蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

小休止

2005年09月30日 05時24分58秒 | 彷徉
気候がすっかりと秋めいてきた。とにかく暑いのが大嫌いなわたしにとって、これから十二月の上旬くらいまでが絶好調の時期になる。しばらく都内の古書展しか覗いていなかったが、これからは地方での催しにも出向いてみよう。といっても時間の関係でどうしても関東近県のものに限られてしまうのだが。
藤沢の有隣堂で時々古書展が開催される。「古書巡礼」の回で「第7回湘南フジサワ古書まつり」を見に行ったことを書いたが、残念ながらここはあまりわたしの興味を引く品が出ない。もちろんこれはわたしの眼で見た限りでのはなしだから、ここで自分の探していた本に出逢える人だっているに違いない。しかしどこに何があるかわからないのがこの世界、だから無駄足と知りつつも万に一つの望みをかけて出かけて行くのが書痴なのだ。
それは別としてもわたしは藤沢という町が好きだ。学校時代の友人Mがかつて鵠沼に住んでいたからということもあるのだけれど、東京の下町で育ったわたしにはこの町の家並みに憧憬に近い思いを持っている。「下町」という言葉を使ったので贅言を加えるならば、下町とは精々浅草辺りまでを指していうのであって、葛飾柴又はもはや下町ではない。あそこは「在」という。だから山田洋二監督は「寅次郎」の故郷として浅草ではなく、わざわざ葛飾柴又を選んだ。浅草では地元の匂いが強すぎて全国的な観客のシンパシーを得ることが難しいからだ。
話を藤沢に戻すと、ここも古書店の多い町。だいたい駅周辺に集中しているがどこも内容的には硬めなのが特徴だと思う。だから何かありそうな予感を客に感じさせる店になっているのだが、しかし値段的には神保町に敵わない。とはいうものの、わたしは性懲りも無くまた訪れたくなってきている。

芳賀留学日誌(五)

2005年09月29日 04時01分37秒 | 黎明記
九月十七日月曜日午後五時、プロイセン号は福州湾に入る。「恰も瀬戸内海に入る観あり」(注1)ということで、一行はやっとひと息ついた。しかしそこで芳賀の見た中国はというと「舷窓より煎餅、ビスケット等を投下するに争うて之を拾ふ 老若男女さながら餓鬼の如し 日本の民如何に貧困下等のものといへども恐くはこの態をなさゞるべしと坐に清国を悲む心あり」(注2)。芳賀も中国人に「煎餅、ビスケット等を投下」したということか。おそらく初めのうちは面白がってやっていたことと思う。ヨーロッパ人たちと一緒になって食べ物を投げ与えている自分が彼ら白人と肩を並べる一等国の国民であることに優越感さえ感じていたのだろう。しかし次第にそのようなことをしている自分自身に嫌悪感を覚えてきたに違いない。「清国を悲む心」は同時に自分自身の愚かさにたいする反省でもあった、とわたしは思いたい。
しかし中国民衆の惨憺たる状況に反して福州は「両岸砲台のある処を通過すれば風光益佳なり 群松の叢生せる山相連り茂林の下時に支那風の村落を見る 山骨露るゝ処飛瀑蜿蜒として下る 一幅南宋画を見る想あり」(注3)といった具合で、芳賀はその風景を褒め称えてもいる。要すれば中国とは東洋の巨大国家なのだ。「煎餅、ビスケット等を投下するに争うて之を拾ふ」人々がいる一方、世界に誇る文化を連綿と継承する文人たちも多く存在する。単に貧富の差が激しいことだけでその国の成熟度を判断するというのはきわめて近代西洋的な発想に過ぎないのであって、欧化路線をまっしぐらに進む明治日本の芳賀にしてもやはり同様の価値基準で中国という国を見ていたのだろうと思う。
九月十八日火曜日「喫煙室に在りて国学史を校訂す」(注4)とある。道中にあってもなお御仕事とはまさに働く日本人の象徴的存在だ。わたしにはとても真似ができないが。ここに書かれている「国学史」とはおそらく明治三十三年十一月に國語傳習所から刊行された『國學史概論』のことだろう。

(注1)『芳賀矢一文集』617頁 芳賀檀編 冨山房 昭和12年2月6日(引用にあたっては旧字体漢字は新字体にて表記しています)
(注2) 同上
(注3) 同上
(注4) 同上 618頁

