化はなおさらのこと。よいもの、美しいものは無条件的に誰にでも判るということは先ずありえないといってよい。あの天才三島由紀夫だって若い頃の芸術的訓練がなかったなら後々の活躍はありえなかったはずだ。その彼についての関係書籍をこの月も購入した。『三島由紀夫エロスの劇』という題名だった。『三島由紀夫と橋川文三』もまだ読み終わっていないというのに。
六月は東京駅近くの八重洲ブックセンターが洋書売場レイアウト替え前のバーゲンセールをやっていてドイツ語書籍がかなり値引きされていたので連日通って購入していた。このときは幸運にも職場が八重洲だったのだ。ハードカバー物はなくすべてがソフトカバーだったがトーマス・マンに関係する出版物を多く手に入れた。しかしなかには"Das Lexikon der Nietzsche Zitate"や"Der Untergang Das Filmbuch"といったものも混じっている。前者は読んで判るとおりニーチェ引用語辞典で後者はあの名優ブルーノ・ガンツがヒトラーを演じた映画、邦題「ヒトラー最後の十日間」の元ネタの一部であるヨアヒム・フェストの"Der Untergang"と映画の台本を合体した本でRowohlt Taschenbuch Verlagから出版されたもの。この本の邦訳はおそらく版権などの問題で日本では出されることがないのではないだろうか。そうだとしたらとても残念なことだ。そのほか大島書店でコジェーブの"Introduction á la Lecture de hegel"(傍線有り)を見つけたので買っておいた。これの日本語版は随分と前に国文社から上妻精と今野雅方の共訳で『ヘーゲル読解入門『精神現象学を読む』』という題名で出版されていて大方の好評を得ているが、まことに残念なことにこの本は抄訳である。そんなわけで今回原書を手に入れてその全体像をやっと知ることができ勉強になった。
わたしは七月になるのを待ち望んでいた。東京ブックフェアが開催されるからだ。好例の洋書バーゲンは回を重ねるごとにヴィジュアル系に傾いてきてはいるものの、必ず一つや二つは光るものが見つかる。今回の光るものはソフトカバーの"Logische Untersuchungen"全三巻だった。亡くなったわたしの親友Sがこれのみすず書房版日本語訳『論理学研究』を読了したとうれしそうに電話で報告してきたことを思い出した。七月の収穫としてはこの他に東京古書会館趣味展で沼袋の訪書堂書店から出品されていた吉川弘文館版『大日本史』全六巻と『正法眼蔵思想大系』全八巻だろうか。『大日本史』はもちろんあの黄門様が編纂した歴史で、正直なところ読んでもあまり面白くはない。漢文であるということ、そしてわたしが歴史に興味を持てないことが原因だ。『正法眼蔵思想大系』は題名そのものが説明しているように道元禅師の名著『正法眼蔵』の解説書で著者は岡田宣法、たしか駒沢大学の先生だったと思う。この本の旧所有者の鉛筆による書き入れがあるものの、それらはほんのマーキング程度のものでしかも薄く書かれているためほとんど気にならない。しかもこれらのマーキングから旧所有者の学識の高さまで窺がわれる。浅学非才なわたしは蔵書に書き込みなど努々しいないよう自戒した。参考までに購入価格を公表すると"Logische Untersuchungen"が三千五百円、『大日本史』二千円、そして『正法眼蔵思想大系』がフッセルと同じく三千五百円だった。
自分として気になった本を最後に上げると池田彌三郎、加藤守雄による『迢空・折口信夫研究』がある。六、七年ほど前、折口信夫の研究書を集中的に読んでいた時期があった。加藤守雄や岡野弘彦などの書いたものを読んでいると、わたしなどとても折口の傍にはいられないだろうと想像するのだが、しかしだから一層のこと折口信夫という人物に興味を覚える。

平成十七年だった(上)

