蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

エミール・ファーレンカンプ

2005年11月02日 05時17分17秒 | たてもの
ケルンの西約六十キロメートルに位置する街アーヘン。カロリング朝ルネサンスを代表する建築物であるアーヘン大聖堂で有名なこの街に、一八八五年十一月八日エミール・ファーレンカンプは生まれた。
この年明治十八年、日本では第一次伊藤博文内閣が発足している。また世界に目を向けるとパストゥールが狂犬病の予防法を発見したり、ベンツ博士がガソリン自動車を発明したりと、人々はまさに輝く未来を信じて疑わない時代だった。ファーレンカンプはアーヘンの建築家カール・ジーベン教授の事務所で建築家見習として働きながら職業訓練を積み、一九〇九年にはデュッセルドルフに移って三年間ヴィルヘルム・クライス事務所のアトリエ主任として働いている。忙しく毎日の仕事をこなしながらも彼は建築コンテストに応募したり、自分独自の設計図を引く時間を作っては研鑚を積むことを忘れなかった。そうこうする内に、一九一一年にはデュッセルドルフ技術実業学校の夏学期に出勤し、最初の二つの学期をあのマイスター・アルフェレート・フィッシャーの助手を務め、一九一二年の夏学期からは補助教師として一本立ちし学生の指導にあたっている。一九一五年三月、ファーレンカンプは第一次世界大戦で召集されたが、ほどなく東部戦線で左腕を負傷し前線から「恒久的に役に立たない者」として送還させらた。しかし残った障害は幸いなことに軽く(つまり診断した医者が未熟だったためと言うべきか)仕事にも私的生活にもなんら支障が生じることはなかった。結局彼は一九一六年四月からデュッセルドルフで教師活動を再開することとなる。戦争が終わった年、一九一九年にデュッセルドルフ技術実業学校の建築部門が芸術アカデミーに併合され、ファーレンカンプは他の教師仲間ともども棚ボタ人事によりアカデミー教授職の地位を手に入れることとなった。こう見てくるとエミール・ファーレンカンプという人物はかなりいろいろな幸運に恵まれていたのだということがわかる。概して人は才能だけではなかなか生きては行けない。では逆に幸運だけで世の中を渡って行くことができるのかというと、これはこれでなかなか難しいものがあるとも思う。
ドイツ工作連盟"Deutscher Werkbund"はとヘルマン・ムテジウスによって一九〇七年ミュンヘンにおいて設立された団体であり、その目的とするところは「芸術と産業と職人技術の協力」を通して工芸の「品位を高める」ことにあった。設立の背景には経済的事情(輸出振興のためのデザイン改革)や政治的状況(民族主義の勃興)があったようだが、高品質な仕事をめざして各産業分野の協調を奨励した結果、工業製品製造の機械化およびこれに伴う規格化が推進されることとなった。初期のメンバーとしてはユリウス・ホフマン、ハンス・ペルツィッヒ、ペーター・ベーレンス、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデといった人物が挙げられる。当然といえば当然のことなのだが、芸術志向のヴァン・デ・ヴェルデにとってこれは肌が合うはずもなく、一九一四年のケルン連盟博覧会の後彼はドイツ工作連盟を離れることとなった。因みにドイツ工作連盟は一九三三年ナチスによって解散させられている。エミール・ファーレンカンプがドイツ工作連盟に加盟したことについては、彼が特にベーレンスの主義主張に同調していたというよりは、むしろ彼の処世的態度にその理由を求めたほうが判りやすいのではないか(簡単にいやあ出世志向ってやつですか)。デュッセルドルフ芸術アカデミー教授としてのファーレンカンプは工業界が必要とする技術者を養成するための職業教育を導入していわゆる産学協同を進めて行くのだが、この工業界との良好な関係のゆえにあの時代ヘルマン・ゲーリンクの取り巻きのなかに生き残ることもできたわけだ。
ドイツの東端、ポーランドとチェコに国境を接する街、ツィッタウ。ザクセンの郡役所所在都市、木綿紡績、金属製品、自動車、電子技術が地場産業だが、鉄道ファンにとってはまさに巡礼地のような場所として知られている。そのツィッタウでエミール・ファーレンカンプが手がけた"P.C.Neumann G.m.b.H."の織物工場は彼の一九二〇年代のプロジェクトに見られる簡潔で単純な形態のなかに、石とクリンカーで仕上げられた壁面に特徴的だが、表現主義的で装飾的な要素がよく現れている。この作品は「ドイツ織物市場においてこの企業が外国で兄弟企業が既に占めている指導的立場を手に入れることを、より短時間で可能にする工場施設がここに完成されたのである」(注1)と当時評価されている。ただし実際の現地の現場監督および平面図構成の改造に当たっては、多忙なファーレンカンプに代わってツィッタウの建築家レーヴとウェンティッヒが手がけている。

写真資料:Moderne Bauformen Monatshefte für Architektur und Raumkunst XXVII. Jahrgang 1928 Verlag Jurlius Hoffmann Stuttgart
(注1)出典は写真資料に同じ。