障害猫

2005年09月28日 05時55分04秒 | 彷徉
精神的にどうにもこうにも手の施しよう無くなってしまった。だからというわけでもないのだが、気分転換でもしようと散歩に出かけた。
近所の中根公園に行ってみると、奥さんたちが子供を遊ばせていた。平和とは理屈でない、このようなごく当たり前の営みが保証されることがすなわち平和なのだ、と自分でもめずらしいくらい神妙なことを考えたりしたら腹が減ってきたので、無駄遣いと非難されるのを承知の上で、駅前の「大菊」で五目そばなんかを誂えた。この店も古いよなあ。一度無駄遣いをするとかえって気が大きくなるもので、わたしはその足で東横線に飛び乗り綱島まで行ってしまった。別にどこでもよかったのだ、渋谷でも代官山でも。代官山は旧同潤会アパートが取り壊されてしまい、すっかりのっぺりとした街になってしまった。渋谷はというとこちらもすっかり子供の街となってしまい、わたしのいられる場所は道玄坂の文紀堂書店か渋谷古書センターくらいのものだが。
綱島には大きな古書店がある。最近はチェックしていないので近頃どのような品物が並んでいるのか興味があった。最後に訪れたのはもう数年も前になるか。そのときから私の興味ある範疇はあまり変化していないから、多分また期待を裏切られることだろう。いつもいつも裏切られてばかりの探書彷徨なのだがこれがまた楽しいといった、書痴というのはちょっとサディスティックな心情の持ち主でもある。
そして綱島では案の定、期待は裏切られた。身体が疲れたというよりも、頭の芯から疲れ果てたといったほうがより正確な表現のように思う。そこで疲れ序に横浜まで出た。伊勢佐木町にあった誠文堂書店が馬車道に越したということは前に書いているけれども、その綺麗になった誠文堂を半年振りに覗いてみた。黒っぽいのも多いが結構白っぽいのもあって値段も比較的安いのがうれしい。今回は特別に眼を引かれる品物はなかったが、ご祝儀も兼ねて『ヘーゲル哲学の真髄』という内容的に良いのか悪いのかまったくわからない本を買った。定価二千八百円のところ千八百五十円の売値。ま、じっくりと読んでみて評価することにしよう。
午後三時近くになっていたけれど、馬車道からみなとみらい線で元町・中華街駅まで行き港の見える丘公園まで足をのばした。こうなったらもうヤケクソだ。徹底的にサボってみたくなった。平日であるにもかかわらず結構人が多い。神奈川近代文学館の横で左前足を付け根から失った黒と茶の斑猫に出会った。足をなくしてから時間がたってはいるのだろうが、それでもかなり歩きにくそうに見えた。そりゃそうだろう、人間だったら松葉杖を使わなければならないところだ。飼い猫のようには見えなかった。今まで生きてこられたのは誰か餌を与える人間がいるに違いない。
わたしは、暗澹とした気分で帰りの電車に乗り込んだ。