2005年12月31日 21時43分46秒 | 古書
今年の反省を行う。といっても別に己が品行を省みようなどというのではない。書痴の反省とはこの一年間に購入した図書を改めて一点ずつ評価して、世間様から見た自分がいかにアホ馬鹿であるかを再認識する、まあなんといったらよいか、つまりは少々自虐的な一人忘年会なんです。
わたしは記録するというのが大の苦手で、したがって帳簿類の作成など想像したことさえないのだけれども、購入した書籍についてはその題名、出版年月日、定価、支払った代金、買った店の名前などなどを記録に残している。面倒には違いないけれどもこれが後々結構役に立つことがある。むかしはノートに手書きで作っていたものだがそれがワープロに替わり今ではEXCELシートを利用している。残念なことにノートはどこかに消えてしまい、ワープロもFDDをぶっ壊してしまって当時の記録を参照することができなくなってしまった。現在の記録は四年前からのものだけれども、それ以前のものはパソコンがヴィルス感染してお釈迦になってしまった。バックアップを採っていなかったことがつくづく悔やまれる。
前置きはこのくらいにして早速本題に入ると、今年の端は一月八日東京古書会館での下町書友会だった。古書展では成果がなかったものの大島書店で"Der Schauspiel Führer"全七巻を千八百円で購入している。しかし一月はこれで終わってしまった。歳の初めであまり期待できない中だったので大島書店で"Der Schauspiel Führer"を手に入れることができたことを寿ぐべきなのだろう。
二月の二十六日に年が明けて初めて高円寺の都丸を覗いた。"Diccionario de USO del Espanol"二巻物が表に並んでいたので購入している。千六百円で少々高いとも思ったけれども、いずれ何かの役に立ちそうな予感がしたので重いのを堪えて持ち帰った。このような予感は結構あたるもので、といっても結果が出るのは十年ほど先になるのだが。新刊書籍としてはヘーゲルの『自然哲学 哲学の集大成・要綱 第二部』を購入している。長谷川宏の訳文はたしかにこれまでのヘーゲルものとは趣を異にしているとはいえ、原文そのものが難しいのだから長谷川版ヘーゲルだってそんなに簡単に読めるものではない。そもそもなぜヘーゲルが難解かというと、その独特な言葉遣いにある。ということは逆にそのような言葉遣いについて伝統的な解釈の仕方というものがあるわけで、それを習得すれば理解がそれほど困難ではなくなる。これを伝授するのがいままでは大学のゼミだったりしていたわけだ。皮肉ないい方をするならば教授先生方にとってこれほど気楽な授業はない。
三月には馬車道に引っ越した誠文堂を訪ねてみた。樫山欽四郎の『ヘーゲル精神現象学の研究』があったのでご祝儀代わりに買った。千二百円だった。ショーウインドウにどっしりとした装丁のアクィナスの"Summa Theologica"が置かれていたのだがかなり高めだったので買えなかった。もっともSummaを読むのだったら今ではインターネットでラテン語原文を参照することもできる。したがって買うのだったら当然見てくれのよいものでなくてはならない。一誠堂や崇文荘にも偶さか並ぶことがあるので、そちらの方のチェックもしておいたほうがよさそうだ。因みに都丸では"Handbuch der deutschen Gegenwartsliteratur Einleitung und Autorenartikel"三巻本を千円で購入している。そして今年の目玉の一つ"Die Religion in Geschichte und Gegenwart Handworterbuch für Theologie und Religionswissenschaft"全七巻を散々迷った末に崇文荘で購入。この件については既に「正当恁麼時」の回その他で触れてるのでもうこれ以上は書かないことにする。
四月は全滅状態。去年まではこの月にブックフェアが東京ビッグサイトで開かれていたものだったが今年から七月開催となり四月がつまらない月になってしまった。古書店に新しい品が並ぶのは異動のある季節と連動しているが、たとえば四月の異動の結果は五月になって出始める。つまり五月から六月にかけて目新しい品々が店頭に並ぶことになる。
買い込んだ新刊書のなかに『三島由紀夫が死んだ日』なんてものがあった。じつは二月にも『三島由紀夫と橋川文三』を購入している。三島由紀夫関係の出版物は現在刊行中の全集を除いて大方買っている。彼が市谷で割腹死してから三十五年も経ってしまったけれども、いまだに語られることの多い作家だ。わたしはこのような例を他に知らない。ところでもし彼が今なお健在であったなら今年で八十歳ということになるのだが、老作家三島由紀夫なぞ想像するだけで気分が悪くなってくる。