智利房屋

2005年09月27日 03時43分13秒 | たてもの
硝酸カリュームは火薬原料でもあり、また窒素肥料の原料としても使用されるものでその需要はきわめて高いのだが、天然にはごく限られた地域でしか産出されない。しかし一九〇六年ハーバー・ボッシュ法が開発され、窒素と水素からアンモニアを直接合成できるようになり、硫酸アンモニウムや尿素など合成窒素肥料の工業的な大量生産が可能となった。ということは、つまり一九〇六年以前は硝酸カリュームは須らく天然物に頼っていた。さてそれではこの貴重な硝酸カリュームつまり硝石をどこで採っていたかというと、南米はチリ北部のアタカマ砂漠。
このチリ硝石の輸入と加工で大儲けしたのがハンブルクの商人ヘンリー・ブラレンス・スローマンという人物だった。一九二一年に、不動産業に関しては素人同然だったスローマンは当時の六千万マルクを投じてハンブルク旧市街のオフィス地区、ブッチャードプラッツとメスベルクの間つまりフィシャー・トヴィーテ(漁師小路)の両側の土地を購入した。そしてここに建築するビルの設計者についてコンペを行った結果、フィシャー・トヴィーテをまたがったひとつの建物という革新的なプランで選ばれたのが、当時四十四歳の気鋭建築家であったヨハン・フリードリッヒ・ヘーガー(フリッツ・ヘーガー)だった。設計段階で何度も変更を重ねた結果、一九二二年から一九二四4年の二年間でヘーガーはこの十階建てのオフィスビルを完成させたが、現在でも人目を引く奇抜なデザインは、当時においてはなおさらその実現に色々な障害があったようで、例えばあの有名な南側ファサードのS字湾曲に難色を示した市建設局にたいしては、当時Oberbaudirektorの職にあったフリードリッヒ・ヴィルヘルム・シューマッハ(フリッツ・シューマッハ)の尽力により特別許可を取ることができたのである。
スローマンのチリ硝石商売に由来してこの商館建築につけられた「チリ・ハウス」の名称からは、今日その圧倒的なマッシブにかかわらずレストランかバーのような軽い印象を受ける。ハンブルクのハウプトバーンホフの約1キロほど南、現在の最寄り駅はUバーンのU1駅。戦艦を髣髴させるこの北ドイツ表現主義建築を代表する建物の威容は今も変わることなく(とはちょっと言いにくいのだが、とにかく)、ここを訪れる観光客を魅了して止まない。
建築家ヨハン・フリードリッヒ・ヘーガーは一八七七年六月十二日ハンブルク西北の街Bekenreihein Elmschornに、家具職人の親方にして大工の息子として生まれました。一八七七年は日本では明治十年、西南戦争で南洲西郷隆盛が城山で自刃した年にあたる。ところでヴォルフガング・ペーント著『表現主義の建築』の邦訳版では「ホルシュタイン州の小作農家に生まれた」とある。いったいどちらが正しいのか、あるいは彼の父親は小作農にしてマイスターだったのか。どうもこのあたりはよく判らない。仮に小作農であったとしたなら、大切な労働力を徒弟修業に出すだろうか。というのもヘーガーは十四歳でエルムショルンの大工に弟子入りし、さらに鍛冶の仕事と家具製作を学んでいるからだ。その後二十歳でハンブルクの建築学校に入学しマイスター試験を受けた後一八九九年、つまり二十二歳から二年間兵役についてる。除隊後の一九〇一年から一九〇五年までハンブルクの建築事務所Lundt & Kallmorgenに入り技術製図工として本格的に建築を学びはじめるが、この事務所での仕事を後年彼は「とても不毛だった」と語っている。すべてのスタイルにおいて見本帳から下絵を起こすようなLundt & Kallmorgenのやりかたは、ヘーガーの才能からは退屈極まりないものであったことは容易に想像できる。
一九〇七年、念願かなって自分の事務所をハンブルクのニーマンスハウスに持つことができたが、第一次世界大戦の勃発で一九一四年から一九一八年までフランドルで軍務に就き、ドイツの敗戦で復員したのはよいけれど戦前のような繁盛を回復するのは大変難しかった。そのような彼の一発逆転の契機となったのがこのチリ・ハウスで、ヘーガーはこれにより職業的逼塞状況を突破したというわけだ。
一九三三年以降のヘーガーの評価は、ナチズムとのかかわりという視点からいろいろ論じられている。しかし彼は建築にたいする美意識をヒトラーと共有することはなかったので、一九三二以来のナチ党員である彼がラジオ演説で「全ての外国人とドイツの血族でない者は帝国から追放しろ」と発言したり、あるいはその他過激な発言をしても、宣伝相ゲッベルスは彼の作品を「ソヴィエト的」だと指摘し、結局ヘーガーは望んでいた国家建築家の称号を得ることができなかった。
一九四五年以降は破壊された都市の再建計画に専念しつつも、過去の栄光が戻ることもなく、一九四九年六月二十一日リューベックの西、バッド・ゼーゲベルクで亡くなった。享年72。

外来語辞典

2005年09月25日 15時59分51秒 | 言葉の世界
とにかくカタカナ表記に悩まされている。原語の綴りを直接書いてくれたほうがよほどありがたい。それならばたとえすぐにわからなくともそれなりの辞書を引けば済むことだから。現代語ならインターネットでもっと早くわかるかもしれない。むかし学校に通っていたころ、ゼミで先輩からレジメを作れといわれた、何のことだか判らなかった。もちろんこれはフランス語の男性名詞résuméのことで「要約」あるいは「概略」を意味することは読者諸賢におかれては先刻御承知のことと思うが、馬鹿なわたしは当時そんなことも知らなかった。
同じような状況が、じつは今も続いている。いきなり「コンドミニアム」といわれてもなんのことだかわからない。これは"condominium"、なんのことはない「分譲マンション」という意味。原語の綴りさえ判ればあとは先ず英和辞典あたりを引いてみるとほとんど解決してしまう。それでだめだったら仏和辞典なり独和辞典を引いてみればよい。これでだめということはほとんどない。ところがいま流行の「ユビキタス」はちょっと手強かった。というのもわたしたちは「ユ」の綴りをとうしても"yu"と思ってしまうからだ。しかしこれでは英和辞典で「ユビキタス」を引くことはできない。つまりこれがラテン語起源の言葉だということを知らないととんでもない回り道をしてしまうことになる。英和辞典を引くと"ubiquitous"という綴りで項目が立てられていて「到る所にある」「遍在する」という意味が載っている(注1)。この訳を鵜呑みにしたのだろう、インターネットのサイトを検索するとほとんどすべてのページで「到る所にある」という説明をしている。あるいは「神のごとく遍在する」などという意味を載せていたりしてる。しかしこれはどちらかといえば特殊な用例だ。ウィキペヂアには「ラテン語に於ける ubiquitous の ubi は英語では where と訳され「どこで」を示し、ubique は、英語の everywhere に相当する「何処でも」を意味する。2004年現在、ubiquitous は「何処でも」の意味に加えて時間軸上における同時性または同時刻性を加味した使われかたをしている」とある。これでは"ubiquitous"とは本来どのような意味なのかという疑問にたいする説明を半分しかしていない。
ブロックハウスのドイツ語辞典を引くと"die Ubiquität"が載っていて、生態学、哲学、神学、経済における意味をそれぞれ紹介している。まず生態学における意味は"Eigenschaft von Tieren und pflanzen, nicht an einen bestimmten Standort gebunden zu sein"「特定の場所に結びついていない、動植物についての性質」。哲学、とくにスコラ哲学においては"Allgegenwart Gottes"「神の遍在」。福音主義神学では"Allgegenwart Christi"「キリストの遍在」。そして経済では"überall vorkommendes Gut"「到るところに存在する財」という意味になる(注2)。ドーデンにもほぼ同じ意味の説明が載っているが"vgl. frz. ubiquité"(注3)と書いてあったのでフランス語も参照してみた。大きな仏語辞典が手元になかったので小ぶりの辞典を引いてみると"ubiquité"の項に"État de ce qui est partout en même temps"とあった(注4)。「同時に到るところに在る、といった状態」というほどの意味だろう。どうもフランス語は苦手なので確認のため仏和辞典を見てみた。「henzai 遏遍:(Fog.) Avoir le don d'―, doko何処ni de mo doji 同時 ni oru 居る koto ga dekiru koto」なのだそうだ(注5)。
わたしははじめ"ubiquitous"とはラテン語で"ubi quitus"のことで、"ubi"は副詞、"quitus"は動詞"queo"「できる」の過去分詞、より正確には完了受動分詞として「どこでもできる」というほどの意味だろうと思っていたがどうもそうではないらしい。あくまで"ubique"なのだそうだ。"tous"の部分に注目しすぎて読み誤ったということ。というのもドイツ語の"die Ubiquität"にしてもフランス語の"ubiquité"にしても基本的に"ubique"だけから作られているからだ。
なんだか「ユビキタス」の語源探求みたようなことになってしまったけれど、わたしが言いたかったのはやったらめったらカタカナ表記をしてくれるなということだけ。そしてこのような状況のなかではどうしても外来語辞典に頼らざるを得ないのだけれども、本邦で出版されている外来語辞典で使用に耐えるものは残念ながらない。で、いまわたしの使用している外来語辞典というのが中国で出版されているものでこれが結構使える。『新編 日語外来語詞典』(注6)というのだが、中国の本なので説明は当然中国語なのだが、説明が簡単なので中国の簡体字に慣れればだいたい意味がわかる。わからなくとも見出し語のローマ字綴りを基に相当する言語の辞書をひけばそれで解決。わたしはこの辞書を主に綴りの確認のために使っている。
残念なのは出版されてから少々月日が経っていること。したがって最近のカタカナ言葉は載っていない。つまり「ユビキタス」も載っていないということ。

(注1)『ジーニアス英和辞典』1944頁 大修館 1994年4月1日改訂版初版
(注2) "Brockhaus Wahrig Deutsches Wörter Buch" Sechster Band s.356 F.A.Brockhaus Wiesbaden Deutsche Verlags-Anstart Stuttgart 1984
(注3) "DUDEN Das große Wörterbuch der deutschen Sprache" Band 6. s.2665 Dudenverlag 1981
(注4) "Dictionnaire Quillet de la Languefrançaise" p.2004 Librairie Aristide Quille Paris 1959
(注5)『マルタン仏和大辞典』1382頁 J・M・マルタン編 白水社 1974年11月25日7版
(注6)『新編 日語外来語詞典』史群編 北京商務印書館 1994年5月北京第4次印刷