書痴歳末考

2005年12月26日 04時55分44秒 | 古書
とにかく忙しい日々が続いてしまっている。帰宅時刻が毎日午前零時前ということはない。加えて土曜日曜も休めないのだからたまったものではない。体力的にはさほど辛さを感じないのだが、精神的にはかなり参っているようで、職場などでの言動で抑制の効かなくなったと感じることが偶さかある。そのようなわけで師走十二月は神保町チェックも都丸詣でもお休み状態だ。もしかしたら古書の香りに見えていないことも精神的不調の一因かもしれない。十七日の土曜日が徹夜の作業になってしまい、終わったのが翌十八日の午後二時ころだった。日曜日なので当然ながら神保町の主立った店は閉じられている。わかってはいたのだがどうしても行きたくなって、徹夜明けのその足で神保町を訪ってみた。
日本特価書籍は日曜日も営業している。この店は年末年始を除いて無休営業しているのがうれしい。ここで十二月刊行の岩波文庫二冊、『アメリカのデモクラシー第一巻(下)』『ディドロ 絵画について』、それに光文社新書の『20世紀絵画 -モダニズム美術史を問い直す-』を購入した。美術史関係の本を読むのは久しぶりだ。むかしむかしハンス・H・ホーフシュテッターの『象徴主義と世紀末芸術』を種村季弘の訳で読んで以来いろいろな美術関係書籍に目を通しているのだけれども、どうも美術や音楽に関する書籍は読んでいて隔靴掻痒の感を否めない。その絵画や彫刻、音楽作品なりを一度でも見たり聞いたりしていてその印象が残っているのならばよいのだが、そうでないといったい何を著者がいおうとしているのか判ったようで判らない。とくに音楽となると何が何だかさっぱりわからなくなってしまう。わたしはバッハが好みなのだが、たとえばシュバイツァーが「Blute nurのアリアはテンポをかなり速くとるべきである.またオーケストラをして強拍の音を強調しないで,第1小節では2番目の8分音符と最後の4分音符,第2小節では2番目の8分音符と最後の4分音符,第6小節では第2,第6の8分音符をきわだたせ、その他の音符はほとんど消えるほどに演奏させるように配慮せねばならぬ」(注1)と書いても、基となる「マタイ受難曲」を聞いていないと何をいっているのか理解できず議論に付いてはいけない。
話が逸れてしまった。日曜日の神保町だった。かつての神保町は日曜日も店を開いてたと以前書いたことがあるが、いずれにせよシャッターの下ろされた靖国通りを歩いていると寒々しい気分になってしまう。二週間前の十二月十日土曜日に白山通りを歩いたら銀杏並木がすっかり黄葉していたが、靖国通りから南側はまだ黄葉していなかった。誠心堂書店の店先に並べてある廉価本に黄色くなった銀杏の葉が一枚落ちているのを見て師走を実感じたものだ。この日は東京古書会館の書窓会で松下大三郎の國歌大観全四冊、角川書店から刊行されたものだがこれを三千円で購入した。定価で誂えると三万九千円するから安い買い物だった。そのほかには宇井白寿の『禪宗史研究』も千五百円だったのでついでに手に入れた。戦前大阪朝日新聞社から刊行された『近松全集』が三千円で出ていたが、やけに安いのでよくよく見てみると全十二巻物のうち十巻という半端セットだったので手を着けるのを止しにした。むかしは安値に目がくらんでこのような半端物を掴まされたものだ。これは古書に限っての話ではないのだけれども一概に安物には充分注意したほうがよい。食品だってスーパーで安売りしているもので美味いものがあったためしはいまだかつてない。件の『近松全集』にしてからが、巖松堂書店の店先に積まれていた全十二巻揃物で一万六千円の値が付いていた。この価格はほんの少し高めだがまあ相場といったところなのであって、いくら安い古書会館の即売展でも三千円ではさすがに並んではいないはずなのだ。巖松堂書店の名前がでたのでついでに書いておくと、二階の仏教書コーナーに『道元研究』という本だったと思うが四千円で出ていた。おなじ版かどうかは確認していないけれどもこれを都丸支店で千五百円で出ているのを見た記憶がある。
年内はもう古書店へも古書会館へも出かける暇がない。来るべき2006年に期待を繋ぐことにしよう。