正法眼蔵啓廸

2005年09月24日 07時08分02秒 | 古書
「汗牛充棟」の回で「古書というのは不思議なもので、自分を買う客を選ぶことがある。まるでむかしの吉原の花魁みたようなのだ。たとえばこちらが気になっていた本が突然店頭から消えてしまうことがある。ついに誰かに買われてしまったのかと諦めていると、或る日突然棚に並んでいたりする」と書いた。
『正法眼蔵啓廸』という本がある。仏教それも禅宗について興味のない向きはおそらく聞いたことも見たこともない本だと思う。『正法眼蔵』はもちろん鎌倉仏教の大物の一人、道元禅師の著した本邦初の和文で書かれた仏教書として夙に有名で、国文学においても研究対象となっているけれども、じつはこの本かなり難解で、どれほど難解かは「回憶正法眼蔵」の回でちょっとふれているのでそちらを参照して下さい。ま、難解ということは裏を返せばそれだけ各人各様の読み方が可能なわけで、たとえばヘーゲルがいまだに人気があるのもそのためなのだが、といって一見解り易いようでいてじつは難解なものもある。プラトンなどはその代表格。
で、この『正法眼蔵』にはむかしからいろいろな注解書が書かれている。『道元禅師研究の手引』には、経豪の『正法眼蔵抄』、俗に面山端方の説示の記録とされている『正法眼蔵聞解』、父幼老卵『正法眼蔵那一寶』をはじめとして四十四種余りの注解書が挙げられているが、現在までの出版物を考慮すればもちろんこれですべてではない。西有穆山の『正法眼蔵啓廸』もこの中で取り上げられている注解書の一冊で「眼蔵の注釈書と言ふものは、眼蔵と自分との距離を縮めてくれるもの、眼蔵に到達する梯子の如きものであるが、多くの注釈書がこの役目を果たしてゐない。然るに穆山の啓廸はこの点に於いて諸注釈に傑出してゐる。」「この啓廸によりて眼蔵を参究すれば自ら通入親近の一線路が開けてくることを疑はない」(注1)とえらく評価されている。しかし『正法眼蔵啓廸』に書かれていることすべてが首肯されるわけではない。中には間違った解釈だってみられるからだ。そうはいうものの、やはり一級の注解書であることに変わりはないが。
わたしは以前からこの『正法眼蔵啓廸』が欲しかった。現在大法輪閣からオンデマンドで全三巻が出ているがこれは分売不可で定価が税込みに二万八千百四十円と、これでは手軽に手が出せない。そこで気長に探していたら東京古書会館の即売展で下巻が安く出ていたので購入した。これはかなり幸先がよいと思った。一概に複数巻で構成される出版物は後になるほど入手しにくい。つまり第一巻より第十巻、上巻より下巻のほうが古書としては入手しにくいのだ。というのもだいたい第一巻や上巻、つまり最初に出すものは宣伝も兼ねて比較的多くの部数を刷り、売れ方に応じて後々の巻の発行部数を調整する。だから後のほうの巻は古書市場に出回る部数も少なくなる。ここで『正法眼蔵啓廸』下巻から手に入れることができたので、中巻、上巻も近いうちに必ず見つかるだろうとわたしは確信した。それからしばらくたって東陽堂の店先の廉価本コーナーに中巻が千円で出ていたので、これも迷うことなく買った。ところが上巻がなかなか現れてこない。古書展にも出てこないし、廉価本コーナーにも並ばない。そうこうするうちにこれも東京古書会館の古書展だったが、旧版の『正法眼蔵啓廸』全二巻が出たのでこれを購入した。大法輪閣版を揃えるのをほとんど諦めかけていたところが、先週あまり期待もせずに巖松堂書店二階の仏教書コーナーを覗いてみたら上巻が千三百円で並んでいた。
古書というものは絶対手に入れるという強い意志をもって探すとかならずその本はみつかるものだが、今回はわたしの意思が萎えかけているのを不憫におもったのか、本のほうで姿を現してくれた。と勝手に思っている。