(注1)『バッハ』下 216頁 アルベルト・シュバイツァー著 辻荘一 山根銀二訳 岩波書店 昭和42年12月10日第4刷

クロノロジカル・テーブル

2005年11月23日 15時15分23秒 | 古書
戦前、といっても昭和十四年(1939年)に岩波書店から速水敬二編『哲學年表』が刊行された。四六版で本文三百十一頁ほどの本だが、わたしの所有しているのは戦後昭和二十三年の第四刷で、装丁も紙質も恐ろしく貧弱なものだ。この五年後になると出版事情もかなり改善されてくるのだけれども、わたしとしてはそんなことより何より、敗戦後まもなくの時代にあってこのような本が出版されていたということ自体に驚きもし、また少し感動もしてしまう。どのような本かというと文字通り年表であって、古代ギリシアから一九三六年、昭和十一年までの西洋の主要な哲学者、思想家の誕生没年、著作出版年を表にまとめたもの。上にも書いたように初版は昭和十四年、まだ物資に余裕があったころに出ているので、わたしの持っている第四刷よりはおそらくよほど綺麗なはずなのだ。古書値で三千円前後だと思う。それに比べてわたしの第四刷は東京古書会館の即売展でまんが市文化堂から六百円で出ていたものだ。しかし中身は変わらないから第四刷でも充分に重宝している。
調べものに使うのはもちろんだけれども、漫然と眺めているだけでも結構面白い。表形式というのは確かに載せられる情報量としては少ないのだが、たとえばカント、デカルト的大陸合理論とイギリス経験論のいいとこ取りをしてあの有名な『純粋理性批判』を書き上げたドイツの哲学者がバルト海に面した街ケーニッヒスベルク(現在のカリーニングラード)でオギャーと生まれた一七二四年に、遥か離れた極東は浪速の地で浄瑠璃本作家近松門左衛門が七十二歳で亡くなっているといったことや、あるいは賀茂真淵が亡くなった明和六年、西暦の一七六九年にフンボルトペンギンでその名が知られているドイツの地理学者フリードリッヒ・ハインリッヒ・アレキサンダー・フォン・フンボルトが生まれている、といったようなことが直感的に判るのがうれしい。じつはわたしはフンボルトペンギンというのはてっきりフンボルトが発見したからそのように命名されたのだと、つい最近まで思っていた。しかしこれはとんだ誤りでフンボルト海流(これはフンボルトに因んで名づけられたが、いまではペルー海流というようだ)に沿って生息しているのでこのように呼ばれている。そうだよね、フンボルトってのは博物学者ではないもの。
ところで、この年表に載っている最も若い人物というのがドイツの美学者Hermut Kuhnという人で、一八九九年生まれだから『哲學年表』が刊行された年に健在であったとすれば四十九歳になっていたはずだ。ところで四十九歳という年齢を若いというべきかどうかは少々問題がある。というのも一八九九年におけるドイツ人の平均余命がわからないことには判断できないからだ。ここでわたしのドクダンとヘンケンで敢えて言うならば、四十九、五十、五十一という年代は特に節目に当たっているように思えてならない。夏目漱石が亡くなったのが四十九歳のときだったと聞くとちょっと意外な気分になる。残された写真で見る限りではかなり老けた印象を受けるからなのだが、しかし男子の平均寿命が四十三歳の当時としてはけっして若死ということではなかったのだ。
『哲學年表』の最後は一九三六年、昭和十一年の欄で、出版された哲学関係の書籍としてはガストン・バシュラールの『持続の弁証法』、エチエンヌ・ジルソンの『キリスト教と哲学』、ニコライ・ハルトマンの『哲学思想とその歴史』が上げられている。また物故した学者としてはリッケルト、シュペングラー、テンニース、ウナムーノなどが記載されている。
この年、ナチスドイツはロカルノ条約を破棄し、また日本では昭和天皇を激怒させたあの二・二六事件が発生した。

古本は高くないって?

2005年11月15日 05時23分40秒 | 古書
泉井久之助の著した『ラテン広文典』という本がある。長らく品切れとなっていた本で、最近白水社の創立90周年記念出版として復刊された。ラテン語の入門兼文法書で内容的にも評判の高いものなのだが、残念ながら学校のラテン語授業の教科書には使えない。というのも各節に設けられているラテン語和訳の問題について解答が掲載されているからである。一概に良いとも悪いともいいかねるのだが、わたし個人としてはこのような解答は不要だと思う。難しい問題に出会ったとき解答に頼ってしまうからだ。さてこの『ラテン広文典』だが、品切れになっていた当時なんと二十万円で売買されていたという噂を聞いてビックリしたが、わたしはすぐにガセだと思った。ちょと古書の値に触れていれば、この手の本が売値で二万円を超えることが先ずないことなど簡単に見当が付く。もっとも個人的に売買されたとなると話は別だが。
古書の市場価格に疎い人は絶版や品切れになった本は業者の間で押しなべて高価で取引されていると思っているようだ。だから『ラテン広文典』に二十万円の値が付いたなどという戯けた話が横行することとなる。この復刊本は現在定価四千八百円で売られている。おそらく品切れ当時もこのくらいの値段で古書市場に出回っていたのではないだろうか。いまでは良質のラテン語入門書が多く出ているし、文法の専門的知識を得ようとするような専門家ならば外国語の本をあたるはずで、わざわざ『ラテン広文典』など閲覧しない。もし市場を通さず個人的にこれを二十万円で買った人間がいたとすればとんだ大間抜け者に違いない。
ちょっと前の朝日新聞の投書欄に古書の安値を嘆く投稿を見た。いや、気持ちは本当によ~くわかります。大枚はたいて買ったナントカ文学全集が二束三文どころかただでも引き取ってはくれない現実に直面すれば誰だって一言いいたくなるのは人情というもの。でも市場はそんな個人的な思いとは別の原理で動く。そりゃあ誰だって自分の愛着ある書籍は高値で取引されることを望むものだが、高値というのは買い手があって初めて付くものだという簡単な経済原則を忘れてはいけない。自分の蔵書がたとえば一冊辺り何十円単位で引き取られるのを見て、自尊心までも否定されたような気分になるのは、特にまじめな市井の勉強家に多いものだ。
身も蓋もない話なのだけれども、素人の蔵書はまず金にならないと思ってよい。古書店に買い取りを頼んでも「うちでは引き取れません」といわれるのがオチなのだ。これには持っていく側の認識不足がある。まず持ち込もうとする古書店がどこにあるかが問題だ。近所にある古本屋にいきなり「キリスト教神学史」なんか持ち込もうとしよう。でもここでちょっと考えてみて欲しい。自分の住んでいる街がどこにあるのかということを。例えば葛飾区の商店街にある古本屋だったとしようか。近所の住民には浄土宗、浄土真宗の檀家や日蓮宗の信徒はいるかもしれないがクリスチャンはカトリック、プロテスタントを含めていったい何人いるのだろう。さらにクリスチャンではないがキリスト教に興味のある人間はどれほどのものか。つまりここでいいたいのは需要と供給のバランスなのだ。万が一その古書店が「キリスト教神学史」を幾許かで引き取ったとしても、おそらく自分の店の棚に並べることはないだろう、これは自信を持っていえる。ではどうするか。古書会館で業者が開く市に出すのだ。駿河台下の東京古書会館、高円寺の西部古書会館、五反田の南部古書会館、そしてここはあまり知られていないが南千住の東部古書会館が市場を開いている。だからこのような市場に出す手間を勘案して店主は引き取るか否かを判断した上で買取値を決める。一方売るほうはそこまで考えて自分の売ろうとする本の引き取り値がいくらくらいになるかを考えているのだろうか。わたしは甚だ疑問に思う。
しかしそれでも古書店では店主の蒐集している分野に合致すれば、近頃できているBookOffやその他似非古本屋よりは幾分高く引き取ってくれる。じつはここが大切なところなのだが、件の似非古本屋には古書市場の相場を知る人間はいない。だって見りゃあわかるでしょう、アルバイトの兄さん姉さんが本を鑑定するんですよ、彼らはあるテーブルに従って機械的に引き取り値を決めているんです。市場価値とは無関係にね。もちろんコミックや文庫本をリサイクルショップに出す感覚で持て行くのならそれはそれで一つの遣り方で、わたしはなのもいうつもりはないが、少なくとも自分の蔵書の市場価値を評価してもらおうとするならば、須らく古書店に持ち込むべきである。まあそこで二束三文の評価を下されたならば、それはそれで素直に受け入れるべきではないだろうか。専門家の評価は素人のものよりよほど正確だ。わたしもこれまで何回か古書店に蔵書を引き取ってもらったことがある。おおむね適正価格だったのでこれらの店は誠実だったのだと感謝している。しかしコミックに圧倒的人気があったことにはちょっと寂しい気もしたものだが。