(注1)『道元禅師研究の手引』155頁 永久岳水 山喜房佛書林 昭和15年10月25日第三版

美食趣味

2005年09月23日 06時33分51秒 | 彷徉
中華街の魅力って何なのだろう。異国趣味ということはもちろんなのだが、それならば川崎のセメント通りにあるコリアンタウンだって充分に異国趣味だ。規模の問題もあるだろう。現在の横浜中華街は随分と広い。韓国料理だって焼肉ばかりではない。中華料理が麺類だけでないのと同断だ。それでも中華料理のほうが人気がある。地理的な距離と心理的な距離は比例しないということらしい。中華料理がたとえば中国一級厨士の腕を宣伝するのにたいして、韓国料理は家庭料理の印象が強いことも関係あるのかもしれない。韓国にも豪勢な宮廷料理の伝統があるのだが。
さて実際に中華街を歩いてみるとわかるのだが、この街には本来の意味でのアウラが立ち込めている。このように書くと、まさに中華街そのものが『複製技術時代』の産物なのだからここにアウラなどあるはずがない、といって反論する向きも出てくるに違いない。しかし、そうだろうか。中華街は本場中国の街の『複製』なのだろうか。私はそうではないと思う。中華街はオリジナルでありけっしてどこかある場所の『複製』ではない。その証拠に中国本土や台湾に『中華街』は存在しない。
最近、食にかかわるテーマパークがいくつも作られている。ラーメン、カレー、餃子、お好み焼きから寿司まである、もちろん中華料理も。みなそれぞれに美味しいのだろうが、しかしこれらがテーマパークという形態に収斂されたとき、各店のオリジナリティは一気に霧散してしまう、言葉を換えていうならアウラが消えてしまう。だからテーマパークで食べた味はどうも今ひとつよろしくない、ということになる。食べ物の味というのはそれ単独で成り立っているわけではない。食べるときの雰囲気とかその他諸々の要素が絡まりあって醸成するアウラによって強く左右されるということがいいたいのだ。むかしむかし小学生のころ食べさせられたあの「給食」というやつに、良い印象を持っている人が少ないのもこれで説明できる。この前亡くなった帝国ホテルのムッシュ・村上が作った料理といえども、デコボコができたアルマイトの皿に盛り付けられ、脱脂粉乳とともに出されたら、おそらくそれを美味しいと感じることはできないと思う。
屋台のラーメン屋には、もちろん不味い店もあるけれども、美味い店が多いらしい。「らしい」と書いたのは、わたし自身が屋台店でラーメンを食べることがないから。じつは学校に通っていた頃、一度だけ屋台のラーメンを食べたことがある。まったく無駄な徹夜をして明かした朝、先輩に奢ってもらって食べたのだけれども、元来徹夜が大嫌いなわたしは、そのラーメンのスープに甘さと辛さ以外の何ものも感じなかった。以来屋台のラーメンが食べられなくなってしまった。
随分と前のことなのだが、城北地区でやくざと関係のある屋台のラーメン屋が、スープのダシを摂る寸胴鍋に野菜や昆布に混ぜて人間の手首を煮込んでいたことが発覚したとして大騒ぎになったことがある。わたしはこの事件を某A新聞で読んだ。やくざが揉め事かなにかで相手の手首を切断し、その処分を件のラーメン屋に依頼したということだったと記憶している。この屋台店のラーメンが地元では美味しいと評判だっただけに、話は盛り上がった。これなどアウラの影響を考えるのに絶好の材料だと思う。「手首ダシ」の話を聞いた後でもこのラーメンの味を文字通り客観的に評価できる人間が、はたして何人いたことか。
今「アウラの影響を考えるのに絶好の材料」と書いた。なぜ「絶好の材料」かというと、じつはこの話、嘘だったのだ。やくざがラーメン屋に手首の処分を依頼したこと自体はその通りだったらしいのだが、さすがに手首でダシを摂ったりなどはしなかった。考えてみれば当たり前のことで、そんなことをしたら味にうるさい客にはすぐばれてしまう。つまり「手首ダシ」の話は単なるうわさでしかなかった。単なるうわさによって味に対する評価が激変する、だから「アウラの影響を考えるのに絶好の材料」と書いた。

極楽回転寿司

2005年09月22日 04時16分56秒 | 彷徉
仕事で年末の金沢に出向いたことがる。客からのクレームに対応するため、急遽出張がきまったので往路の航空券を取るのに苦労した。現場には午後に到着したので、その日のうちに作業を終了させるのは無理かと思っていたが、意外にも六時半にはすべて片付いてしまった。もつれることを予想して予めホテルは取っておいた。このときは急いで帰って始末しなければならない用件もなかったので、一泊して翌日帰京することに決めた。
年の瀬の地方都市はどんな雰囲気なのだろう。わたしは夕食をとるついでに街中を散歩してみることにした。時刻は七時を少し回っていたと思う。しかし街は呆気ないほど静かだった。年末の喧騒を期待していた私は拍子抜けしてしまった。今ごろ東京の商店街は年末の買い物客でどこもごった返しいるだろうに、それともこの街にはそもそも年末の買出しといった習慣がないのだろうか。たしかに道には雪が積もりそれが所々凍って滑りやすくなっているし、それに寒く湿った空気もけっして心地よいとはいえない。だから地元の人々はこんな宵の口でも早々に家の中に引きこもってしまうのだろう。わたしは勝手にそう解釈した。
地方新聞の金沢支局の建物が無風流に立っていたので、新聞掲示ケースを覗いてその地方新聞の記事を読んでみた。当たり前といえば当たり前の話なのだけれどむ、話題があまりにローカルなためわたしにはまったく興味が持てない。周りを見回してみたら新聞を読んでいるのはわたしだけだった。寒さというやつは空腹感をいや増すもので、わたしはとにかく夕食を摂らねばと適当な食べ物屋をさがした。ふだんから好き嫌いの多いわたしは、どこに入ってよいか判らないときには中華料理屋に入ることにしている。中華料理屋なら大きく外れることは先ずないから。しかし不案内な街で中華料理屋をさがすのは結構骨の折れる仕事だった。何気なく歩いていれば簡単にみつかるのに、さて積極的に探そうとするとこれがなかなか見つからない。まあこれは何についてもいえることなのだが。そうこうするうちに、空腹感は益々つのってくるし寒さも堪え難くなってきた。そのとき表通りをちょっと入ったところに回転寿司の店を見つけた。寿司はあまり欲しくはなかったし、そもそも回転寿司は当たり外れが激しい。わざわざ金沢まで来て、不味い寿司を食べさせられたのでは、たまったものではない。でも寒い、わたしは食欲に、というよりは金沢の気候に負けてしまった。そして店内に入ってみて愕然とした。わたしが想像していた最悪の回転寿司店そのものだったからだ。
まずコンベアに流れる皿と皿の間隔が四、五枚分もあり、おまけにその皿に載った寿司には透明カバーがかぶせられてい、貧弱なネタをいっそう不味不味しくしていた。カウンターの中の店員はいかにも学生アルバイトといった感じの青年で、客であるわたしが入店したときも体裁程度に「いらっしゃい」と言ったきりだった。彼は握るというよりも四角く固められたシャリにネタを載せただけの代物を皿に載せてそれを偶さかコンベアに流している。いつ作ったかわからないような萎れたマグロの握りに、玉子焼き、しめ鯖、それとプリン。わたしの食欲はどんどんと減退していった。
こんな店が流行るはずもなく、客は間違って入ってしまったわたしのほかに数名、ぱらぱらとカウンターの前に腰掛けているだけだ。椅子二つおいた隣の客の様子をうかがってみた。四十代後半と見える男性だったが、コンベアを流れてくる皿を無表情にじっと見つめているだけで、それらを取ろうとはしない。そういえば他の客たちもコンベアから皿を取っている様子がない。みな同じように押し黙ったまま、ぐるぐる回るコンベアの方に顔を向けているだけだ。
ここにいてはいけない。そう思ったわたしは玉子焼きとしめ鯖の握りを二皿だけ食べて早々に店を出た。次の日空港行きのバス停に向かう途中、その回転寿司店を探した。店の名前を確認してチェーン本部に抗議しようと思ったからだ。夜と昼との違いこそあれ町並みは憶えていたので、その場所はすぐに分った。
しかしいくら辺りを見ても、昨日入った回転寿司店と思しき店は、とうとう見つからなかった。

受験勉強的技術

2005年09月21日 05時41分22秒 | 悼記
わたしがSと知り合うようになったのはHを介してだった。Hは学校に入ってわたしが初めて言葉を交わした学生で、以降わたしの交友関係はすべてHを中心にして広がっていった。
最初からSと親しかったわけではなかった。どちらかというとわたしはむしろ彼を敬遠していた。なにしろサルトルがどうの、カミュがこうの、三島由紀夫はああ言っている、福永武彦はよいとか、だいたい名前は聞いたことがあるものの、彼らの作品など一切読んだことがないのだから話しがかみ合うはずがない。フランス系思想家にはうんざりしていたし、三島文学も当時はまったく読む気にならなかったのだが、これではどうも取り残されてしまいそうな気分になってきたので、わたしはとりあえず福永武彦を読んでみることにした。印象はというと、たとえば「忘却の河」などその暗さにはとことん辟易したものだ。池澤夏樹が福永の息子だと知ったのはつい最近のことである。ついでに書いておくと池澤夏樹の娘、池澤春菜は「知性派として有名な」声優なのだそうだ。しかしここまで来ると福永の七光りが滑稽にさえ見えてくる。
ま、よけいな話は止しにして、後々三島由紀夫の作品を集中的に読むようになって三島の世界を知ってから、Sが三島と福永を同時に好んだことにある謎めいたものを感じた。というのもこの二人の作風がわたしには北と南ほどにも異なるもののように思えたからだ。だがよく考えてみると、フランス文学の専門家である福永と、フランスの小説を好んだ三島にはそれなりの共通点があるのかもしれない。
しかしわたしたちの前ではSはあくまで三島のアポロン的側面を真似て、夏場の蒸し暑い日など学部図書館のロビーで、女子学生たちの前でわざと胸を大きく曝け出しながら「あちーいなあ」などと言ってみたり、講義の合間にキャンバスの芝生で級友のTにプロレスの技をかけたりして暇潰しをしたりしていた。わたしはといえば、プロレスにも三島的アポロンにも興味はなかったので、彼らが戯れているのを脇で眺めているだけだった。
中国近代哲学の試験直前のことだったと記憶している。Sとわたしと他にもいたはずなのだがもう忘れてしまったが、一号館の階段踊場で試験の想定回答を作ってそれを暗記していたときのこと、その想定回答に出てくる思想家の名前「譚嗣同」をどう読んだらよいか分らない、とSに尋ねると彼は「そんなのはAとかBとかにしておきゃいいんだよ」と軽く言い放った。考えてみれば当たり前のことで、わたしたちはなにも口頭試験を受けるわけではないのだから「譚嗣同」は「A」でも「甲」でも「与太郎」でもよいわけだ。要すれば漢字を憶えるだけ。これは受験勉強でのテクニックなのだが、わたしはまともに受験勉強などしたことがなかったので、Sに教えられてはじめて気がついた。この時点でのわたしとSは、じつは基礎学力的にはかなりの差があったことと思う。わたしはSに英語の発音の初歩的な間違えを指摘されたことさえあった。
そんなこんなで、結局初学年のときのSとわたしの関係は、けっして親しいといえるものではなかった。