土曜日の成果。

2005年11月13日 07時18分03秒 | 古書
昨日の土曜日、性懲りもなくまた神保町を巡ってきた。病気だと自覚しつつも、ふと自分はいったいなぜこんなにまでして古書店を見て歩かねばならないのだろうかと疑問に思ったりする。じつはこういう日は収穫の乏しいことが多い。長年の経験からそういえる。
先ずは駿河台下の古書会館で即売展をチェックする。だめだった。わたしの興味を引く品物は見事なほど一切出ていなかった。しかしここで幸先が悪いと判断するのはまだ早い、と自分に言い聞かせる。神保町をチェックしないことには何ともいえないではないか。そう、何ともいえないのだけれども、嫌な予感がする。
大島書店を覗く。相変わらずオクスフォードのギリシア語辞典が上の棚に置いてあった。一万八千円ではなかなか売れないよ。それにそもそもこんなもの普通の人が使うか。まあ使うとしたら大学の哲学科か西洋古典学科くらいなものだろう。ドイツ語関係の棚に低地ドイツ語の研究書があったが今回は買わなかった。反対側の棚に回りこんで眺めてみても目新しい品は入っていない様子。棚の最下段には数週間くらい前からオランダ人の書いたドイツ語ハンドブック二巻本が置いてある。内容的にはあまり面白くもなさそうなのでこれも購入せず、英文学の棚を一瞥して店を出る。
三茶書房の店先のワゴンを見ると岩波文庫が並んでいた。白帯、青帯、黄帯のものはほとんど集めているが、戦前発行され復刻されていないものは残念ながら持っていないのでそれらをチェックする。しかし今ではもうそんな品は廉価では売っていない。一概に岩波文庫は古書でもそんなに安くはならない。小川町の文庫川村は別格として、どこでも学術物の文庫は高めだ。因みにこの文庫川村はバカ高いので有名な店。いくら文庫本の専門店とはいえちょっと異常な値付けに見えるが、これは復刻版が出ても絶版だったころの値がそのまま付けられているからそんなことになる。もっともあれだけの量の文庫本だもの、とてもじゃないが一々値を書き換えてなんかいられないだろう。
大屋書房の纐纈さんは飛ばして、というのもこの店は和本専門店なもで。ところで和本と和書を混同している人が偶さかいるけれども、和書というのは日本語で書かれた本というほどの意味で、つまりわたしたちが普通目にする本のこと。で、和本というのが有史以来明治初期までに日本で作られた本なのだが、ここで注意しなくてはならないのが和本と和装本の違い。つまり和装本は装丁の仕方をさしていう言葉です。
八木書店はいつも店先の廉価品を確認するだけだ。以前に三島由紀夫の研究書を集めていた頃には結構店内にも入っていたものだが最近は御無沙汰している。このあと慶文堂、東陽堂、村山書店などと続くのだけれども全部かいていったら神保町案内になってしまうのでこのあたりにしておく。
結局今回の獲物は崇文荘の店先に並んでいた次の三冊だけだった。
1."Lyrische Anthologie des Lateinischen Mittelalters" Karl Langosch編 Wissenschaftliche Buchgesellschaft Darmstadt 1968. これは中世ラテン語の叙情詞集で八百円。左ページにラテン語、右ページにドイツ語訳という体裁の本。
2."Zur Geschichte der Philosophie"(2Bänden) Karl Bärthlein編著 Verlag Königshausen + Neumann Würzburg 1984. こちらは二巻物の哲学史の本で千六百円。
もともとの売値については、1.の方はわからないが2.は三千六百八十円なので、これは安い買い物だと思う。
最後にいやな話を一つ。御茶ノ水駅のすぐそばにS書店というのがある。むかしからある店だが改築したので古書店としては綺麗な店構えだ。しかし恐ろしく雰囲気がわるい。その原因はレジに座っている店主(だろうと思う)にある。古書店というのは客が入ってきても「いらっしゃいませ」というところはまずないといってよい。レジに本を持っていっても黙ったまま客からそれを受け取り包装する。代金を支払ったとき初めて「ありがとうございます」という店主の声を聞くことができる、というのが一般的。だから東陽堂などのように普通の商店なみの接客をされると、とても丁寧な印象を受けてしまう。というわけでわたしは古書店主の無愛想、ぶっきらぼうには慣れている。わたしが気分を害したのはそんなことではない。件の店主はレジにすわったまま、なんと鼻歌まじりにレジの台を指先でコトコトと延々叩き続けているのだ。これはかなり耳障りで、神経を逆撫でされる。本など落ち着いて見られたものではない。一体全体このオヤジは何を考えているのだろう。もしかして冷やかし客を排除するための方策なのだろうか。それなら店など閉じて呼び鈴店にすればよい。どうしても入店したい客が呼び鈴を鳴らして入れてもらうシステムにすれば冷やかし客はほとんどいなくなるはずだ。それともこの人物は本当にちょっとアブなくなってきているのだろうか。以前はこんな店ではなかったのに。