芳香

2005年09月20日 05時54分07秒 | 本屋古本屋
神保町の小宮山書店が週末になると店の裏の車庫を開放してガレージセールを行っている。並んでいる品物自体にめぼしいものがないので、わたしはめったに覗くことはないのだけれども、それでも一ヶ月に一度くらい気が向くときもあってそんな折にはガレージの中に入ってみる。しかしそこにはものの五分と留まったためしがない。
前に「古書肆」の回で猫の汚物の香り立ち込める古本屋の話を書いた。嗅覚が少々敏感なわたしにはとても耐えられない環境だった。実は小宮山書店のガレージも異臭がするのである。犬猫のそれというのでもない、いささか形容し難い香りが漂っている。あれは古本の匂いではなくてどうもセメントの匂いと他のなにかが混合したもののようだ。これと同じ匂いがじつは東京古書会館地下のホールにも漂っている。新装なった東京古書会館での初めての古書展が開催されたとき、わたしは勇んで出かけたのだが、先ずホールへ降りる階段辺りでこの匂いに気付いた。それは一段一段と下って行く毎に強くなってゆき、ホール入り口前の広間で最高潮に達した。そのときから随分と時間が経っているのだが未だにこの匂いは消えていない。古書展を開催する側はもう少し匂いにたいして気を使ってほしいものなのだが、そんな様子は一向に感じられない。まさか古本屋は匂いに鈍感になってしまっているというわけでもないだろうに。
小宮山書店のガレージや東京古書会館のホールの匂いは論外としても、古本屋に独特の香りが漂っているということは、大方が認めているところだと思う。古書にまつわるエッセーには必ずといってよいほど取り上げられるネタだから。古書店一軒毎に香りは異なるのだけれども、それら色々な香りに共通する何かがある。しかしではそれは何なのだと尋ねられると、返答に困ってしまう。
書痴にとってこの香りは、「猫にマタタビ」と同じくらいの効果があるのだが、これに敢えて逆らっている店もある。同じく神保町の東陽堂などはその一つで、いついっても店内に香が焚かれている。まあ仏教書を専門に扱う店だから、ということもあるのだろうけれど、ここに来るとわたしなどはほっとしてしまう。古書の香りで半分酔っ払い状態になっているところに異質の香りと出会うと、なんだか正気に戻されたような気分になる。しかし香りなら何でもよいというわけではもちろんない。古書店で花の香りや、もつ焼き屋の匂いを嗅ぎたいとは、少なくともわたしは思わない。國書刊行会會の黒っぽい本の並んだ書架を前にしているときにもし金木犀の香りがしたら、と想像しただけで気分が悪くなってくる。
東陽堂で思い出した。むかしむかしこの店に國書刊行会會の甲子夜話(三冊)が棚に並んでいた。三千円くらいなら買ってもいいかな、と裏見返しに貼ってある値札を見ると三千円ではなくて三万円だった。まだ平凡社の東洋文庫からは出ていなかった頃なので、活字本としては國刊のこのシリーズしかなかったためなのだろう。
この前、久方ぶりに西神田の日本書房を覗いたら甲子夜話(三冊)を千円で売っていた。もちろん、購入した。